主に会う備えをせよ!

2004.12.19(SUN)
新城教会 滝元 順師

旧約聖書 アモス書4章12節
それゆえ、イスラエルよ、わたしはあなたにこうしよう。わたしはあなたにこのことをするから、イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。

 ハレルヤ!クリスマスおめでとうございます。

 私たちには、必ず、人生の延長線上に神と出会う瞬間が来ます。先々週と先週、この教会から、二人の方が天に戻って行かれました。先々週の土曜日には、松本晃兄が六十八年の人生を終えて天に戻られました。また先週の金曜日には、佐野つま姉が九十三年と半年の人生を終えて、天に帰って行かれました。たいへん寂しく思います。しかしお二人は、今、肉眼でイエス様を見つめており、何よりも、「イエス様を信じて良かった!」と喜ばれていると思います。私たちもその日を待ち望みつつ、地上に残された日々を精一杯生きることが与えられている使命です。

 今日は大変忙しい一日です。礼拝が終わってから「クリスマ特別昼食会」があり、その後、「バプテスマ式」があり、そして四時からは、「佐野つま姉の葬式」があり、夜には青年会の「クリスマス会」があるからです。

 教会の葬式は素晴らしいです。日本の結婚式はキリスト教式が増えていますが、葬式もキリスト教式になると良いと思います。人々は葬式で慰めを受け、力を受け、生きる希望を得るのです。

 そもそも、葬式に行くことは一般的にはあまり嬉しいことではありません。しかし伝道者の書七章一節から四節に、

『良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。知恵ある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く。』

と記されています。聖書は、「生まれる日よりも死ぬ日の方がまさる」と語っています。そして、祝宴の家よりも、喪中の家に行く方が心が良くなると教えています。今日の葬式にぜひご出席下さい。心が良くなります。なぜならば、神のみ前で厳粛な思いにされ、やがて、神と出会う日が来ることに心をとめるからです。そして、「永遠に対する準備をしなければならない」と気づくからです。

 誰でも、死という関門を通ります。あまり考えたくないことですが、必ず人は死にます。一つ確実に言えることは、百年後、ここに戻ってきたとしても、今日集っている人は誰一人としてここにはいないということです。皆、この地上から消えています。葬式の時、私はいつも思います。講壇の前に棺桶が置かれますが、「やがて私もここに置かれるときが来る」という事です。

 しかし人生は、この地上だけで終わりません。永遠の世界があるのです。永遠の世界をしっかりと、現実として捕らえて生きていく必要があります。死とは、魂の引っ越しのようなものです。

 先週、私の家が取り壊され、今は更地になっています。私の家は二十八年間の生涯を終えました。壊してみると驚きました。何と、四隅の柱がシロアリに食べられてボロボロになっていました。それを見て、「危なかった」と思いました。家が建っていた場所は、以前、製材所だったので木の皮や腐った木などが堆積しています。そこはシロアリの巣で、さらに上に食べやすい家があれば、上ってきて食べたのです。そのまま住んでいたら大変なことになっていたと思いました。最近ボールを床に置くと転がっていくので不思議に思っていましたが、地震でも来たら壊れてしまうところでした。それで私は先週、引っ越しをしました。今私は、素晴らしいところに住んでいます。今まで住んでいた家は、建坪二十五坪という小さな家でしたが、今度は、三百五十坪の豪邸に引っ越しました。それは隣の教育館です。全部使っているわけではありませんが、トイレでも5カ所あります。今までは体を横にして歩かなければ通れなかったような所も、さっさと歩けますし、部屋から部屋が遠いのです。

 地上での歩みは、小さな家に住み、不自由な肉体に住んでいます。しかし、やがて私たちは引っ越しするときが来ます。体という幕屋が朽ちたら引っ越しするのです。ある人は、病というシロアリに食べられて新しい家に移ります。人の体には耐用年数があります。佐野つま姉は九十三年間でした。今日の葬式は長寿の油注ぎがある葬式であるようにと祈っています。長く生きると人の体は古くなります。人の体は土で創られているので耐用年数がありますが、天の御国に行ったら二度と朽ちない体に住まわせてくださるのです。その日が来ます。

 神は色々な種類の肉を創りました。魚の肉、豚の肉、牛の肉、鳥の肉、人間の肉…と種類があります。それならば、朽ちない永遠の肉体、天における肉体を造ることができないはずがないと教えています。神はあなたのために、絶対に朽ちることのない肉体を用意しておられます。このことを常に心に留めて歩む必要があります。

 やがてこの地上の幕屋は壊れますが、神が下さる建物があります。第二コリント五章一節から五節に、

『私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。』

        

 クリスチャンでも病気になることがあります。松本兄も病気で入院され、天に帰られました。佐野つま姉も、しばらく伏せておられました。肉体の苦しみをクリスチャンでも味わうことがありますし、その延長線で天に帰える人もいます。しかし、クリスチャンの死に対する理解は、一般の理解とは違います。私たちは病になると、「体がボロボロになってしまった…」と辛く、悲しく思いますが、それは病の体を脱ぎたいというのではなく、「かえって天の幕屋である住まいを着たい」という望みだと聖書は告げています。医学的に、「これ以上望みはない、寿命もここまでだ。体から出なくてはならない」という瞬間は、体が駄目になったというのではなく、「天からの住まいを着る」希望の瞬間だというのです。ですから、苦しみはただの苦しみではなく、天からの住まいを着るための望みにつながるのです。その結果、死ぬべきものがいのちに飲まれるのです。

 天に帰ると、二度と朽ちることがない衣を着ます。ということは、今まで朽ち果てていた体、すなわち、死に支配されていた体が永遠のいのちに飲まれることになるのです。その結果、死が打ち破られて勝利が与えられるのです。この二週間にわたり、天に帰られたお二人は、永遠の勝利の中に生きています。この教会からも多くの方がすでに天に帰られましたが、皆集まってこの礼拝を見ていると思います。彼らの一番の関心事は、地上だと思います。地上で生きているクリスチャンたちが、どんな歩みをしているのか、日本のリバイバルがどのように進んでいるのかについて、関心を持っていると思います。新城教会の礼拝の時間には、この教会から天に帰って行かれた兄弟姉妹が集まって、地上からの礼拝中継を見ていると思います。「今日は○○さん、元気がないな・・。祈ろう」などと言って、祈っていると思います。また、「順先生はどんな話しをするのだろうか。今日のジョークは何だ?」と天国で話題になっているのかも知れません。地上と天上は不連続ではありません。連続性のあるものです。

 パウロは人生の中で強烈な体験をしました。第二コリント十二章二節から四節に、

『私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。私はこの人が、――それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。――』

と記されています。パウロは一度石打の刑に処せられ、誰が見ても死んでしまったと思われることがありました。その時にパウロは、肉体から魂が抜け出て第三の天に行ったのです。第三の天とは、天国、御国と同じ意味があります。彼は、天国に行ったのです。その時の体験が記されています。彼は、『私はキリストにあるひとりの人を知っています。』と語りました。これは彼自身のことですが、他人事のように記しています。「この人は肉体のままであったか、肉体を離れてであったかわからないが」と記しています。これは彼が死んだ瞬間のレポートです。体から霊魂が抜け、自分としては、「あれっ?肉体を離れたのか?肉体にあるのか?」と、体の存在意識があったのだと思います。しかし下を見ると、自分の亡骸が横たわっているのを見たと思います。「私は横たわっているが、何なのだろうか・・」と思ったのです。だから、「私はひとりの人を知っています」と自分のことを、他人事のように記したのでしょう。

 やがて私たちもその瞬間が来ます。それは別に、怖いことでも何でもありません。魂だけが放浪するようなこともありません。死んでも自分としての存在感があるのです。そして「どこだ?ここは?天国だ!!」という体験が、あなたの人生の延長線にあるのです。消えてなくなることはありません。

 アメリカの精神医学者で、キューブラー・ロスという人が臨死体験をした二千五百人に聞き取り調査をしたそうです。すると同じ答えが返ってきたというのです。それは、死んだときに自分の体が見え、その周りを家族が取り囲んで泣いているとか、医者が臨終を宣言している姿を見たというものでした。結論として、死後の世界があるということで、「死ぬ瞬間」という本を書いて有名になりました。彼女も今年、死にました。しかし彼女はクリスチャンではありませんでした。彼女は、死後の世界があるということを調査しながら確信しました。人間は死では終わらないと確信したのです。しかし本当の神を知らなかったので、彼女は晩年、ヒンズー教に向かいました。東洋神秘学です。そして人間は輪廻すると言いました。しかしそれは間違いです。真の神に出会うことが重要です。東洋神秘学や、この世の宗教には解決はありません。

 先々週、リバイバル新聞から電話が入り、「先生、今度、新春対談という企画があるのですが、やっていただけませんか。」と言われました。一年の方向を示すための重要な対談です。「私で良いのですか?」と聞くと、「霊的戦いのために活躍している先生にぜひやってほしい、と思っています。お願いします。」と言われました。そして、「対談相手はどなたが良いですか?」と聞かれました。「気軽に話せるのは誰かな…」と考えましたが、「誰でも良いです。」と言いました。

 しばらくするとファックスが来て、「奥山実先生と対談してください」と言われました。「何を話したら良いのだろうか・・・」と思いながら東京に行きました。奥山先生は博学だし、どういう話題で話そうかと考えていました。私が記者の方ばかり見て話していると、「対談ですから、互いに目を合わせて話してください。」と言われました。

 途中で私がこう話しました。「今の世界の霊的暗闇の根元はイスラムではなく、ヒンズーだと思います。」すると奥山先生が、「そうです。間違いありません。」と言われました。

 今、原子物理学者たちも、理論を突き詰めて行くと、最終的には「意識」にぶちあたるというのです。「物体がある」と言うことも、人が物体を意識するから存在するのだと言うのです。だから、「意識」について扱わなければ結局答えがなく、多くの物理学者たちが、東洋神秘学やヒンズーに行っているというのです。そこから話しが盛り上がり、三時間程対談しました。

 東洋神秘学では、死や死後の世界を解決することはできません。聖書は、死後の世界について、はっきりと語っています。人間は一度死ぬこと定まっている、そして、もう一つ聖書が語っていることは、「死後さばきを受けることが定まっている」と言うことです。ヘブル人への手紙九章二十七節から二十八節に、

『そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。』

 私たちは、一度死ぬことと、死後さばきに会うことが決まっています。

 最近、車を走らせていると、不気味な看板を見かけます。黒地に黄色の文字で、「死後さばきに会う!」「キリストは来られる」などという看板を見ます。時々、新城教会に、「お宅ですか。あの不気味な看板を立てているのは」と電話がかかってきます。あの看板は、この教会のものではありません。それは本当のことを書いています。しかし、あの看板を見れば人々は恐怖になると思います。あの看板を貼っている人々は、私たちとは福音理解が違う人々です。彼らの考えは、「福音は一方的に聞かせればよい」と自分勝手な解釈です。「一度でも看板を見た人には責任がある。地獄に行ってもしょうがない。」という考えです。しかし、聖書はそのようには語っていません。福音を語ると同時に、ねばり強く一人ひとりをフォローしなければなりません。ただ、言い放つだけではいけないのです。

 けれども、聖書は一度死ぬことと、死後さばきを受けることについて、はっきりと語っています。最近、嫌な事件が多発しています。およそ、人の道とは考えられないような事件がたくさん起こっています。女の子を殺害し、それをメールで送りつけるというのです。私はいつもテレビを見ながら、犯人の所に天使が遣わされ、捕まるようにと祈っています。しかし、あのようなことをしても捕まらずに一生をお終える人もいます。また、ある人は、やってもいないのに捕まえられて、牢獄で苦しめられます。悪いことをしたら「さばく」というのは、人間が持ち合わせている性格です。それは本能的なものです。学校でも、悪いことをしたら先生は、生徒をしかります。

 小中学校の時、私はよく先生から叱られました。さばかれるときには、自分にも自覚があります。「あれは悪いことだった・・」と思い当たります。自分に認識があるのです。それでも人間のさばきは不完全です。神の公平なさばきがなくては不公平です。

 私たちは人生を終えたら、神の前でさばきを受けなければなりません。そして、人生で行った全ての罪に関し、自ら言い開きをしなければならないのです。神の法廷に出なければならないのです。今、私が語っている様子をビデオに撮っています。後からでも、どんなしぐさをしていたのか全部わかります。人間でも、そんな技術を持っているならば、神が人間の行動を記録出来ないはずがありません。神の前に出て、全部証拠を見せられて、「お前はこのような罪を犯しただろう。」とさばかれるのです。

 心の中には神によって、あらかじめ「法律」がインプットされています。それが「良心」です。「これはいけなかった。悪かった・・・」と感じる良心があります。良心は全世界共通しています。それは死後、神の前でさばかれるときの基準になります。しかし、良心に反した行動をとったことがない人間は、どこにもいないと思います。さばきを逃れる人などいないはずです。

 イエス様が、クリスマスに地上に生まれてくださったのには目的がありました。人は神によって創られ、神から発したのです。人には高い自由度が与えられ、良心という律法をインプットし、それに照らし合わせながら生きるようにされました。しかし人は良心に反する罪に走ってしまいました。罪を犯した人間は滅びなければならないというのが、神の掟の中心です。神の中心は義です。人間は皆、滅びに向かってしまいました。しかし、滅び行く人間のために、神が自分の座を捨てて自ら人となって地上に生まれてくださいました。イエスさまは、三十三年間、地上で生活し、最後には十字架にかかって死なれました。自ら死なれたのです。イエス様は殺されたのではなく、「自ら十字架に進まれ、自ら命を捨てたのです。」今年は「パッション」という映画が有名になりました。しかし、それを見ると、イエスさまは、ユダヤ人にむち打たれ十字架に磔にされて殺されたと思います。けれども、聖書はそのようには告げていません。イエス様は、自ら命を捨て、自らよみがえったのです。それは、私たち人類が犯した全ての罪の身代わりでした。イエス様を信じるならば、私たちは死後さばきにあうことはありません。死ぬことは決まっています。そして、必ず、さばきもあります。しかし、イエス様を信じているならば、どのような罪もすべて赦され、無罪という判決がくだります。だから、死後さばきに会うことはないのです。

 死ぬ瞬間は、海外旅行の際に出国の列につくようなものです。その列に付くのは何も悪いことをしていなくても、ドキドキするものです。たぶん、死んだ瞬間も同じだと思います。全世界から人々が来て、その列に並ぶと思います。その時に「全世界では、一度に大勢の人々が死ぬものだ・・・」と思う事でしょう。隣近所にいる人たちと話し合うかも知れません。「あなたはどうして死んだのですか?」「私はガンでした。」「私は突然の交通事故でした。」「私は老衰です。」と語り合うのかも知れません。

 やがて、神の係官の前に進み出ます。そして、自分が持っている、何らかの書類を係官の前に提出するのでしょう。係官は、本人を確認します。私ならば、「滝元順さん、あなたは地上で多くの罪を犯しましたね。でも、イエス様を信じましたね。良かったですね!この書類には多くの罪の履歴が記されていますが、『イエスの十字架の血によって無罪』という判が押してありますよ。もしもあなたが牧師の息子に生まれなければ、この判はなかったかもしれませんよ。」などと言われるかも知れません。

 「良かった!!私は無罪なのですね。これからどうなるのですか。」と聞くと、「このゲートを入って行くと、右側に天国行きのサインがあります。それに沿って、右側のレーンを進んでください」と言われます。私が右側に進むと、そこには、「順先生、大歓迎!!」と書かれた垂れ幕があり、先に天国に行った人々が花束を贈呈してくださるかも知れません。そして、奥の方からイエス様が出てきて、「良く来たな」と迎えてくれると思います。それからは、死も、苦しみもない、永遠の国・天国で過ごすのです。

 しかしもしも、「無罪」という判がなかったら、どうなるのでしょうか。

 神の係官は、ある人から書類を受け取って顔が曇ります。「あなたの書類には罪の履歴だけで、無罪の判がありません。これから大変ですよ。人間は生まれながら悪魔の支配で悪魔の奴隷です。奴隷は、その主人の家に行かなければならないのです。だからあなたは、永遠の地獄に行くのです。」「えっ!そんなバカな。今からでも、何とかなりませんか?」「いや〜。ここまで来ちゃうと、どうにもならない…」「それってどこで無罪の判がもらえたのですか?」「地上ですよ。下を見てごらん。ちょうど、あんたの葬式をやっているよ。地上に生きているときに教会に行っていたら、罪は赦されたのに。先ほどの人は右に行ったでしょう。でも、あなたは左のレーンに行ってください。そうすると、地獄はあっちと書かれていますから。」

 「そんなの嫌だ!!」というと、「早く行け!!」と言われ、恐る恐る左に進んでいくのです。すると悪魔が待っていて、「お前を今から地獄に連れて行ってやる!!」と言って連れて行くのです。

 誰でも、そうはなりたくないと思います。イエス様がこの地上に来られたのは、永遠のいのちを与えるために、この地上に来てくださいました。ここにおられる方で、誰ひとりとして、左に行く人はいないと信じます。イエス様を信じてください。イエス様を信じるならば、あなたが過去に、どんな罪を犯したとしても、未来にどんな罪を犯しても、イエス様を信じ続けさえすれば、天国にはいることができます。そして、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」とありますから、どんなに迫害があっても家族の中でイエス様を信じて続けているならば、やがて家族も、イエス様を信じる日が来ます。

 私たちの体は、土で造られているが故に、やがて滅びてしまいます。霊においては新しい体に宿り、生きます。しかし、「この肉体が滅びる」としたら、神の救いは完璧とは言えません。なぜならば、肉体は滅びるからです。神様の救いが完璧と言われるならば、肉体が死によって滅んで終わりであれば不完全です。体がよみがえらなければ、完璧ではありません。

 最終的に神は人類の歴史を終結させ、神の支配が来ます。それが「世の終わりの日」です。その時には、死んでいた人がよみがえると聖書は告げています。第一テサロニケ四章十三節から十七節に、

 

『眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。』

とあります。イエス様は、やがてもう一度、この地上に再臨されます。

 今の世界の状況をだれもコントロールできません。アメリカが動いても、国連が動いても、どうにもなりません。世界はどんどん混乱を極め、最終的には神が人類の歴史に終止符を打たれるのです。その時、先に天に帰った人たちを連れてきます。そしてその時、死んだ体がよみがえります。ダニエル書十二章一節から四節に、

『その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。」』

とあります。「多くの者は知識を増そうと探り回ろう」とは、現代社会について語っているかのようです。イエス様は、もうすぐ帰って来られます。何と、その時には、一度塵になった人たちがよみがえるのです。今までの歴史の中で、地上に生まれた人々全員が塵の中から目をさまします。そして、肉体で、さばきを受けるのです。

 葬式の後、火葬場で体を焼きます。火葬された骨を見るとむなしいです。ある意味で、その時が遺族にとって最も悲しい瞬間だと思います。いつも私は、どうやって慰めるべきか言葉を失います。

 しかしクリスチャンには望みがあります。なぜならば、私たちはもう一度、よみがえる時が来るからです。ある人は、「クリスチャンは、墓や遺骨を粗末にするのではないですか?」と誤解します。教会は遺骨をしっかりと管理するのです。なぜならば、骨はただのカルシウムの固まりのようですが、それはただのカルシウムの固まりではないからです。

 最近、北朝鮮から横田めぐみさんと言われる遺骨が返され、日本政府はそれを鑑定しました。すると、それは横田さんの遺骨ではありませんでした。また、松木さんという人の骨を鑑定したら、五人分位の骨が入っていたと言われました。なぜ、そんなことがわかるのでしょうか。すごい時代です。

 今、日本は怒っています。しかし、このような時にこそ、私たちクリスチャンは、北朝鮮のために祈らなければなりません。報道や世論に踊らされては行けません。北朝鮮でも、悪いのはごく一部の人々です。皆、束縛されているのです。民衆は、自由のない生活をしていますので、解かれるように祈らなければなりません。

 先日、こんなアメリカのジョークがありました。二〇〇X年に、金正日がアメリカと平和条約を結ぶために、ブッシュ大統領と出会いました。すると、ブッシュが自慢して、「我が国は科学の発展と共に地獄にかける電話を発明した。ところで、あなたのお父さんは地獄に行っているかも知れないので、電話してみてください」

 そこで、金正日は地獄に電話をしたのです。やはり地獄に彼の父がおり、電話で話したそうです。話が弾んで長電話になったので、ブッシュがやきもきして言いました。「地獄への電話は、すごく料金が高いのです。一分間、何千ドルというコストがかかるのです。この辺でやめてください。」

 しかし、金正日は、帰るときに地獄に電話をかける方法をブッシュから教えてもらい、国に帰ってからもう一度地獄に電話をかけたというのです。それで自分の父親だけではなく、世界を苦しめたヒットラーやムッソリニーなどにも電話して大いに盛り上がったというのです。

 しかし、はっと我に返り、「しまった!こんなに長電話をして、料金が大変だ!!」と、料金をオペレーターに問い合わせたそうです。

 「電話料金はいくらか?」すると、「五ウォンです」とオペレーターは答えました。「なぜそんなに安いのか?」と聞くと、「北朝鮮から、地獄への電話は市内料金です。」

 「北朝鮮は地獄だ」と言っているジョークです。捕らわれている人々は可哀想です。北朝鮮を憎んでは行けません。解放を祈らなくてはいけません。

 人類に、枯れた骨からでも人物を特定する技術があるとはすごいです。DNAとは、神がある人物を造った時の設計図です。火葬した後でも、設計図が枯れた骨の中に残っているのです。その設計図を拾い出し、朽ちない体によみがえらせることぐらい神にとっては簡単なことです。その日、私たちが地上で失ったものをすべて取り返すことができます。イエス様の救いは、そこまで完璧です。

 今日まだ、イエス様を救い主として信じておられない方は、イエス様を自分の救い主として信じてください。そうすれば、今までの罪は全て赦され、あなたは無罪放免となります。そしてこの地上から去っても、永遠の国に行き、一度断たれた家族の絆も取り戻すことができます。喜びの再会があります。

 そして永遠に、死も苦しみも悲しみもないところで、生きることができます。仮に私たちの祖先が地獄に行っているとしても、地獄は牢獄なので絶対に会うことはできません。警察に捕まり、あなたは親族ですから、同じ牢獄に入ってくださいと言うことにはなりません。二度と会うことのできない、永遠の断絶の場所が地獄です。地獄に行ってはいけません。イエス様を信じ、永遠の国天国に行ってください。これが教会と、クリスチャンの願いです。

 今日、イエス様を信じてください。心で信じて義と認められ、口で告白して救われるとあります。話を聞いてイエス様を信じたいと思ったら、心から「私を救ってください。罪を赦してください。永遠のいのちを与えてください」と祈って下さい。神はあなたのすべての罪を赦し、あなたを永遠の国・天国に入れてくださいます。その保証として、聖霊をくださると教えています。この地上でどんなことがあっても、私たちには永遠があるので希望があります。今日ここにおられるひとりひとりの中に、永遠の希望に輝く喜びがありますように。どんな苦しみ悲しみの中にあっても、常に私たちを導くために聖霊様が道を示してくださいます。そんな人生を送りましょう。お祈りしましょう。


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