祈ろう

2004.9.5(SUN)
新城教会 滝元 順師

新約聖書 ルカの福音書 11 章 1 節〜 4 節
さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」

 ハレルヤ!皆さんとともに主を礼拝できることを、感謝します。昨晩は、素晴らしいゴスペル・コンサートがあり、大変恵まれました。パワフルで主の臨在溢れるコンサートでした。身も心もリフレッシュされました。賛美の中に、主がともにいてくださったことを心から感謝します。

また、私のためにもお祈り下さり感謝します。沖縄での働きが祝福されたことを感謝します。大型台風が二つも来ていましたが、台風の合間に移動することができ、守られました。皆さんのお祈りによって、支えられたことを感謝します。今回は、昨年、この教会に来てくださった、エミ先生の教会で一週間程奉仕しました。特に、沖縄は先週は盆で、最も、先祖崇拝を行う時です。この時期に、毎年来て欲しいとお願いされています。暗闇が深いほど、光が輝くと信じて頑張りました。どこでも素晴らしい集会でした。

エミ先生は、プエルトリコから二十五年前に日本に来られました。初めは、会堂もなくて駐車場で礼拝をしていました。私はその頃から知っています。それが段々と祝福され、今回は、大きな元焼き肉屋の施設が与えられ、そこが教会となりました。愛を持って、日本人を愛して伝道する中で、聖霊様が強く働かれ、主のみ業があらわされているのを見て、心から主をあがめました。その祝福の秘訣は「祈り」です。

今日は、「祈ろう」というタイトルで御言葉を学びます。全国に多くの教会がありますが、祝福されるクリスチャンの条件は、ただ一つ「祈り」です。祈りについての理論をこねていても、何も起こりません。現実に祈らなければなりません。力強い人生を送るために、問題解決のためにも、真剣に祈ることが大切です。祈れば、必ず、勝利を与えてくださいます。人間の世界に神が働かれる法則として、祈りを与えられました。その法則を知らなければなりません。神が人の世界に働く方法は、祈りの法則を通してです。先ほど、「主の祈り」を共に祈りましたが、それはイエス様が私たちに教えてくださった重要な祈りです。主の祈りを、初めから最後まで祈るには、戦いがあります。すぐによそ事を考えてしまいます。

今日はルカの福音書十一章から学びますが、主の祈りは、マタイの福音書にも書かれています。マタイの福音書六章九節から十三節に、

『だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕』

これはイエス様が弟子達に教えられた祈りです。この祈りを、自分のものとして祈ることが大切です。主の祈りは、何か、ソフトなイメージがあります。しかし実は、これを原文で見ると、挑戦的な祈りです。これは命令形で書かれており、宣言の祈りです。「御国が来ますように」とありますが、これは命令形で「御国よ来たれ!」と、地面を踏みしめながら、宣言する祈りです。また、「みこころよ、成されよ!」という宣言の祈りです。天の御国では、神のみこころが全てがあらわされています。しかし、この地上に全てのみこころがあらわされるわけではありません。神様のみこころが半減してしまいます。なぜならば、地上は悪魔の支配下にあるからです。だから神のみこころが百パーセントあらわされるのは難しいのです。戦いの気持ちを持って「御国よ、来たれ!みこころよ、成されよ!」と宣言して祈るように、イエス様が祈りを教えられたのです。

また、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」とあります。「悪」とは、「悪いこと」というよりも「存在」です。それは、悪魔とその一味、悪霊どもです。試練と悪魔の働きには、つながりがあります。神のみこころを壊そうとする、悪魔の力が、人に試練をもたらします。

時々、「神様が私に試練を与えてくださった」と言われる人がいますが、神は人に直接試練を与えるような方ではありません。何らかの理由があって、結果的に試練があるのです。しかし、神は、それをも用いて、人生を導かれます。神様が、「お前は、試練を受けて苦しんでしまえ…」と言われる方ではありません。神様は良いお方です。試練の背後には、悪魔の存在があるので、「試みに会わせないで、悪より救い出してください。」と祈る必要があるわけです。

時々、「私を試みに会わせてください」と祈る人がいるかも知れませんが、それはみこころの祈りではありません。試みに会わないように、神の御心が百パーセント地上にあらわされるように祈るように教えています。

今週は御国があらわされ、みこころが成されるように、宣言して祈りたいと思います。

 ルカは、はっきりとした目的を持って、ストーリーを展開しています。三週間前に、「良きサマリヤ人」の例えからお話しました。その中で、最も大切なこと、いのちを得ることについて学びました。それは、「神を愛すること」と、「人を愛すること」でした。そしてその後のストーリーが、今日のテキストである十一章です。

私は現在、五冊目の本を執筆中です。ぜひ祈ってください。今回の本は、今までの本とは少し違い、二〇〇三年から今年に至るまでに、主が教えてくださった事柄をまとめています。特に、霊的戦いの働きの中で、日本が世界の国々とのつながりの中にあり、世界規模の霊的戦いと、悪魔の策略を見抜くことを目的としています。そのような本に仕上がるように、祈りながら書いています。

本を書くことは大変難しいです。よく構想を練って、うまくストーリーを展開していかないと読者には伝わりません。私はこれまでに、三日間くらいずつ日程をとって、七万字程書きましたが、家内が、「同じ事が二回書いてある」と指摘を受けることがあります。しばらく時間が経ってから書くと、忘れてしまい、同じことを繰り返して書いています。そうならないためには、一ヶ月位、どこかにこもって執筆すると良いのですが、そういうわけにもいきません。だから、後からの校正が大変です。

しかし、ルカの福音書は、実にうまく構成されています。「神を愛し、隣人を愛すること」から、「良きサマリヤ人」のストーリーへと展開し、その後、「マルタとマリヤの話」になります。最後に、「一番大切なこと」として、『しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』と教えています。これは「神を愛すること」につながります。

そして、「最も大切なこと」として、祈りにストーリーを展開させています。聖書は、章や節がついているので、なかなかコンテキスト(文脈)をくみ取りにくいところがあります。時には、章や節をとって読むとわかりやすいです。

ルカはイエス様の教えの中で、祈りは重要だと理解して記しているのです。ルカの福音書十一章五節から八節に、

『また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。』

 

これは祈りについての教えです。祈りにもいろいろな種類があると思いますが、中でも、重要な祈りについて教えています。それを、「主の祈り」と「三つのパン」のたとえを前提として、イエス様は話されました。

それは、夜中に突然、友達が訪ねて来たところから始まります。その友人は、友人である主人に、「泊めてくれ」と頼んだのです。主人は、彼を泊めてあげることにしました。するとその友達は、「お腹が空いたから、何か、食べ物をくれ。」と言い出しました。すると、主人は、家には何もなかったので、夜中であるのにもかかわらず、隣の友達宅に行って、パンを三つ借りようとしました。真夜中にもかかわらず、隣人の家の扉をノックし、「起きてくれ。私の友達が遠いところから来たのだけど、腹を空かしてパンを食べたいと言っている。すまんが、パンを三つほど貸してくれないか。」と訴えました。

私ならば、こんな事はしないと思います。友達が夜中に訪ねてきたら、泊めてはあげるかも知れませんが、「腹が空いた」と言っても、「明日の朝まで待ってくれ。こんな深夜に何か食べると体が悪くなるぞ。太るぞ。」と言って、わざわざ隣にパンを借りに行くことはありません。もしも夜中に、隣人の家に押しかけたら、今までの良い関係も崩れてしまうかもしれません。

にもかかわらず、主人は、友達のためにお隣を起こしてまでも、パンを用意したのです。隣人も、友達だからということでパンを貸すのではなく、「うるさいから持って行け」とパンを貸してくれたのです。

ここで、最も重要な祈りについて、「困っている人のために、真夜中であっても、早朝であっても、出て行って、パンを借りるような祈り、すなわち、とりなしの祈り」が最も大切なことだと教えているのです。

祈りの中で最も重要な祈りとは、自分のために祈ることよりも、苦しんでいる人のために、パンを借りるような、ある意味において、非常識さを持って真剣に祈ることが重要であると教えています。

パンを借りに来られた家の人たちも大変です。これは、良きサマリヤ人に似ています。通りがかりに、倒れている旅人を助けるようなものです。この隣人も、自分がゆっくりと休んでいるさ中に、家を開けてパンを渡さなければなりませんでした。このストーリーには、他人に対する犠牲が伴っています。両者に犠牲が伴っています。

祈りの中で、最も重要な祈りとは、自分のためというよりも、他の人のために、倒れている旅人のために、真剣にとりなして祈ることであり、その時、主は聖霊を注ぎ、素晴らしいわざを行ってくださると教えています。

あなたの周りにおられる、苦しんでいる人や、悲しんでいる人を覚えて、あくまでも頼み続ける祈りをするよう、神は願っておられます。それは、十章で述べられている、「良きサマリヤ人」の務めにつながるものです。

同時に、「三つのパン」とともに、ルカの福音書十一章九節から十三節で、「三つの祈り」について教えています。

『わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」』

「三つのパンを貸してください」と言いましたが、これは何を意味しているのでしょうか。それは、単に、旅人が三つ程パンを食べたいと言ったのではありません。三つのパンとは、三つの祈りに対応しているのです。祈りには、「求める」、「探す」、「たたく」という三段階があること教えています。それも、自分のためというよりも、倒れている友のために、「求め」、「探し」、「たたく」祈りをしてくださいと教えています。そしてそれが、祈りの中で、「最も大切な祈り」であり、神があなたに、また、教会に望んでおられことなのです。

私たちも、「誰かのために」このくらい、真剣に祈りたいものです。そのような愛を与えていただきたいです。

今回、沖縄のエミ先生のところで奉仕しました。先生は、通訳を使ってメッセージをしていますが、日本語が不自由にもかかわらず、教会には多くの人が集まっています。その秘訣は愛だと思いました。自分の国の人ではない、日本人一人ひとりのために、愛を持って働いている姿を見て、私は感動しました。愛が基本にあるから、この方を主は助けると思いました。私たちも、基本に、愛が大切だと思いました。誰かのために祈ることも、愛がなくては出来ないことです。

先週の日曜日は、朝十時から十二時まで第一礼拝でメッセージをし、その後、祈りがあったので一時近くになりました。昼ご飯を食べ、すぐに一時から四時頃まで集会がありました。それが終わると、スペイン語の集会が六時頃まであり、とても忙しかったです。

月曜日には、夜七時半から集会がありました。全ての人たちに対する祈りが終わったのは、夜中の十二時でした。しかし、「沖縄の方々は素晴らしい」と思ったことがありました。普通、祈ってもらったら、人々は帰っていくと思いますが、ほとんどの人たちが家には帰らず、席に座って祈りの様子を見ていました。十一時半ごろ先生が、「皆さん、もう遅いですからお帰り下さい」と言われるまで、会堂におられました。皆、大変、熱心だと思いました。沖縄の方々は心が熱いです。熱心に、主を求める人たちの中に、主が働かれないわけがないと感じました。

私は十二時頃、祈りが終わりお腹が空きましたが、夜中だったので「食事はいらない」と断りました。しかし、エミ先生が、「食べましょう」と言われました。それで車で出かけました。私は、すぐ近くのレストランに行くと思っていたのですが、近くのレストランは開いてなくて、高速道路を一時間くらい走って深夜に開いているレストランに着いたのは、一時過ぎでした。そして、夕食(朝食?)を食べて、宿舎に戻ると三時頃でした。私も疲れましたが、先生たちも疲れているはずなのに、私たちを一時間も離れたレストランにまで、わざわざ連れて行ってくれる愛が嬉しかったです。私だったら、ローソンで済ませてしまうと思いましたが、先生ご夫妻の深い愛を感じました。

まず第一に、「求める祈り」について学んでみましょう。マタイの福音書六章三十三節に、

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』

とあります。まず私たちは、神の国とその義を求めることです。また、ヨハネの福音書十五章七節に、

『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。』

と教えています。イエス様に、「とどまって」、「求める」という態度が必要です。

イエス様がある日、道を通りがかると二人の盲人が、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫び求めました。祈りとは主を求めることですが、「あわれみ」を求めることです。詩篇三十編十節に、

『 聞いてください。主よ。私をあわれんでください。主よ。私の助けとなってください。』

人類は被造物なので、創造者である神にあわれみを求めることが必要です。神様はあわれみ深いお方ですので、祈りに答えてくださいます。

 第二番目に「探す」祈りとは何でしょうか。

時々、我が家では、鍵をなくして大騒ぎをすることがあります。家内から、「鍵はどこにやったの?」と聞かれることがあります。私は何かを使って、元あった場所に戻すことが苦手です。鍵をなくすと、重要な扉が開かなくなります。金庫があけられなかったり、車が動かなかったり、家に入れなかったりします。

「探す」とは、まず、「鍵」を探さなければなりません。探す祈りとは、鍵を探す祈りでもあります。扉が開かれるためには、鍵が必要です。鍵を見出させていただかなければなりません。

私は、霊的戦いという領域で働かせていただいていますが、これはある意味で、隠された霊的鍵を見出すための働きのようです。どこに鍵が落ちているのかを、探さなければなりません。

イザヤ書三十三章二十三節から二十四節に、

『あなたの帆の綱は解け、帆柱の基は、結びつけることができず、帆は、張ることもできない。そのとき、おびただしい分捕り物や獲物は分け取られ、足なえさえも獲物をかすめ奪う。そこに住む者は、だれも「私は病気だ。」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。』

帆船は帆柱に帆の綱を縛ることによって、風を受けて進んでいきます。帆柱に結ばれている綱を断ち切ってしまうと、帆はしおれて船は進むことができません。

人生に悪魔によって、悪い帆が張られることがあります。悪い帆が張られているがゆえに、悪しき風を受けて、悪魔が設定した方向に人生船は進んでいき、ある人は、病気や試練に出会います。しかし、帆柱から帆の綱を断ち切り解くときに、悪魔の風を受けないのです。

『そこに住む者は、だれも「私は病気だ。」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。』

と記されてます。私は最近、この御言葉を握って、祈っています。「イエス様。どこに悪魔が立てた帆柱がありますか。悪魔が悪しき風を吹かせる源である、帆柱を教えてください」と、真剣に祈っています。皆さんもぜひ祈ってください。悪魔が綱を結んでいる帆柱が、どこにあるのか。その扉を開く、鍵を受け取ることが必要です。

さて、その鍵は見つかるのでしょうか。それは、「教会の祈り」から、引き出されるのです。マタイの福音書十六章十八節から十九節に、

『ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」』

 

と記されています。これは教会について、教えている御言葉です。教会には、すごい鍵がすでに与えられています。「地上でつないだら、天においてもつながれ、地上で解くなら、天においても解かれる」という、鍵が教会自体にあると教えています。この御言葉を読み進んでいくと、これは、ペテロにだけに語られた言葉ではなく、主を信じる弟子たち全員に語られた言葉であるとわかります。それは、現代を生きる主の弟子達全員にも与えられており、弟子達の集合体である「教会」に与えられているのです。

カトリック教会は、つなぎ、解く鍵は法王以外には持っていない。そして、ローマ教会以外には持っていないと主張しています。だから、バチカンに行くと、ペテロが鍵を持っている像があります。法王はペテロの生まれ変わりで、ペテロの霊と人格を受け継いでいると言うのです。ゆえに、「人は、法王とローマ教会を通さなければ救われない」と言うことになるのです。これは、大きな間違いです。

主を信じる者、全員に、主は、つなぎ解く鍵を与えています。その鍵は、主を信じる者達の集合体である、各、地域教会に与えられているので、教会はこの鍵を使って綱を解かなければなりません。

使徒の働き十二章五節から、

『こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。「教会」は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。』

と記されています。ヤコブが殺され、その後、ペテロが捕らえられ、殺されそうになりました。その時、教会はペテロのために集まって、真剣に祈っていました。「ペテロ先生が殺されませんように。助けてください」と、信徒達は心を合わせて祈っていました。

『ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。』

教会が祈っていたときに、奇跡が起きたのです。捕らえられていたペテロが、超自然的に助け出されたのです。ペテロは、次の日に処刑される為に、兵士達に挟まれ、手には鎖がかけられ、絶体絶命の状態でした。しかし、主の使いが遣わされ、鎖が解かれ、牢屋から出ることができました。この源には祈りがあり、それも、「教会が彼のために神に熱心に祈り続けていた」という「教会」にペテロ救出の鍵があったのです。

私たちも、日本にリバイバルが起こるために、また、新城教会に、更なる大きな奇跡とみ業があらわされるために祈る必要があります。その為に必要な祈りが、「教会の祈り」です。教会が祈るときに、天の軍勢が動き、人々の手から鎖が落ちます。両横で悪霊に固められている人々の手から、鎖が落ちるのです。「教会の祈り」は大切です。

午後は油の注ぎ祈祷会がありますが、真剣に、教会としての祈りをしたいです。教会の中に、病気の方々や、問題が解けないで苦しんでいる方々がおられます。これを解くために必要なことは、「教会の祈り」です。

 私は今回、沖縄のある町に行き、集会をしましたが、少しドキドキしながら行きました。なぜならば、何年か前に、その町で、ひとりの人のためにお祈りをしたからです。その人は、引きこもっている人で、自殺未遂を、頻繁に繰り返している人でした。

メッセージ最中に、「○○さんが自殺しそうです。祈って下さい。」というメモが私に回ってきたので、メッセージを中断し、真剣に教会全体でお祈りをしました。その人は、教会に来られている人の親戚でした。

それから二、三年が経ち、その人が今、どうなったのかを知りたかったのですが、聞くのが少し怖かったのです。

実は、メモを受け取った後に、私は頼まれてその人の家を訪問しました。家に行くと、その人は閉じこもっていて、私たちが入れないように扉を鎖で巻いていました。家族が「開けて、開けて!先生が来てくれたから…」と扉を叩くと、二階から飛び降りて逃げてしまいました。

私は、「何とかしなくてはならない」と強く思いました。そのためには、地域の霊的戦いが必要だと感じ、次の日、その人の住んでいる家の裏山にユタが集まる場所があるのを知って、戦いの祈りをするために、登って行きました。

「ユタ」とは霊能者で、悪霊の力で占いをします。歌って、踊って、悪霊に満たされ、憑依して力を受けるのです。裏山は特別、ユタ達が悪霊を呼ぶ場所でした。私たちは、そこに行き、主の名によって賛美して、聖霊によって踊って、「悪霊よ、出て行け!!」と祈りました。

それから、その人の家に再び訪問すると、酔っぱらって寝ていました。戸が少し開いていたので、家族と共に入っていきました。その人を起こして話をしました。酔っぱらっていたので、おとなしくしていました。

「あなたはいつも、自殺を図るけれど、それは悪霊の声ですよ。」と話しました。するとその人は、「そうです。私は何度も、死ね、という声を聞きました。」と言いました。「それはあなたの心の叫びではなく、悪霊が語っているのですよ」と言いました。すると、「私の部屋によく悪霊が入ってくる」と言いました。どこから入ってくるのかを聞くと、私たちが祈りに行った山からだと言いました。

それで、私は祈りました。その人は、うつぶせになって寝ていました。つながりを断ち切る祈りを告白させてから、私が祈りました。

「この人を殺そうとしている、悪霊の力が打ち破られますように!!」と真剣に祈りました。すると、突然大暴れをし始め、床に転げ落ちました。その人は、うつぶせになったまま暴れていたのですが、見ると左手だけが、蛇のように自動的に動き出し、手は少し高いところに登って行きました。その場所を見ると、なんと、そこにはハサミが置いてありました。まさに、ハサミをつかもうとしていました。

その時、私の娘を連れて行って、彼女が近くに立っていたので、「はさみをどかせ!!」と叫びました。私の娘が先にハサミを取り上げたので、大事には至りませんでした。

私は、悪霊に対して真剣に戦って祈りました。イエス様の名によって、戦って祈ったときに、聖霊様がその人に強く触れてくださいました。するとそれから正常になり、その夜の集会にも来られました。

そんなことが二、三年前にあったので、「その人はどうしているだろうか・・生きているだろうか・・」と思い、恐る恐る、聞いてみました。すると、その人は元気で、最近は、元気になった為か、あまり教会には来ないけど、教会のことは忘れてはなく、何かがあると、必ず、教会に来ると言われました。

教会の祈りは、束縛の鎖を砕きます。私たちは、教会の祈りをもっと強化しなければなりません。それは、すでに与えられている鍵を探し出す祈りです。主は束縛を砕く鍵のありかを教えてくださいます。どこに鍵があるのかを見つけ出し、帆柱の綱を解かなければなりません。

『そこに住む者は、だれも「私は病気だ。」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。』

この御言葉は「解放の祈り」を現していると信じます。そのためには、教会が心を一つにして日本のリバイバル、人々の解放のために祈らなければなりません。

最後に、「たたきなさい。そうしたら開かれます」とあります。求める、探す、そして、「たたく」祈りは、祈りにおける、ある意味において、最後の段階です。

ルカの福音書十一章十二節から十三節に、

『卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。』

と書かれています。たたく祈りとは、「聖霊による祈り」であることが分かります。聖霊に支配される祈りは、扉を開く祈りとなります。そして、聖霊による祈りについて、エペソ人への手紙六章十八節に、

『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』

とあります。さらに、エペソ人への手紙六章十節から十八節までを続けて読むと、

『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』

この祈りが、「霊的戦いの祈り」であることがわかります。「たたく祈り」とは、「聖霊による祈り」、それはすなわち、「とりなしの祈り」であり、具体的には、「霊的戦いの祈り」なのです。

私たちは、「神様。私をあわれんでください」という、求める段階の祈りから始まりますが、扉を開くための鍵を探す祈りが続いて求められます。それは、「教会の祈り」とリンクしています。そして、「たたく祈り」とは、「御霊による祈り」であり、「霊的戦いの祈り」であるのです。

その目的は、自分のためではなく、真夜中に訪ねてきた友人のために、パンを貸りるために頼み込む祈りです。他の人のために、真剣に祈る祈りを、神は喜んでくださり、聖霊を注いで下さるのです。

イエス様が教えられた祈りとは、自分ための祈りではなく、良きサマリヤ人としての働きを遂行するための祈りであることを知ることが出来ます。

私たちも、良きサマリヤ人として、日本に、「御国が来ますように、みこころが成されますように」と、祈りましょう。また、苦しんでいる友人のために、「御国が来ますように、みこころが成されますように」と求め、探し、たたいて祈りましょう。

これが最も大切なことだと教えられます。今週、私たちは祈りをただの理論に終えることなく、実際に、祈っていきましょう。祈りを実行しましょう。

私たちが祈り始めるときに、世界が変えられます。私も、祈り始めたときから人生が変えられ、新城教会も祈り始めたときに、変えられました。あなたも祈り始めて下さい。また、教会に与えられている資産である、鍵を使って扉が開かれるように祈って下さい。今週、主が私たちを導いてくださり、鍵を見つけさせて頂きたいと願っています。

私は、「主よ。鍵を見つけるためには、どこにでも行きます。何でもやります。助けて下さい」と祈っています。扉が開かれ、人々が解放され、自由になるのを見たいと願っています。互いに祈り合い、勝利を見せていただきましょう。

 この教会の中にも、依然として色々な問題が解決せずに苦しんでおられる方々や、病気の方々がおられます。真剣に祈り、解放と癒しが与えられ、リバイバルが起こされるように祈りましょう。「求めます!」「探します!」「たたきます!」と祈りましょう。

 

 


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