準備をしなさい

2004.10.31(SUN)
新城教会 岡本信弘師

旧約聖書 創世記 22章14節
そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある」と言い伝えられている。

 ハレルヤ!主の御名を賛美します。皆さんのお祈りに支えられていつも守られていることを感謝します。先々週は沖縄、そして先週はアメリカに行っていましたので、三週間ぶりに皆さんと共に主を礼拝できることを感謝します。昨日夜、アメリカから帰ってきたので皆さんから「時差ぼけは大丈夫ですか?」と聞かれましたが、あまり感じません。シカゴとは十三時間程違いますが、夜日本に帰って来て眠れないこともなく、朝はとてもさわやかに起きることができ、主の奉仕ができることを感謝します。
 今日は「準備をしなさい」というタイトルで学びます。
 私たちは何をするにも色々な準備をします。子どもたちが遠足に行くときには、前々からお菓子の準備をし、着る物を準備します。また家を建てるときには、予算を立て、色々なプランを用意して設計図を書いたり、書類を整えて家を建てなければなりません。今日家を建てましょうといってすぐに建てられるわけではありません。十分な時間をとらずに実行したら、自分が理想としている良い家を建てることができません。結婚にしても、新しい事業を興すにしても、よく準備をして備えなければなりません。同様に、私たちのクリスチャン生活もしっかりとした準備をしなければ、いざというときに神様の前に役に立たない者になってしまいます。
 私が沖縄に行っているときに、新城教会では運動会がありました。私は運動会が好きで、毎年楽しみにしているので、今年は出られなくて残念でした。教会では、私が運動神経がいいと思っている方がいらっしゃって、よく「子どもの頃から走るのが早かったんですか?」と聞かれます。しかし、私も私の兄弟もみな走るのが遅く、徒競走で六人が走ると、たいてい五番から六番で、賞をもらったことがありません。それが、なぜ運動神経がいいと言われるかというと、教会の運動会では、パン食い競争でいつも一番を取るからです。私はとにかく、食べるのは人一倍早いので、走るのが遅くても食べるのが早いのでいつも一番になるのです。去年は、コーラ早飲みで五百ミリリットルのコーラを、一気に飲み干しました。なんと、十八秒でした。後からその記録を聞いて、「すごいなあ」と自分でも驚いたので覚えています。
 私にとっては、パン食い競争には練習はいらないのですが、走るためには準備が必要です。先程言ったように、走るのは遅いのですが、それでも、どうせ走るなら一番になりたいと思ってしまいます。同年配の方とスタートラインに立ち、何も練習していないのにもかかわらず必死になって走ります。しかし年配の方はおわかりのように、気持ちはゴールに向かっていますが、足がついていかないのです。だから途中で足がもつれたりして、なかなか思うように走れません。何とかゴールにたどり着いても、息は荒いし、気持ちも悪くなる。こんな経験をされた方がおられると思います。しかしそれは年を取ったからではありません。日頃準備をし、ジョギングをしたり、運動をしている人は年配になっても足がもつれて転んだり、息切れすることなく、楽しく走ることができます。準備がしっかりされていれば、大丈夫です。私のように、普段運動することもなく、車にばかり乗っているような者が急に走ると大変です。その点、学生は、授業やクラブ活動で毎日のように運動する機会があるので、楽に走ることができます。準備がされているわけです。
 さて、私たちのクリスチャン生活も、ハッピーなときばかりではありません。突然家族に病人が出たり、事故にあったり、会社が倒産したり、リストラされるような思いにもよらない色々な出来事が起こるときがあります。なぜ、こんなことが起きたのかと考えます。しかし、そんな出来事が起こる前には、自分は大丈夫だ、と思っていることが多いのではないでしょうか。聖書にはこんな御言葉があります。

 『ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。』
(第一コリント十章十二節)
 『人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。』(第一コリント八章二節)

 アメリカに行って、今まで気づかなかったことをたくさん目の当たりにしました。知っていると思っていても、知らないことのほうがたくさんあるのだと思います。

 今日ここに私たちは、神様の恵みによって集められています。この会堂が建てられてからすでに25年目になりました。この間、素晴らしい信仰を持ちながらも途中で信仰から落ちてしまった方もいます。その方が熱心でなかったかというとそうではなく、また、信仰の理解がなかったかというとそうではなく、色々な集会に出てよく学んでおられた方もいました。ただ一つの問題で信仰を失った人は少ないと思います。家族の中で、たった一人のクリスチャンゆえに迫害されたり、偶像問題、会社での問題、また異性問題など、色々なことが重なったときに耐えられなくなり、信仰を落としてしまったのだと思います。そんな問題の中でも、忍耐が必要であると私たちは学ばされます。
 植物が育つための環境においても、厳しいものがあります。大地に植わっている木には雨風が吹きつけます。雨風によって倒れそうになることももちろんありますが、その雨風によって、しっかりと大地に根を張り、揺るがない強い木へと成長していくのです。同様に、人もその人生において、時々「なぜ?」と思えるようなことに出会います。しかし、そのようなときに忍耐するなら、強く成長することができることを私たちは知っています。その試練は、私たちが成長するための準備なのです。
 「準備する」中には、まず私たちの側で自分で準備するべき領域があります。それとともに、神様が準備してくださる領域があることを私は教えられました。ノアの箱舟のところを見てみましょう。

 『そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」』
( 創世記六章七節)

 アダムとエバから始まり人類は増え広がりましたが、神様はこの地上の人々が、悪に悪を重ねているのを見て、リセットしようと思われました。しかし神様は、神を恐れ、神に従ったノアとその家族があるのを見、彼らを救い出したいと思われました。そこで、神様はノアに一つの命令を与えました。

 『「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。』(創世記六章十三〜十四節)

 この地上のすべてのものを滅ぼすが、あなたとあなたの家族、そして獣を助けるために箱舟を造るようにとノアに告げられたのです。
 ノアの時代には、水は下からわき出ていたので、人々は天から雨が降るのを見たことがありませんでしたから、洪水でこの地が滅ぼされてしまうなどということは、信じじられないことでした。ですから、神様から「箱舟を作りなさい」と言われても、それは容易には受け取ることのできる命令ではなかったと思います。しかも、作るのにも長い年月を要しました。しかし、ノアは神様から告げられたことをしっかりとつかみ、神様が与えられた寸法通りに作り始めました。山の上でノアが箱舟を作っているのを見て、周りにいる神様を信じない人たちは、「この人は気が狂ったのだ…」と口々に言ってノアをあざけったでしょう。しかし彼は忍耐して百年以上かけて箱舟を作り、獣を箱舟の中に入れ、自分たちも入りました。いつ大洪水が来ても良いように、ノアは洪水に対する準備をしたのです。
 私たちはただ、ノアが大きな箱舟を作って洪水から守られたことだけに気を取られがちですが、ノアが告げられた言葉を、真剣に神の言葉としてつかまえたことに目を止めたいと思います。私たちも、神様が語りかけられたときに、ノアのようにしっかりと神様の言葉として受け取れるかどうかが問題です。そして、その御声に応答することが大切です。
 また、神様から直接語られたり、聖書から教えられたりするとき、私たちはなすべきことを教えられますが、それを実行し続けることができないのが現状です。しかしノアは、神様が言われたことを自分のこととして受け取って、百年以上かけて準備していきました。結果として、ノアとその家族、また一部の獣以外は、全部水の下に沈んでしまったことをこの聖書の箇所から見ることができます。私たちは、しっかりと神様の言葉をキャッチするとともに、忍耐して神様から与えられたことを行って、準備することが大切です。いつ語られてもよいようにしておかなければなりません。時がいつとは語られていません。いつでも大丈夫なように私たちは準備をしていくべきであると教えられます。
 そしてその準備をしていくためには行き当たりばったりではだめで、しっかりとした計画のもとで事を行う大切さを聖書は教えています。

 『密議をこらさなければ、計画は破れ、多くの助言者によって、成功する。』
                           (箴言十五章二十二節)
                            
 リバイバルを求める中でも、神様は私たちに様々なことを導き、準備させてくださいます。一九九三年以降、甲子園ミッションをはじめ、様々な場所でリバイバルミッションが開催されましたが、一九九四年には沖縄ミッションが開かれました。あれから十年が経ち、再び沖縄でスーパーミッションを開くことが計画されました。このような働きに携わっている中でも、神様の御心はどこにあるのか、本当に、主が望まれていることなのか不安になることがありました。しかし、神様はその一つ一つの大会に確かに働いてくださり、主がそこに御手を置いてくださったことを体験してきました。
 私は先々週、十一月五、六、七日の三日間の集会の準備をするため、五日間ほど沖縄に行きました。目的の一つは、会場の打ち合わせでした。会場の方と話し、人々をどこから入れるのか、どこにテントを張ったらいいのかなど、色々なことを決めました。大会前に何も決めずに準備をせずに当日を迎えてしまったらパニックが起きたり、事故が起きたり、クレームがきて大変なことになります。そのようなことがないように、前もって話し合いをし、準備をして大会に当たることが重要です。またボランティアスタッフのミーティングも行いました。当日、何をするかを準備していなければ、役に立つスタッフとして働くことができません。いよいよ今週、沖縄スーパーミッションファイナルが開催されますので、今まで準備したことが大きな実を結ぶよう、大きな主の御業が現されるよう、ぜひお祈りください。

 沖縄から帰って、今度はアメリカに行きました。それは、教会や印刷所をいくつか回り、キリスト教の出版事情やこれからのプレイズ出版の働きをどのようにしていくべきか、今後の展望を見いだすための旅行でした。行く前に色々と準備をしました。飛行機の手配や泊まる所の確保、話しを聞く方との日時の確認、印刷会社へのアポイントメント等々。準備はしていましたが、一つ不安なことがありました。私は英語が全くできないので、出国手続をするときに何か聞かれたらどうしようと思っていました。今まで子どもに心配されたことなどないのですが、さすがに今回は、「お父さん一人でアメリカに行くって、本当に大丈夫かなあ・・・」と随分心配されました。
 初めに行ったのは、オレゴン州のポートランドという所ですが、係の人も私が全く英語ができないとわかったらしく、「観光ですか? ビジネスですか?」と聞いただけで、ほかには何も聞かれず、スムーズにそこを通ることができました。
 オレゴンには娘が住んでいて、車で迎えに来てくれていました。それから娘の運転でヤキマのジョー先生の所へ行き、先生の教会にあるカフェを見せてもらったり、リベちゃんやジョイさんにも会ってきました。二日間、娘が一緒に回ってくれたのですが、助手席に乗りながら、娘の運転で、娘の案内でアメリカにいるなんて、時代は変わったなぁと思いました。
 それからタコマのあや子先生にもお会いし、タコマの教会のマット先生に印刷会社に連れて行っていただいたり、日本人教会へも行きました。それからポートランドに再び戻り、出版会社を見学し、次に山崎君たちがいるシカゴへ行きました。そこでも、どりあさんたちに案内してもらって、出版会社を回ったり、山崎君たちが知っている中で、一番大きいと思われる教会にも行きました。
 ある出版会社は、社員が三百名以上いて、一日の受注は五百万円以上で、ひとつの州、アメリカ国内にとどまらず、全世界に出版物を送り出す大きな組織を持っているところでした。そこでは、発送するものをベルトコンベアーで運ぶといったシステムが整っていました。その出版会社で発行されている本は、その一冊で七百万部を売り上げたものもあるそうです。日本とは桁が違うと思いました。しかしその会社も、一足飛びに成長したのではなく、設備投資がなされ、紆余曲折を経て発展し、ここまでになったという証しを聞きました。ここにも、準備がありました。
 私のアメリカ旅行は行く先々で助け手が与えられて、言葉に困ることなく守られ、たくさんの恵みをいただいた旅でした。皆さんにもお祈りいただいたことを、心から感謝いたします。
 私たちが必要に応じて準備することはもちろんですが、それと同時に、私たちの思いや考えとは関係のないところで神様が準備されていることがあることも知ってください。何でも、必ずしも私たちがこうしたいから、準備したからこうなっていくということにはなりません。皆さんも、準備してもその通りにならなかったことがたくさんあると思います。創世記にアブラハムが神様からイサクをささげるように語られたことが書かれています。

 『「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」(創世記二十二章二節)

 イサクは、神様がアブラハムに与えると約束され、待ち望んで百歳の時に与えられた子どもでした。神様はこの子を通して、この地が祝福されるという約束をされました。そのイサクが少年になったとき、「この子をわたしにささげなさい」と神様から突然語られました。皆さんはそのような現状に置かれたらどうでしょうか。親であれば、それは絶対に神の言葉ではないと考えると思います。神様は、この子を通してこの地を祝福すると約束してのだから、育ち盛りのこの子をささげなさいと言われるはずがないではないか、と自分の思いで神様の言葉を否定しまうと思います。しかしアブラハムは違いました。

 『翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。』(創世記二十二章三節)

 ここにあるように、アブラハムは神様から語られた翌朝、考える間もなくイサクを連れてモリヤへの道を進んだと書かれています。詳しいことは何も書かれていませんが、アブラハムには葛藤があったと思います。しかし、主の御声を聞き、彼は信仰を持って出かけていきました。それは、人間には理解ができないことだったと思いますが、彼はイサクと共に三日の道のりを歩き出しました。イサクが父アブラハムに言いました。

 『「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。』(創世記二十二章七〜八節)

 当然のように全焼のいけにえをささげるためには、いけにえとなる羊が必要ですが、イサクはそのいけにえがないことを父に告げました。するとアブラハムは、「神ご自身が全焼のいけにえを備えてくださるのだ」と言いました。結論的には山の上に羊が用意されていましたが、この時点ではアブラハムは羊が用意されているなどとは全く知り得ません。それでも神様の言葉通り、自分の子どもを主にささげようとしたのです。新約聖書には「死んでももう一度この子を引き戻すことができる」という信仰のもとに彼をささげようとしていたことが書かれています。
 そしてアブラハムがイサクを祭壇に置き、ほふろうとしたときに神様からの声がかかりました。

『「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」』(創世記二十二章十二節)

 アブラハムにはあなたの子孫を通してこの地が祝福されるという約束が与えられていましたが、神様の言葉通りにその約束の子をささげることができるか、従う心があるかどうかを神様は見ておられたのです。そして、アブラハムはその最終試験に見事にパスし、イサクをもう一度取り戻すことができました。そして、神様が、いけにえとしての羊を用意してくださいました。

 『そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある」と言い伝えられている。』(創世記二十二章十四節)

 この記事を読むと、アブラハムの願いとは違った状況の中で、事が動いていたことがわかります。しかし、アブラハムは自分の思いを押し通すことをせず、神様に応答したことによって、最終的に彼は自分の子どもを取り戻すことができたのです。

 旧約聖書 出エジプト記に出てくるモーセのことを見てみましょう。彼はヘブル人の子でしたが、ヘブル人の子どもは全員殺されなければならなかったところを助けられ、エジプトの王様の子どもとして四十歳までエジプトの王宮で育てられました。しかし、一つの事件により王宮から逃げるように出ていき、荒野で暮らしていました。ところが、モーセが八十歳になったとき、神様が突然、「あなたは奴隷になっているわたしの民をエジプトから引き出しなさい」と告げられたのです。彼はそんなことが起こるとは全く思ってもいませんでした。モーセは「なぜ私なのですか。私は力がないし、語るのも下手だし、私ではなくてもよいでしょう」と神様の前に何回も返しています。しかし神様は生まれる前からモーセを選び出しておられました。それらすべては神様の計画の中にありました。四十年間の王宮の生活と四十年間の荒野での生活があって、彼は訓練され、練られました。それは、神様がエジプトから民を引き出すための準備でした。また、モーセが民をエジプトから引き出したあとも、神様からの約束をいただいています。

 『見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。』(出エジプト記二十三章二十節)

 私たちも、自分の意図していない、自分の思いとは逆の状況に陥ることがあります。モーセやアブラハムが試されたように、私たちも時として試されることもあります。悲しみや問題のあるとき、誰もそれを喜ぶことができません。「神様感謝します」と言うことができないときがあります。「神様、なぜですか。どうしてですか」と愚痴を言いたくなることがあります。どうしても自分では理解できない。私を愛してくれている神様がこんなことをするはずがないと思うことがあるかも知れません。しかし、私たちの思いとは違うところに、神様が御心を持っておられることがあります。

 『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』(第一コリント二章九節)

 神様が準備しておられ、神様のご計画の中には、人の心に思い浮かんだことのないものがあります。あり得ないというようなところに、神様は備えてくださることがあります。私たちには色々なときに悪魔のささやきがあり、誘惑があります。そして自分がやっていることが、無駄ではないかと思うようなときがあります。しかし、第一コリント十五章五十八節には、『ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。』とありますから、今与えられていることを主の前に忠実に準備していくなら、神様が必ずよくしてくださることを信じて行うことが大切です。そうするなら、必ず目には見えませんが、神様が働かれていることを知ることができます。

 私はこの会堂ができた年に結婚し、その二年後に献身しました。それまで実家のマルイチで働きながらもずっと、神様に献身したいと思っていました。当時、教会には百五十人ほどの人が毎週来られていて、すでにスタッフも何人かいましたので、献身することをとても迷っていました。
 あるとき、明先生に「先生、この素晴らしい五百名入る会堂が与えられましたが、この教会に何人スタッフが必要だと思いますか」と聞きました。そのとき先生は、「兄弟、素晴らしい会堂を神様が与えてくださったけれど、会堂があるからといって人が集まるわけではない。会堂いっぱいの人がここに集まるようにと祈っているが、五百人が集まっても大丈夫なだけのスタッフが備えられていなければ、神様はここに人を送られることはない。だから働き手がたくさん必要なんだよ」と言われました。それを聞き、私はスーパーを辞め、献身する決心をしました。神様が押し出してくださり、五百名の魂が集うための準備をさせていただけることを感謝しています。
 また、このプレイズ出版の働きも一九九三年の甲子園ミッションでは、多くの印刷物を作成しました。これも、神様が準備をしてくださり、全くの素人であった私たちを使って印刷を始めさせ、色々な集会に間に合うように、機械も技術も向上させてくださいました。そしてさらに、この教会に霊的戦いが開かれました。
 あるとき、中高生の集会のために朝早く祈りに行こうとして何人かが集まっていました。そのとき、神様は「あなたたちは今から祈りに行こうとしているが、何も準備もなく行くならば、あなたがたは必ず負ける」と言われました。「何に負けるのだろう・・・」。初めは右も左もわかりませんでした。しかし、神様は祈りの中で備えて、悪しき力に立ち向かうことを教えてくださり、導いてくださいました。神様は私たちの目に見えないところに道を開いてくださったのです。

 『私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』(第二コリント四章十八節)

 教会は楽しいところ、祝福されたところ、愛のあるところですと言います。もちろんそうです。しかしそれだけではありません。日本においてはクリスチャン人口は千人に二〜三人です。神様に選ばれて先に救われました。先に救われたものには、サタンの手から人々を勝ち取るための戦いがあります。目に見えない世界において、サタンは必死になって攻撃を仕掛け、隙あれば何とか人々をもう一度、九九七人の方に引き戻そうとしています。個人的な問題だけではなく、家庭や人間関係にもトラブルをもたらしてきます。しかし、神様はいつも私たちを導き、戦うべき相手を教えてくださり、勝利を与えてくださいます。
 先日テレビを見ているとき、最近は熊が町に出てきて人を襲うと報道されていました。そして、熊に出くわしたときにどうしたら助かるかについて、色々なことを言っていました。それによると、今まで言われてきた、熊に出くわしたら死んだ真似をする、逃げる、目と目を合わせて威嚇するなどは、全部効き目がないそうです。熊は、本来人間を襲いたいわけではないのだけれど、人が逃げると追いかけて襲いたくなるものだそうです。また、目を合わせて威嚇すると、敵対意識を持っていると思い、なお襲ってくるというのです。それではどうするかというと、熊の胸あたりを見ることだそうです。そうすると熊は、人間には敵対心はなく、害を加えたいのではないと知って去っていくというのです。興味を持っていないということを示すことが、逃れるための最善の方法だと言っていました。
 それを聞きながら、サタンとの戦いも同じだと思いました。私たちは今までサタンに何の興味も持っていなかったために、さほどサタンの攻撃を受けてこなかったと思います。しかし、サタンはじわじわと私たちの領域を侵していたのです。今まで苦しんでいたことが、サタンの働きであることが、わかってきたのです。
 熊は私たちを襲い、私たちから得を得るわけではありません。しかしサタンは私たちを引き戻したいという思いがあります。私たちがサタンに興味を示さず、妥協しているときにはサタンはそれほど襲いかかりません。しかし私たちがサタンに向かっていくなら、当然のようにサタンは私たちに攻撃を仕掛けてきます。しかしそれをクリアしなければ私たちには勝利がありません。私たちがサタンを倒さなければ、この地のリバイバルはあり得ません。そして皆さんの信仰の勝利もあり得ません。そのことを覚えて、準備し祈り続けることが大切です。祈り続け、繰り返し準備をしていく中で、私たちはサタンに打ち勝つことができ、リバイバルを勝ち取ることができるのです。

 旧約聖書に出てきた偉大な人物たちも、忍耐の末に、また色々な苦しみの中で勝利を勝ち取ったように、私たちも、一人一人が主に選ばれた者として、準備するべきことをしっかりとしていかなければなりません。目に見えるところも見えないところもしっかりと準備し、戦い続け、主に用いられ主の御心を現す者でありたいと思います。お祈りします。


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