「まさか」

2004.11.7(SUN)
新城教会 上條 実師

新約聖書 ヨハネの福音書7章41節
またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。

 ハレルヤ!おはようございます。今晩まで沖縄スーパーミッションが行われております。私の知る限りでは七〇人から八〇人の方がそちらに出かけております。私は昨日の夕方こちらに帰ってきましたが、初日一六〇〇名の方が集い、大変すばらしい大会を見ることができました。また昨晩の報告をもらいましたがは、初日より多い二五〇〇名程の方々が集まって下さったようです。初日のアンケートを見ると、全く教会に行ったことのない方が大勢来られ、ラジオCMを聞いたり、新聞折り込みや広告などを見て来て下さった方が多くいらっしゃいました。その中でイエス・キリストを救い主として信じたいと印を付けて下さった方が大勢いらっしゃいました。今晩最後の集会が五時までありますので特別覚えてお祈り下さい。では御言葉を学びましょう。先ほど読んで下さったみことばに、「まさか」という言葉が出てきました。先週このみことばを読んだ後ずっと「まさか」「まさか」と心の中に響いていました。早速国語辞典で「まさか」ということばの意味を調べてみました。すると

「どう考えてもそこに述べられている事態が起こりそうもない様。いくら何でも。よもや。まさかに。」

もう一つの意味には、

「予期しない事態が目の前に起こっていること。」

ということでした。今の日本の現状を見るときに、「予期しない事態」が多く起こってます。皆さんがお祈り下さっています新潟県中越地震ですが、あの地震も「まさか」でした。今度起きるなら東海地震と言われ、新潟地区で起こるなんて考えもしませんでした。沖縄スーパーミッションに長岡聖契教会の日吉先生ご夫妻が来られていました。お元気な姿を拝見することができ、感謝でした。車の中で寝ていると聞いておりましたので、先生に「エコノミー症候群になりませんでしたか?」と伺うと「大丈夫です。」と語っておられました。沖縄にいる間は余震の心配もなくゆっくりと寝られる。」と喜んでいらっしゃいました。また「多くの義援金ありがとうございました。」と新城教会の兄姉によろしくお伝え下さいとのことでした。テレビ等の報道を見聞きすると、「まさか」こんな事が起こるなんてと言うことばを耳にします。「予期しないこと」が起こったのです。日吉伸也兄と実枝子姉が実家の長岡に帰られて、片づけをされて来られましたが教会の外壁にひびが入ってしまい、特に牧師室からは中から外が見えてしまう様な状況です。地震が起こる前までは、楽しい会話の中食事をしたり、家でくつろいだり、普段と変わらない生活をしていました。しかし「まさか」な出来事が起きてしまったのです。避難所でプライベートもない空間に、多くの方が寒さの中で生活する。食べ物はいつも冷たい物ばかり。そして長蛇の列の中、時間を掛けてやっともらった炊き出しの温かい豚汁を食べて喜んでいる姿を、見る時に、私たちは感謝と愛がないとつくづく思わされます。私たちはいつも温かい食べ物を食べることが当たり前のように考えてしまいます。また今年は台風が十個も上陸しました。兵庫県の豊岡市では辺り一面水に浸かり、バスの上で避難していた方が助かったと報道されておりました。あのときの報道でも「まさか」こんなに所で浸水するなんて・・・・・と言っていました。「まさか」と思うことが日本中で起こっています。同時多発テロでも「まさか」貿易センタービルのようなビルに飛行機が突っ込み、崩れ落ちてしまうなんて・・・・と世界でも「まさか」続きです。また事故、病気、問題など私たちのまわりでも、「まさか」と思うことがたくさんあります。聖書も読んでいくと「まさか」と思うような事ばかり書かれてあります。創世記一章三十一節に、

『神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。』

とあります。神が天地を創造された後、全てをご覧になり「非常に良かった」と記されています。神様はご自分が創造された物を見られて満足されているのです。しかし「まさか」が起こりました。創世記六章五節に

『主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」』

と書かれています。これはノアの時代のことです。全てを満足された主が、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛め、創造した人を地の面から消し去ろうというのです。しかし6章8節から9節に

『しかし神はしかし、ノアは、主の心にかなっていた。これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。』

一人のノアに注目したのです。彼は正しい人であり、神とともに歩んでいました。そのため彼に箱船を作らせました。ノアの家族八人と動物だけが箱船に入りました。創世記七章十一節から十三節に、

『ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。ちょうどその同じ日に、ノアは、ノアの息子たちセム、ハム、ヤペテ、またノアの妻と息子たちの三人の妻といっしょに箱舟に入った。』

とあります。天の水門が開かれて大雨が降り、ノアの家族以外は全滅させたという驚きの箇所です。神が創造し、非常に良かったと言った物を、神様は滅ぼされました。

またアブラハムにも「まさか」が起こりました。神から彼に後継ぎを与えると語られました。しかしその約束を信じながらもとうとう百才になってしまいました。また妻のサラも胎が死んでしまったという状態でした。しかしアブラハムとサラに神の奇跡を与えて、イサクが生まれました。しかしやっとの思いでアブラハムにイサクが与えられたにも関わらず、ここでも「まさか」が起こっています。創世記二十二章一節から二節に、

『これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」』

とあります。やっと奇跡の子どもが与えられたにも関わらず、その子を神様のために全焼のいけにえとしてささげろ、と言うのです。殺して焼いてささげろと言うのです。「まさか」です。アブラハムは信仰の通りに実行しました。神はアブラハムの信仰を見てイサクを生かしてくださいました。

また創世記四十二章にはヨセフのことが書かれています。ヨセフも「まさか」の連続でした。お兄さんたちに裏切られ、エジプトに奴隷として売られました。しかし神の不思議な計画の中でエジプトの総理大臣にまでなりました。その後飢饉があり、ヨセフの兄たちがエジプトに食料を買いに来ました。創世記四十二章六節をリビングバイブルで読むと、

『兄たちはエジプトの総理大臣で穀物を売る責任者の所に出かけていった。まさかその人が弟のヨセフだと思いも寄りません。顔を地につけんばかりに深々と頭を下げました。』

兄たちは総理大臣が、自分たちが売りとばしたヨセフだとは思いませんでした。しかし神は一奴隷からヨセフを総理大臣まで導き、父ヤコブをエジプトに迎え入れました。「まさか」の連続です。

またモーセはイスラエル人の子どもとして生まれ、エジプトでは男の子が生まれたら殺されなければならない運命にあったのですが、神様の計画の中でエジプトの王パロの子どもに入れられました。これだけでも「まさか」です。その後四三〇年間奴隷であったイスラエルの民を出エジプトさせています。男だけで六十万人と言われる民たちを連れてエジプトを出ました。大行進して行くと目の前に紅海が現れました。後ろを見ればエジプト兵が追ってきます。もう駄目だと思ったときに「まさか」が起りました。紅海が分かれ、乾いた地が現れ、そこを通ることができました。聖書に書かれていることは、「まさか」こうなるとはと、人間的な常識から考えて考えもつかない出来事が起こります。

私たちもいつ起こるか分からない「まさか」に備えることが大切です。いつこの地域でも地震が起こるか分かりません。食糧を備え、避難地の確認など備えておく必要があります。マタイ十一章十節とルカ七章二十七節に全く同じ御言葉があります。

『この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。』

とあります。備えさせようと書かれています。私たちは備えをしなければいけません。十月中旬に子ども会のほさなクラブという集会で「レフト・ビハインド」という映画を見ました。訳すと「置き去りにされて」というタイトルです。「携挙」について描かれている映画です。聖書中に「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」とあります。「終わりのラッパ」というのは、神が、世界中のクリスチャン達を地上から取り去られるときの合図です。「死者」とは、その時点ですでに死んでいたクリスチャンのこと、「朽ちないもの」とは、栄光の体のことです。「私たちは変えられる」とは、その時点で、地上で生きている人たちも同じく栄光の体に変えられるという意味です。これは「携挙」と呼ばれる出来事の描写です。これが起こる時、神は一瞬のうちに、そのときまでに死んだクリスチャンたちを死からよみがえらせ、同時にその時、地上に生きている全てのクリスチャン達を、突然「栄光の体」という新しい体に変えて天国へ引き上げられるのです。私はその映画を見て、自分は大丈夫だろうか?備えができているだろうかと考えました。その映画の中で一人の牧師が出てきます。誰もいない会堂の中で、一人講壇に立ち叫ぶのです。「私はここで聖書の話しをした。それを聞いた人たちは、素直に信じて全員いなくなった。でも私だけが残された」と嘆いているのです。もし自分が同じ立場になったらと考えた時備えなければいけないと思いました。私たちはいつか命を失います。またいつ携挙があるか分かりません。そのためにしっかりと備えなければなりません。神様を甘く考え、十字架をおろそかに考えてはなりません。罪を重ねて主が喜ばれないことをしてはなりません。十字架をもう一度覚えましょう。だれでもいつかは死に、神の前でさばかれます。その時私たちがイエス様を主と告白し、イエス様を救い主として信じるならば、救われるのです。ですから主に出会う備えをして行きましょう。

 今まで聖書の中から「まさか」を学んできました。「予期しない事態が目の前に起こっていること。」の意である「まさか」。でも私たちクリスチャンにはすばらしい「まさか」があることを覚えてください。今日問題や悩みで苦しんでいる方がいるかも知れません。しかしアブラハムはずっと祈って子どもが与えられると信じて祈ってきました。与えられずに苦しみ、胎が死に絶対に生まれないという体から主がイサクを与えてくださいました。絶対に駄目だ、無理だと思うようなことでも、神様は「まさか」を与えてくださいます。もうお手上げだと思うところに主が触れてくださり、問題を解決してくださるのです。また病いも同じだと思います。一生懸命祈っても、祈れば祈るほど病気が進んでしまい、なぜ聞かれないのだろうかと思うこともあります。主はその病いにも「まさか」をあらわして下さいます。死人をも生き返らすことのできる神様が共にいて下さいます。あなたにも主が病いに触れてくださり、癒してくださいます。主の時があります。また私たちの願いである人々の救いについても主が「まさか」と思うことを「まさか」の時に成就して下さいます。あなたが救いを受けた時を思い出して下さい。神の計画の中で不思議な方法で、教会に来るようになり、信じることができたと思います。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます。」みことばは今も生きています。成就します。十字架は最高の「まさか」です。私たちは絶対に罪を消すことができません。過去を消すことなどはできません。しかしひとり子であるイエス・キリストが私たちのために、身代わりとなって、私たちのすべての罪を背負ってくださいました。どれだけ一生懸命伝道しても頑固で反抗し、キリスト教は…と言われるような親族や家族、友人であっても必ず主は「まさか」を起こして下さいます。種をまけば必ず収穫します。救ってくださいます。私は魂の救いについて祈っている時、聖書より一人の人物を思い起こしました。それはヨナです。ヨナは神様からニネベの町に行きなさいと言われました。しかし彼はタルシシュへ逃げてしまいました。神様が嵐を起こし、ヨナは海に投げ込まれました。そこで「まさか」が起こり、大きな魚に飲み込まれました。普通では考えられない事です。「まさか」の事が起こり、魚の腹の中で三日三晩住み、はき出されました。そしてもう一度神様がヨナにニネベに行きなさいと言われました。そして彼は従いました。ヨナ書二章十節から三章六節に、

『主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。再びヨナに次のような主のことばがあった。「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。」ヨナは、主のことばのとおりに、立ってニネベに行った。ニネベは、行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな町であった。ヨナはその町に入って、まず一日目の道のりを歩き回って叫び、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と言った。そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。このことがニネベの王の耳に入ると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。』

とあります。彼はニネベで一日中歩いて叫び、滅びが来ると訴えました。大胆にニネベの人々に「神を信じてください。もう四十日すると滅びが来る」と叫んだとあります。そのとき、町全体に悔い改めの心、神を恐れる心が与えられました。町の人々が悔い改め、王様までもが悔い改めて灰の中に座って荒布を来て悔い改めたと書いてあります。今日、皆さんもへりくだって主の前に期待し、自分の家族、親族、友人のために祈り始めましょう。神が必ず答えて下さいます。またこのニネベという町は回るのに三日かかる程の大きな町でしたが、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。このことがニネベの王の耳に入ると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわったとあります。王が悔い改め、町中がクリスチャンになったと書かれています。沖縄百三十五万人の人々が住んでいます。その沖縄の救いのためにお祈り下さい。あなたが教会や自宅で信仰を持って「沖縄にいる方々を救って下さい」と祈って下さい。あなたが祈り始める時、沖縄に救いが訪れます。またあなたの友人も家族も親族も、必ず主にあって救われることを覚えて下さい。「まさか」と思う出来事が起きます。しかし悪い「まさか」ではなく、私たちを守る神であり、祝福を下さる神です。「まさか」と驚くような祝福を与えて下さいます。えこひいきのない神、昨日も今日も変わらない神があなたの神であることを信じて下さい。今日あなたがその神を信じるならば、どんな大きな問題も、病いも解決して下さり、大いに神の栄光として喜ばれ、皆が素晴らしいと思うことが起こして下さることを覚えて下さい。

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

小さく考えがちですが、今日は「まさか」の事を起こして下さる神様だと言うことを信じて下さい。「まさか」の時に主が守り、「まさか」と驚く祝福を下さる神。その「まさか」を下さる神に備えて行きましょう。お祈りします。


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