しあわせに生きるために

2004.12.12(SUN)
新城教会 滝元 明師

旧約聖書 詩篇 41篇1節〜3節
幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。
主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる。どうか彼を敵の意のままにさせないでください。
主は病の床で彼をささえられる。病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように。

 ハレルヤ!クリスマスおめでとうございます。昨日は、愛する松本晃兄が、天に召され、非常に悲しい思いがあります。しかし聖書から見ると、彼は、永遠の国・天国に帰ったので、兄弟にとっては素晴らしいことだと思います。
 また今週は、この教会に大きな出来事があります。それは、順牧師の家が解体されるからです。順牧師の家は地震が来たら、倒壊しそうな家ですので、今度は建て直します。「リバイバル聖書神学校」ができたこともあり、二世帯住宅を造ります。
 ちょうど死とは、家が壊れると引っ越すように、肉体が壊れるとどこかに引っ越さなければなりません。ですから、松本兄は、肉体から永遠に壊れない、永遠の国に帰ったということです。本人にとっては、嬉しいことかも知れませんが、残された家族には悲しみがあります。しかし聖書には、「空の鳥一羽も、主の許しなくて地に落ちることがない」とありますので、神の御心を受け入れていきたいと思います。
 今晩はクリスマス・コンサートがありますが、私は、クリスマスには楽しみがあります。それは、全国の兄弟姉妹が私のために祈ってくださるので、クリスマスカードを出すことです。毎年、約二千名に出しています。しかし今年は沖縄でたくさんのお金を使ったので、出さないことにしましたのでご了承下さい。今年は沖縄のためにささげて、素晴らしい奉仕ができたことを感謝します。
 先週土曜日に、枚方にある教会で説教をしました。そして次の日も、同じ教会で四時頃まで奉仕し、夜は堺福音教会でのコンサートに行きました。それは、「新潟中越地震」のためのチャリティーコンサートでした。そして、そこで集められた資金を手に、火曜の朝早く、新潟県の長岡市に行きました。東京まで行き、越後湯沢まで行き、そこから高速道路で、長岡の日吉先生の教会に行きました。日吉先生のご家族が守られているのを見て、心から感謝しました。
 地震は恐ろしいことです。ちょうどその日、日吉先生が二人のお孫さんを連れて出かけたそうです。しかしもう二人のお孫さんは、テレビを見て家で待っていました。小学校二年生と四歳の子どもが、二階でテレビを見ていると揺れが来たので、一階にいたお父さんが、慌てて二階へ行きました。そして部屋に入った途端、すごい物音とともに揺れが来たそうです。小学校二年生の子は、学校で避難訓練を受けていたので、すぐに机の下に潜り込みました。しかし四歳の子は、隣に階段があったのでそこを駆け下りたそうです。二年生の子が、机の下に逃げた途端、置いてあったテレビが倒れたそうです。また四歳の子が逃げたときに、大きな電灯が落ちてきたそうです。しかし守られたことを感謝されていました。小学校二年生の子が、机の下に入り大声で、「イエス様、助けて!」と叫んだそうです。そしてあまりの恐怖で、一時間程、「イエス様、助けて」と叫んで祈っていたそうです。
 私たちには、神の守りがあります。先生に、「どうですか。何か困っていますか。」と聞くと、「新城から、すぐに義援金や物資を下さったので、本当に助かりました。よろしく言ってください」と言われました。また、小千谷にも行きました。また土砂崩れの現場にも行きました。悲惨な現場を見て、地震は怖いと思いました。日吉先生は日頃から水を買って備えておいたので、助かったとも言われました。私たちは、いつ地震が来ても良いように、備えることが大切だと思います。詩篇41編1節から3節に、

『幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。』

と記されています。私たちはどこかで、災害や人が苦しんでいるときには、心を配らなければなりません。「私には関係ない」とは言わず、弱っている人に心を配る人は、「主はわざわいの日にその人を助け出される」とあります。私たちが、わざわいに遭わないという保証はありませんが、苦しんでいる人に心を配る人に対して、神はわざわいの日にその人を助けるのです。
 また二節には「主は彼を見守り」と書かれていますので、弱い人に心を配るときに神が見守ってくださり、地上で幸せにしてくださると教えています。自己中心は良くありません。人のために、また、苦しんでいる人のために働くときに、神様がその人を祝福してくださるのです。また三節に、

『主は病の床で彼をささえられる。病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように。』

と記されています。イエス様がこの地上に来られたときに、

『あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。』

と言われました。私たちはあわれみ深い人になり、助けることはとても大切です。ですから新潟のためにも、続けてお祈りしましょう。日吉先生が、「家は災害保険に入っていたので良かった」と言われていました。そして、「災害保険も出るし、全国からの援助に支えられている」と言われました。私たちは災害を見ると、やはり可哀想に思います。今年は多くの台風が来て、被害が出て亡くなった方々もありました。また地震がありました。私たちはクリスチャンとして、どうしてこのようなことが起こったのかを考えることが大切です。伝道者の書七章十三節から十四節に、

『神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。』

とあります。私たちの人生は、順調な時ばかりではありません。地震や、台風など、わざわいがあったときに、私たちクリスチャンは「大変だった・・」と言って、終わってはいけないと思います。わざわいがあった時、「どこか間違ったところはなかっただろうか・・」と反省することも大切だと教えています。

 聖書の中に、カナンの女性について書かれています。「カナン」という土地は、ある意味で、呪われた土地でした。マタイ十五章二十二節から二十三節に、

『すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った。』

 娘が悪霊につかれたので、お母さんはイエス様に叫びました。しかし、イエス様は彼女に何も言われませんでした。そして、あまりにもやかましく彼女が叫ぶので、弟子たちが、「この女を帰してください。」と言いました。その時、イエス様はとても冷たい言葉を返されました。二十四節に、

『しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。』

と記されています。それを聞いた女性は二十五節から二十六節に、

『しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。』

すると女性は、イエス様にせつに求めました。

『イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。』

 「子ども」とは「イスラエル人」です。また「小犬」は「カナン人」について言っています。カナン人を馬鹿にしているのです。もし私が、この女性の立場であったら、おそらくイエス様と喧嘩をした思います。
 「何を言うのだ。私はこんなに真剣に助けを求めているのに…。返事もしないで…。イスラエル人しか救われないとは何だ。差別ではないか。その上に、私を小犬と言うとは何だよ。イエス!」と言うと思います。しかし、この女性はへりくだって語りました。それが二十七節にあります。

『しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」』

 女性は馬鹿にされても、「主よ。その通りです。小犬でも主人の机から落ちるパンくずは食べるのです」と言いました。するとイエス様は、『ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。』と言われました。
 イエス様はこの女性の心を見ました。「その時に娘は癒された」と記されています。聖書を見ると、時々、理解できないようなことがたくさん記されています。イスラエル民族は、四三〇年間エジプトで奴隷生活をし、モーセによって奴隷から解放され、四十年後カナンの地に来ました。カナンには当時、七つの民族が住んでいました。モーセに神様は、「七つの民族を聖絶せよ」と語られました。「聖絶」とは、「一人残らず殺せ」ということです。そしてイスラエル民族がカナンを占領しました。神様は、残酷な方だと思いますが、そこには理由がありました。
 レビ記の十八章に書かれています。カナンの地は、罪で汚れていました。それゆえ神が聖絶し、そこに新しい国家を形成しました。その地は、性的に汚れていました。結婚する前に、肉体関係があったり、不倫をしたり、母親と関係したり、いとこ同士や姉妹同士で関係していました。そして、もう一つの罪は偶像礼拝でした。「モレク」という偶像に自分の子をささげました。また、ホモ・セックスをしていました。現代も、そのような結果として、エイズが蔓延しています。さらに、動物と肉体関係を持っていました。そのように汚れた地でした。あまりにも汚れていたので、レビ記十八章二十四節から二十五節に、

『あなたがたは、これらのどれによっても、身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国々は、これらのすべてのことによって汚れており、このように、その地も汚れており、それゆえ、わたしはその地の咎を罰するので、その地は、住民を吐き出すことになるからである。』

と記されています。私たちが、台風などのわざわいを見るとき、ある意味で、地から吐き出されるような側面があると思います。地が、あまりにも汚れているからではないかと思います。そのような惨事を見て、襟を正さなければならないと思います。自分自身はどうであるのか。神様は愛なる神ですが、中心は「義」です。きよさです。神様はきよさの中に、愛を持っておられますので、秩序がないことはさばいて吐き出すと教えています。
 今回、日吉先生と新潟を巡回しました。山の中で、被災したところがありました。すると日吉先生が、「先生、あそこには白い蛇を祀っています。」と言われました。偶像礼拝でした。田舎程、偶像礼拝が多いです。また、性生活が乱れ、家庭が乱れています。なぜ、地震が来るかというと、人間から見ると、地殻変動です。しかし、私たちクリスチャンは、「地震が来る」ということよりも、「なぜか」ということを考えなければなりません。この地が汚れている。だから、神のさばきがある。しかし、来ないように、私たちが悔い改めなければならないところがあります。
 ある意味で、この新城の地も汚れています。血で汚れています。設楽原の戦いで、一万何千人という人々が亡くなっています。そのような地に、この教会は建っています。私たちはクリスチャンとして、この地があがなわれること、そして、「イエス様の血潮によってきよめてください」と祈ることが大切です。東海地震が来ると言われていますが、私たちは、地震が来ないように先祖の罪を悔い改めて、祈らなければならないと思います。もしも、クリスチャンがへりくだって、悔い改めるならば素晴らしい祝福をいただくことができます。私たちが悔い改めて、神の前に出ることは素晴らしいことです。

 最近、日本で色々なことがあります。先週、設楽町の家庭集会に行きました。すると、「熊が出た」と話されていました。最近、熊や鹿、イノシシの害があります。なぜ熊が出るのかと問題になっています。それは、山の中に食べ物がないからだ、と言います。しかし、レビ記二十六章二十二節には、

『わたしはまた、あなたがたのうちに野の獣を放つ。それらはあなたがたから子を奪い、あなたがたの家畜を絶えさせ、あなたがたの人口を減らす。こうしてあなたがたの道は荒れ果てる。』

と記されています。聖書には罪の結果として、神は悪い獣を出すと記されています。また、列王記第二の十七章二十五節に、

『彼らがそこに住み始めたとき、彼らは主を恐れなかったので、主は彼らのうちに獅子を送られた。獅子は彼らの幾人かを殺した。』

 日本にはライオンはいません。しかし熊が出ました。これも、ある意味で、神の計画だと思います。おそらく、私の町の津具村は田舎ですが、あまりにも偶像礼拝におぼれているので、神が地から吐き出すと言われるかも知れません。熊の対策は、住民が罪を悔い改めて、きよらかな生活をすることです。自然現象は、ただの現象ではないと思います。来年は、花粉が二十倍になり、花粉症が増えると言われています。今年が異常気象であるためだ、と言われています。私の小さな頃は、花粉症はありませんでした。花粉症になった時には、沖縄に行くと良いです。杉がないからです。しかしなぜ、こんなふうになってしまったのでしょうか。これにも、神の干渉があると思います。自ら反省して、先祖から伝来している罪を赦してください、と祈らなければなりません。解決ができるのは、クリスチャンしかありません。第二歴代誌七章十三節から十四節に、

『もし、わたしが天を閉ざしたため雨が降らなくなった場合、また、いなごに命じてこの地を食い尽くさせた場合、また、もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。』

とあります。わざわいをストップさせるのは、クリスチャンしかありません。私たちは神の前に出なければなりません。この地をきよめることができるのは、イエス様の十字架の血潮しかありません。
 昨年、新城という平和な町で殺人事件がありました。この地が汚されているのです。「この町において汚れがあったことを赦してください」と祈らなければなりません。もしこの市がクリスチャンの町になったら、そのようなことはないはずです。
 最近、この地方には獅子よりも、熊よりも恐ろしいものがあります。それは痴漢です。これは、福音の光がまだこの町に照らされていない証拠です。これから、この新城に痴漢も、泥棒も、殺人もない町になるために祈らなければなりません。

『わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。』

 この話を、「ざわめき」の集会で話しました。すると、立派な青年が私の所に来ました。「悔い改めなければさばかれますか。クリスチャンでもですか。」というのです。私は、「あなたはそんな罪があるのか。どんな罪か」と聞きました。すると、「性的な罪です」と答えました。「やめなさい」と言いました。「やめられません。会社ぐるみでやっているので、私一人だけがやめることはできないです。」と言いました。誰がどうあっても、やめなければなりません。クリスチャンがしっかりと立ち、「私はやりません」とはっきりしなければなりません。聖書には「寝床を汚してはなりません。神は姦淫する者をさばかれます。」とあります。今の時代は、結婚する前に肉体関係を結んでいます。良い家庭生活ができません。どんなに誘惑があっても、はっきりと結婚までは貞操を守ることが大切です。しかしクリスチャンになる前のことは、悔い改めなければなりません。神の前に罪として、悔い改めて行くことが大切です。ですから、クリスチャンが本気になって、神のみ顔をしたい求めて赦しを求めること、悔い改めがあるならば、この町、そして日本が救われます。私たちは、罪を悔い改めましょう。第二歴代誌七章十四節をしっかりと握りましょう。

『わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。』

 新城の地が癒されるように、日本の地が癒されるように祈りましょう。先日、新幹線に乗りました。切符の検査があります。信用があったらそんなことはしません。車掌が、「お客さん、ちょっとお伺いしたいことがあります。今忙しいので、後きます。」と言われました。そしてまた来られました。私は「ジバング」というのを使っています。それは、六十五才以上になると使えます。一年に、二十回程、三十パーセント安くなります。十万が七万になります。「あなたの名前を書いてください。証明書を持っていますか。」と聞くのです。私は、「何のために調べているのですか」と聞くと、「最近、人の手帳を使って、多くの人が乗っているから調査している」と言われました。偽りはいけないことです。クリスチャンが祝福される道は、真実な歩みです。ごまかしてはいけません。詩篇十五篇一節から五節に、

『主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。正しく歩み、義を行い、心の中の真実を語る人。その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行わず、隣人への非難を口にしない。神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ。損になっても、立てた誓いは変えない。金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。このように行う人は、決してゆるがされない。』

とあります。嘘を言わないこと、クリスチャンの生活は家庭や夫婦の間に偽りを入れてはいけません。
 私はネクタイをたくさん持っています。安いのを、たくさん買うのが一つの趣味です。今日は、とてもおもしろいネクタイをしています。先日、アメリカに旅行した私の孫がこのネクタイを買ってくれました。そして、「おじいちゃん、今度の日曜日に、このネクタイを締めてよ。」と言うのです。私は、「うん。良いよ」と言いました。正直、このネクタイは礼拝には合わないです。子どもの喜ぶような、ネクタイです。しかし、毎日の生活の中で、クリスチャンは真面目に生きなければなりません。真実を求めることが大切です。世の中がどうであっても、真実に生きるべきです。
 以前に、私の友人の祝賀会に行くと、乾杯をするというのです。ビールでした。私はビールを飲まないから、ジュースにしてと言いました。友達がいて、「クリスチャンでも、酒を飲む人がいるのではない?」と言いました。しかし「私は私。私はそうしている」と言いました。クリスチャンになって、「酒は飲まない、たばこも飲まない」というところで、健康が支えられたと思います。「仕方がない、イエス様よりも人が大切だ」と言って飲んだら、祝福はありません。クリスチャンが、真実な生活をすることが大切です。自分を偽らないことです。信仰も偽りがないことです。誰かが誉めるか誉めないかと言うことではありません。自分の罪を悔い改めて、神の前に出るか出ないかということです。ですから、本当にへりくだって祈りましょう。この地が癒されるように。新城が救われるように。日本が救われるように。淫乱から解放されるように。偶像礼拝から解放されるように。真の神を皆が求めるようになったら、日本は祝福されます。
 しかし、災害の遭ったところだけが、罪深いのではありません。私たちはあわれみ深い人になるべきですが、自らが反省しなければなりません。この地方に地震が来ないように祈りましょう。へりくだるだけで地震が来ないならば、へりくだった方が良いです。問題がある方は、自らを省みて、喜ばれないところがあったら、悔い改めましょう。すでに、悔い改め、赦しの確信があれば、必ず、祈りが聞かれると信じましょう。どんな罪でも、イエス様の十字架の血潮で赦されないことはありません。イエス様の十字架の血潮を見上げて、お祈りしましょう。


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