神様から祝福を受ける秘訣

2004.10.17(SUN)
新城教会 上條 実師

旧約聖書 詩篇41篇1節〜3節
幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。
主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる。どうか彼を敵の意のままにさせないでください。
主は病の床で彼をささえられる。病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように。

 ハレルヤ!今日は皆さんの前で御言葉を語れることを感謝します。ご存知のように、教会主催の沖縄スーパーミッションが毎日行われています。今日は滝元順牧師は沖永良部島で、滝元明牧師と岡本信弘牧師が那覇市で奉仕しています。またロンブラウン氏が先週の金曜日からすでに沖縄に来て下さり、今日は浦添市で朝と夕にご奉仕くださいます。また夜は西原町と言うところでボランティアスタッフミーティングという集会が行われます。ぜひ全ての集会に勝利があるよう覚えてお祈りください。では今日は詩篇四十一篇一節から三節の御言葉を学びます。最近私がとても励まされた御言葉をともに学んでいきましょう。本日のメッセージは「神様から祝福を受ける秘訣」というタイトルで語らせていただきます。ハガイ書の一章五節から十節に、

『今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。――万軍の主の御告げ。――それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。それゆえ、天はあなたがたのために露を降らすことをやめ、地は産物を差し止めた。 』

と書かれています。神様から祝福をいただけると約束されていながらも、実際には多くの祝福を落としてしまっていないでしょうか。「穴のあいた袋に入れるだけだ」とあります。神様の祝福は聖書を読む時、一杯頂けると理解しています。しかしその祝福をなんと落としており、実際には手にしていないものが沢山あります。ではどうしたら神様から全ての祝福を手にすることができるのでしょうか。どうしてら祝福を落とすことなく頂くことができるでしょうか。ハガイ書の御言葉には、あなたがたがなぜ祝福をいただけないか現状をよく考えよという御言葉があります。ハガイ書一章九節に、

『あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。』

と書かれています。聖書はイエス様を中心に書かれています。私たちはイエス・キリストが私たちの罪のために死んでくださり、葬られ、三日目に甦られたことの故に救いを与えてくださいました。イエスキリストは私たちのために身代わりになってくださいました。人のために十字架にかかられました。自分のためではありません。

『あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。』

自分のために走り回っているから、祝福を頂けないのだとあります。自分のためにだけ祈り、求めていくと祝福を落としてしまうのだ聖書は言っています。私は聖書を読んで、意味がよくわからない時にリビングバイブルを読みます。初めに読んでいただいた詩篇四十一篇一節から三節をリビングバイブルで読んでみると

『貧しい者に親切な人は、神様から祝福を受けます。その人が困難に会うとき、神様は助けの手を差し伸べてくださいます。また無事に守って生かし、人前で面目を施させ、敵を蹴散らしてくださいます。病気になると、神様自身が看護にあたり、痛みをやわらげ、心配事を取り去ってくださるのです。』

とあります。こちらのほうが良く意味がわかると思います。

『貧しい者に親切な人は、神様から祝福を受けます。』

自分のことばかり祈り、自分のことばかり考え、自分のことばかり動いていると祝福を頂くことができず、貧しい者に親切な人、弱っている者に心を配る人は神様から祝福を受け取ることができると書いてあります。私たちはいつも助けを必要としています。人間関係の中で苦しみ、悪霊の束縛の中にある方もおられるかも知れません。また、困難や問題の中で苦しみ、心や体が病いの方もおられると思います。聖書は、

『貧しい者に親切な人は、神様から祝福を受けます。その人が困難に会うとき、神様は助けの手を差し伸べてくださいます。また無事に守って生かし、人前で面目を施させ、敵を蹴散らしてくださいます。病気になると、神様自身が看護にあたり、痛みをやわらげ、心配事を取り去ってくださるのです。』

と言っています。また

使徒の働き二十章三十五節には、

『このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」』

と記されています。『受けるよりも与える方が幸い』だと言うのです。ぜひこの御言葉を覚えてください。『弱い者を助けなければならないこと』『受けるよりも与える方が幸い』というのです。イエス様はあなたのために全てを捨てて、命をささげてくださいました。救いはイエスキリストの犠牲によって成就しました。私たちはイエスキリストに似たものとならなくてはいけません。救われたものとして今度は、イエスキリストによって『弱い者を助けなければならないこと』『受けるよりも与える方が幸い』です。与える人生を送らなくてはいけません。しかし、ハガイ書九章にあるように、自分の家のためにだけ走り、着物を着ても暖かくなく、儲けたと思っても穴の開いた袋のようなものです。一生懸命祈っても、祝福を落としてしまっています。ヤコブ二章八節から九節に、

『 もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。』

とあります。私たちは愛してくださる人を愛することはできます。お世話になっている人には愛を返します。しかしその人にメリットがないと考えると、えこひいきをしてしまい、愛さないのです。ピリピ二章三節から四節に、

『何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。』

とあります。しかしえこひいきするのではなく、「人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」と書かれています。全ての人をあなたよりも上の人とし、すべての人を愛し、助け、祈っていくようにと御言葉を通して神様が教えています。ピリピ二章四節に、

『自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。』

と記されています。当然自分のことも祈ることは良いですが、自分のこと以上に他の人に対してもっと考え、愛していかなくてはなりません。小さな子どものようにお菓子があると全部自分のものにしようとかき集めてしまいます。「他の人のことも顧みなさい」とあるように、全ての人を、自分よりも優れた人と考え、愛していきましょう。

詩篇十五篇三節に、

『その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行わず、隣人への非難を口にしない。』

ローマ書十五章一節から二節に、

『私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。』

と記されています。初めは愛し合っていたのにも関わらず、愛が冷え、さばき会い、非難を口にし、悪を行ってしまいます。今日人たちの弱さをにない、その人のために祈り、愛の行いを行っていくものに変えていただきましょう。レビ記十九章十六節に、

『人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない。あなたの隣人の血を流そうとしてはならない。わたしは【主】である。』

とあります。人に対して憎しみがあったら、心から悔い改め、その人を赦し、愛することができるように祈りましょう。憎しみがあったら、絶対に祝福をいただくことができません。すべての人を愛しましょう。絶対に赦せない、赦すことができないと思っている人がいながら「神様。祝福をください」と祝福を求めても与えられることはありません。「弱っている者に心を配る人、貧しい者に親切な人は祝福を受ける」と聖書は教えています。まずあなたの心の中で「赦せない人」に対して神様の前に悔い改めて、解放される必要があります。赦す事ができるように祈ってください。悪魔の力から解放され、憎しみから解放されるように祈りましょう。どんなに今日憎しみや嫌な思い、またあなたを低く評価している人に対しても自分自身のように愛する。自分よりも勝っていると思う。その人の祝福を願い、愛し始めていくときに、その人ともにあなたにも祝福があることを信じてください。今日「この人は嫌だ」と思う人がいたら、その人のために祝福を祈ってください。「赦し」を宣言してください。生肉や魚が時が経つと腐ってくるのと同じように、怒りも同様に、時が経つと腐ってきて、これが「憎しみ」に変わります。腐ると蝿がたかるのと同じように、悪魔が進入します。私たちは憎しみから解放されなくてはいけません。憎しみは最終的に「霊的問題」となり、憎しみに束縛され苦しめられるのです。しかし、イエス様の十字架によって取り除くことができます。今日、もしも、赦すことができない人がいたら、イエス様が私たちを赦してくださった事を覚えて祈ってください。そうしたら神様はあなたに祝福をくださいます。
 また私たちは自分にとって関係ない人は風景のように考えしまうと以前メッセージで聞いたことがあります。私たちは全く関係ない方人のために、知らない人のために祈ることは殆どしません。しかし「弱っている人に心を配る人は幸い」また、「貧しい者に心を配る人は祝福を受ける」とありますが、全ての人のために祈ることができたらすばらしいことです。今まであなたが祈っている方々よりも、もっと範囲を広くして祈り始めるならば、あなたに更に祝福を頂くことができます。今まではどこかでかけて行く時、行った場所や通った途中の地域のために、すれ違った見ず知らずの人のために。あなたが思いだした人や地域、国のために。テレビや新聞等で見たニュースや記事など、今まで風景のようになっていた祈ったことのない方や地域のために祈ってみてください。聖書は、「絶えず祈りなさい」とあります。神様は時にかなって美しいことをする神です。あなたが見たり、思い出したり、聞いたりする人のために、あなたが意識し始めて祈り始めるなら、多くの人々に祝福が与えられると同時にあなたは祝福されます。私たちは色々な角度から見た祈りをすることが大切です。今朝私はテレビを見ていました。その時先週一週間に起きた事件について放送されていました。先週一週間の中で、私が気になり祈った事件は、ネットで知り合った七人の方が、一台の車に乗り込み自殺をしてしまったという事件がありました。普段ならなんとバカなことをしたんだろうと考えて、終わってしまっています。しかし「受けるより与える方が幸い」と教えられていましたので、真剣に祈りました。私たちが見るにも時があります。時があります。あなたが祈る必要であるからこそ、見せてくださったのです。ですから私たちはもっと時を大切にし、祈り、心を配る者となりたいものです。インターネットを通して七人もの人が集まって自殺した。その事を思うと「インターネットに働く悪しき業を打ち砕くことができるように」と祈りました。また更に祈ることができると考えました。七人の中には三十三才の主婦もいました。お子さんがいて「お母さんが先に死ぬことを赦して」と遺書を書いてあったと報道されていました。その子どもさんやご主人のことを考える時、その家族のために祈らなくてはと教えられました。家族のことを考えると心が痛みます。また二十才前後の若者が命を落としました。その親のことを考えると、育ててきた子どもが自分からいのちを失った事を考えると、自分も同じ年頃の子どもをがいますので、自分がそのようになったらいても立ってもおれないと思います。家族、親族のために祈らなくてはと、本当に思いました。テレビでワイドショーを見たりしても、祈りの課題がたくさんあります。歌番組を聞いて、歌がうまいだ、曲がどうだと話します。でもなかなか歌ったり、演奏している人のために祈ったりしていません。風景で終わらないで、祈りを今週は広げましょう。今日礼拝から帰る途中、出会う人のために祈りましょう。通る地域のために祈りましょう。短くても結構ですから祈り始めてください。受けるよりも与える方が幸いです。二十四時間与えられている中で人々のために時間を費やして祈り始めたら、あなたは祝福を受けます。と同時に地域や日本が、人々が救われ、変えられていくことを覚えて下さい。特別今週は沖縄スーパーミッションのためにお祈り下さい。あなたが祈り始めたときに、祝福が始まります。あなたが知らない教会のために祈り始める時、その教会が祝福されると同時に、あなたも祝福されます。自分のことばかりではなく、人のために、愛をもって祈り始めて下さい。

『貧しい者に親切な人は、神様から祝福を受けます。その人が困難に会うとき、神様は助けの手を差し伸べてくださいます。また無事に守って生かし、人前で面目を施させ、敵を蹴散らしてくださいます。』

人のために祈って下さい。そうすればあなたが困難に遭うときにも、神が助けの手を差し伸ばしてくださいます。また人間関係で苦しんでいる方、人のためにお祈りください。人前で面目を施させとあります。人間関係も良くなるということです。そして暗闇の力、悪魔との戦いがあっても、あなたが人のために祈り始めるときに、敵を蹴散らしてくださる教えています。

『病気になると、神様自身が看護にあたり、痛みをやわらげ、心配事を取り去ってくださるのです。』

最高のドクターである神様があなたを看護し、痛みをやわらげさせ、心配事を取り去ってくださいます。肉体だけではなく、心も神様が看護してくださり、痛みを和らげ、心配事を癒してくださる神様です。今あなたは祝福を頂いていますか?袋に大きな穴があいていませんか?信仰を頂いていますか?不信仰な自分を見る時、悪魔は私を訴え、罪を責めて来たり、愛されていないぞとか、神は生きていないと訴えてきます。今日今までの祈りを変えてください。「受けるより与える」祈りです。また憎しみがあったら、心から赦し、その人の祝福を祈り始めてください。イエス様と私たちとの関係はたとえると親子の関係です。子どもが何回もこれを買ってと言ったら、すでに親はわかっています。しかし今は必要ではないと思うので与えないだけであす。子どもの方は「すぐにかなえてくれない」と怒ります。しかし親の方ではわかっています。神様も同じです。あなたの全ての必要は既にご存知です。ですから隣人のために祈り始めて下さい。自分の周りの人のために、またまったく無関係の人のために祈り始めてください。その時大きな勝利があり、あなたに素晴らしい祝福を与えてくださいます。人のためにいのちを捨てて下さった神様が、あなたに祝福を更に与えてくださいます。人のために祈り、生きる人生を始めていくならば、恵みを与えて下さり、他の聖書箇所では、「恵みがあなたを追ってくるでしょう」と言っています。お祈りします。


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