もしも

2004.8.22(SUN)
新城教会 滝元 明師

詩篇124篇
「「もしも主が私たちの味方でなかったなら。」さあ、イスラエルは言え。 「もしも主が私たちの味方でなかったなら、人々が私に逆らって立ち上がったとき、そのとき、彼らは私たちを生きたままのみこんだであろう。彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき、そのとき、大水は私たちを押し流し、流れは私たちを越えて行ったであろう。そのとき、荒れ狂う水は私たちを越えて行ったであろう。」ほむべきかな。主。主は私たちを彼らの歯のえじきにされなかった。私たちは仕掛けられたわなから鳥のように助け出された。わなは破られ、私たちは助け出された。私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。

 ハレルヤ!この夏は、沖縄ミッションの為に働いていますが、皆さんのお祈りに支えられていることを感謝します。今週、私は家内と共に、韓国に行きます。特に韓国では、二百五十名程の伝道者の為の集会で、話すことになっています。それが三日間あり、帰ってきてから、兵庫県の教会で奉仕をします。そしてその後、九月八日から、再び沖縄の島々での集会に行きます。それから一度新城に帰ってきて、九月二十一日から十一月七日まで、沖縄に住み込んで集会をします。覚えてお祈りください。また、沖縄の集会に、ぜひ、計画してお越しください。

これから御言葉を学びます。詩篇一二四篇の御言葉は、ダビデ王様が晩年になって、自分の人生を振り返って作った歌だと思われます。おそらく彼自身、じっくりと過去を思いだし、「もしも、神が私の味方でなかったら、きっとあの時、私は殺されていたかも知れない。神様は、鳥が罠から逃れるかのように、私を助け出してくださった。私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある」と言いました。皆さんも、過去を振り返って考えるとき、「あの時がなかったら、今日の私はないかも知れない」ということがあると思います。

私はある日、昼食をとってからテレビを見ていました。世界名作文学をやっていました。その中で、「家なき子」をやっていました。非常に有名な童話です。それを見ていると、拾われた子、レミは愛されて育てられました。しかし、ある時にお父さんが、「レミを売れ」と言ったので、お母さんはとても愛していましたが、旅芸人に売られてしまいました。お母さんから離れて、遠くなっていくときにレミが大声で、「おかあさん!!」と叫んでいるシーンがありました。私は、それを見ていて、涙が出ました。私は自分をレミに投影して、レミが連れられていく姿を見ていました。

私は愛知県北設楽郡下津具村で生まれ、十一人兄弟の九番目として育ちました。田口に私の叔父がおり、そこは子どもがありませんでした。私が生まれたときに、親同士が一つのことを決めました。それは、叔母が家に子どもがいないので、「お宅の子どもを、一人くらいくれないか」と言いました。そして、私が叔父の家にもらわれることになりました。

四歳の頃、私の母が兄と私を連れて、十二キロの道のりを歩いて叔母の家にいきました。私はもらわれ子になることを全く知らずに、母親について歩いていました。

そして母が言ったことは、「明。これからお兄ちゃんと一緒に、田口の歯医者に行ってくるから、待っててくれ。良い子にしてろよ。」と言いました。それで叔母に背負われて、楽しんでいました。

しばらく時間が過ぎた後、私の母と兄が道を歩いていく姿が見えました。それも、隠れるように走って行く姿が見えました。その時私は、「お母さん。どうして僕を置いていくの…」と泣きながら走って追いかけていきました。すると母は、私を可哀想に思い、私を抱きしめました。そして叔母たちに、「大きくなってから、あげることにする」と言いました。その時のことを、未だに深く記憶しています。

「お母さん、なぜ僕を置いていくの…」と、レミのことを思いました。もしも、あの時に叔母さんの家にもらわれていたら、今日はないと思いました。私は、まだ、クリスチャンではありませんでしたが、あの時は、神の助けがあったと思います。

やがて私は高校を卒業し、十七歳の時に東京に行きました。もしも、東京に行かなければ、イエス様にお会いすることがなかったと思います。またもしも、日本が戦争に負けていなかったら、イエス様の話を聞くことも、できなかったと思います。そしてもしも、私が夜学に通っているときに一人の学生が、「君の顔は、牧師に似合いそうな顔をしている」と言わなかったら、私は教会に行っていなかったかも知れません。

聖書の中に、「あなたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、任命したのです」とあります。今日、皆さんがここに来たのも、神の導きであり、誰一人として神のご干渉なしに、ここには来た人はいないのです。ですから、自分の人生について考えてみてください。

ダビデは王様になりましたが、彼が少年時代に、ゴリアテという敵を倒して帰ったときに、イスラエル人は叫びました。「すごい。ダビデがゴリアテを倒して、イスラエルを救ってくれた」と言い、皆は手を打ちながら、「サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した」と言いました。それは、王様のサウルは、千人を殺したけれど、ダビデは万人を殺したというのです。

これを聞いたサウル王は、「俺に千を与え、ダビデに万を与えたというのか」とダビデに妬みを感じ、ダビデを自分の婿にまでしたにも関わらず、何度も、サウル王は、ダビデを殺そうとしました。それが七年間続きました。

ダビデは、幼いときから天地を造られた、主を愛していました。ですから、危ないときは神がダビデを守りました。このように考えながら、「もしも、神様が私の味方でなかったら、今頃、死んでいただろう。また神様が私の味方でなかったら、大水が来たときに、私はきっと飲み込まれていたに違いない。私は鳥が罠から逃れたように、神様が私を助けてくださった」と喜びました。そして彼が結論として言ったことは、

『私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある』

と言いました。ダビデは、本当に助けてくださる方は、天地を造られた主の御名である言いました。「私はこの神様を信じたから、このように守られることができた」と言っています。

今、オリンピックが行われています。見ていると感動します。私と柔道の、谷亮子選手は何の関係もありません。しかし勝つと、とても嬉しいです。色々な、日本の勝利を聞くと嬉しいです。テレビの前で応援します。勝つことは嬉しいですが、負けると悲しいです。しかし、オリンピックは一日だけです。出て負けたら、終わりです。ある意味で人生も競技のようです。勝つか、負けるかです。人生は五十年、六十年、七十年、八十年と様々ですが、「私の人生は勝利だった」と言える人生を送りたいです。どうしたら、勝利できるでしょうか。

まず、天と地を造られた神様が、勝利を与えてくださると信じてください。そうしたら、オリンピックで優勝する選手のように、勝利することができます。ここに、「神が味方である」と書かれています。

『 「もしも主が私たちの味方でなかったなら。」さあ、イスラエルは言え。「もしも主が私たちの味方でなかったなら、人々が私に逆らって立ち上がったとき、』

と記されています。あなたは、このように告白ができますか?

「主は私の味方です」「神様は私の味方です。」

人生の歩み方には、二通りあります。神が味方という人生と、神に敵対している人生です。神が味方であれば、勝利がありますが、悪霊が味方であると初めは良いように見せかけますが、最後には敗北になります。人生は、神様を味方として生きるか、それとも、神様から離れて神を信じないで偶像を拝んで、この世の神、悪魔に従って生きるかによって勝敗が変わります。ですから、神様を味方にしてください。そうしたら、素晴らしい人生になります。

ローマ人への手紙八章三十一節から三十七節に、

『では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』

と記されています。人生には戦いがあります。しかし、どんな戦いが来るかわかりませんが、聖書の中には、ご自分の御子をさえ、惜しまずに与えてくださった方・天の父なる神様が、自分のひとり子であるイエス様をこの地上に与えられました。十字架で死んでくださった、素晴らしい愛の神様を信じたら、すべてのことが与えられないわけがない、と書かれています。これから、どのような問題があっても、あなたは、圧倒的な勝利者となることができます。クリスチャンの生活は、圧倒的な勝利者になることができます。

『私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。』

とあります。これから、どんな困難や艱難、苦しみ、飢えがあっても、イエス様を信じたら、絶対に勝利者になることができます。信仰を持ちましょう。

最近この教会では聖歌、賛美歌をあまり歌いませんが、聖歌にも、素晴らしい賛美があります。聖歌の四九三番の三節に

我が友主イエスは いとも優しく

慰め励まし また守りたもう

悩みも剣も 飢えも裸も

引き裂くあたわじ 主より我が身も

これからの人生は神様が味方です。イエス様を信じたら、どのようなことがあっても、圧倒的な勝利者になることができます。圧倒的な勝利者になれると宣言し、確信しましょう。心からイエス様を愛していきましょう。

私は時々考えます。もしも日本が戦争に勝っていたら、どうだったでしょうか。戦時中は、キリスト教と言うと、「外国の宗教、アメリカの宗教」などと批判していました。当時は、神社を拝まなかったら、牢獄行きでした。しかし、神様は短気な方ではありませんが、神様の御手は段々と強くなります。

一九一七年に、共産革命が起こりました。レーニンが、「神はいない。自分の力で共産国家を作ろう」と決起しました。しかし結局、一九九一年に、ソビエト連邦は崩壊しました。七十四年程が経過した後のことでした。人は「神はいない」と言っても、神様は忍耐していました。しかし、結局、神のない人生で、ソビエトは行き詰まり、崩壊しました。またベルリンの壁も、破れました。不思議なことです。日本もそうでした。日本は神国、天皇は現人神だと言っていました。

私の小さい頃、学校に御真影という、天皇の写真がありました。そこに最敬礼をし、朝は、君が代を歌い、東に向き「宮城遙拝、最敬礼!」と言って、天皇を神として拝んでいました。「天皇陛下のためなら、死ぬ」と言って、多くの友人が死にました。戦争に負けたときに、マッカーサーが電報を打ち、「三千人の宣教師を送れ」と命じ、日本に宣教師が送られました。

そしてその中に、穐近先生が含まれていました。私も、私の家内も、先生たちの伝道によって救われました。感謝だと思います。今年は二〇〇四年です。もしも、この地上にイエス様がお生まれにならなかったら、この場所に誰もいないと思います。二〇〇〇年前に、イエス様がお生まれになられ、この地上で歩まれ、最後には私たちの罪のために死なれました。十字架で死なれ、死んで終わりならば、他の宗教と変わりません。しかし、死人の中から三日目によみがえったとあります。今、私たちが信じているのは、十字架で死なれ、死の力を打ち破られて、よみがえられたイエス様を信じています。

イエス様が十字架で死なれただけであったら、クリスチャンになっても、意味がないかも知れません。第一コリント十五章十七節から二十節に、

『そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。』

と記されています。一番素晴らしい「もしも」ということは、イエス様が死人の中からよみがえってくださった事です。イエス・キリストが、十字架で死なれたことは、私たちの罪の代わりに死んだのです。ですから、このイエスを信じたら、どんな罪でも赦されます。イエス様が、私たちの罪のために死なれたからです。それだけではなく、私たちが地獄に行くところを、イエス様が代わりに行ってくださり、人類の誰もが打ち破ることができなかった、死の力を打ち破り、三日目によみがえってくださいました。世界の歴史が始まって以来、よみがえられたのはイエス様しかありません。今日、イエス様を信じましょう。この方を、自分の神としてください。

 聖書を読んでいる中で、「神の言葉が生きている」とあるように、自分に語りかけてくださる時があります。

私は、「父があなたを愛されている」と読みました。天の父なる神様が、私を愛してくださっていると信じただけで、「御子イエス様を私に与えてくださった、だから救われた。父が私を愛してくださっている。そしてイエス様が死人の中からよみがえられて、今は天の父の右に座しておられ、天においても地においても一切の権威を持っておられる、私をも愛していてくださる。そして聖霊様が私たちにおられる。このイエス様を信じるだけで、罪が赦され、永遠の命が与えられ、天国に行くことができる」という喜びがあります。難しいことではありません。「神様。私の味方となってください。私の今日までの罪を赦してください。これからイエス様に従っていきます。」これだけで、素晴らしい人生を送ることができます。

誰かが、新城教会に誘ってくれた。だから今、私はここにいる。誰かが、トラクトを配ってくれた。だから、私はここにいる。あの時、私の家庭に、問題があった。だから教会に来た。一つ一つ考えると、「もしも」あのことがなかったら、今日はここにいないと思います。今日は、「もしも」の中に、全ての人が入っています。イエス様を、心から愛していきましょう。神様が味方であると信じましょう。

「イエスは主です。イエスは神です。イエス様は、私の救い主です。私は、天国に行くことが出来ます。私は圧倒的な、勝利者となれます」と、宣言しましょう。今が、どんなふうであっても、必ず、イエス様が勝利を与えてくださいます。

「神が私の味方です!」と告白しましょう。お祈りします。

「イエス様。今日からイエス様を私の主として、私の神様として信じます。これからの人生をお導きください。イエス様の流された十字架の血潮によってすべての罪を洗いきめてください。イエス様の打たれた傷によって心の傷も肉体の傷も、癒してください。私の人生を神様に明け渡します。今日から私の味方となってください。圧倒的な勝利者として人生を歩むことができますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」


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