主にゆだねる生活

2004.11.28(SUN)
新城教会 滝元 順師

新約聖書 ペテロの手紙 第一 5章7節
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

 ハレルヤ!このように、皆さんとともに、御言葉を学ぶことができて感謝します。昨日は当教会で、原真慈兄と智香姉の結婚式が行われました。心から祝福致します。
 さて今朝は、「主にゆだねる生活」というタイトルで学びます。

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』

 誰にでも、色々な思い煩いがあり、それらを誰かに託したい、委ねたいと願っています。最近、ちまたでは『冬のソナタ』のヨン様ブームというのがあり、いい年のおばさんたちがヨン様に群がっています。それは、ある意味での現実逃避かもしれません。生活の中で鬱積している事柄を、ヨン様という理想の存在に委ねたいという表れではないかと思います。それを見て、「日本人主婦たちは疲れている・・」と思います。私は先週、「ヨン様に群がっている主婦たちを救い、イエス様に群がるように・・」と祈りました。人には、色々な領域に重荷を委ねたいという願望があります。
 しかしイエス様を信じると、私たちは、イエス様に重荷を委ねることができます。ギリシャ語の「委ねる」とは、「縫いつける」という意味もあります。自分で処理できないことを、イエス様の衣に縫いつければ良いのです。イエス様に委ねるならば、聖書は、「神があなたがたの事を心配してくださる」と教えています。ここに関連して、詩篇五十五篇二十二節にも、同じような言葉があります。

『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』

 イエス様を信じるならば、過去のすべての罪が赦されます。なぜならば、イエス様が、私たちの罪の身代わりとなり、十字架にかかって死んでくださり、よみがえってくださったからです。イエス様を信じない人生は、永遠の滅びに向かっていたのですが、イエス・キリストによって罪なしと認められるのです。「正しい者がゆるがされることはない」とありますが、イエス様を信じた者は、神側から見て「あなたは正しい」と認めて下さるのです。今まで、どんなに罪にまみれていても、イエス様を信じるならば、罪赦されて、「あなたは正しい」と評価してくださり、神があなたのことを心配してくださるのです。

 私たちが日頃考えていることは、未来に対する心配事と、過去に対する後悔です。ほとんど、現実には生きていません。
 私にも、いくつかの心配事があります。私の娘は現在、アメリカに留学し、「セントラル・ワシントン大学」に通っています。ジョー・ハイト先生の家にホームステイしながら、一人で学校までフリーウェイを片道六十キロ程、毎日通っています。「大丈夫かなあ」と心配しています。三千ccのアメリカの中古車を買って乗っています。最近では、インターネットでライブカメラを使って、娘が毎日通っているハイウェイの様子を見ることができます。それを見て、私はよく祈っています。それから、娘に電話して「大丈夫か?」と聞くと、娘は、「大丈夫。もう目を閉じてでも行ける…」などと言います。そんなことを聞くと、もっと心配になり、祈らなければなりません。
 人間の心配は、ただ、おろおろするだけで終わってしまいます。しかし、イエス様が心配してくださるのです。聖書の「心配」という意味は、ヘブル語ではもっと広い意味があり、「養う」、「育てる」、「備える」、「阻止する」、「守る」、「養護する」というような意味もあります。神が私たちの事を心配してくださるとは、素晴らしいです。
 我が家にも、今申しましたように、近頃色々と変化があります。娘はアメリカに行き、夫婦二人で過ごす時間が多いです。私の息子は高校時代、家の横にあるプレハブに岡本司兄と原真慈兄の三人で暮らしていました。
 昨日、真慈兄が結婚して、彼だけとり残されてしまったかと思いましたが、なんと、彼は来年の一月に婚約することになりました。それから、私の家は十二月十四日に取り壊されることになりました。なかなか予算に合わず、建設が決まりませんでしたが、やっと安く建てることができるようになりました。そして、今は引っ越しの準備をしています。私は人生の中で、一度も引っ越しをしたことがありません。だから我が家は、約三十年程の荷物がたまっています。家内は物を捨てることが嫌いで、よく管理しています。私は使ったら、そのままでどこに何があるのかよくわからないのですが、私の家内は全部知っています。子どもたちの小さな頃のゲームまで、今回出てきました。人生も時間が経つと、ゴミがたまります。それが家を狭くします。いらない物が捨てられるならば、広々とした生活ができます。「委ねる」とは、「投げつける」、「放り出す」という意味もあります。私たちの色々な思い煩いや重荷を、全てイエス様とところに放り出しなさい、というのです。
 今はゴミ処理にもお金がかかる時代です。家にある不要のコンピューターを引き取ってもらうのには、九千円かかると言われました。しかしイエス様は、私たちのゴミのような重荷を、全部無料で処理してくださいます。公害もありません。今日、皆さんの中で、何か悩みや苦しみがある方は、主に委ねて帰ってください。

 けれども、「委ねろと言っても、委ねることができないから苦しんでいるのではないか・・」と言われます。しかし、イエス様を信じて、イエス様とともに歩んでいるならば、実は、知らないうちに、すでに重荷を委ねているのです。
 昔、飯田線に乗ると、買い出しのおじさんやおばさんが、大勢乗っていました。一番電車に乗ると、必ず買い出しの人々がおり、指定席のようになっていました。彼らは豊橋まで行って、色々な品物を買い込んで帰ってきます。しかし、時々、不思議な光景にも出会いました。彼らは、電車に乗っても、大きな風呂敷包みを肩に担いで、立っているのです。すでに、電車に乗っているのだから、荷物を下ろせば良いと思うのですが、ずっとそのまま担いでいるのです。
 私たちも同様に、イエス様を信じても、なかなか荷物を下ろせない場合があります。しかし、イエス様を信じた時点で、すでに「荷物を下ろしている」と言えるのです。マタイの福音書十一章二十八節から三十節に、

『すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』

とあります。イエス様は歴史的人物です。そのイエス様が語られた言葉です。普通の人がこれを語ることはできません。私がもし、「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と語ったならば、「あなたが一番休みを必要としている」と言われるでしょう。イエス様はこの言葉を、全世界に向かって語られました。なぜならば、イエス様は神であるからです。私たちの罪を背負って、身代わりになってくださった程の方なので、人生の重荷を負うことができないはずがありません。
 「あなたがたを休ませてあげます」とありますが、「休ませる」のイメージは、ここにもギターがあり弦が張ってありますが、弦を張りっぱなしだとネックの部分が曲がってしまいます。だから長い間使わずに保存するときには、弦をゆるめます。そうすると、弦の緊張がなくなるので曲がらなくなります。「休ませてあげる」という意味は、もともとは、「竪琴の弦をゆるめる」という意味から来ているそうです。一週間、緊張状態の方もおられるかも知れませんが、イエス様があなたの緊張の弦をゆるめてあげるというのです。私たちを休ませてくださるイエス様が、ともにいてくださるのです。今日、「イエス様。私の弦をゆるめてください」と祈りましょう。私たちのすべての重荷を、主に委ねることができるように祈っていきたいと願います。

 また、私たちにとって、礼拝に集うこと自体が休みです。礼拝に来た週と、都合によって来れなかった週を比べると、かなり違うと思います。日曜日に、教会に来て神を礼拝してから始めた週と、礼拝に来れなかった週を比べて見ると、来られなかった週には、何か不安があります。私はメッセージをしているので、毎週礼拝に出ます。時々、私はメッセージがないと、朝から緊張が解けて弦がゆるんでいるような感じです。一週間、イエス様を第一にして生活をすると、休みが与えられるのを感じます。マタイ六章三十三節から三十四節に、

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』

と記されています。礼拝に来て週を始めることは、ある意味で、「神の国とその義を第一にする」という宣言です。それゆえに、「明日のことは心配無用」だというのです。「あすのことはあすが心配する」と書かれています。「あす」が人格を持っているかのように表現されています。人間は、瞬間にしか生きることができず、次の瞬間は何が起こるのかわかりません。しかし神は、あすを握っておられるお方です。神様はあすを創り出すことができるので、神様があすの責任持ってくださいます。「神の国と神の義をまず第一にしなさい」とあります。私たちは生活の中で、イエス様を中心として歩むことが大切です。「イエス様ならば、このような場合にどうするのか・・」と考え、神の義であるイエス様の心を自分の心として歩むならば、あすを神が創ってくださるのです。

 また、クリスチャンになっても、なかなか目の前の問題が消えないこともあります。一生懸命祈っているのに、なぜ問題が消え去っていかないのだろうかと思います。イエス様を信じて、何も問題がなくなり、無風状態のようにになり、解放区ができたら良いです。しかし、なかなか問題が取り去られない場合が多くあります。マタイの十一章二十九節は、「イエス様が私たちのくびきを負ってくださる」と書かれています。「くびき」とは、後ろに荷物がある証拠です。しかしイエス様が一緒に負ってくださると教えています。それとともに、マタイ六章三十四節には、「あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」と書かれています。
 新改訳聖書だけが、「労苦」と訳しているので、私はこの訳が好きです。他の訳は「苦労」と訳しています。「労苦」と「苦労」では意味が異なります。例えば、一日八時間労働して、何んの報酬もなければ、ただの苦労です。しかし労苦とは、労働に対する苦しみはありますが、報酬もあることを意味します。皆さんは会社において、一週間働いて、報酬が支払われます。イエス様を信じる前の私たちの人生は、ただの「苦労」かも知れません。何の見返りもないのです。ただ、いのちをすり減らして、苦しいことばかりかも知れません。しかし、イエス様を信じてからの苦しみは、労苦であり「報いがある」のです。
 私は牧師として、色々な問題に関わらせていただいていますが、問題解決のためには色々な苦しみが伴い戦いを感じますが、戦っていくうちに不思議なことが起こります。それがただ単なる苦労ではなく、神が戦いの中で信じられない領域に道を開いてくださることを経験するからです。そして、その人の労苦が、他の人の解放につながったり、他の人の解放が自分の解放や癒しにつながることが多くあります。これは決して、無駄な苦労ではありません。クリスチャンは苦労ではなく、必ず報いがある「労苦」なのです。現在、戦わなければならない領域がある方は、必ず報いがあることを信じてください。あなたの祈りの中で、信じられないような扉が開かれ、多くの人の益となり、気がつけば、自分も広いところに引き出されているのです。
 昔、私の家内が病気になりました。どにもならないので、祈るしかありませんでした。祈っているうちに不思議なことが起こりました。私は家内が癒されるようにとだけ、祈っていましたが、知らないうちに教会スタッフたちも祈るようになり、県民の森祈祷会が始まり、聖霊が注がれ、霊的戦いも始まりました。あれは単なる苦労ではなく、労苦であったと思います。私にとって、あの戦いは必要であったと今になって理解できます。必ず、クリスチャンの苦しみには報いがあります。何十倍、何百倍の報酬を与えてくださいます。

 今朝、私たちは賛美を歌いました。「エベン・エゼル」という「ざわめき」からの賛美をしました。この賛美の背景には、聖書のストーリーがあります。イスラエルに王制が確立する前、「士師の時代」がありました。エリという士師の時代には、イスラエルには偶像礼拝が残っており、悪い時代でした。当時、イスラエルには、出エジプト以来、ずっと神の臨在を象徴する「神の箱」がありました。現在は、私たち自身が神の箱ですので、それは必要ありません。旧約時代には、「神の箱」という神の臨在を現すシンボルがありました。イスラエルは「神の箱」を重要視していました。しかし、エリの時代の戦いにおいて、ペリシテ民族に神の箱を奪われてしまいました。
 神の臨在をイスラエルに運ぶ神の箱は奪われ、ペリシテのダゴンという、当時カナンを支配していた、パワフルな悪霊の神殿に安置されてしまいました。第一サムエル記五章一節から二節に、

『ペリシテ人は神の箱を奪って、それをエベン・エゼルからアシュドデに運んだ。それからペリシテ人は神の箱を取って、それをダゴンの宮に運び、ダゴンのかたわらに安置した。』

と記されています。イスラエルが出エジプトから守ってきた、一番大切な神の臨在を現す神の箱は奪われ、異教の神殿に安置されるという大失態を招いたのです。イスラエルにとっては、大きな失望と落胆であったことでしょう。
 しかし、不思議なことが起こされました。三節から四節に、

『アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、それをもとの所に戻した。次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両腕は切り離されて敷居のところにあり、ダゴンの胴体だけが、そこに残っていた。』

 神の箱はダゴンの神殿に安置されました。翌日、ペリシテ人が見に行くと、自分たちの主神ダゴンが倒れていました。彼らはダゴンを起こしました。また、次の日に神殿に行くと、今度は倒れているばかりか、両腕や頭が取れて、胴体だけが転がっていたのです。彼らは不気味に思いました。
 像が倒れることは物理的なことです。何らかの力が加われば、物は倒れます。しかし、ここには単なる物理的な力だけでなく、霊的な世界との関連がありました。倒れるとは象徴的事柄であり、その背後に神が働かれていました。五章六節に、

『さらに主の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかり、アシュドデとその地域の人々とを腫物で打って脅かした。』

とあります。その後、ダゴンを拝んでいた人たちが病気になりました。それで彼らは驚きました。神の箱が入って来たらダゴンが倒れ、自分たちは病気になったのです。ペリシテはイスラエルの神が働いていると気づきました。
 今の時代、私たち自身が神の箱であり、神の宮です。ある人は、家族・親族が救われておらず、家には偶像が多く安置され、さながらダゴンの神殿のような所で生活しなければならないことがあります。しかし、「あなた」という神の臨在が入るときに、ダゴンのような霊的な力は倒れるのです。私たちは毎週、主を礼拝し、主を賛美し、神の臨在とともに家や職場に帰っていきます。それはちょうど、ダゴンの宮に持ち込まれた神の箱のようです。私たちがその場にいるだけで、神は働いてくださいます。ダゴンを背景にした悪しき力が打ち破られたように、私たちの周りの悪しき力は打ち砕かれ、重荷も砕かれます。私たちがイエス様を信じるならば、あなたは神の箱であり、神の宮です。
 神の箱がペリシテに奪われてしまったのですが、その結果、ダゴンの神殿にまで神の臨在が入ったのです。ペリシテ人は恐れをなし、神の箱をすぐにイスラエルに返しました。けれども、イスラエルはなかなか、それを自分たちの手元まで運ぶ事が出来ませんでした。それに二十年程の歳月がかかりました。第一サムエル七章一節から三節に、

『キルヤテ・エアリムの人々は来て、主の箱を運び上げ、それを丘の上のアビナダブの家に運び、彼の子エルアザルを聖別して、主の箱を守らせた。その箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は主を慕い求めていた。そのころ、サムエルはイスラエルの全家に次のように言った。「もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。」』

 ダゴンの箱が奪われ、二十年目にやっと主の箱が帰ってきた時のことが書かれています。その時、イスラエル人は真剣に主を求めていました。私たちが主に委ねる原則は、「真剣に主を慕い求める」ことです。それは、特に、「あなたがたの中から偶像を全て取り除きなさい」と教えています。

『あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。』

とあります。色々な重荷の背後には、霊的な関連づけがあると教えています。私たちが偶像から離れ、本気で主に目を向け、主を慕い求めていくときに、主自ら動いてくださるのです。主に委ねるとは、「主を心から慕い求めること」です。私たちの生活の中心が、イエス・キリストであり、常に主を慕い求める生活が、主に委ねることであり、知らないうちにダゴンが倒れるのです。その結果、重荷は消え去るのです。そして、第一サムエル七章十二節に、

『そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった」と言った。』

と記されています。私たちが今朝、賛美した「エベン・エゼル」とは、「ここまで主が私たちを助けてくださった」という意味です。イスラエルは、二十年間も神の箱を奪われ、大変な状況を通ってきました。しかし、そのような中でも彼らは守られ、生き抜き、二十年後には心から主を求めるようになり、ミツパという所でリバイバルが起こったのです。
 その時、預言者サムエルは「エベン・エゼル」と名付け、「ここまで主が私たちを助けてくださった」という意味において、石の塚を建てました。これは、「神への感謝の石塚」でした。私たちが、主に重荷を任せるための秘訣は、今まで主が私たちを助けてくださった事を感謝し、サムエルが石を建てたと同じように「感謝の記念碑」を建てることです。それは、別に、庭に石碑を置くことではなく、「主に対する感謝の気持ちを忘れない」ことです。今まで、色々な問題の中で、主が祈りを聞いてくださり助けて下さいました。その感謝を忘れてはいけません。
 色々な場所に行くと、記念碑を見かけます。そこには、色々な時代背景があります。記念碑がなければ、たぶん、それらの事柄について、思い出さないでしょう。「ここまで神が私たちを助けてくださった」という記念碑を、心に建てなければなりません。それが、「エベン・エゼル、助けの石」です。
 あなたには、どのくらいの「エベン・エゼル」の記念碑が心に刻まれていますか。「主が、あの時に私を助けてくださった・・・」という、思い出があることは素晴らしいです。その時、主は私たちを新しい領域へと導いてくださいます。
 ここで、「エベン・エゼル(ざわめき)」を賛美したいと思います。

ここまで主が我らを助けてくださった
主の偉大なる 御力に支えられて
ここまで主が我らを 助けてくださった
主の臨在に包まれて 導かれて

エベン・エゼル エベン・エゼル 主は共に
エベン・エゼル エベン・エゼル 我らの助け
エベン・エゼル エベン・エゼル ふと見上げれば
主はここにおられる

 私たちが振り返ると、そこには「エベン・エゼル」という感謝のマイル・ストーンが建てられているはずです。そして、ふっと見上げると、主がそこにおられます。主の臨在があるときに、ダゴンの力は打ち砕かれます。ですから、詩篇の記者はこのように語っています。詩篇一〇三篇二節に、

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』

 これは自分自身に対して言い聞かせている言葉です。「主が良くしてくださったことを、何一つ忘れないように!」ということです。これが、今後も主に委ね続ける秘訣となります。「エベン・エゼル記念碑」を毎日建てたいと願います。
 パウロは偉大な伝道者であり、霊的にも権威あるパワフルな人物でしたが、彼の人生は大変でした。コリント人への手紙第二の一章七節から九節に、

『私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。』

とあります。パウロとその一行は、小アジアにおける伝道活動の中で、強い圧迫を受け、「もう駄目だ・・」という究極の体験したのです。それは何のためであったかというと、

『もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。』

とあります。時々、問題がありますが、それは自分の力ではなく、「神により頼む者となるための養育係」になります。パウロも、「もう駄目だ・・」という体験を通して神に絶対的な信頼を寄せるように変えられたのです。そして、十節、

『ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。』

 パウロが、重荷を主に委ね続けることができたのは、「エベン・エゼルの信仰」でした。「今までも主は、大変なところから私を助けてくださった、だから、将来も助けてくださらないはずがない・・・」という信仰に立ちました。
 神は以前は助けてくださったけれど、「今回は駄目だ・・」と思いがちですが、「今まで私たちを助けてくださった神は、必ず、将来も助けてくださる。なおも救い出してくださる」という望みを、私たちはこの神に置いているという信仰を持ちたいものです。今まで、助けてくださった神が、将来も助けてくださらないはずがないのです。今日、今までのことを感謝すると共に、将来に対しても信仰を持たなければなりません。
 私たちは、今まで「エベン・エゼル」の石塚を建てることができました。これからも「エベン・エゼル」の記念碑を建て続けるでしょう。また、記念碑と記念碑の間には戦いがあるかも知れません。しかし、必ず、勝利のエベン・エゼルの石塚を建てることができます。第一ペテロ五章七節から八節に、

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』

とあります。色々な問題の背後には、悪魔が関わっていると教えています。多くのクリスチャンが、悪魔に無関心であれば悪魔は向かって来ないと考えています。「触らぬ神に祟りなし」という言葉が、さも聖書の御言葉かのように考えています。これは偽りです。悪魔は、いつもほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを探し求めながら歩き回っており、私たちは狙われています。それに勝つためには、私たちは「悪魔に立ち向かう」という信仰を、常に持たなければなりません。その中で勝利が来ます。

『すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』

 この御言葉は、マタイ十一章とルカ十章を照らし合わせて見ると、七十人の弟子たちが、「あなたの御名を使うと悪霊どもさえ服従します」という文脈の中で語られていることがわかります。私たちは常に、戦いを忘れてはいけません。神の側に立ち、御言葉の剣を持って悪魔に立ち向かい、神の前に感謝の石塚を建てていくときに、委ね続ける生活ができると教えています。すべての方々の将来は、主のみ手にあり、主はあなたのことを心配してくださっています。「正しい者が決してゆるぐようにはなされない」と力強く語られています。

 今日は聖餐式を行いますが、聖餐式は、イエス様が、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださり、私たちが滅びに行かないように、身代わりになってくださったことを感謝する、石塚を建てる瞬間です。今まで主が良くしてくださったことを忘れずに、感謝とともに聖餐式を行いたいと願います。お祈りします。


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