これが私の人生です!

2004.9.12(SUN)
新城教会 滝元 順師

旧約聖書 詩篇 103篇1節〜5節
わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。

ハレルヤ!今日このように、皆さんとともに心から主を賛美し、御言葉を学ぶことができて、感謝します。私たちは毎週教会に集まり、魂の糧を得ることができることを感謝します。人生は、一度しかありませんが、神がひとりひとりの人生に目を留めておられます。そして、「あなたの一生を良いもので満たされる」と約束されていますので、このみことばを信じて歩みたいです。

人生は目に見える形では、お母さんのお腹の中から始まります。今、新城教会では七名のお母さん方がお産を控えており、新しい命を宿しています。神様が素晴らしい子どもを与えて下さることを祈りたいと思います。

人生は、専門的には「胎児期」から始まり、次には「乳幼児期」、「児童期」、「思春期」、「青年期」、「成人期」へと進み、「老年期」を迎えます。その一つ一つを、「ライフステージ」と言い、全体を「ライフサイクル」と言います。胎児期から、老年期にまで人生は続きます。ある方は、「私は、胎児期から教会に来た」と言われる方もいます。また、老年期を迎えて来られた方もおられます。私たちは、聖書から、それぞれの人生の季節に、神の計画があることを知ることが大切です。それぞれのライフステージも、神の作品であり、神から任された期間であることを知って歩まなければなりません。

そして、全体から見て、「私の人生は良いもので満たされていた」といえる一生をならば、どんなに幸いかと思います。今日、それぞれのライフステージにおいて、神の御心があらわされることを願います。

神様がアダムとエバを創造された時、赤ちゃんを創造されたのではなく、成人を創造されました。そして、二人からは、赤ちゃんが生まれました。神様は全ての領域で、完成品を造られるお方です。初めに人を成人として創造した中に、大きな神の目的があると教えているのかも知れません。いずれにしても、神様は、それぞれの年代に働いて下さるお方です。

今、七名のお母さん方が新しい命を宿しておられますが、どうしたら、健康で素晴らしい子どもが生まれるのかと、いつも祈っていると思います。また、家族や関係者は、どんな子が生まれるだろうかと、楽しみに待っていると思います。

イエス様の母マリヤと、ヨハネの母エリサベツが妊娠中に出会ったことが書かれています。ルカ福音書一章四十一節に、

『エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。』

 

彼女たちはお互いに、聖霊に満たされていました。ふたりが出会ったとき、ふたりとも聖霊に満たされ、また、体内の子どもも喜んでおどったとあります。良い子どもを生むためには、まず、主を求めて、聖霊に満たされて下さい。そして、聖霊に満たされたクリスチャンとの交わりの中で、お腹の赤ちゃんまでも聖霊に満たされるというのです。

マリヤは、エルサベツにあいさつをしただけでしたが、聖霊に満たされたと記されています。私もそのようになりたいと願います。私がここに出てきて、「ハレルヤ!」と叫んだだけで、皆さんが聖霊に満たされるようになったら、私も本物です。そんな人生を送りたいと思います。

ここには多くの子どもがいます。新城教会では、小さな頃から礼拝に出て欲しいと願っています。さらに小さな子どものためには、並行して礼拝がありますが、小学生になったら大人と一緒に礼拝を守る習慣をつけていただきたいと願っています。私も、今までこのようにイエス様を信じ続けてこれた理由に、小さい頃から礼拝に出ていたからだと思います。小さな頃の習慣は、とても大切だと思います。礼拝中、子どもたちは、漫画を書いたり、友達とつつき合ったり、様々なことをしていますが、それでも良いのです。そうしている中で、礼拝に出席することを身につけていきます。子どもたちも一緒になって、礼拝することは素晴らしい特権です。

そればかりではなく、子どもたちは、聖書から見ると重要な役割を担っています。「乳幼児期」や「児童期」には、神の特別な使命があります。

詩篇八章一節二節に、

『私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたはご威光を天に置かれました。あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。』

とあります。神様は敵を打ち負かすときに、赤ちゃんや幼子の口を使うというのです。この敵とは目に見えない敵です。目に見えない敵を打ち負かすために、乳幼児の口を使います。先ほど赤ちゃんの泣き声が聞こえましたが、うるさいと思ってはいけません。この礼拝に働く悪魔を打ち負かすための鳴き声であったら嬉しいです。神様は、大人を使うのではなく、乳幼児の泣き声を使って悪魔の力を砕いて下さると教えています。主を信じる子どもたちには、そのような力が与えられています。

また詩篇一二七篇一節から五節に、

『主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。』

私たちは家を守るために、町を守るために、国を守るためにたくさんのお金を使っています。日本の国防予算は、年々膨れ上がっています。それが福祉など、他の方面に使われたら良いと思います。しかし、いくら守り続けてみても、色々な事件が絶えません。主が守って下さらなければ、どうにもならないのです。私たちも自分の人生を守るために、生命保険に入ったりと、様々な手段を使いますが、主があなたの人生を守ることが一番重要です。私たちが教会に来てみことばを学び、祈り、賛美する中で、神様が働いて下さいり、あなたの人生を守って下さると教えています。人生の守りのために、兵士のように使われるのは、

『見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。』

子どもたちが聖霊様に捕らえられて、イエス様の手の中にあるならば、子どもたちのゆえに家が守られます。家とは、「教会」をも意味しています。教会も守られます。時には、悪魔は、教会を攻撃するために、悪いことを企てていても、敵が門に来ても、ちびっ子勇士が戦いに挑むときに、敵は退散しなければならなくなります。ですから、ぜひ、子どもたちのために、お祈り下さい。この子どもたちが聖霊に満たされ、乳幼児期と児童期の中に素晴らしい、神のみこころがあらわされ、矢筒が矢で満たされている教会となりますように。

「新城教会は矢筒が満たされている。あの子どもたちがいるゆえに、新城教会に属する人たちや、家庭に、手を出すことができない」となったら素晴らしいです。ですから私たちは、子どもたちのために、守りを祈らなければなりません。

毎週土曜日の午後、子どもたちの集会がもたれています。これは、伝統のある集会です。なぜならば、私たちが子どもの時から続けているからです。今までも、子どもたちの集会を通して、主が働いて下さいました。私も、その中で養われてきました。子どもたちが土曜日に集まり、みことばを学び、祈り、聖霊の油注ぎを求めています。

数年前、日本で一つの事件が起こりました。それは、「ポケモン」というテレビ番組を見ていた時に、画面上に光が出て、多くの子ども達が倒れたことがありました。日本中で、子どもたちが倒れました。このことの原因を調査したそうですが、結局、なぜかわかりませんでした。それは、霊的なものだったかも知れません。「ポケモン」は良い番組ではないと思います。なぜならば、作為的にオカルト的な要素が加わっているからです。

あの頃、子ども集会を担当している上條先生が祈っている中で、神様から語りかけを受けたのです。それは、「子どもたちがポケモンに熱中しているが、次の土曜日、それを見ないように言いなさい」ということでした。だから、「ポケモンを見ないように。イエス様が見てはいけないと言っているから…」と子ども達に告げました。すると、子どもたちは、「ポケモンはおもしろいのに…」とつぶやいていました。

しかし、そう言われたので、その週は皆、ポケモンを見ませんでした。すると、あの事件が起こりました。もしも、誰かが見ていたら、新城教会の子どもたちも、倒れて運ばれたかも知れません。

今の時代は、恐ろしい時代です。普通のアニメの中にも、子どもたちを毒する色々なサタンの力が働いています。最近特に、「ハリー・ポッター」が結構人気を集めていますが、それは良いものではありません。ファンタジーのように作られていますが、これも、作為的にオカルトシステムを組み込んでいます。映像を見て、楽しんでいるうちに、悪魔に捕まります。だから、そのような危険なテレビ番組や、アニメには注意が必要です。悪魔は子どもたちを狙っています。なぜならば、子どもを倒せば、門で敵と語る時に恥を見ないという御言葉を裏返し、皆が恥を見るようになるからです。家の中や教会に問題を起こす為に、子どもたちを悪魔が狙っています。

子どもたちが聖霊に満たされて、イエス様と交わっているならば、「ちょっと待て。このテレビは良くない。」「このゲームはやめろ」と語って下さいます。九十二年に聖霊が注がれたときに、子どもたちにも聖霊が注がれました。私は何も言いませんでしたが、子どもたちがゲームカセットやビデオを持ってきました。「どうしたの。」と聞くと、「先生、これを捨てて下さい。」と言うのです。「どうして?」と聞くと、「テレビを見ていたら、イエス様がこれを捨てなさいと言ったから。悪魔が働いているからやめなさいと言われたの」と言いました。この時期を、神の栄光があらわされるために、祈っていただきたいです。子どもたちのために真剣に祈らなければなりません。

児童期を過ぎると、思春期があります。誰でもその季節を通ります。少しずつ体に変化が起こり、男の子は女の子が気になり、女の子は男の子が気になり、複雑な気分になります。伝道者の書十二章一節に、

『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。』

私たちはなるべく若いときに、イエス様を信じた方が良いのです。最近教会に来られる方は、人生に問題があって、苦しんで教会に来られる方が多いです。もちろん、神様は問題を解いて下さるので、それでも良いです。しかし、できる限り、人生にあまり問題が起こらない方が良いのです。「私の人生は安らかだった・・」と言いたいものです。そのために必要なことは、

『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに』

とあります。若いうちに、イエス様を信じていたら、災いが軽減されるのです。私は教会で働いていますが、小さな頃からクリスチャンとして育ってきた子どもたちは、大人になっても比較的試練や、災いが少ないと感じています。中途からイエス様を信じられた方は、子どもたちを教会に連れてきて、一日も早く、イエス様と出会えるようにすることが大切です。今日ここに初めてこられた方は、今日は明日よりも若いので、イエス様を信じたら、色々なわざわいを食い止めることができます。ぜひ、イエス様を信じて下さい。

また聖書は、思春期や青年期が重要な時期であることを教えています。第二歴代誌三十四章一節から十四節に、

『ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった。彼の治世の第八年に、彼はまだ若かったが、その先祖ダビデの神に求め始め、第十二年に、ユダとエルサレムをきよめ始めて、高き所、アシェラ像、刻んだ像、および、鋳物の像を除いた。人々は彼の面前で、バアルの祭壇を取りこわした。彼は、その上にあった香の台を切り倒し、アシェラ像と刻んだ像と鋳物の像を打ちこわし、粉々に砕いて、これらのいけにえをささげた者たちの墓の上にまき散らした。』

と記されています。ヨシヤは王家に生まれ、八才で王になりました。八才で王になって何ができるのだろうかと思いますが、この若い王が、神に素晴らしく用いられました。二節に、

『彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった。』

この短い言葉が、彼の一生を表しています。私たちの一生も、このように記録されたら素晴らしいです。「彼は主の目にかなうことを行い、先祖ダビデの道=イエス・キリストの真理の道を歩み、右にも左にもそれなかった」と書かれたら、素晴らしいです。私もそのように記録されるものになりたいです。私の死後、このように記録に残されたら成功です。しかし、「彼は、時に右に左に大きく振れたた」と書かれたら残念です。イエス様の道をまっすぐに歩んでいきたいと願います。

「彼の治世の第八年に、彼はまだ若かったが、その先祖ダビデの神に求め始めた」とあります。八才で王になり、治世の第八年とは、十六か十七才です。これはある意味で、重要な年かも知れません。子どもたちは初め、親の権限で教会に連れて来られますが、そのような中で子ども達は個人的に主と出会います。それが十六才、十七歳だと思います。私もそうでした。初めは変なところに生まれてしまったと思っていました。なぜならば、私の両親が伝道を始めた頃、新城はとても田舎で、キリスト教は珍しいと言われ、人々が、外国の宗教だと思っている時代であったからです。しかし、高校生の頃、個人的に神様を求めるようになりました。今日も、中高生の皆さん、個人的に主を求めるようになって下さい。個人的に主を求めるようになった時に、ヨシヤは神からの使命を受け取りました。

「第十二年に、ユダとエルサレムをきよめ始めた」とあります。ヨシヤは二十才位になったとき一つの仕事を始めたのです。

彼が王位に就いたとき、ユダとエルサレムは偶像で満ちていて大変な状況でした。偶像礼拝は国を滅ぼしてしまいます。

日本の歴史の中でも、明治維新から国家神道が起こり、日本の神は世界の神、と言って国民全体に偶像礼拝を広めました。しかしその結果は、敗戦で痛い目に遭い、国民の三百万人以上が亡くなり、アジア諸国に多大な迷惑をかけました。偶像礼拝は、国を滅ぼす中心です。それとともに、私たちの人生をも破壊されるのです。ヨシヤは、当時、国中にあった偶像を全て取り除きました。その時に、神の宮から律法の書・聖書を発見しました。それまで聖書があっても読まず、どこにあるかもわからないようになっていました。ヨシヤが聖書を読むと、「偶像礼拝をすると必ずさばきがある」と書かれていることに気づきました。それも、三代、四代も続く、のろいがあることを知りました。偶像礼拝は、自分だけに止まらずに、三代、四代とのろいが継続するのです。

ヨシヤの祖父マナセは、偶像を国に持ち込んだ人物でした。ヨシヤの時代になってユダは、神に立ち返りました。彼は、神様の前に出ました。「神様、今私たちの国はどのような状況にありますか。」と祈りました。その時、ひとりの女預言者が遣わされて、「あなたの国は今、恐ろしいさばきの寸前にある」と預言しました。マナセが持ち込んだ偶像礼拝の結果が、三代後のヨシヤの世代に襲いかかろうとしており、国が神の怒りで滅びる寸前でした。そのことを知った彼は、神を真剣に求めて祈りました。第二歴代誌三十四章二十七節に、

『あなたが、この場所とその住民についての神のことばを聞いたとき、あなたは心を痛め、神の前にへりくだり、わたしの前にへりくだって自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。・・主の御告げです・・』

と記されています。その結果、神が用意されていたさばきは起こりませんでした。ユダの国のさばきをとどめたのは、若者ヨシヤでした。

若い世代の人々が本気で、神を求め、主に立ち返り、ヨシヤのように神様と個人的な関係を結んで祈るとき、神がわざわいを止められるのです。

「この場所とその住民についての神の言葉を聞いた」とありますが、「場所」という意味は、「町、国、地方、家庭」という広い意味があります。若者たちが、「場所」に対する神の怒りの御言葉を聞き、神の前に出る時に、その国に用意されているわざわいや試練が過ぎ去ります。またあなたの家族の中にあるのろいも、消え去っていきます。思春期や青年期の方々は、神様を真剣に求めて日本にわざわいが来ないように祈らなければなりません。

先日、地震がありましたが、本当に怖いと思いました。阪神大震災を経験された方に、阪神大震災とどの位、感じが違うかを聞きました。すると、阪神大震災は、この間の地震の十倍位だと言われました。我が家は壊れると思いますし、建っている家のほうが少ないと思います。ある意味で、地震も罪の結果である、さばきの一つとして記されています。人々が悪いことばかりして、偶像礼拝や不品行、争いをしていると神の前にある罪の目盛りが増えていきます。ある時目盛りが、オーバーフローすると、何らかの災害や問題が起こり、その結果、人々が神に立ち返るようになります。

ドラッグストアーに行くと、ポイントがたまり景品に変えてくれます。ある意味で、罪の目盛りも、そのようなものかも知れません。悪のポイントがたまると、悪い景品に変えられるのです。罪を犯し続けてポイントがたまって、わざわいが起こります。しかし、これを止めるのが、クリスチャンの役目です。特に若者たちにその使命があると思います。

特に、青年期は一般的に、結婚の時期でもあります。この教会に、みこころの結婚がたくさん決まるよう祈って下さい。皆が幸せな結婚ができるよう祈って下さい。しかし、一般的に結婚についての良いことわざはありません。希望のない言葉が多いです。それらを紹介すると、「良い結婚はあるけれけども、楽しい結婚はめったにない。」「結婚は鳥かごのようなものだ。外にいる鳥たちは自ら入ろうとし、中にいる鳥たちは自ら出ようともがく」

ある時、結婚式があり、お母さんとちびちゃんが出席しました。ちびちゃんがお母さんに「お母さん、お母さん。なぜ花嫁さんは白い服を着るの?」と聞きました。するとお母さんは、「白い服は幸せのシンボルなの。今日は人生で一番幸せな日だから、白い服を着ているんだよ」と答えました。するとちびちゃんが、「でも、その横の人はなぜ、黒い服を着ているの?」と聞きました。これは新郎のことを言っています。

結婚には、あまり良いイメージがないようです。結婚はとても重要なことなので祈って下さい。神様は男性のために、助け手として女性を創られました。創世記二章二十節から二十五節に、

 

『こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。』

とあります。男性は土から造られました。しかし女性は、アダムのあばら骨から造られました。だから、人間はあばら骨に隙間があるのだと思います。未婚の男性の皆さん。あなたのあばら骨に隙間があったら、その隙間を埋める女性がいます。また、未婚の女性の方々に、あばら骨の隙間があったら、「私のために、男性のあばら骨はすでに取られている」と信じて下さい。神様は、あなたにひとりだけ、理想の人を造られているので、その人と出会うことができるように祈らなければなりません。神様のみこころの結婚が成されると、天国のようになります。しかし悪魔はみこころの結婚がなされないように働きます。

結婚してみてわかることは、付き合っていた頃とはだいぶ違うということです。男性と女性は、感情的に噛み合わないところがあります。私は家内と話しますが、家内が十語っても私は一位しか話さない時があります。すると、「あなたは、教会ではよく話すのに、家ではなぜ、そんなに話さないの?」と言われます。なかなか、コミュニケーションがうまくいかない時があります。

しかしそれは男と女の、創造の過程が違うからです。男性は無機質な土から造られました。体が出来たときに、息を吹き込んで生き物になりました。

しかし、女性は男という生き物を眠らせて、生きている細胞をとって造られました。遺伝学的にもそうだと思います。男性の遺伝子はxyです。女性の遺伝子は xxです。男性が先に出来なければ、遺伝学的にも女性はできません。女性は息づいて、命脈打っている生き物をもとにして造られたので、感情的なのです。創造の過程に違いがあることを互いに知り、男性があまり話さなくても多少は仕方がない、また、男性は女性が感情的であることも理解しなければなりません。

結婚がうまくいくと、神様の栄光があらわされます。うまくいくように祈って下さい。先日、沖縄に行きました。以前、ここに来られたエミ先生に出会いました。彼女は、小さな頃に神様の声を聞きました。「あなたは将来、日本に宣教に行く」

だから彼女は小さな頃から、日本を知りませんでしたが、プエルトリコという国で、「私は将来、日本に行きますので導いて下さい」と祈っていたそうです。高校を卒業して、すぐに日本に行こうと思ったら、牧師が、「大学に行ってから」と言われ、大学を卒業しら、「神学校に行ってから」と言われたそうです。

彼女は当時、ひとりの男性と付き合っていました。そしてその人と結婚して一緒に日本に行くと決めていたそうです。彼と一緒でなかったら、日本に行くことは考えられないと思っていました。やがて、すべてが整って、結婚して日本に行くと決まったときに、急に、結婚に対して不安になったそうです。「本当に、この男性と結婚することが、神様のみこころだろうか・・」と思ったそうです。それで、よく祈らなければならないと思ったそうです。

そして彼女は、この結婚が本当にみこころであるのかを、一週間、断食して祈ったそうです。真剣に祈った一週間後、ある集会に行ったそうです。その時のメッセンジャーは、八十才位のおじいさん牧師でした。すると、おじいさんに突然聖霊が降り、「この中で、結婚しようとしている女性がいるだろう。ここに出て来い!」と強い口調で語ったそうです。「私のことか・・」と思い、出て行ったそうです。すると、「あなたの婚約指輪をはずして、私の所に持って来い。」と言ったそうです。そして、「お前の相手は誰だ?」と言ったそうです。すると、その場に、彼も一緒に来ていたので前に出ました。すると、おじいさんはその男性に、「お前は悔い改めなさい。悔い改めなさい。悔い改めなさい。もし、悔い改めなかったら、この結婚はやめなさい」と言ったそうです。そして、「もしもお前が悔い改めなければ、お前の将来は、恐ろしくて見ることができない」と言ったそうです。とても驚いたそうです。そのおじいさん牧師は、何も知りませんでしたが、集会中にそのようなことがあったそうです。

後からわかったことは、あの国では習慣で多くの人が教会に来ていますが、実は、その男性には二面性があり、ホモで麻薬中毒者でした。それも、何の問題もないかのように、彼女と結婚しようとしていたのです。それが発覚して、結婚は中止となったのです。

「もしもあのとき彼と結婚していたら、私は今、ここにはいない」と言われました。そして、こう言われました。「先生、今回、本当に悲しいことがありました」

エミ先生は、この二、三ヶ月間、プエルトリコに帰国していたそうですが、その時、彼のことが大きく新聞に載ったそうです。それは、彼が死んだというニュースでした。彼はそれから罪を悔い改めず、マフィアのようになり、荒れた生活をしていたそうです。その時から教会を離れて、悪い生活をしていました。そして、今年死んだのです。

二十五年前に、老牧師に聖霊が降り、「悔い改めなさい。悔い改めなかったら、あなたの人生は悲惨で、見ることできない、と言われたことが今年、実現してしまった」と言われていました。

神様は気が長く、悪いことをしても、すぐにはさばかれません。しかし個人も家庭も、国でも、目盛りを超えて罪を重ねオーバーフローしてしまうと、さばきがあります。彼も、二十五年間、神様から悔い改めを迫まられていましたが、悔い改めませんでした。

エミ先生は、「あの時に私が断食して祈らずに、彼と結婚して日本に来ていたら、大変なことになっていた」と言われました。結婚はとても重要です。だからよく祈って、神のみこころを求めて下さい。エペソ五章三十一節から三十三節に、

『「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。』

とあります。キリストと教会が一つであるように、クリスチャン同士のみこころの結婚は素晴らしい奥義があることを教えています。

また「成人期」に、神のみこころがあります。ヘブル人への手紙十一章二十四節から二十六節に、 

『信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。』

「成人期」は、神のみこころを実行する期間です。色々と忙しい時期かも知れませんが、神のみこころをしっかりと求め、神のみこころの道を歩み、神のみこころが実現されるために祈る必要があります。

モーセは、「エジプトの宝に勝るものがあることに気がついた」とあります。やがて、私たちは天に帰りますが、人生は天に宝を積むときであると教えています。マタイ六章二十節に、

『自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。』

とあります。私たちは、この地上で熱心に祈り、賛美し、働くとき、それは、天に宝として積まれるのです。銀行の通帳に入金が記入されるように、神様は天の宝として記録して下さるのです。その宝を稼ぐ時期が、「成人期」です。モーセが成人期に、エジプトの王子として安逸をむさぼっていたならば、民を解放することはできませんでした。しかし、苦しみと共に、神のために働いたときに大きな報いがありました。皆さんもご自分が持っている仕事のただ中に、神のみこころの働きがあります。それを実行して下さい。特に、先週学んだように、「良きサマリヤ人」のように、「誰かのためにとりなして祈る」仕事が一番重要だと思います。誰かのとりなし手となって、苦しんでいる人、悲しんでいる人のために祈ること、また、多くの人に福音を伝えることは、成人期に任されている大きな役割だと思います。

続いて、「老年期」には、どのような役割があるのでしょうか。創世記二十四章一節に、

『アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。』

こんな老年期を迎えたいですね。老年期は、神の祝福の総決算が現される時であると教えられます。胎児期から始まった神に対する奉仕の配当が、老年期にあるのす。またヨシュア記十三章一節に、

『ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」』

とあります。「私はもう年をとって、何にも、やることはありません。ただ、お迎えが来るのを待っています」というのではいけません。あなたに、お迎えが来るのではなく、「あなたは年を取ったというかも知れないけれど、まだまだ、あきらめてはいけない。まだ、占領しなければならない所がたくさんある」と言われます。

老人になっても神様のみこころがあり、神はあなたに、占領して欲しいと願っておられる領域を持っておられます。地上の命が終わる瞬間まで、私たちを使って下さいます。今日、それぞれのライフ・ステージにおいて、神は目的を持っておられ、みこころをあらわそうとされています。

最後に、ヨエル書二章十六節に、

『民を集め、集会を召集せよ。老人たちを集め、幼子、乳飲み子も寄せ集めよ。花婿を寝室から、花嫁を自分の部屋から呼び出せ。』

とあります。これは礼拝のようなものです。赤ちゃんからお年寄りまで、教会には集まっています。何のために集まるのでしょうか。使徒の働き二章十七節に、

『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。』

ヨエル書の預言は、最終的には、聖霊を全ての人に注ぐということです。聖霊の注ぎは、胎児からお年寄りまでに注がれます。そして、そこには色々な役割があります。息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見ると、色々な領域で聖霊を注いで、私たちを用いようと願っておられます。エレミヤ書三十一章十三節に、

『そのとき、若い女は踊って楽しみ、若い男も年寄りも共に楽しむ。「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。』

とあります。聖霊を注いで、あかちゃんからお年寄りまで、豊かに用いようと願っておられます。聖霊が注がれると、皆が喜び踊ります。日本がそうなって欲しいです。あかちゃんからお年寄りまで、聖霊によって喜び楽しみ、誰もが、「私の人生は良いもので満たされていました」と言うことができるような国にしていただきたいと願います。それぞれのライフステージにおいて、自分の使命を果たすときに人生は良いもので満たされます。

それぞれの年代に、様々な役割があることを知って下さい。私たちに与えられている、使命をすべて果たすことができるように、お祈りしましょう。今の年代において、神様が願っておられることを、実現されますようにと祈りましょう。


[バックナンバー]