主の栄光、主の宮に

2004.8.29(SUN)
新城教会 滝元 開師

旧約聖書 歴代誌 5 章 13 節〜 14 節
ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。

 ハレルヤ!今日このように御言葉を取り次ぐことができることを感謝します。今日は第二歴代誌の御言葉から「主の栄光、主の宮に」というタイトルで学びます。神様の栄光がこの会堂の宮の中に、また、今の時代は私たち自身が神の宮ですから、私たちのただ中に神の栄光が現されることを願い、御言葉から学んでいきたいと思います。

ダビデは神様の住まわれる神殿を建てたいというビジョンを持ちましたが、神様は、ダビデによって神殿を建てることを望まれず、その子ソロモンの手によって神殿を建てるように導かれました。それまでは「幕屋」と呼ばれる天幕が造られ、そこで礼拝が捧げられていましたが、この地上に初めて神の住まわれる神殿が造られたのです。

 さて、この二〇〇四年は新城教会にとって、また、この日本にとってとても意味のある年であると信じています。すでに、この年の初めに神様が新城教会の宮を完全に建てあげてくださる年であるので、主の御業に期待しましょうというメッセージからこの年が始まっていますが、ここまでの八ヶ月の歩みを振り返って神様に感謝し、また神様のみ業の前進を信じていきたいと思います。私自身に今年与えられて御言葉は、「人手によらず、神様の御手によって神のみ業が現される」という御言葉でした。この八ヶ月を振り返り、確かに神様が御手を動かしてくださったということを経験させていただき、感謝しています。御言葉は真実であり、御言葉通りのことを神様が現してくださることを信じていきたいと思います。

 新城教会の新城におけるルーツは、初め新城中学校の後ろ側に教会が設けられ、その後一九六〇年にこの場所に教会が建てられました。そして一九八〇年にこの会堂が建てられました。それから十二年後の一九九二年に教育館が建ち、そして、いよいよ今年リバイバル聖書神学校が建てられ、新城教会が持っている敷地にすべての建物が完成した年である故に、神様の栄光が現される年であると信じたいと思います。九月二十日にはリバイバル聖書神学校の奉献式が行われますが、霊的な領域においても現実的な領域の中においても神様ご自身の完全なる勝利がここに打ち立てられ、これからリバイバルのみ業が力強く前進していくことをもう一度信じて進んでいきたいと思います。

ソロモン王が神殿を完成させ、神様に神殿をおささげする時に起こされたことが第二歴代誌の御言葉に書かれています。

『ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。』

とあります。神の前に神殿が建てられ、全ての必要な器具が持ち込まれました。そして聖なる飾り物を着けて心からの賛美をささげました。「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と神様にささげた時に、神様の臨在が宮に満ち、臨在が雲のように宮を覆いました。その臨在があまりに激しかったので祭司たちは立って仕えることができなかったと記されています。私たちもこの年にすべての建物が完成し、神様におささげしていく中で神様に向かっての心からの賛美をささげ、もう一度神様からの素晴らしい恵みを覚え、とこしえに変わらない主の祝福と恵みを感謝して賛美をささげていきましょう。その時、神様のご臨在が現されることを信じます。賛美の中に臨在される主を心から感謝し、主の宮の完成のこの年に主の臨在と栄光を私たちのただ中に、また教会のただ中に、この日本の上に現されることを信じていきたいと思います。詩篇二十二篇三節に、

『けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。』

イエス様は私たちのささげる賛美の中に住まわれると記されています。このことを信じ、更に私たちの歩みを賛美に満ちあふれたものにしたいと思います。その時に神様の臨在が現されますので神様のご計画が進んでいくことを信じます。私たちはそれぞれ一人一人の信仰生活が支えられ、守られ祝福されることを願いますが、それだけではなく、この地上に神様ご自身の御国が来ること、天にある主の祝福がこの地上に降りてきて神様ご自身のみ業が溢れ流れることを願って生きたいと思います。イエス様が私たちに教えてくださっている祈りの一つである御言葉、マタイ六章十節に、

『御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。』

と記されています。みこころが天にあるように、私たちの地においても現されるように。この地上はサタンの支配下にあるのでサタンの支配下の中に神様のみこころが現されることを願います。私たちの礼拝は日曜日だけにとどまらず、日々の生活の中にあります。絶えず神様を礼拝する中で、天にある祝福を通して、この地の暗闇が打ち破られていくものなのです。私たちが礼拝し、賛美することは、神様の臨在が現される中で、楽しみ、喜び、癒し、という恵みが私たちのためだけに留まらず、地上において神の国が現されることは、地上における暗闇が打ち破られるものであると信仰を持って賛美していきたいと思います。その時に神様の臨在が現され、神の素晴らしい祝福が前進していくことを信じます。第二歴代誌二十章の御言葉に、

『主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。』

とあります。ソロモン王が神殿でささげた賛美を、戦場に出ていって、戦いのまっただ中でささげたことが書かれています。私たちも、それぞれ遣わされているただ中で神様へ賛美をささげていく時に、神様の臨在が現され、そこに神様と私たちの麗しい交わりだけにとどまらず、そこにある暗闇をも打ち破るものであると教えています。神様を賛美することにおける祝福についてもっと私たちは体験できると良いと思います。賛美が好きだという方にとどまらず、乳飲み子からお年寄りに至るまで賛美に溢れた歩みが成されるときに神様の力強い勝利が来ることを信じます。

 以前、全世界で賛美を捧げるマーチ・フォー・ジーザスという働きがありました。これはイギリスで始まった賛美のムーブメントで、世界中の街角に出て行き神様を賛美するという働きです。そして一九九四年はグローバルに世界中で一斉に神様を賛美しましょうという企画でおこなわれました。日本でも各地でその働きがなされ、そして、新城でも賛美をしました。新城を賛美しながら歩きました。その時に素晴らしいことが現されました。その前日、私は夜休んでいるときに一つの賛美を神様が与えてくださいました。今まで色々な時に神様は賛美を与えてくださいました。普段は祈りや生活の中で神様が賛美を与えてくださいますが、その時は床の上で賛美が与えられました。夜中、休んでいる中で突然私の心の中に「この地は主のもの この地の真ん中に十字架が立つ。」という賛美が与えられました。真夜中にその賛美をとどめなくてはと、眠い目をこすりながら録音してまた寝ました。翌朝その賛美を聴き、この地上ののろいが十字架によってきよめられ、この地の真ん中に十字架が打ち立てられるという賛美が与えられ、良い賛美だと思いながらマーチ・フォー・ジーザスを迎えました。色々な賛美をしながら新城を巡りました。途中コンビニエンスストアーの前で休み、出発しようと思ったとき、神様が「この地は主のもの、この地の真ん中に十字架が立つ」と賛美するようにと語られたので皆で賛美を覚えました。そして、それからはその賛美をしながら歩きました。賛美の中に主の臨在が現され、この地ののろいがきよめられてこの地の真ん中に十字架が立つと確信しました。そしてもう間もなく教会に到着するという時に半分のメンバーが信号を渡り、もう半分が対面側に残され、私たちは待っていました。その時も私たちは絶えず賛美をささげていました。その時です。アルゼンチンの宣教師・アドリアン先生が、突然天を指さし「ワッー」と大声で叫び出しました。何が起こったかと思って天を見上げると、新城の上空に大きな十字架の雲が見えました。飛行機雲のようなも細いものではなく、ハッキリと大きな十字架の雲が新城の上空に立っていました。「この地の真ん中に十字架が立つ」と賛美しているただ中でしたので皆が「ハレルヤ!主の御名をあがめます。」と心から主を賛美しました。新城に起こされた霊的戦いが色々な形で進められています。詩篇八十九篇三十七節に、

『雲の中の証人は、真実である。』

と記されています。祈って戦ってこの地に何が起こるのだろうか、表面的には何もないけれど何が起こるのだろうかと思っている中で、神様が約束してくださったことは、この地の上に十字架を立てあげるという奇跡を与えてくださいました。そのような奇跡を体験させていただき今日がありますが、もう一度信じて私たちがささげる賛美の中に主の臨在があり、そこに神様の祝福があることを心から信じていきたいと思います。歌が上手だから、知っているからというのではなく、神様を心からほめたたえて賛美するときに神様が臨在を現してくださり、主のみ業が現されることを信じていきたいと思います。

 今年六月に私と家内で岡崎の医療刑務所でコンサートをさせていただきました。何とかそこに神様のみ業を現していただけるようにと願っていました。昨年十二月には、姫路の少年刑務所でのコンサートをしました。その時にも賛美の中で神の臨在を現してくださったと感じました。岡崎に行った時に、高い塀で囲まれており、大きな扉が開き、第一の扉、第二の扉が開き、入っていきました。扉が開いたときに、聖霊も共に入ってくださることを強く感じました。神様この刑務所に訪れてくださるという思いを持って行きました。そしてコンサートを迎えました。ステージもありましたが、あえて下に降りて目と目を合わせられるような距離のところで歌いました。近くで歌うことができました。彼らは一曲終わると拍手をしてくださいました。医療刑務所は色々な年代の方がおられました。若い方から八十代のような方もおられました。賛美の中で神様の臨在を感じました。終わってからすぐに片づけをしました。その中で色々な方と話をしました。一人一人が目を合わせて「ありがとうございました」と言ってくださいました。終わってから看守長の方が私たちの所に来られ、「よかったですよ。一人の一番やんちゃな奴が泣いていまして … 」と言われるのです。本当かなあ。そんなことがあったんだ … と思っていると、また他の看守が来て、看守長に「ねえ、あいつが泣いていましたよ」と喜んでおられました。一人一人に神様が届いてくださっているのを賛美の中で感じさせられました。マタイの福音書九章十二節から十三節に、

『イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」』

とあります。イエス様は罪人を招くために来てくださったとあります。日本のリバイバルを私たちは祈っています。ある意味で罪を犯した受刑者たちの中にイエス様ご自身が来てくださったことは、イエス様がこの日本の深いところに訪れてくださっているしるしだと思い感謝しています。

 話は変わりますが、一九九二年七月九日朝六時に突然霊的戦いが始まりました。神様の戦いの火ぶたが切られる業が現されました。霊の戦いと毎週のように語られて、霊の戦いはもううんざりと思われる方がおられるかも知れませんが、神様は霊的戦いを通してこの国を変えるために、また世界を変えるために立ち上がってくださっておられます。今から約500年前のちょうど七月九日朝六時というのは、日本の歴史の中で長篠・設楽が原の戦いという、鳳来町と新城市を舞台に織田信長と徳川家康の連合軍と武田勝頼が率いる武田軍が連吾川を挟んで戦った、開戦の時間だったのです。そのときこの地に入りこんだ、暗闇に対してイエス様が立ち上がってくださったのです。今から十二年前の七月九日でした。神様がこの地において、また日本において成そうとされているわざは大きなことだと思います。このことを信じて私たちは信仰を持って戦い続けていきたいと思います。

私たちは霊的戦いを通して何を学んだのでしょうか。一つは戦いの相手がはっきりしたことです。エペソ六章十二節に、

『私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』

色々な戦いがありましたが、戦いの相手は「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するもの」が私たちの戦いの相手であると教えられました。またイザヤ書十四章十六節から十七節に、

『あなたを見る者は、あなたを見つめ、あなたを見きわめる。『この者が、地を震わせ、王国を震え上がらせ、世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった者なのか。』』

とあります。「あなた」とはお前と表現した方が良いと思いますが、サタンのことを指しています。今まで色々な戦いがあり、苦しみがあり、戦いの相手がわからなかったがその相手がはっきりとわかる時が来ると教えています。今までは私たちを捕虜のように悲しく、苦しく、国々町々を痛めつけてきたのはサタンであったのかと教えられたのが霊的戦いでした。

またもう一つは第二コリント四章四節に、

『そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。』

と記されています。この世の神は悪魔・悪霊です。それがクリスチャンではない人に覆いをかけていると教えています。今まで一生懸命祈り、伝道しましたが、なかなか福音が伝わらなかった現状は、悪魔・悪霊が人々に覆いをかけていた犯人だったと発見されたことが霊的戦を通して教えていただきました。私たちはこのサタンの策略を見極めてそれが打ち破られるために戦っていかなければならないと思います。サタンは私たち一人一人から神様をわからなくさせるための策略を練っています。それを国家レベルで行っています。個人はそれぞれの家庭の中にありますが、各家族が仕えている悪しき霊というものがあります。またその家庭は地域に属し、その地域の神社や仏閣の束縛の中にあります。また地域はもうひとつ上のエリア悪しき束縛の中にあり、またその束縛は、やがて伊勢へとつながり日本全体に関わるものです。この霊的な戦いの中でひとりの救いのためには国が変えられなければなりません。逆に言えば、国家レベルで束縛を受けていた私たちが、救われてあがなわれて暗闇が打ち破られて神を賛美し始めることが国家をも揺るがせる大きな勝利につながるものであることを信じます。

国家レベルの策略として日本においては一番顕著なものは「君が代」です。特に今オリンピックで喜んでいますが、金を取るたびに「君が代」が歌われます。君が代はサタンに対してささげているものです。「君と言われる天皇がさざれ石が岩となり、こけが覆い尽くす程になるまでに生きながらえますように」という天皇賛歌です。明治時代に天皇を頂点として国家体制ができ、国民は天皇の赤子であるという霊的な土壌の中で作られ、歌われて今は国家にもなっています。国民が「君が代」を歌うことにより、その歌はどこに届いているのでしょうか。それは国ではなく、この国を治める悪しき君の所に行っているのです。ですから私たちが歌った歌を通して結ばれた悪しき契約を打ち砕き、イエス様を賛美するものとしての働きをさせていただきたいと思います。そのような中からあがない出された私たちが主を賛美するときに、国家をも揺り動かす力のあるものであることを信じて賛美していきたいと思います。

 昔は神殿がソロモンよって建てられたエルサレムのシオンの山にありましたが、今は私たちのただ中に神の国があると教えています。私たちの心が神の宮とされていると教えています。第一コリント六章十九節から二十節に、

『あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。』

とあります。昔は神殿において神様を礼拝しましたが、私たち一人一人が神の住まわれる主の宮であると信じましょう。ヨハネの福音書十四章二十三節に、

『イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。』

とあります。私たちはイエス様を愛することが大切です。イエス様を愛する者のところに父なる神、子なるイエス様、聖霊なる神が私たちのただ中に住んでくださいます。私たちが神の宮としての働きを全うするときに、神様の祝福が力強く前進していくと思います。私たちが歩くところに神の臨在があり、私たちが行くときに神の祝福がそこに現されます。このことを信じて遣わされていくときに、神様が大きな業を成してくださることを信じます。神様が住まわれるところは祝福の基です。創世記十二章三節に、

『あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」』

とあります。これはアブラハムの祝福ですが、アブラハムの祝福は私たち一人一人の祝福です。『あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」』とあります。神様の祝福が流れるためには私たち一人一人の存在が必要であることを教えています。私たちの存在そのものが主の臨在となり、私たちの存在そのものが主の回復であり、癒しであり、私たちの存在そのものがとりなしの祈りであり、また私たちの存在そのものが闇を打ち破る存在であり、私たちの存在そのものが主の栄光の輝きであることを信じましょう。

イザヤ書四十三章に、「わたしの目には、高価で尊い。」とあります。イエス様が私たちを愛してくださっていることを心から信じたいと思います。私は罪深いから愛されていない、今週はこんな失敗をしたというのではなく、「わたしの目にはあなたが高価で尊い。」と神様が言われます。私には能力がない、私は何もできないからと言うのではなく、存在そのものが神様の祝福の基です。そして愛されていない方はいませんし、大切でない方はひとりもいません。イザヤ書四十三章七節に、

『わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。』

とあります。イエス様の栄光のために私たち一人一人が造られ、「わたしの目には、あなたが高価で尊い」と言われます。たといお年寄りで寝たきりであって家庭にいても、そこが神の宮です。このおじいさんに何ができるかなあと思われるかも知れませんが、神様の目から見たら高価で尊く、そこが神の宮です。そこにいることがその地域の祝福であり、存在そのものが地域の闇を打ち破る存在になることを信じてください。存在価値のない者は神様の目から見てひとりもいません。サタンは絶えず、「お前は駄目だ。価値がない。」と訴えます。それを聞いた私たちは不信仰の確信を持ち、「私は駄目だ。私は愛されていない」と思ってしまうことはサタンの罠です。イエス様ご自身は私たちひとりひとりを愛され、神の宮として神のみ業を現してくださる方であると信じたいと思います。

 五月に東京の上野にあるJMMS(賛美の学校)という学校で奉仕させていただきました。一日目の奉仕が終わった時に、上野駅の近くで家に電話をして話していました。するとすぐ近くにホームレスの人おられ、ホームレスの仲間達に一人の方が大声でなにやら訴えていました。田舎者である私はつい「おじさん。どうした?」と聞いてしまいました。そしておじさんは話し出しました。おじさんは上野公園で給食を配っているのを聞きつけて90分歩いて行ったそうです。そこではとあるキリスト教団体が主催してやっていました。食べるために整理券を配布し順番に食事が配られていたそうです。食べる前に必ず宗教の話があり、さあ食べられるということで食事をもらおうと思い待っていたそうです。するとおじさんの前で食事がなくなったそうです。それでおじさんは大声で怒りを仲間達にぶつけていたのです。私は「おじさん、悪かったね。ごめん!」と言うと、「お前もその筋の者か」と言うのです。「そうだよ。私もクリスチャンだよ。」と言いました。申し訳なく思った私は、ポケットにあった千円を何気なく差し出し、「おじさん、これあげる」と言うと、「ありがとう」と言ってもらってくれました。そして、彼がにこにこしていると、他の人も来ました。彼らにあげてさようならではもったいないと思い、イエス様の話をしました。イエス様は素晴らしい方です。大切なのは心だと話しました。この地上にはお金持ちもいれば、地位の高い人もいる。善行を積む者もいるがそこで心がなかったら駄目だと話しました。彼らもそれについて同感だと言いました。「今の政治家は心が腐っている。金のためにいくらやっても心が腐っていては何もならない」と一生懸命訴えているのです。そこで私は聖書から「心のきよい者は幸いです。その人は神をみるからです。」と話しました。心が大切だからその人の心がきよかったら神様はその人に話しかけてくれると話しました。するとそのホームレスの人たちはそう思うと言いました。その神様はイエス様だよと言うのと、そこがちょっとわからないけど、本当に心からやっていることは素晴らしいと思う。だけど、形だけならばやらない方が良いと再びおじさんが怒り出しまし、福祉や政治の話に持っていこうとすると、他のホームレスのおじさんが、今は宗教の話だ。そんなことを言うなと言ってまたイエス様の話に戻されました。そしておじさんたちに「イエス様は神様だから、もし何かあったらイエス様とお祈りして。イエス様は助けてくださるから。」と言いました。すると彼らは目を輝かせて「よし」と言いました。そして「おじさんのためにお祈りしても良い?」と言うと、「頼む」と言いました。すると他のホームレスにも声をかけて私を五人で手をつないで丸くなって祈りました。「神様ここに来てください。祝福を置いてください」と祈りました。するとイエス様がそこに深い臨在を現してくださり、皆の目が輝いていました。どのような環境の中でも神様ご自身は臨在してくださる方です。私たちは神の宮であり、天の父なる神、イエス様、聖霊なる神様が私たちと共にいてくださることを信じて神様を賛美し続けて行くときに、私たちそのものを神の宮として私たちが行く時々に神様の祝福とみ業を現してくださると信じていきたいと思います。ゼカリヤ書八章二十三節に、

『万軍の主はこう仰せられる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかみ、『私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ。』と言う。」』

とあります。一人のクリスチャンに対して「わたしもあなたと一緒に行きたい」「教会に連れて行ってください」という時が来ると記されています。そのような業がこれからの私たちの歩みに現されることを信じましょう。マタイの福音書五章十六節に、

『このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。』

と記されています。「あなたがたは世界の光」と神様が語ってくださいます。光は輝かせるためにあります。隠れていてはその光を輝かすことはできませんので私たちが神様の光であることを信じ、私たちのからだが神の住まわれる宮であり、神の臨在が現される場所であり栄光が現される場所であると信じます。この年に宮に神様の臨在が満たされることは私たち自身にも神の臨在と栄光が満ちると信じます。

 皆さんと共にお祈りしたいと思います。特別に君が代に対する悪しき裁ち切りの祈りをしたいと思います。神様だけに賛美をささげ、私たちの賛美を通して国家を揺り動かす者となることを信じます。

「天の父なる神さま。主イエスさま。聖霊さま。あなたこそが、私たちの神であり、この国の神であり、全世界の神であられることを、今、宣言いたします。

私たちが、過去、言葉を通して、歌を通して、「君が代」を通して、捧げた、悪魔と悪霊への、礼拝行為の、罪を、お赦しください。「君が代」を、歌ったことにより、結ばれた、サタンとの、悪しき契約を、今、イエスさまの御名によって、断ち切ります。打ち破ります。私と、「君が代」との悪しき契約は、イエスさまの御名により、なき者であることを、宣言します。私は、主イエスさま、あなたを賛美します。あなただけを、礼拝いたします。あなたを愛します。あなたとともに、歩みます。私の体を、あなたの住まわれる、宮としてください。天の父なる神さま。主イエスさま。聖霊さま。あなたを、歓迎いたします。あなたを、ほめたたえます。主イエスさまに、栄光をお返しいたします。主イエスさまの御名により、この祈りを、天の父なる神さまにお捧げいたします。アーメン。ハレルヤ!」

 


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