Peace to you!
・・・平安はありますか?・・・

2004.8.8(SUN)
新城教会 滝元 順師

新約聖書 ヨハネの福音書  20 章 19 節〜 23 節
その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

 ハレルヤ!今朝、皆さんと共に礼拝を持つことができて、感謝します。素晴らしい賛美を感謝します。ここに、主がおられることを強く感じました。

今日は「 Peace to you! ・・平安はありますか?」というタイトルで学びます。あなたの心に平安がありますでしょうか?

今日、このメッセージを通して、すべての方の上に平安が与えられることを願っています。

時々人生では、平安を失い心が騒ぐことがありますが、イエス様は私たちに平安を与えるお方です。お読みした御言葉の中に、「平安があなた方にありますように」という言葉が二回出てきました。今日もイエス様は、「平安がありますように」と私たちに語っておられます。

教会に来られる理由は、心に不安があったり、色々な問題がある事が多いです。近頃、色々なところから人々が教会に来られ、「私の問題のために祈ってください」と言われます。私は感謝して、その方々と共にお祈りします。それが私の仕事の中心となってきました。新城や、地域一円からだけではなく、噂を聞きつけて、全国各地から新城教会に来られる方もおられます。そんな方々は、新城教会と聞くと新城駅で降りてしまうことが多いようです。新城駅で降りた人はタクシーに乗って、ここまで来られます。

先日来られた方が、「新城教会までお願いします」と運転手さんに頼んだそうです。すると、「どこから来られましたか?」と質問されたそうです。

その人が答えると、運転手さんがこう言ったそうです。「私は新城教会まで連れて行ってください、と言われる方には必ず、どこから来られましたか?と聞くようにしています。」どうしてか理由を聞くと、「新城教会には、全国から集まってくるのですよ。北海道、沖縄、九州、関東、大阪からも来られました。だから、新城教会までと言われると、必ず、どこから来られたかを聞くことにしているのです」と答えたそうです。

その方は、新城教会の噂を聞いていましたが、初めてで少し不安があったそうです。それで運転手さんに、「新城教会は、最近はやりの新興宗教のような場所ではないですよね?」と聞くと、「いや、そんなことはないですよ。素晴らしい教会ですよ!」と言われたそうです。それを聞いて、安心し落ち着いたそうです。

そこで運転手さんに、「あなたも教会に行っているのですか ? 」と聞いたそうです。すると、「私も行きたいのですが…、地元の者なので周囲の目が気になって行けないのです。いずれは行きたいですね。」と言われたそうです。

一般の人々も注目しています。「なぜ、人々がこんな田舎に集まっているのだろうか ? イエス様は本当に生きている神様かも・・・」

このように、福音が地域に浸透していることは、嬉しいことです。日頃の証は大切だと思います。

聖書は、人間が三つのパートからできていると教えています。それは、「肉体、魂、そして、霊」です。肉体はよくわかります。お互いに、私たちは外観を見ています。しかしその本質は、内側にある「魂」です。しかし人間には、「霊」というものがあります。「霊」という言葉をよく聞きますが、実際、どのようなものなのでしょうか。

「霊」とは一つの「機能」です。それは、霊的な存在に結びつくための「機能」です。これは人間にしかありません。猿が集団で、宮参りに行ったとは聞きません。人間にだけ宗教心があり、目に見えない存在に結びつくことを願っています。

霊的要素は、人類にとって否定できない要素です。長い歴史を紐解いてみても、どの時代の人々も、神を求める気持ちがありました。どんなに科学が進んでも、学問にもならない霊的存在に結びつこうとします。霊的存在についてのディスカッションなど、公にはほとんどありません。しかしどこの国の人でも、霊的領域につながろうとします。それは、目に見えない存在が実在することにほかなりません。

しかし、どの領域につながるかによって、人生は変わります。目に見えない霊的な世界は二つに分かれています。それは、昼と夜があるように、霊の世界にも、光の存在と闇の存在があるのです。光とは神です。闇とは悪魔・悪霊です。霊的な機能を使って、光りなる本物の神様につながるならば、良い情報が入ります。しかし暗闇の領域に誤ってつないでしまうならば、人生には悪い情報が流れ込みます。

最近インターネットが普及し、どこでもホームページを見ることができます。新城教会のホームページにつなぐと、新城教会についての情報収集ができます。しかしコンピューター・ネットワークの中には、悪い情報もたくさんあります。気を付けていないと、危険です。どこにつなぐかで、入ってくる情報が違います。

同様に、私たちも霊という領域において、本物の神様であるイエス様につなぐならば、人生は祝福されますが、悪霊につながれたら大変なことになってしまいます。

教会とはそもそも、イエス・キリストを信じることにより、霊的プロバイダー契約の変更が成されるところです。悪魔・悪霊とのプロバイダー契約が断ち切られ、イエス様との契約に切り替えられます。だから良い情報が流れてきます。

特に悪い情報を流すネットワークは、「偶像」にあります。それは人間が作った石や木や金属の神々です。偶像を拝むことにより、悪い情報ばかりが流れて来ます。しかしイエス様によって、切り替えがなされ、良い情報が流れるようになるのです。

同時に、教会に来て毎週御言葉を学び、賛美するのは神の声がよく聞こえるようになるために、回線の雑音を取り払うようなものです。

携帯電話も、よく聞こえる場所と、聞こえない場所があります。電波を示す印がありますが、印が三本ある時はよくつながり、よく聞こえます。しかしその印が一本だと、あまりつながりません。県民の森で祈っているときに、よく電話がかかって来ます。しかし、電波状態が悪いので、すぐに切れてしまいます。しかし電波状態がよいところで、印が三本立っていると、ばっちりとつながります。これを若者の携帯用語で、バリサンと言うようです。同様に教会に来て雑音を取って、神様との関係をすっきりしたら、神様の声がしっかり聞こえバリサンになります。

人間の領域の中で、最も重要な領域は、ある意味において「魂の領域」だと思います。最近は体だけではなく、魂の領域についても強調される時代になりました。

私は、時々、自分はどこにいるのだろうか、と考えます。はたして自分は、体の中のどこにいるのだろうか・・、と考えます。脳か、心臓か、血の中に流れているのか・・・と考えます。どこにいるのかわかりませんが、とにかく自分という存在があります。それは、「魂」があるからです。魂とは、あなた自身です。魂が健康ならば、人生は幸せです。しかし魂がやんでいたり、傷ついているならば、肉体は弱わり、霊もしっかりとは神につながることができません。魂の健康度は、大変重要な要素です。今日私たちが平安であるためには、魂が健康であることです。そのための秘訣を聖書は教えています。 エペソ四章二十五節に、

『ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。』

と記されています。まず私たちが、平安に生きるための秘訣として学ぶべきことは、「真実に生きること」であると教えています。嘘を言わずに、真実に生きることが、心の健康のために大切です。日本の社会は偽りが多いです。「嘘も方便」と言い、嘘も目的を達成するための手段の一つとして重要だと考えます。人々は、偽りの神々の中に生きているので、自ずと社会には偽りがあります。しかし聖書は決して、偽りを肯定していません。「偽ってはならない、真実に生きていくように」と教えています。

『おのおの隣人に対して真実を語りなさい。』とあります。日頃の生活で、嘘を言いたい衝動に駆られても、嘘を言わないことです。真実に歩むことが大切です。なぜならば、『私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。』とあるからです。人は決して各々独立しているのではなく、キリストの体に属する器官として存在しているからです。ということは、偽りは自分だけではなく、相手にも関係します。それはからだ全体と、自分にも影響するものです。クリスチャンはキリストの体に属する者であり、一人の利益ではなく、全体が祝福され、健康になるために働かなければなりません。

キリストの体に属することは、すごいことです。今日、あなたが問題を持っているとしたら、あなた個人の問題ではなく、からだ全体の問題です。一人で苦しむのではなく、互いに共有した問題として、祈っていかなければなりません。そのためにも、真実に生きていかなければならないと教えています。そしてエペソ四章二十六節に、

『怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。』

とあります。今、学校は夏休みですので、お母さん方は一日中怒っているかも知れません。家でごろごろしている子どもたちに、「何してるの。早く宿題をしなさい!」などと怒っているかも知れません。しかしそれは、愛という枠組みの中なので、あまり問題はありません。しかし一番困るのは、一般の社会の中で、最も愛さなくてはならない人を愛せなくなったり、不愉快に思うことです。会社に行くと、嫌な上司がいます。私も会社で働いたことがあるのでよくわかります。その人がいるだけで、嫌な気分になります。存在自体が気にくわない、その人がいるだけで暗くなり、ムカついてくることがあります。

聖書は、怒りや憤りを否定しているわけではありません。これは神が人に与えた感情のひとつです。怒りや憤りという感情がなかったら、メリハリがなくてとても変です。叩かれても笑っていたら、気持ち悪いです。やはり怒るときには、怒らないとおかしいです。

しかし怒りが「罪」になってはいけないのです。「怒っても罪を犯してはいけない」のです。「日が暮れるまで憤っていてはいけない」と聖書は教えています。

聖書は、直訳だとわかりにくいところがあります。なぜならば、ユダヤ人の一日の概念と、私たちの一日の概念とでは違うからです。私たちは、朝起きると、「新しい日が始まった」と考えます。しかしユダヤ人はそうではありません。日が暮れると、「一日が終わって、新しい日が来た」と考えるのです。夕刻から夕刻が一日の単位です。私たちとは違います。

さて、この箇所は、一日のうちには、頭に来るような出来事がありますが、それを翌日まで持ち越してはいけない、持ち越した時点でそれは罪なると教えています。罪は悪魔が台座として使います。したがって、悪魔に機会を与えることになります。悪魔は私たちの背後に回り込み、人生を揺り動かします。だから、気分を壊すような出来事があっても、一日で解決するようにと勧めています。

時々、子どもたちを見ているといいなあ、と思います。子どもたちはよく喧嘩をしますが、次の日になると、けろっとして、喧嘩した相手と一緒に遊んでいます。大人が喧嘩をしたら、次の日には顔を合わせることができないと思います。憎しみを持ち越したら、罪になって悪魔が働く機会になるので、それを赦すようにと勧めています。

 私は夏が好きです。しかし、夏になると嫌なことがあります。それは、虫がたくさん出てくるからです。虫がいなければ、夏はもっと楽しいのに…と思います。海外に行くと、夏は外で食事することが多いです。外を部屋の一部のように、うまく使っています。しかし日本で同じことをすると、蚊やブヨが来て大変です。また夏は、特にゴキブリが多いです。ゴキブリは嫌な虫です。ゴキブリが飛ぶ姿を見たら、一日中ブルーになってしまいます。新城から、少し奥の豊根村に行くと、ゴキブリがいないようです。その村のある子どもは、ゴキブリをカブトムシだと思って飼育していたというのです。

最近はたくさんゴキブリ退治グッズがあります。しかしゴキブリ退治する前に、重要なことがあります。それは、水回りに生ゴミを残さないことです。夜中に台所の電気を付けたことがありますか。そこに生ゴミがあると、ゴキブリが来ていることがあります。生ゴミをきれいに片づけないと、いやな虫が来ます。

同様に、平安に生きるために必要なことは、生ゴミを人生に持ち込まないことです。それが罪です。教会に来ると、罪の基準について教えます。霊的生ゴミがたまらなければ、悪霊はこないのです。日々私たちは、生ゴミを持ち込むことがないよう、悪魔に機会を与えることがないように、注意しなければなりません。

私たちが平安を保つために、怒っても罪を犯してはいけない、憤ったままで一日を終えてはいけないということです。

もしも数年来、赦せない人がいるなら、今日は赦して帰ってください。そうしたらあなたの心は、平安になることができます。

先日、明牧師のメッセージを聞いていました。「赦すとは、赦せない事柄を赦すこと」と語っていました。本当にそのとおりだと思います。しかし、それができないから、辛い、それができないから、不安があると言われるかも知れません。どうしたら、赦せない思いを取り去ることができるのでしょうか。

聖書は、『 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。』と語っています。

ここで確認しなければならないことは、継続性のある苦々しい思いや怒りは、感情的な問題ではなく、「罪そのもの」であると言うことです。憎しみが罪であるならば、赦されるはずです。罪に関して、どうしたら赦されるかについて聖書は教えています。

第一ヨハネ一章九節から十節にあります。

『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。』

継続的に、人に対する怒りや、憤りがあったらそれを罪と認識し、罪が赦されるために必要なことは、「罪を言い表わすなら、赦されます」と教えています。自分の感情がはっきりとはついていなくても、罪を言い表すなら赦されるというのは、神が定められた法則です。法則を使ったら法則通りの結果が現われます。もし、赦すことができない人がいたら、「私には赦すことができない人がいます。しかし今、私は告白します。イエス様の名によって、その人を赦します。」と、神の前に言い表すことにより、罪が消えるというのです。

「悪からきよめる」とありますが、悪とは存在です。悪魔は人から手を離さなければならないのです。結果的に、私たちは憎しみから解放されることができます。もしも、憎しみがあったら、それを神の前に言い表すことが重要です。

今、世界には様々な問題がありますが、その根底は、「憎しみ」ではないでしょうか。イラクで大きな問題があります。戦争が泥沼化し、毎日のようにテロがあり、これからどうなってしまうのだろうかと思います。あれは憎しみの連鎖です。いくらテロリストをやっつけても、やっつければやっつけるほど、新たなるテロリストが現れます。

今のパレスチナ問題や、イスラム問題は、歴史を遡ると十一世紀から十二世紀の十字軍にまで遡ります。当時、エルサレムはイスラムの人たちが住んでいました。しかし当時の教皇が、エルサレムをイスラム教徒達から取り返す為に兵隊を送り、多くのイスラム教徒を虐殺しました。それが十字軍です。千年の怨念があるのです。また近年に至っては、第一次大戦の後、イギリスが二枚舌を使いました。当時、パレスチナはオスマン・トルコの支配下にありましたが、弱くなったときにヨーロッパ諸国がパレスチナに目を付けて取ろうとしました。その時、イギリスはイスラム諸国に、オスマン・トルコを滅ぼすのに協力したら、イスラム王国を作ってあげると約束しました。

しかし一方では、ユダヤ人たちに、「あなたがたが資金協力をしたら、パレスチナに帰還させ、国ができるようにしてあげるから・・・」と言いました。それで国々は混乱しました。それで今も、イスラム諸国はイギリスやアメリカに対して憎しみがあります。特に、パレスチナにユダヤ人が入ってきたという、憎しみがあります。

世界から憎しみの連鎖が取り去られない限り、世界平和は訪れません。そのためにも、まず、個人が憎しみから解放されなければなりません。憎しみを罪と認識し、神の前に言い表すことが、平安な生活をするために重要なことです。私たちが苦い思いや憎しみを神に言い表すならば、罪は赦され、生ゴミはなくなるので、悪魔が機会を掴むことはできなくなります。その結果、心に平安が与えられます。

さて、今日お読みした御言葉は、イエス様が十字架にかかられて、三日目によみがえり、弟子たちに現れたときのことです。ヨハネの福音書二十章十九節に、

『その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」』

イエス様は、週の初めの朝早くによみがえられました。その日の夕方、一日が終わる寸前の出来事でした。弟子たちは一つの部屋に集まり、鍵をかけていました。三日前には自分たちのボスであるイエス様が殺されました。今度捕まるのは自分たちだと、彼らは恐れて家の中に潜んでいました。その時、鍵が閉めてあるにもかかわらず、イエス様が突然現れました。よみがえりの体は、物質に支配されることもなく、ものがあっても通り抜けて現れるような不思議な体でした。しかしイエス様は、ご自分の釘の跡や、槍の跡を弟子達に見せられました。私たちの体のレベルとは違った、よみがえりの体でした。

イエス様は弟子たちに、「平安があなたがたにあるように」と語られました。この言葉は、ヘブル語で「シャローム」という言葉です。これはある意味、挨拶の言葉です。この場合は、「こんばんは」という意味でしょう。しかし、ここでは「平安があなたがたにあるように」と、二回も繰り返して語られています。「シャローム」の真の意味は、「平安があるように」という意味です。ですから、イエス様が、「こんばんは」と二回も挨拶したという意味だけではありません。

なぜ、このように語られたのでしょうか。実は、この時、弟子たちには平安がなかったと思われます。弟子たちの心には恐れがありました。今度は自分たちが捕まえられて、殺されるかも知れないという、恐怖がありました。そんなただ中にイエス様は現れて、「平安があなたがたにあるように」と言われました。続けてイエス様は二十一節に、

『イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」』

ここでイエス様は、恐れていた弟子たちを励まし、福音を宣べ伝える勇士として遣わそうとされたわけです。その時に語られた言葉が、「平安があるように」という言葉でした。

同時に、彼らの心は、憎しみに満ちていたと思います。それは、自分たちのボスであるイエス様を殺されたということで、殺した人たちに対して強い憎しみがあったと思います。もちろん、イエス様は自ら十字架に進みましたが、彼らは殺した人たちを憎んだと思います。それとともに、自分たちの仲間であったユダがイエス様を裏切ったことにより、イエス様は逮捕されました。ユダに対しても、怒っていたと思います。金のために先生を売ったとは、赦せないという気持ちがあったと思います。そのような中で、イエス様が現れ、「平安があなたがたにあるように」と語られました。

彼らが遣わされるためには、心に平安があることが必要でした。イエス様は、「平安があるように」と語られ、

『そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」』

私たちが憎しみから完全に解放されるために必要なことは、「聖霊を受ける」ことです。イエス様は、息を吹きかけて聖霊を受けよ、と語られました。弟子達はその時、聖霊を受けたはずです。そして、今まで、赦すことができなかったユダヤ教の人たちや、ユダに対しても、聖霊の力によって赦すことができたと思います。

同時に恐れもなくなったと思います。もし私たちに、恐れや、憎しみがあったら、聖霊の息を吹かせていただきたいと願います。

教会に来ると、聖霊を受けることができます。私たちは聖霊を受けるときに、赦せない思いを赦せるようになります。弟子達はここで本当の平安を受けたことでしょう。平安になった弟子達に向かい、イエス様は続けて語られました。二十章二十三節に、

『あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。』

罪を赦すことなど神にしかできません。しかし、憎しみや恐れから解放され、聖霊を受けた弟子たちに対して与えられた権威とは、『あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。』という、すごい権威でした。口語訳聖書の訳では、

『あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう。』新共同訳聖書では、『だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』

今日、イエス様を信じる者たちに与えられている権威とは、誰かの罪を赦す権威と、罪を残す権威です。「残す」と宣言したら、罪が残されるという権威が与えられています。イエス様が弟子たちを宣教に送り出すために備えた権威とは、「罪を赦す」権威でした。

これは現代を生きる、私たちにも与えられている権威であることを、知らなければなりません。私たちには、罪を赦す権威があります。今日の礼拝において、「この国の罪を赦してください」と賛美しました。

時々、私たちは霊的拠点にとりなしの祈りに行きます。ある場所において、偶像礼拝がなされると、必ず、その拠点を通して、悪霊の力が働きます。私たちはその場所に行って、「イエス様。ここに働く悪魔の力を打ち破ってください!」と大胆に祈ります。私は、いろいろな場所に、とりにしの祈りに行くのが好きです。祈るときに、悪魔の力が打ち砕かれます。しかし、多くの人が偶像礼拝しているのを見ると、「なぜ、こんなに多くの人が偶像礼拝をするのだろう。おまえたちが、偶像礼拝をするから、国が悪くなるではないか。本当に仕方がない人々だ!」と、少し許せない思いあります。

しかし私たちの中に、赦す権威と、罪をとどめる権威があるのを知らなければなりません。赦しを宣言しなければ、結局、その罪をとどめる権威を使うことになってしまいます。私たちが使うべき権威は、どんなに罪がはびこっていたとしても、その罪をイエス様の名によって「赦す」という宣言をしなければなりません。

あなたも、この権威を使ってください。家族の中で、どんなに先祖崇拝がなされていても、あなたには、罪を赦す権威と、とどめる権威があるので、あなたは決して家の中に罪をとどめてはいけません。「我が家の中で行われている、偶像礼拝の罪を権威によって、赦します!」と宣言してください。「赦す権威」を用いなければなりません。

また地域においても、国においても同様です。この日本に、どんな罪があっても、私たちに与えられた権威によって「赦す」ことです。

最近、ジェンキンスさんの訴追問題がクローズアップされています。アメリカ大統領選が近いですが、大統領恩赦があったら彼は無罪となる可能性があるそうです。大統領が、「おまえを赦す」と言ったら、赦されるようです。

同様に、イエス様を信じる者には、罪を赦す権威があります。私たちはこの権威を地域に、また、国に使わなければなりません。今週、色々なところに出て行って、その権限を使ってください。「赦します」と宣言して祈ってください。そうしたら、そこから生ゴミは一掃され、悪魔は機会を捕らえることはできません。この絶大な権威を用いましょう。

しかし、理解すべき事は、この権威は「両刃の剣」です。赦す罪は赦され、赦さない罪は残るのです。憎しみとは赦さないことです。「あいつを絶対に赦さない」と言うならば、罪をとどめる権威を使うことになります。結局、そこには罪が残ってしまいます。したがって、自分が持ち合わせている権威によって、自分の首が絞められることにつながります。

私たちはこの権威を自分自身にも適応し、自分にも赦しを宣言しなければなりません。ある人は、自分自身を赦すことができないと言われます。「なぜ、こんな事をしてしまったのだろう・・・」そんな自分を赦せないと言われます。しかし、自分自身に対して赦しを宣言しなければなりません。そうしたら、罪は消えます。過去、どんなにあなたが失敗したとしても、赦しの宣言をすることができます。罪を言い表すと赦されます。だれかに祈ってもらうことは大切です。「イエス様の御名の権威によって赦します」と宣言して祈ってもらうときに、罪は消されます。それゆえ、私たちの心は平安になります。

憎しみと、苦い思いから解放され、明日の朝は平安に目覚めることが出来るように祈ります。心安らかに、一生を過ごすことができるようにと祈ります。今日、この絶大な権威を使わせていただきましょう。

「私は、イエス様から与えられた権威によって宣言します。イエス様の御名の権威によって、皆様の犯したすべての罪を赦すことを宣言します!家系において犯された罪も、地域・国において犯された罪も、今すべての罪の赦しを宣言します!」

イエス様は、「 Peace to you! …平安があなたがたにあるように」と、弟子たちに語られました。今日、イエス様から直接声をかけていただき、平安に過ごしたいと願います。

今日は、赦しの宣言をしましょう。

祈り(ご自分で声に出してお祈り下さい)

「イエス様。今、私たちは、イエス様を救い主として信じます。私の罪を全て赦してください。自分に与えられた権威を持って私自身に対して宣言します。私の犯した全ての罪を赦します。私自身を受け入れます。私の犯したすべての罪を赦すことを宣言します。

また、私に対して行われた、すべての罪に対しても赦しを宣言します。憎しみを愛に変えてください。今まで、赦せなかった人々に対して、今、イエス様の名によって赦しを宣言します。私の家系が犯した罪に関しても、赦しを宣言します。イエス様の名によって、赦しを宣言し、赦しを持ち運ぶものとして、私を用いてください。イエス様の名によってお祈りします。アーメン。」


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