泥棒にご用心

2004.10.24(SUN)
新城教会 滝元 順師

新約聖書 ヨハネの福音書10章1節〜10節
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

 ハレルヤ!久しぶりに新城教会で奉仕ができることを心から感謝します。昨日は奥野祐基兄と清美姉の結婚式が行われました。素晴らしい祝福の時でした。しかし、そんなお祝いムードもつかの間、新潟で大きな地震があり驚きました。新潟全体が大きなダメージを受け、当教会のスタッフとして働かれている日吉実枝子さんの教会も、大きな被害があり、外壁が割れてしまっているそうです。ぜひ、お祈り下さい。状況などがわかったら、支援について考えていきたいと思います。新潟の地域のために祈ってください。神戸の地震の時にも色々な働きをさせていただきましたが、被災した方々のために働かせていただくことも考えていますのでぜひ祈って下さい。

「主の日は盗人のようにやってくる」とありますが、人生に何事が起こるかわかりません。先週は大きな台風が来てあり、日本はねらい打ちされているかのようだと報道されていました。明日は我が身かも知れないので、私たちは常に主と歩むことが大切だと思います。

 新城市の近辺は地震が起きたら危険な地域だと言われています。地震が起こらないように祈らなければなりません。神様は祈りに答えて下さる方ですので、祈るところに神の守りがあると信じます。

 さて、今朝は「泥棒にご用心」というタイトルでお話しします。この頃は多くの犯罪が起こっています。私の小さな頃は、トイレ以外は鍵をかけるものではないと思っていました。どこでも開いていました。しかし、今は鍵をかけなければなりません。多くの泥棒たちが、隙あらばと家々を狙っています。犯罪からも守られるように祈らなければなりません。

何年か前に、朝教会に来ると、自動販売機がこじ開けられて小銭が取られていました。しかし泥棒は、現実の世界だけではなく、目に見えない世界にも存在します。

 聖書を読むと、そもそも、人生は神が造られた「良い作品」だというのが前提です。エペソ二章十節に、

『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』

と記されています。人生は神によって創造されており、単に物体だけではなく、人生の中身まで創造して下さったと教えています。それは悪いものではなく、良いものであると教えています。今日ここにおられる、お一人一人は、良い存在なのです。

 私たちの周りには製品が溢れていますが、作品とは作者が心を込めて丹念に作り上げられたものです。

 先週は大きな台風が来て驚きました。家が壊れないかと心配して祈っていました。新城でも大雨や大風がありました。そんな中で火事がありました。あれだけ水があったら火が出るわけがないと思いますが、漏電して火事になったのです。電気関係に水がかかって火花が散って爆発したようです。電気関係には気をつけなければなりません。コンピューターもつけっぱなしは危険です。テレビも冷蔵庫も、何もかもが今は電気ですので、気をつけなければなりません。昔この会堂が建つ前に、新城の南部にある桜淵のレストハウスで礼拝をしていたことがありましたが、それが燃えてしまったそうです。聞いてみると、折しもそこでは絵画の作品展が開催されており、作者の思い入れのある作品が全て灰になってしまったそうです。この教会に来られている方の作品も燃えてしまいました。作品が壊れるのと、製品が壊れるとでは全く意味が違います。神様は私たちを作品として創られましたから、思い入れがあります。今日ここにおられる一人一人には、神様の大きな思い入れがあり、関心を持たれています。製品が壊れるとすぐに取り替えることができます。神様は、私たちを作品として造られ、私たちに関心がある方です。あなたの人生に、「良い行い」が用意されています。

  教会に来ると私たちは「福音」を聞きます。福音とは「良い知らせ」という意味です。教会で聞くニュースは「良い知らせ」です。日頃私たちが聞くニュースは、良い知らせが少ないです。「ニュース」と聞くと、「悪い知らせ」と思います。悪い知らせというイメージがあります。しかし教会で聞く知らせは、「良い知らせ」です。いつも悪い知らせの中に生きていると、心が重くなりますが、教会に来て良い知らせを聞いてお帰り下さい。

 エペソ一章四節に、

『すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。』

 神は全宇宙を造り、地球を造ってから、「青い地球が出来てしまった。何のために使おうか」と考え、人間を作ったのではありません。初めに人間を作ることを前提にして、宇宙を作り、また地球を造られました。ですから人間は偶然に発生したのではありません。私たちの人生には計画があります。神様は深い計画を一人一人に持っておられます。

 しかし、「良いものを失っているのではないか・・」と思うことがよくあります。なぜ空っぽなのだろうか。なぜ、良いものがないのだろうかと思います。その原因について聖書は教えています。それは、「人生には盗人がいる」と言うことです。それも、目に見えない領域で、神が造られた良きものを奪い去ろうと常に働いている泥棒がいるのです。ゆえに、「ご注意下さい」というのがメッセージです。ヨハネ十章八節から十節に、

『わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』

 聖書は神様を「羊飼い」、人間を「羊」とたとえて記している箇所があります。ここでイエス様が語られていることは、イエス様が羊飼いであり、また、同時に羊の住みかの「門」のような方であると教えています。

『わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』

ここに羊と羊飼い、羊と門という二つの対比があります。イエス様がこの地上に来たのは、私たち羊がいのちを豊かに持つためだと教えています。

 イエス様に出会うと人生が回復します。しかしイエス・キリストを知らない人生は、泥棒が入り放題で、泥棒達は、「盗んだり、殺したり、殺したり」という働きをするとあります。

この箇所において、盗人とは、救いの道を提供するふりをして、暗闇に引き込んでいく社会的指導者をさしています。それは律法学者やパリサイ人という当時の「宗教家」たちでした。ユダヤ教に属する宗教家達は、口ではうまいことを言って、いのちがあるかのように見せかけていましたが、実は、人々から良きものを盗んだり、殺したり、滅ぼしたりしていたのです。

 ある意味で日本も同じです。日本には八百万の神々がいると言われています。鰯の頭を拝むような国民です。多くの人が宗教に救われることを願って関わります。しかし、社会的な現象の中で、人々は経験的に知っていますが、危ない宗教がたくさんあります。救いの道だと思って入信し、どうにもならない人生になった人が大勢います。オウム真理教というのがありますが、人々は「真理」という言葉を聞いて近づきました。しかしそれは真理ではなく破滅でした。大きな事件を巻き起こし、人々は今でも苦しめられています。

 私は以前、オウム真理教の裁判に行ったことがあります。しかし裁判を見ていて腹が立ちました。彼らは、反社会的行動を起こして裁かれていました。しかし、注意されても、横を向いていました。私の傍聴した裁判の判決は執行猶予で、その場所で解放されました。するとすぐに組織の人々が来て彼らを連れ去って行きました。私は彼らを追っていき、何とか話しをしようと近づきました。彼らはそれが救いの道だと信じていて、破滅の道であることには気づきません。

イエス様の時代にも宗教がありました。皆、その宗教が真理の道だと思ってのめり込みました。しかしイエス様は、それは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけだと語られました。この「盗人」とは、単に団体や人物だけを指すのではなく、更に意味があります。ヨハネの福音書八章四十四節に、

『あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。』

とあります。パリサイ人達は偽りを語っていました。この偽りとは、偽りの父・悪魔から出ているとイエス様は言われました。

 教会に来て気づくことは、この世界には悪魔とその一味・悪霊がいることです。悪魔とその一味が、私たちに近づき、神が用意された良いものを盗み、奪っていくのです。そのような盗人に注意しなければなりません。

 どうすれば注意することができるのでしょうか。それは御言葉にあるように、イエス様が門であり、イエス様の囲いの中に入ることです。そうしたら、あなたはいのちを得ることができると教えています。泥棒に侵入されないためには、セキュリティーを強化しなければなりません。鍵をかけずにいてはいけません。しっかりと鍵をかけなければなりません。同様に、人生を盗まれないためには、セキュリティーを確保しなければなりません。そのためには、「イエス・キリスト」という方を門とした囲いに入ることです。

 羊飼いと羊という対比で記されている有名な箇所があります。それは詩篇二十三篇です。

『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちと杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。』 

この御言葉は賛美にもなっています。

1)主は我が牧者乏しいきことなし 緑の牧場に伏す我ら

我が魂は御名のゆえにより 正しき道を歩む

 *我が主イエスよ 我が主イエスよ イエスは共にいます

  我が主イエスよ 我が主イエスよ イエスは共にいます

2)たとえ私は死と陰の谷を 行くとも恐れんわざわい

  主は共にいます 鞭と杖を持て私を強めなぐさむ

 

3)主は我が頭に油注がれる 私の杯あふるる  

恵み慈しみ我にともなわん 永久に主の宮に住まう

 イエス様が私たちとともにおられたら、守られると教えています。「乏しいことがない」と書かれていますが、これは、「不足しているものは何もない、これ以上要求したいものはない」という意味です。私たちは、常に乏しさを感じながら生活しています。しかし主が牧者ならば、乏しいことは何もないのです。私は牧師という名前で呼ばれますが、牧師という呼び名はあまり好きではありません。なぜならば、イエス様が牧者だからです。イエス様が牧者ならば、乏しいことはありません。人が牧者のような振りをすると、乏しいことがあります。牧者はイエス様です。イエス様が私たちを導かれるならば、不足するものは何もありません。私たちを緑の牧場に伏させて下さると教えています。

 羊は案外神経質な動物で、条件が整わないと伏さないそうです。リラックスしているときには伏しています。恐れや、仲間との緊張状態、ハエや蚊が舞っている中では伏すことができません。また、お腹が空いている時にも伏しません。「緑の牧場に伏させ」という言葉は、敵から守られてリラックスしている状態です。イエス様が私たちと共におられるならば、牧場に伏しているのと同じ状態で守って下さるのです。今日、心が乱れていると言われる方、恐れがある方は、イエス様を門とする垣根の中に入って下さい。それはこの地上においては「教会」を意味します。イエス様が門であり、囲いがあるところは教会です。教会に来ると不思議と安らぎが来ます。そして、「憩いの水のほとりに伴われる」と教えています。

苦しみには色々種類がありますが、のどが渇くこと程苦しいことはないそうです。今までに大きな手術を経験された方がおられると思います。手術後は水を飲むことができません。水が飲めないことが一番苦しいと言われます。

 私は小学校一年生の朝礼の時に、のどが渇いて水が飲みたいと思ったことを覚えています。朝礼が終わって、すぐに水道にかぶりついて水を飲んだ記憶があります。渇くことは辛いです。イエス様は十字架にかかられ、「わたしは渇く」と言われました。現実的にもイエス様は渇かれましたが、良きものを全部盗まれて渇いている人間の身代わりとなられた叫びでもありました。イエス様の所に行くならば、決して渇くことがありません。次に、

『主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。』

とあります。羊は案外頑固なところがあるそうです。一つのパターンができると、そこから外れることができないそうです。一つの道を歩み始めると、土が掘れてしまう程、同じ所ばかり廻る動物だそうです。

 ある意味で人間も、一つのパターンにはまると、なかなか崩すことができません。良いとわかっていても、なかなかパターンを崩すことができません。しかし羊飼いの役目は、パターンにはまっている羊を解き、食糧のある場所にまで引っ張っていく役目です。時々、人生の中であるパターンにはまって抜け出ることができなくなり、苦しめられることがありますが、イエス様は、そこから救出して下さるのです。イエス様はあなたを新しい義の道に導いて下さいます。

 続いて「たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません」とありますが、人生の中で、死の陰の谷という恐ろしい領域を歩まなければならないときがあります。しかし、「私はわざわいを恐れない」とあります。大きな地震について聞くと、次は我が身かと恐れがあります。時々、浜松に行きますが、浜松に住んでいなくて良かったと思います。シミュレーションによると、津波で街が飲み込まれてしまうと言われます。しかし、新城市はもっと悪いです。地盤の下に大きな空洞があると言われます。地震で揺さぶられると、街が穴に落ちてしまうような現象になるそうです。

 しかし、たとえ、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れませんとあります。周りに色々な事件があっても、神にお任せすることが大切です。ある人は事件を見て暗くなり、「今度は私かも知れない・・」と考えてしまいます。しかし、イエス様という枠組みの中にあるならば、決して、わざわいを恐れないとありますので、イエス様に信頼しましょう。必ず主が守って下さると信じましょう。主は私たちを守り、また新城市を守り、愛知県を守り、日本を守って下さいます。日本がイエス様という囲いの中に入るように祈りましょう。

『あなたのむちと杖、それが私の慰めです。』

と記されています。この言葉は、鞭で叩かれるようなイメージがありますが、そうではありません。英語の訳では、「守り」と訳されています。鞭と杖が守りであると書かれています。羊飼いは鞭と杖で羊を叩くのではありません。敵を叩くのです。

 私は十年程前に、ケニヤに行ったことがあります。ケニヤにはマサイ族がいます。彼らは赤い布にくるまっており、手にはいつも棒を持っています。プロポーズにはジャンプをします。そして、高くジャンプできる男性は、好きな女性と結婚できるそうです。彼らはいつも棒を持っています。現代社会になっても、棒を持っていないと落ち着かないらしいのです。アフリカは、コブラなど害を与える動物が多くいるので、棒で叩いてやっつけます。彼らはその達人で、棒でライオンもやっつけることができるそうです。

 イエス様は敵をやっつける達人です。あなたのために、鞭と杖を持って敵の手からあなたを救いだし、守って下さると教えています。強盗が近づかないように守って下さっています。

『私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。』

とあります。

 イエス様を信じても、抱えている問題がなかなか解決しない時もあります。祈って即、答えられるときもあれば、答えられないときもあります。するとストレスを感じます。「なぜ、この問題は解決しないのだろうか・・・」とストレスを感じます。しかしイエス様の守りや祝福には、『私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。』という領域があるのです。

 人生の中で、なかなか敵が去っていかないようなときがあるかも知れません。しかし、神の守りとは、敵を全滅させて無風状態にしてあなたを守ると言うよりも、敵の面前であなたに食事を整え、敵の面前であなたに油を注いで下さるというのです。油とは、王様が選ばれるときに用いる特殊な油です。油そそぎとは、権威付けでした。神の守りとは、敵を全滅させて「何もいないから、安心して歩いていきなさい」と言う領域もありますが、それよりも、「敵の面前で食事を整え、頭に油を注ぐ」というものです。

 時々私たちに盗人が近づいてきますが、敵の面前で食事が整えられ、敵に対する権威の油を注いで下さるというのです。詩篇一〇五篇八節から十五節に、

『主は、ご自分の契約をとこしえに覚えておられる。お命じになったみことばは千代にも及ぶ。その契約はアブラハムと結んだもの、イサクへの誓い。主はヤコブのためにそれをおきてとして立て、イスラエルに対する永遠の契約とされた。そのとき主は仰せられた。「わたしはあなたがたの相続地としてあなたに、カナンの地を与える。」そのころ彼らの数は少なかった。まことにわずかで、そのうえそこでは、寄留の他国人であった。彼らは、国から国へ、一つの王国から他の民へと渡り歩いた。しかし主は、だれにも彼らをしいたげさせず、かえって、彼らのために王たちを責められた。わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」』

イスラエル民族は小さな存在でした。彼らはエジプトの奴隷から解放されました。大勢の人が解放されましたが、諸国全体から見たら少数で、力のない、いつ滅ぼされても仕方のないような人たちでした。しかし神様は契約を覚えておられました。かつてアブラハムと、「あなたの子孫は砂のように多くなる」と約束されていましたが、どんなに時代が変わっても、約束を忘れておられませんでした。吹けば飛ぶような少数民族のイスラエルの民を、敵の面前で食事を整え、油を注ぎ、決して敵の餌食とはなさいませんでした。

 日本のクリスチャンはマイノリティーであり少数ですが、「大丈夫だろうか・・」と心配します。しかし、心配することはありません。イスラエル民族は少数でしたが、守られたのです。

『彼らは、国から国へ、一つの王国から他の民へと渡り歩いた。しかし主は、だれにも彼らをしいたげさせず、かえって、彼らのために王たちを責められた。「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」』

とあります。私たちは、霊的にイスラエルと同じです。神は私たちを守られ、強盗が近づくことのないように、宣言して下さいます。イエス・キリストを信じるものが小さく見えても、主はこのように語られます。「わたしの油注がれた者に触れるな。わたしの預言者たち(主を信じる者)に危害を加えるな」と敵に向かい声を発して下さいます。そして、敵に一度奪われたものを取り戻して下さるお方です。人間は過去を取り戻すことはできません。しかし、神は過去・現在・未来を現在形でもっておられます。過去を取り戻して下さるお方です。

『まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。』

とありますが、幸せが追って来るというのです。多くの人が、のろいに追われているような人生かも知れませんが、イエス様を信じたら祝福が追ってくるというのです。

 先週の日曜日、私は、沖永良部島で礼拝を守りました。そこでは、この教会で三年程共に礼拝をし神学校を出られた、今栄先生一家が伝道しています。沖永良部島は鹿児島と沖縄の間にある、沖縄よりの島です。飛行場は茶臼山駅のように小さいです。彼が沖永良部に伝道に行き五年程経ちました。今年は素晴らしい会堂が建ちました。先週は献堂式が行われ、私がメッセージをしました。正装した男性たちが多く来られました。

 四年程前にも私は沖永良部に行きました。その時、「訪問伝道をして下さい」とお願いされました。しかし、「覚悟して行ってください」と言われました。何を覚悟するのだろうかと思いました。すると、訪問する男性は五年間引きこもっており、ほとんど風呂に入っておらず、この八ヶ月間、沖永良部の熱い夏を超えて風呂に入っていないので、覚悟して会って欲しいと言われました。彼は引きこもっているから、出てこないのではと思いました。するとちょうどトイレに行こうとしている所でしたので、捕まえました。すごい体臭が漂っていました。手を置いて祈ろうとも思いましたが、手がくっついて離れなくなるのではないだろうかと思うほどでした。服の色も変色していました。

彼の話しをよく聞くと、東京のある有名大学を出てから、引きこもったと話しました。初めは臭いが気になっていましたが、段々この方が救われて欲しいという思いが与えられました。彼はイエス様を信じる決意をしました。最後には一緒に祈りました。私も彼に手を置いて祈りました。私はそれっきりでしたが、今栄先生は、彼の解放のために真剣に働かれました。毎日、芳香剤を持って伝道に行き、周囲を祈っては伝道しました。そうしている内に、彼は引きこもりから解放されたのです。

 今回彼のことが気がかりでした。聞いてみると、彼は普通に生活できるようになったと言われました。風呂にも入るようになり、今は鹿児島に住んで仕事をされていると言われました。私が帰るときに空港に行くと、一人の女性がおられました。その人の妹さんでした。彼について聞きましたが、元気でやっていると言われました。

 主は私たちの牧者です。イエス様の中にある時に人生は回復します。そしてあなたの人生をとこしえまでも守ると聖書は教えています。

『まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。』

 今日、全員が門から囲いに入り、幸せな人生を送っていただくことを願っています。人生が盗人に取られることがないように、守られるように祈りたいと思います。


[バックナンバー]