主よ、何をしたらよろしいでしょうか?

2004.8.15(SUN)
新城教会 滝元 順師

新約聖書 ルカの福音書 10 章 25 節〜 28 節
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

 ハレルヤ!今日はこのように、皆さんと共に礼拝ができることを、心から感謝します。今日の主題は、「主よ、何をしたらよろしいでしょうか?」というタイトルです。これは、最近、私の心の中に巡っている、祈りのひとつです。

私たちは永遠のいのちをいただいて、生かされています。人生は一度しかありません。人生において、主が、「これをしてください」と語られることを、行いたいと願います。今週、「主よ、何をしたらよろしいでしょうか?」という祈りとともに、歩んでいきたいと思います。

この御言葉は、「どうしたら永遠の命を得ることができるでしょうか?」という問答の中から語られたストーリーです。

 私たちクリスチャンが、永遠の命を持っているということは、言葉に言い表すことの出来ないほどの素晴らしい特権です。クリスチャンは、死後の世界観がはっきりしています。しかし、一般の日本人は、死後の世界観がはっきりしていません。この期間、ちまたは「盆」と呼ばれます。八月の十三日から十六日の四日間を盆と言います。しかし、盆は、日本語ではありません。これはサンクスリット語(インドの言葉)で、「ウランバーナ」という言葉から来ています。漢訳すると盂蘭盆会(うらぼんえ)といいい、それを「盆」と言っています。この、「ウランバーナ」とは、「逆さづり」という意味です。仏教では、人は、死後地獄に行き、逆さづりにされるというのです。木蓮という人が、地獄に行った母を助けるために善行を積み、助け出したという話から盆は始まっています。これは架空の作り話です。仏教の教えによると、死人は、地獄で逆さづりにされるというのです。もしも、盆行事を守っているならば、人は死後、地獄に行き逆さづりにされていると言うことを、認めることになります。

盆には先祖が三日間ほど、家に帰ってくると言って迎え火を焚きます。もしも、家に戻ってきたとしたなら、なぜ墓参りに行くのでしょうか。先祖が家にいるなら、家に帰ってきた先祖と、楽しく交われば良いと思います。盆が終われば、先祖は再び、地獄へ戻るというのです。それも、ナスやキュウリの馬に乗って戻るということで、ナスやキュウリで馬を作り、川の中に投げ込みます。しかし最近では、川が汚れると言って、盆用のゴミ収集場所が設定され、先祖はゴミ袋に入れられて、市の処分場に持って行かれ焼かれます。地上に出てきたと思えば、帰りは焼却場の火の中です。あなたが、仏教を信じていているなら、死後は逆さづりになるのです。逆さづりになりたいでしょうか。私はなりたくないです。また、仏壇の中などには住みたくありません。ご飯を出してもらっても、食べてはいけません。もしも、食べたら、家族は「幽霊が出た!」と言って怖がるからです。酷なことです。日本人は優秀な国民でありながら、なぜ、盆の矛盾について気づかないのだろうかと思います。

私たちクリスチャンは、この世の使命が終わったら、永遠の国・天国に行くのです。間違いなく行くことができます。瞬間的に、天国に行けるのです。

パウロがこんな体験をしました。それが、第二コリントの十二章に書かれています。彼は石打ちの刑に遭い、一度死ぬ経験をしました。その時のことを告白しています。二節に、

『私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。』

彼は命を失いました。しかし、気がついたら、第三の天・天国にいました。天国は、死も苦しみも悲しみも、叫びもない最高の場所です。それも、天国に肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、分からないというのです。人は死んでから、魂がふわふわ空中を浮いているわけではありません。気がついたら、「あれっ、天国だ!」という感じです。それも、「肉体があるのだろうか?ないのだろうか・・」という感じだと思います。自分としては、連続性があるのです。拝んでもらわないと、行くところに行けないというのではありません。イエス様を信じたら、即、天国に行き、永遠の国で二度と苦しむことはないのです。永遠の命が、はっきりと約束されています。仏教を信じて、地獄で永遠に逆さづりで過ごすのが良いのか、または、イエス様を信じて、永遠のいのちに入るのが良いのか、あなた自身が選択しなければなりません。イエス様を信じて、永遠のいのちを受け取りましょう。

 私たちはやがてこの地上を去り、天国に行きますが、この地上においては使命があります。イエス様はこの地上に来られて、十字架にまでかかられ、よみがえって下さいました。それは、私たちに対して、果たしてほしい使命があるからです。

今日お読みした御言葉の中に、二つの事柄が記されています。第一に、ルカの福音書十章二十七節、

『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

とあります。イエス様が私たちに願っておられることは、『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』ということです。心から神を愛することを願われています。

「主よ。何をしたらよろしいでしょうか?」と聞くならば、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、わたしを愛してください。」と語られることでしょう。神を愛するということが重要です。

しかし日本人には、神を愛するという概念がありません。日本の神々は愛し合えるような対象ではありません。愛されたら困ってしまうような顔をしているものばかりです。もしも、不動明王にでも愛されたら、大変なことになります。気持ちが悪いです。そもそも、日本人が神としている存在は、「悪」と認識されるものばかりです。拝まなかったら罰が当たるというのです。悪の領域は神ではありません。神様は善なるお方、良いお方です。まず、クリスチャンになったら、その辺を切り替えなければなりません。神様とは、悪いことをすると天から見下ろし、槍のようなもので刺すようなイメージがあるかも知れませんが、それは間違いです。私たちを愛しておられるお方です。

神を知るためには、四つの要素があります。それは、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして」ということです。そして、「神を愛する」とは、「神を知る」ことです。第一ヨハネ五章三節に、

『神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。』

と記されています。聖書の御言葉とは、神の命令です。神の命令を守るとは、神の言葉をよく知ることです。

どのようにして、神を知ったら良いのでしょうか。それは、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして」神を知るのです。「心」とは「感情」とも訳すことができる言葉です。

時々、「信仰とは、感情とは違います」と言われる方がいます。もちろん理性的なものです。しかし信仰には、感情も必要です。賛美している時に、涙が流れたことがありますか?祈っている時に、神の霊に触れられて、涙が流れたことがありますか?感情的に、大きな声で神をほめたたえ、祈ったことはありますか?これらは感情の領域です。「心を尽くして」ということは、感情が伴ったものです。

今日は午後から、「ざわめきワーシップシャウト」が行われますので、ぜひ、ご参加ください。そして、感情的に賛美してください。涙が出るほど、力一杯、賛美されると良いと思います。それは、「心を尽くして神を愛する」ことです。

 「思いを尽くして」とありますが、「思い」とは、「精神」とも訳すことができます。いつも、イエス様のことを思っていることが大切です。教会に来たときだけイエス様のことを思うけれど、教会から一歩出ると、全く忘れてしまうようではいけません。常に、心からイエス様を慕い求めることが大切です。

 続いて、「力を尽くして」とあります。愛にはエネルギーが必要です。誰かを愛していると、エネルギーがいります。ある人を愛していると、遠くまで会いに行くとか、労力を惜しみません。その人のために、お金も使います。愛していたら力を使います。

同様に、イエス様を愛していたら、犠牲が伴うものです。新城教会に、遠くから来られている方もおられますが、それは、力を尽くしてイエス様を愛していることです。実際、新城教会までこなくても、礼拝を守ることができます。しかし、わざわざここまで来られることは、力を尽くされている証拠です。神を愛するとは行動です。

 また「知性を尽くして」とあります。信仰とは感情と感覚だけで良いという考えも間違いです。やはり「知性」も必要です。聖書をよく学び、知性によって神を知ることも重要です。先週はサンデースクール(聖書の学び)があり、多くの方が参加されたようです。ぜひ、知性を尽くして、神を愛することを学んでください。「リバイバル聖書神学校」もできましたので、ぜひ入学して学んでください。主は、「心、思い、力、知性」を尽くして愛することを望まれています。

今週も神を第一にして歩むならば、いのちある人生を歩むことができます。

続いて、「主よ。何をしたらよろしいでしょうか?」と、主の前に出るときに、確実に、語られることが書かれています。それは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』ということです。

あなたにとって、一番近い隣人は、どなたでしょうか。その人を愛してください。たとえば、夫婦ならば、ご主人は奥さんを愛し、奥さんはご主人を愛してください。また親子ならば、子どもは親を愛し、親は子どもを愛してください。

先日、おもしろいストーリーを読みました。ある夫婦が喧嘩をしたそうです。全く口を利かなくなったそうです。何日か続いたある日、ご主人は重要な出張に出かけなければならなくなったそうです。彼は朝早く起きて、飛行機に乗らなければならなかったので、早起きできるかどうか不安だったそうです。しかし奥さんに「起こして!」と頼む勇気がなかったのです。そこで、ご主人は、奥さんがよく見える場所に、メモを置いたそうです。

「すまんが、明日の朝、五時に起こしてくれないか」

彼は、きっと奥さんは起こしてくれるだろうと、安心して寝たそうです。しかし、彼が朝目覚めると、何と、すでに五時を過ぎていて、飛行機に乗り遅れていたそうです。彼は、「もう ! 何ってことだ!!」と怒りました。しかし、ふっと枕元を見ると、一枚のメモが置いてあったそうです。

「あなた、五時よ。起きなさい ! 」

この奥さんは、なかなかやるなぁと思いました。「隣人を愛しなさい」と書かれているので、私たちは常に、隣人と良い関係で歩みたいと願います。

隣人を愛するということに関して、イエス様があるストーリーを話されました。それは、有名な、良きサマリヤ人のたとえです。

 今日、八月十五日は終戦記念日でもあります。一九四五年八月十四日、日本はポツダム宣言を受け入れ、連合軍に無条件降伏をし、翌、十五日、天皇の玉音放送で、戦争は終結しました。ここには、玉音放送を生で聞かれた方もいると思います。大変な時代であったと思います。今は、平和な時代なので、ある意味、平和ぼけしています。今朝、テレビを見ていたら、ある評論家が話していました。電車の中で、若者たちが話していたそうです。

「今から六十年程前、日本とアメリカが戦争をしたのを知ってる?」「えっ、まじっ?」「ところで、どっちが勝ったの?」「知らん!」と言っていたそうです。

昭和一桁生まれの人たちは、本当にご苦労されたと思います。今は平和であることを心から感謝し、再び、戦争が起こらないように、クリスチャンには祈る使命があると思います。ぜひ、平和のために祈ってください。特に、午後のざわめきワーシップシャウトでは、日本の平和と世界の平和を祈る一時を持ちます。「あなたの隣人とあなた自身のように愛せよ」という御言葉を、世界が知っていたら、戦争は起こりません。戦争は誰でも嫌です。「あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ」という言葉を、世界中の人々が学ぶべきです。

また、現代は犯罪が多いですが、聖書の言葉が心に留まっていたら犯罪は起こりません。

私たちがイエス様に、「何をしたらよろしいでしょうか?」と質問したら、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と語られるはずです。

良きサマリヤ人のストーリーは、ルカの福音書十章三十節から三十七節に記されています。

イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

イエス様は、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。ここから、私たちがよきサマリヤ人のように行動することを、主が、願っておられるのを知ることができます。

「エルサレムからエリコに行く途中」とありますが、それは急な山道です。なぜならば、エルサレムは標高七百メートル程の高原ですが、エリコは地中海から三百メートルほど下がった町です。高低差だけでも千メートルほどあります。しかし、距離は三十キロほどです。急な砂漠地帯です。当時、そこには、追いはぎや強盗が多く隠れており、旅人を狙っていました。

ある時、祭司(神の宮で仕える牧師のような人)が通りかかると、一人の旅人が強盗に襲われて倒れている姿を発見しました。祭司は、「この人は強盗に襲われた」と、すぐにわかったと思います。しかし祭司は、それに関わってしまうと、自分の予定が変わってしまうし、面倒なことになると思ったのでしょう、見て見ぬふりをして通り過ぎました。

続いて、レビ人が現場に来ました。レビ人も、神の宮で仕えるスタッフのような、神に仕える人でした。この人も、見て見ぬ振りをして通り過ぎました。

そして、最後に通りかかったのが、サマリヤ人でした。サマリヤ人は旅の途中でありながら、すべての予定を投げ捨てて、その人を助け、介抱したというストーリーです。

サマリヤ人とユダヤ人は互いに、敵対関係にあった人です。日本人にとって、パレスチナ問題は、理解し難い問題ですが、イスラエルの歴史をひもといてみるとわかります。イエス様の時代からユダヤ人とパレスチナ人の間には、小競り合いがありました。このサマリヤ人とは、敵国と血縁関係になって出来た民族でした。血統を重んじるユダヤ人にとっては、受け入れることの出来ない人々でした。互いに、服装も違い、「あんな奴らとは話したくない」というような関係でした。強盗に襲われ、倒れていたのはユダヤ人であったと思われます。そして、通りかかったのがサマリヤ人でした。敵対関係にある人が通りかかりました。それにも関わらず、敵対関係にあったサマリヤ人が、倒れていたユダヤ人を助けました。それも、単に助けたと言うだけではなく、宿屋にまで連れて行き介抱しました。自分は所用で彼を残して立ち去らなければならないけれど、「もしも良くなっていなかったら、帰りに費用を払うので介抱してください」告げて出ていきました。サマリヤ人は、強盗に出会った人を完璧に助けたのです。

時々、人生の中で嬉しくなることがあります。それは、敵対関係にある嫌な人が、何か失敗をして倒れたという情報を聞いたときです。

「気の毒ですね」と言いながらも、にんまりしてしまうのかも知れません。「良かった。あいつが倒れたか・・・敵が一人減った」と、ホッとするようなことがあるかも知れません。

ある意味で、サマリヤ人にとって、ユダヤ人が倒れている姿を見ることは、ホッとすることであったかも知れません。「敵が倒れている、やった!」と、倒れているユダヤ人に、石でも投げつけて通り過ぎるくらいの感情を一般的には、お互い、持っているような人たちでした。

しかし、敵対関係にある人が、敵を助けたのです。そして、イエス様は、「サマリヤ人のようになりなさい」と語られました。

この箇所において、イエス様は、私たちが、どのような態度で日々を過ごすべきかについて教えています。

私たちは人生に目的を持っています。「このことを成し遂げよう」と、色々、目標があるかも知れません。そんな、忙しい中、誰かを助けなければならないような、状況が起こってきたらどうでしょうか?

「あの人を助けなくてはいけない。あの人の隣人にならなくてはいけない・・」とは思いますが、なかなか、「あの人に関わっていては、やっかいになるからやめておこうか・・」と、引いてしまうかも知れません。しかし、そんな時、決して引かないで、あなたの目標や目的を横において、隣人になってくださいと語られています。自分が何らかの目的に向かって進んでいるただ中に、横から入ってくるような問題は面倒なものです。しかし、そんな時にこそ、助けなければなりません。

また、ある意味で、誰かと敵対関係になり、なかなか関係回復がうまくいかない中での、関係回復の秘訣をも教えています。そんな時こそ、関係回復の良いきっかけです。その人の力になれるよう、祈ることが大切です。神は機会を与えてくださり、関係を回復して下さいます。

 私は牧師をしていますが、昔、牧師仲間で、感情的にあまり好きになれない人がいました。私はいつもその人から、批判を受けていました。

だれかを批判すると、回り回って本人に届くものです。そして、本人に伝わったときには、かなりうわさは変形し、内容が大きくなっているものです。だから、批判は良くありません。そんな批判を聞かされると、憎しみになってしまいます。何かうわさを聞いたら、本人に直接聞くことが大切です。

そのころ、「順先生って変な人ですね・・」とか、「新城教会はおかしな教会です・・・」など、悪いうわさを流され、その人には会いたくないと思っていました。だから、あまり関わらないようにと思っていました。

ある日、私の所にスタッフが来て、「先生、○○先生が来られましたよ。」と言いました。私は、「えっ、あの人が?何しに来たの?」「教会を見せてください、と言っています」「じゃあ、あなたが見せてあげて下さい。私は出て行かないから・・・」と言って、隠れていました。

しばらくして、私は、「彼は、もう帰っただろう」と思って、教育館の二階に上って行きました。すると、彼は、まだ、ソファーに座っていました。私は彼と目を合わせてはいかんと思い、祭司のような顔をして、前を通り過ぎ、帰りはレビ人のように足早に通り過ぎようとしました。すると、「先生、ここに座って話を聞いてください」と呼び止められました。私は、「なんで呼ぶのだ・・・」と思いましたが、仕方なく座りました。昔の彼は、私を批判をしていましたが、その日は、それどころか精神的にとても苦しんでいるように見えました。私は彼を見ながら、「私を批判していたからだ・・」と思いました。しかし、主が私に語りかけました。

「お前、良きサマリヤ人のストーリーを知っているだろう。あなたに敵対していた人が、へりくだってあなたの前に来ている時こそ、隣人となるチャンスだから、この人の話を聞いてあげなさい」

私は「主よ、赦してください」と悔い改めて、その方の話を聞きました。話しを聞いてみると、それは、単に感情や精神的な問題ではなく、霊的な問題だと感じました。霊的戦いがないと解決しない問題だろうと思いました。その時に主が、「霊的戦いについて語ってあげなさい」と言われたように感じました。

しかし「そのことを教えたら、この人は助かってしまうよ・・」と、悪い考えが再び来ました。しかしその思いを打ち消して、「主よ、赦してください」と祈りました。

良きサマリヤ人とは、イエス様ご自身を表しています。イエス様は私たちを助けてくださるお方です。そして、倒れていた旅人とは、私たちのことです。しかし、「強盗たち」とは、「悪魔・悪霊ども」の事です。ルカ十章は霊的戦いの場面から始まっています。強盗によって苦しめられているとは、霊的世界についても教えています。世界には、目に見えない強盗がいます。人々を倒して傷つける敵がいます。

さて、エルサレムからエリコに下る道は危険地帯で、強盗の巣のような所でした。そこを旅する旅人は、いつも危険が伴いました。エルサレムからエリコの間に隠れている強盗たちが一掃されない限り、犠牲者は絶えないのです。環境を変えなければ、根本的問題解決にはなりません。

私はその方と話をして、背後には強盗どもが働いていると思いました。だから、私たちが体験した霊的戦いについて話しました。勝利するためには、どうするべきかについて、聖書から話し、体験を分かち合い共に祈りました。

感謝に事に、主は、その方に触れてくださり、やがて元気になりました。牧会していた教会も回復しました。そして現在、彼は霊的戦いについて理解し、全国で活躍しています。以来、関係も良くなりました。何の壁もなく、話せるようになりました。

私は、あの時、彼の隣人になれて良かったと思っています。主は、常に、「あなたも行って同じようにしなさい…あなたも良きサマリヤ人になってください」と語っておられます。

「主よ、私は何をしたらよろしいでしょうか?」と祈る中で、「あなたも良きサマリヤ人のようになってください。あなたは、自分が立てた目標に向かって、人生を歩んでいるかも知れないけれど、そんな中、誰かを助けなければならないような事柄が入ってきます。しかし、それこそ神があなたに与える仕事です。」と教えられました。

それぞれの立場で、「助けてあげなければならない」と感じるとき、すぐに駆けつけることができるような、良きサマリヤ人のような気持ちを、常に持ち合わせていることが大切です。それこそ、主が、私たちに願っておられることだと思います。

いま、皆さんも考えてみてください。「あの人のために祈ってあげなくては…」「あの人を助けてあげなくちゃ…」何らか示されていたら、ぜひ「あなたも行って、そのようにしなさい」と言われる神の声を聞いて、行動してください。

「力を尽くして神を愛する」ことは、少し力がいるかも知れません。しかし、ぜひ、行動してみてください。サマリヤ人がオリーブ油と、ぶどう酒で手当をしたとあります。これは聖霊の力を象徴していると思います。私たちには力はありませんが、聖霊の力によって、まずは現場で祈ってあげることです。その後、傷ついた人を馬に寄せて宿屋に連れて来たとありますが、宿屋とは教会を表しています。あなたの車に乗せてでも、教会に連れて来てください。教会は宿屋としての機能を持っており、そのような方々のために、本格的に霊的に癒され、回復するのを助ける場所です。ぜひ、教会に連れてきてください。そして、教会は、その人が良くなる過程を、あなたと一緒に祈ります。それが良きサマリヤ人の務めです。

 『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』『隣人をあなた自身のように愛せよ』と主が、語っておられると信じます。一言お祈りします。


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