神には出来る

2004.10.10(SUN)
新城教会 滝元 順師

新約聖書 ルカの福音書18章27節
イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」

 ハレルヤ!今日このように、新城教会において礼拝が守れることを心から感謝します。昨日は台風来て、愛知県に直撃だと言われていたので祈っていました。直撃したら多くの人に危害が及ぶかも知れないので祈っていたのですが、進路から外れたので良かったと思いました。

 今日の御言葉は私たちに希望を与える言葉です。私たちには、できないことが多くありますが、「神にはできる」のです。その希望に根ざしましょう。

 ルカの十八章二十七節が賛美になっています。

 

♪♪人にはできないことが 神にはできるのです

人にはできないことが 神にはできるのです ルカ十八章二十七節♪♪

 

 これは、岩淵まことさんが作った歌だそうです。この御言葉を、自分に与えられた御言葉として受け取ってください。

 私はこの礼拝が終わってから、伊豆半島で二日間集会があり出かけますので、お祈り下さい。また木曜日から南西諸島に行って集会をします。始めに徳之島、奄美大島、そして、今栄先生が牧会されている、沖永良部島の教会に行きます。すべて、「沖縄スーパーミッション」の一環ですので、ぜひ、お祈り下さい。日本は多くの島々によって構成されています。小さな島々にも人々が住んでおり、教会があります。島々のリバイバルのために、祈っていきたいと思います。

 

 さて、「人にはできないことが、神にはできる」という御言葉を理解するためには、前後のストーリーと共に、イエス様がその御言葉を語られた経緯を理解しなければなりません。もちろん、一節をピックアップして自分の言葉とすることも、イエス様が語られた言葉なので素晴らしいですが、前後関係をよく知ると、「人にはできないことが神にはできる」という意味がよくわかってきます。

 ルカの十八章は、イエス様の所に子どもたちが集まってきたことが書かれています。十五節から十六節に、

 

『イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。』

 

 イエス様は子どもたちを大切に扱っておられます。子どもたちが連れてこられたときに、弟子たちは子どもたちを叱って、「あっちに行け!」と言いました。しかしイエス様は、「子どもたちを叱ってはいけない。わたしの所に連れてきなさい。子どもたちは神の国では重要だ」と言われました。今朝も、子どもたちが一緒に礼拝を守っていますが、子どもたちは神の国において重要な存在です。だから私たちは、子どもたちが支えられるように祈らなければなりません。

 先日、ある有名なアメリカ人説教者の集会に行くと、子どもがちょっと会場で騒いだら、「子どもたちを外に出せ!」と二度にわたって怒りました。それは神の御思いではありません。イエス様なら、絶対にそんなことを言われないはずです。

 イエス様は子どもたちが来るようにと言われました。イエス様は子どもたちを愛しておられ、「幼子たちのようになれ」と教えられました。

 すると、一人の役人がイエス様に質問しました。「イエス様。神の国に入るためにはどうしたら良いですか」ルカ十八章十八節から二十一節に、

 

『またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」』

 

 役人はイエス様に、「どうしたら永遠のいのちを受けることができるのでしょうか?」と質問しました。日本人はなかなか、このような質問をしません。「永遠のいのちを受け取るためにどうしたら良いか」という問いを持っていません。人間のいのちはこの地上だけで終わらず、永遠に続くものです。

 今日は、礼拝の前に納骨式をしました。クリスチャンには、骨の中に霊が宿るとは考えません。人間は死ぬと魂は神の元に行きます。そして肉体は、地上に残されます。天には魂が宿る体があって、そこに住まわしてくださいます。しかし地上の体は、地上で滅びます。「魂は助かるが、体は滅びる」というのでは、完全な救いではありません。聖書の救いは完全な救いです。一度失った肉体も、取り戻すことができるのです。やがてイエス様が帰って来られると、体も復活します。ちょうど、種を蒔くと、その種は腐ってなくなりますが、新しい実を結びます。同様に、私たちは朽ちる種で蒔かれますが、朽ちない体によみがえります。

 現代は、遺伝子工学が発展して、人間の細胞の中に遺伝子があり、設計図が組み込まれていることが分かっています。体をどのように作るかというプログラムが全て組み込まれており、胎内でそのプログラムが動き始め、その設計図に基づいて体は造られます。手を作ったり、足を作ったりと、各機能が一つ一つ作られるのです。

 先日、神学校が建ちましたが、あのような建物が建つことはあらかじめわかっていました。なぜならば、先に、設計図があったからです。数ヶ月後に、設計図と同じ建物ができると、はっきりわかっていました。建物ができてから、「こんなものができてしまった・・」ということはありませんでした。

 同様に、神は私たちの設計図を持っておられ、体を組み立ててくださいました。クリスチャンが遺骨を保管するのは、骨の中にはその人だけのオリジナルの設計図である遺伝子が残っているからです。やがてそこに神の力が注がれ、よみがえる日が来ます。神ははじめの設計図を基にして、更に新しい設計図を加え、朽ちない永遠のいのちへと、体がよみがえるのです。

 イエス様を信じると素晴らしいです。永遠のいのちが与えられ、体まで救われるのです。

 

 イエス様は、子どものような者が、神の国に入ることができると言われました。役人が、「どうしたら永遠のいのちを得て、神の国に入ることができるのか」と尋ねると、イエス様は、「律法を守るように」と告げられました。

 教会に来ると、規則のようなものが教えられます。それが律法です。これらを守ることは重要です。律法を守ることによって、神の道を歩むことができます。

 役人は、「私は子どもの頃から、律法をしっかりと守っている」と答えました。彼は、「あなたが言われたように、私は、子どもと同じ立場にあるから、当然、神の国に入ることができる」と思っていた事でしょう。しかしイエス様は、更に、このように語られました。ルカ十八章二十二節から二十五節に、

 

『イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」』

 

 この役人は「金持ち」でした。イエス様は、「あなたのすべての財産を売り払って、貧しい人に分けてから、わたしについて来なさい」と言われました。彼はそれを聞いて、すごくショックを受けました。なぜなら、彼にはたくさんの財産があったからです。すると、イエス様は、「裕福な者が神の国に入ることは何と難しいことでしょうか」と言われました。

 この御言葉を見ると、何か、財産があると天国に入れないのではないかと思います。この意味は、財産があると天国に行くことができないというのではなく、役人は、「自分は律法を守っているし、神の国に入るのにふさわしい者だ」と自負していたのです。自分の努力で、神の国に入ることができると思っていました。しかしイエス様は、「あなたはそう言うけれど、あなたが持っている財産を全部捨てることができますか」と言われました。

 ある意味で、子どもたちは何も持っておらず、素直に全てをさらけ出すことができる存在です。子どもたちに、「イエス様を信じますか」と聞いたら、何の疑問もなく「はい。信じます」と答えます。しかし、大人は、すべてを捨てることができません。イエス・キリストを信じるには、自分の立場や身分、財産などに縛られるのではなく、神の前に一人の罪人として、弱い者として出る必要があるのです。

 また、この世の富は、永遠のいのちに至らせるためには障害となるとも語られました。案外そのような面があると思います。この世の富だけを懸命に求めていると、心がおろそかになります。「心などは関係がない。金だ…」と言って、神様の事に関して無関心になってしまう人が多くいます。そのような意味で、イエス様は、「金持ちが神の国にはいるのは何と難しい・・」と言われたのだと思います。

 そして、「金持ちが神の国に入るより、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」と言われました。普通、らくだが針の穴を通ることなどはできません。そんなことを言われたら、「誰も救われることはできない」と思うでしょう。しかしここでイエス様は、

 

『「人にはできないことが、神にはできるのです。」』

 

と語られたのです。らくだが針の穴を通ることは絶対にできませんが、神には可能だと語られたのです。前後を通して読んでいくと、これは、「救い」というテーマで語られていることがわかります。

 続いて、盲人がイエス様に癒しを願っている箇所があります。ルカ十八章四十二節から四十三節に、

 

『イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。』

 

とあります。盲人の目が開かれることは、普通では絶対にあり得ないことです。奇跡です。これは正に、らくだが針の穴を通り抜けるような出来事です。そして、十九章にある「ザアカイの話し」に続きます。ここで、「人にはできないことが神にはできる」ということを説き明かしています。

 エリコという町にザアカイという男が住んでいました。彼は税務署の職員でした。当時の税務署の職員は、人々から税金を受けて、その一部を自分のポケットに入れていました。だから皆から嫌われていました。そんなザアカイの住んでる町に、イエス様が来られました。ザアカイはイエス様を一目見てみたいと願っていました。ザアカイはあまり背が高くなかったので、人垣に阻まれてイエス様を見ることができませんでした。それで走っていき、イチジク桑の木に登ってイエス様が来るのを待っていました。するとイエス様が歩いてきて、木の下に立ち止まってザアカイを見て、「ザアカイよ。降りてきなさい。今日わたしはあなたの家に泊まることにしているから。」と言われました。そして、イエス様はザアカイの家に泊まられ、彼はイエス様を信じました。十九章一節から二節に、

 

『それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。』

 

と記されています。ザアカイは役人と同じ、「金持ち」でした。そんな男が救われたのです。十九章九節に、

 

『イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」』

 

 十八章でイエス様は、「金持ちが神の国に入るのは難しい」と言われましたが、まだ舌が乾かないうちに、「金持ちのザアカイ」が救われました。ここで、「神にとって不可能はない」ということを教えています。

 それは、どのような環境の人でも救われることを意味しています。どのような身分であっても、神様はえこひいきなく、救ってくださるのです。神に不可能はないと教えています。

 私たちは色々な領域の救いを必要としていますが、神様は、すべての領域において救いを与えることができるお方です。

 聖書の「救い」という言葉の一般的概念は、「ソーテリア」という言葉で「身体の健康」という意味があります。神様は、私たちの健康を支えてくださるお方です。私たちは病の癒しを祈っていますが、今日、私たちは健康で教会に来ることができました。時々、私たちは病になってから、「神様。癒してください」と祈りますが、案外、健康体の時、神の癒しの力をいただいていることを忘れています。人の体は体温が〇.一度上がっても調子が狂います。

 私は熱を出すことはほとんどありませんが、三週間程前、浜北教会でリバイバルミッションの実行委員会がありました。その時、なぜかやる気が出ませんでした。「これは霊的な圧迫かなあ・・」とも思いましたが、ちょっと違うと思い、家に帰ってから体温を測ってみました。すると、三十八度三分ありました。「これでは、体がだるいわけだ・・」と思いました。今まで守られたことは感謝だと思いましたが、その晩、大好きな県民の森祈祷会にも行けませんでした。しかし、感謝な事に翌日は直っていました。人間の体は、少し狂っただけで、正常に歩むことはできません。私たちは病の時もありますが、人生全体を見ると、一般的には、健康で働ける日のほうが多いのです。神の癒しの力が私たちを覆っているのです。そのように健康を保つことができるお方は、病をも癒すことができるのです。

 続いて、救いとは、「一般的な安全、保証」という意味もあります。安全と保証のために保険に入らなければなりません。車に乗るときにも強制保険や任意保険があります。お金がかかります。車に乗るときに、十分間車を走らせるのに、いくらくらいのコストがかかっているのだろうと考えます。保険をかけなければ、不安で車にも乗ることができません。

 しかし最大の保険はイエス様です。イエス様は、私たちのすべてを守ってくださるお方です。さらに、救いという意味の中には、困難からの救出、敵からの救い、また、終末的な意味合いにおいて永遠の救いという意味を持っています。

 神の救いは、人生の全ての領域をカバーし、「神にとってできないことはない」と教えています。

 

 先週私たちは、「心の癒し」について、大きな視点で学びました。多くの人が将来に対して不安を持っており、心に傷を持っています。しかし神は、将来の不安に対しても救いを与えてくださるのです。詩篇六編一節から三節に、

 

『主よ。御怒りで私を責めないでください。激しい憤りで私を懲らしめないでください。主よ。私をあわれんでください。私は衰えております。主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。』

 

と記されています。ダビデ王は恐れおののいていました。なぜならば、いつ殺されるかわからないという不安があったからです。しかし神はダビデを助けました。

 先日、「不安」についての定義が書かれているのを読みました。不安とは、将来起こるであろう事柄を自ら推理し、ストーリーを作り上げ、そのストーリーに対する感動だと書かれていました。私たちの将来はわかりません。明日、明後日、また、十年後どうなっているのはかわかりません。私たちは将来について、今まで人生の中で受け取った情報でストーリーを作り上げます。「たぶんこうなるだろう・・、こうなっていくに違いない・・」とストーリーを作り、自らの作ったストーリーに、悪い意味で感動するのです。あなたの将来は、神が握っておられます。

 体に傷がつくと、放っておけば自然に治ります。しかし心の傷の癒しは、難いことがあります。しかし、「心の傷」とは、突き詰めれば、「記憶」です。かつて起こった「悪い記憶」が残っているために苦しむのです。心の傷のいやしとは、単に、記憶が消されたら良いのです。記憶喪失になれば、苦しむことはありません。心の傷の癒しとは、その記憶が消えることだと思います。

 私はコンピューターをよく使っていますが、放っておくと、コンピューターの中に、いらないファイルが多くたまってきます。それらが、大切な領域を圧迫し、必要なファイルを保存しようとするときに、「ディスクがいっぱいです」と表示されることがあります。中身を見ると、いらない情報が満ちているのです。その時には、いらないファイルを選択して消します。そうすると、領域が広がります。

 私たちもある意味で、コンピューターの記憶装置のようなものです。脳には記憶のメディアのようなものがあり、その中には「苦しいファイル」、「悲しいファイル」、「落ち込みのファイル」など、数々あります。時々そのファイルが開くので苦しみます。しかしそれがコンピューターのように消されたら、苦しみは無くなるはずです。イザヤ書四十三章二十五節に、

 

『わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。』

 

と記されています。「わたし」とは「神様」です。神様が、私たちの犯した罪を、「二度と思い出さない」と言われます。新約聖書のヘブル書の八章十二節にも、同じことが書かれています。

 

『なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」』

 

 神とは、「全知全能」のお方です。だから、物事を忘れない方であるはずです。私たちは忘れっぽいです。私も最近、少しずつ忘れっぽくなりましたので、忘れないように手段を講じています。予定がある時には、携帯電話のアラームをセットしておくようにしています。先週は神学校がありました。金曜日に私の授業がありましたが、いつもは朝九時から始まるのですが、金曜日は八時三十分から始まります。しかし私は時間が変更されているのを忘れていました。私の授業は二限目でしたが、ゆっくりしていると「お〜い、順先生!」と呼ぶのです。私は何の用かと思うと、「授業です!!」と言われました。私は急いで、何事もなかったかのように授業を始めました。しかし内心、ドキドキしていました。神様が私のように忘れっぽかったら困ります。

 「神様、このことをお願いします」とお願いしたら、「わかった。任せておけ!」と言われたとします。しばらく時間が経っても全く変わらないので、「神様、あの事はどうなりましたか?」と聞くと、「えーっと何だったけ?世界中から祈りが上がって来るからたいへんだ。最近は教会が祈りを強調するから困る。仕事が多すぎてわたしは忘れっぽい」と言われたら、もはや神ではありません。神は全てを知っておられるお方です。

 にも関わらず、ここでは、「あなたの罪を思い出さない」と言われるのです。神様の記憶喪失です。

 「お前が罪を犯したって?そんなことがあったのか…」と言われるのです。全知全能の神が忘れるとは、逆に言えば、「神には不可能がない」という言葉につながります。神は私たちの過去の、悲しいファイルや苦しいファイルなど、思い出したくないものを完全に消去できるのです。

 今朝、脳のメディアに、たくさんのいらないファイルが貯まっている方は、消して頂きましょう。神が人の罪の記憶ファイルを、自ら消すならば、人の中にある不要なファイルも消せないはずがありません。あなたの悪いメモリーを、完全に消してくださいます。それはあなたの癒しです。悪い記憶は、罪との関わりがあり、罪を犯すと思い出したくないファイルができてしまいます。しかし、神様が「思い出さない」と言われる時に、私たちの悪い思い出ファイルが、連動して削除されるのです。神にとって不可能はありません。完全な癒しをあなたに与えてくださいます。

 このように、「神にとって不可能はない」という御言葉は、私たちに大きな励ましを与えます。第一ペテロの五章七節から九節に、

 

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』

 

と記されています。時々私たちが、不安や試練に遭いますが、ここでは、試練と悪魔の力は関連性を持っていると教えています。「世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来た」と記されているのは、「あなたの知り合いが苦しんでいたのは、悪魔の攻撃によるものだ、悪魔に立ち向かわない結果が、あのような苦しみに繋がった。」と告げています。悪魔に立ち向かうようにと教えています。

 イエス様は、悪霊から人々を解放するために来られました。旧約聖書の中では一つも起きず、新約時代になって突如として現われた奇跡が、「悪霊からの解放」です。悪魔の力を旧約時代は打ち破ることができませんでした。勝利するためには、ただ、忠実に律法を守るしか方法がありませんでした。しかし人々は、律法を守ることができませんでした。ある意味において、その結果として、悪魔の餌食になったというのが旧約聖書の結論です。

 しかし、イエス様がこの地上に来られ、イエス様によって旧約時代の人々が打ち勝つことができなかった悪魔の力に勝利できるようになったのです。「神にとって不可能なことはない」とは、「悪魔の力に打ち勝つことができる」ということです。

 

 さて、先ほど、目の見えない人が見えるようになった奇跡について、ルカの福音書十八章四十七節に、

 

『イエスは彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。』

 

と記されています。私たちが、神の力を体験するために必要なことは、ただ一つ「信仰」です。信仰とは、信じることです。それは、努力ではありません。信じるとは、決断です。信じるか、信じないかです。信じるときに神のわざが起こされます。

 そもそも、永遠のいのちが与えられたのも、信じたときです。教会に来て、イエス様を信じようか信じまいか?と迷い、信じたときに救われました。信仰とは、信じることです。信じるとは、神の力に直結する唯一のコネクターかも知れません。私たちが信じるときに主のわざが現れます。

 

 しかし今の時代は、信じることが難しい時代です。なかなか信用できません。けれども、子どもたちは、良きにつけ、悪しきにつけ信じやすいです。しかし大人は疑います。それも必要ですが、肝心な時に信じることができないのです。

 キリスト教の歴史を見ると、単純に信じるべきであるのに、信じることから離れるように悪魔が策略と共に働いた経緯があります。初代のクリスチャンは純粋に信じていました。ですから、初代教会を見ると、色々な奇跡や神のわざが多く起こされました。しかし、悪魔は単純に信じないように教会に働きかけてきました。

 キリスト教はローマから、ヨーロッパ経由で西方面に廻って伝えられてきましたが、特にヨーロッパにおいて、十七世紀から十八世紀にかけて、単純に信じることを止めようという運動が起こりました。それは聖書の啓示を否定し、不思議や癒し、奇跡などを排除する運動でした。聖書をただ、理性で捕らえようという考えが広がったのです。この考えを「理神論」と言います。教会は理神論に毒されました。理性で判断ができない事柄は信じないようになりました。理神論者は、神は天地創造時には関わったが、それからは全て手を離したと言いました。そうしたら、神が人となって地上に来ることなどできません。

 今は科学の時代です。科学は普遍のように考えがちですが、科学の根元には理神論や合理主義が座っています。神を否定するところから、科学は出発しています。例えば、フラクンリンが雷は電気であると証明しました。昔、雷は神の怒りだと考えられていました。しかし彼は凧を揚げて、「雷は神ではない、電気だ」と証明したのです。

 同様に、全て神秘的な事柄は、理性に置き換えることが出来ると考えたのです。科学の発展と共に、理性によって全ては解明されると言いました。人間が理性と自己を高めていけば、やがて人は神になれることになります。そのような思想が生まれました。特に、キリスト教会の背後に、そのような考え方が働き、純粋に信じる信仰が除かれたのです。

 私たちはその束縛から解放され、純粋に信じなければなりません。神の奇跡を体験するためには、信仰を持たなければなりません。「神には何でもできる!」と、期待を持って信じる必要があります。科学が発達していますが、その背後に神を否定する力があるのです。私たちは、純粋に神を慕い求める者でありたいと願います。

 

 第二列王記六章二十四節から二十五節に、このような御言葉があります。それは、イスラエルがアラムの王ベン・ハダデに包囲され、絶体絶命の危機に遭遇したときのことです。

 

『そのころ、サマリヤには、ひどいききんがあった。そのうえ、彼らが包囲していたので、ろばの頭一つが銀八十シェケルで売られ、鳩の糞一カブの四分の一が銀五シェケルで売られるようになった。』

 

 イスラエルは敵に包囲され、同時に飢饉があり、食べるものが何もなくなってしまいました。ろばの頭、普通であれば捨てるようなものですが、それが銀八十シェケルで売られ、鳩の糞までも売られるようになりました。究極の危機状態でした。こんな所から救われるとは、誰も信じがたい状況でした。そんなときに預言者エリシャが遣わされ、神の言葉を語りました。七章一節に、

 

『エリシャは言った。「主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる。『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。」』

 

 この預言を聞いて、人々は「そんなことはまずないだろう」と疑ったことでしょう。特に王の侍従がこのように言いました。七章二節に、

 

『しかし、侍従で、王がその腕に寄りかかっていた者が、神の人に答えて言った。「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」そこで、彼は言った。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」』

 

とあります。この侍従は、信じることができませんでした。しかし第二列王記七章を読んでいくと、二十四時間後に何が起こったのかが記されています。サマリヤの門に、四人のらい病人がいました。「自分たちはらい病でいずれ死ぬ。このままならばどうせ助からない。そうならば、敵陣に行って命乞いをしてみよう」と出て行きました。

 出て行ってみると、敵はすべての持ち物を置いて逃走していました。そこには、多くの食べ物が山積みされていました。彼らは腹一杯食べました。やがて、敵がいなくなったことをサマリヤの町に知らました。

 神は、アラムの軍勢に戦車や馬の音を聞かせ、アラムの軍隊は驚き全てを置いて逃げたのです。

 エリシャが語ったことが翌日実現しました。七章十六節から十七節に、

 

『そこで、民は出て行き、アラムの陣営をかすめ奪ったので、主のことばのとおり、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られた。王は例の侍従、その腕に王が寄りかかっていた侍従を門の管理に当たらせたが、民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。王が神の人のところに下って行ったとき話した神の人のことばのとおりであった。』

 

 時々私たちは信じることができないゆえに、神の祝福を失っているのかも知れません。主は、「信じない者にならないで信じる者になりなさい」と言われます。マルタとマリヤの兄弟であるラザロが亡くなったとき、イエス様はラザロを生き返らすために出て行かれました。その時イエス様は、

 

『「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」』

 

と言われました。私たちは知らないうちに信じるという純粋さを失い、神様の力を体験できないようになっているのかも知れません。今日はもう一度信仰をかき立てていただきたい願います。そして「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」とあるように、信じる者に神は栄光を現してくださいます。クリスチャン生活はイエス様に信頼を置くことが重要だと教えられます。「神にとって不可能なことはない」という御言葉を握って、歩んでいきましょう。合理主義的な考え方の背後に潜んでいる悪魔の力が打ち破られ、純粋に祈る者になりましょう。

「私たちは教会を代表して、信じる信仰から引き離す力に立ち向かって祈ります。イエス様の名によって、教会の土台に潜む、信じる力を止める悪魔の力に立ち向かって祈ります。合理主義の根底にある、悪魔の力を断ち切ってください。幼子のように純粋に神を求めることができますように。今、信じる信仰を回復してください。今日からイエス様に対して、大きな期待を持つことができますように。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン」


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