聖霊の火を受けよ!!

2004.12.26(SUN)
新城教会 滝元 順師

新約聖書 ルカの福音書 3章16節
ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

  ハレルヤ!今日は十二月二十六日で、昨日までクリスマス集会がありました。昨晩のクリスマス集会には多くの方が集まられ、とても楽しい「インターナショナルクリスマス」をお祝いしました。人間はおかしなもので一日過ぎてしまうと、クリスマス気分が全く消えてしまうような所がありますが、クリスマスとは、イエス様がお生まれになった記念日であることを忘れてはなりません。今日も、この場所に、イエス様が共におられることを心から感謝しましょう。礼拝は、私たちを救い出してくださった、イエス様に対して捧げられるものです。心から、イエス様の誕生を喜び、イエス様をお迎えしましょう。

 今日はユースクワイヤーが「シング・ハレルヤ」という賛美をしてくださいました。あの歌は、かつてキリスト教界に「グロリヤ・シンガーズ」という有名なバンドがありました。その中で歌われていた歌でした。私は、そのバンドのリーダーとして、若いときは頑張っていました。今は職種が変わっていますが、神はひとりひとりの人生に、計画を持ち、導いてくださることを感謝します。

 教会は休みの場所です。私は小さな頃、楽器ができなかったので、学芸会の時、カスタネットかトライアングルしか演奏させてもらえなかった記憶があります。それらの楽器は演奏中も休みが多くて暇でした。私は休符の連続を見ながら、それがすべて学校の休みであったら良いのにと思って演奏していました。教会は魂の休み場なので、ぜひリラックスしてください。初めて教会に来られると、どんな所かわからないので多少心配があるかも知れません。しかし、来ているうちに教会が良い所だとわかってきます。一度、教会に来た週と、来ることができなかった週を注意深く比較してみてください。教会に来た週が、どのくらい祝福に満ちた週かを体験できると思います。

 イエス様は私たちに、休みを与えてくださいます。私は、教会に一時間、二時間をかけて来てくださる方々にたいへん申し訳なく思います。なぜなら私は、あまりにも近いところに住んでいるからです。勿論、近くから来られた方々にも感謝しています。新城教会に来て、素晴らしい休みを受け取っていただきたいと心から願っています。イエス様は、『すべて疲れを負っている人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』と言われました。ですから、教会に来ると休みを得ることができるのです。

 ここには、すでに退職されて時間に余裕と自由がある方々もおられるかも知れません。「定年退職って良いなあ・・」と時々考えます。新城教会には定年制がないので、死ぬまで働くという感じですが…。しかし退職してしまうと、休みは多くあるのですが、今までの張りつめていた糸が切れてしまうような感じらしく、案外つまらないらしいのです。何かしたいと考えているうちに、ぼけてしまうことがあるかも知れません。一番良いのは、リラックスしながらも、常に、燃えるものがあったら良いと思います。

 皆さんは、今、何かに燃えていますか?心に燃える火を持っていたら幸せです。心が燃えていたら希望があります。ある人は、恋愛に燃えています。しかし恋愛に燃えていても、やがて人の愛は変わります。

 先日こんな記事を読みました。「女性が男性に望むことは年代によって変わる。」と書かれていました。二十代の女性が男性に望むことは、「顔が良い。人の話を聞くのがうまい。ウィットに富んでいる。センスが良い。ロマンチック・・・」

 しかし三十代になると少し変わります。「見た目が許せる。髪の毛がフサフサ。車のドアを開けてくれる。お金持ち。ジョークで笑わせる。買い物の荷物を持ってくれる。手作り、家庭料理に感謝してくれる。誕生日や記念日は忘れない。そこそこロマンチック。」

 四十代はもっと変わります。「不細工過ぎない。(ハゲはO.K)こっちが車に戻るまでは発車しない。老後の資金を稼いでくれる。人と話しているときはせめてうなずく。平日くらいは髭を剃る。家具の移動のためにも健康であって欲しい。時にはロマンチック」

 六十代ともなると、「顔とわかれば良い。トイレの場所を忘れない。自分で立ち上がれる程には健康。何で笑っていたのか忘れない。入れ歯の置き場所を忘れない。週末だということを忘れない。ロマンチックってどんなものであったかを忘れない。」

 さらに七十代になると「息をしている。トイレで用を足せる…」

 「本当だろうか・・・」と思ってしまいますが、人間は変わっていくものです。一生燃え続けることは、なかなか難しいです。しかし一生消えない火があります。それが、「聖霊の火」です。ルカの福音書三章十六節に、

『ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。』

とあります。クリスマスに、イエス様がこの地上に来てくださいましたが、その前にバプテスマのヨハネが現れました。彼は、イエス様が現れるための準備をしました。彼は人々に悔い改めのバプテスマを説き、「悔い改めなさい。神の国は近づいた!」と叫びました。彼がイエス様について、「私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。」と語りました。「くつのひもをとく」という仕事は、かつて、奴隷がしていたことでした。しかし彼は、自分はそれ以下の者だと言いました。それは、イエス様の態度が大きいというのではなく、「権威ある方」という意味です。イエス様は神の権威とともに、地上に来てくださったのです。そしてイエス様が来た目的は、「その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」と記されています。

 人間は、神によって造られました。神の霊を宿すパートが用意されています。私たちが、イエス・キリストを信じると、聖霊のバプテスマを受けます。同時に「火のバプテスマ」を受けると記されています。聖霊と火のバプテスマを受けると、三十代であっても、四十代であっても、五十代、六十代、七十代、八十代でも、心に火が燃えていて、いつも若々しく、元気に過ごすことができます。聖霊と火のバプテスマを求めましょう。求める者に主は火を与えて下さいます。

 イエス様は神の子でしたが、完全な人としてこの地上に来て、人としての生活を味わわれました。イエス様の生涯について聖書に記録されているのは、誕生、十二才の頃が少し、それから三十歳から後のことです。イエスさまは、三十才の時に、水のバプテスマを受け、その時、聖霊と火のバプテスマを受けられました。イエスさまも聖霊の火を受けたた後、活動を開始されました。同様に、私たちも聖霊の力を受けなければ、人生の目的を達成できません。教会に来ると、神はあなたに聖霊の力と火を授け、祝福してくださいます。今はイエス様は地上で肉体を持っておられませんが、神の霊が世界を支配しておられる時代です。ですから、私たちは、神の霊を意識しなければなりません。

 ある牧師が教会の前にいると、子どもが自転車で通りました。その時、牧師は子どもに「教会に入りなよ。祈りを教えてあげるから…。」と言いました。すると「だって、自転車をここに置いたら盗まれちゃうもん。」と子供は言いました。すると牧師は、「大丈夫だよ。聖霊様が見ていてくれるから。」と答え、子どもを呼び、「父と子と聖霊の名によって…アーメン。」と祈りを教えました。そして子どもにも祈らせました。すると、「父と子の御名によって、アーメン」と子供は祈りました。「なぜ、聖霊と祈らないの。さっき、教えてあげたでしょう」と言うと、「だって、聖霊様は外にいるもん!」と言いました。

 多くのクリスチャンが、聖霊さまを外に出してしまい、聖霊の力を味わっていません。神は三位一体なるお方です。父なる神、人となって下さったイエス様、そして、神の霊である聖霊様です。そして、この聖霊さまが私たちを助けてくださいます。ですから、私たちは聖霊を意識しなければなりません。そして、聖霊は私たちに火を注いでくださいます。心に「情熱の火」を与えてくださいます。

 イエス様の弟子たちは、イエス様は将来王になるだろう、と期待していました。なぜならば、弟子たちはイエス様が病を癒し、悪霊を追い出し、五つのパンと二匹の魚で五千人に給食をしたのを見ていたからです。「この人はやがてイスラエルの王になるに違いない・・・」と期待していました。しかし彼らの期待は全く裏切られました。なぜなら、イエスさまは十字架にかかって死なれたからです。イエス様は十字架の意味について、前もって弟子たちに語っていました。「わたしは十字架にかかって死ぬが、殺されるのではない。自ら、十字架につく。そして、三日目によみがえる」と話されていました。しかし、彼らは全く意味がわかっていませんでした。イエス様の死は、弟子たちをどん底につき落としました。

 時々私たちも、そのようなことがあります。期待が外れ、夢が破れてしまうようなことがあります。弟子たちもそうであったと思います。彼らは夢破れ、それぞれの故郷に帰っていきました。ある者はかつて漁師でしたから、ガリラヤ湖に帰り漁に戻りました。また、ある弟子は自分の村に歩いて帰っていきました。その様子がルカの福音書二十四章十三節から書かれています。これはイエス様がよみがえられた日のことです。

『ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。』

 彼らは夢破れてエルサレムから、エマオに下っていきました。そしてイエス様について話していました。

『そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」』

 弟子たちの心は、どん底でした。自分の主人を失い、将来の夢も破れ、里に戻る途中でした。その時、死からよみがえられた復活のイエス様が近づいて来られたのです。それは聖霊様の働きと重なります。なぜならば、彼らは、それがイエス様であることに気づかなかったからです。

 時々私たちは、人生のどん底のような時もあるかも知れません。しかしそのような中に、主は近づいてくださいます。弟子たちは、どん底から燃える火を感じ始めました。この中から、私たちは、「聖霊の火を受ける秘訣」を読み取ることができます。第一に十五節に、

『話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。』

とあります。あなたの話題の中心は何でしょうか。ファッションについて、異性について、経済、世界情勢など色々な話題があるかも知れません。しかし私たちが、イエス様について話したり、論じ合っているうちにイエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩かれたとあります。ぜひ、話題の中心をイエス様にしてみて下さい。今週、誰かと出会ったとき、話題をイエス様にしましょう。クリスチャンではない方と出会ったときにも、イエス様のことを話したり、論じ合ったりしてみてください。ある人は、「イエス様のことは信じることができない」と言われるかも知れません。しかし、イエス様について話し合ったり、論じあっているうちに、よみがえりのイエス様が弟子たちに近づいてくださったように、私たちの所にも近づいてくださいます。そして、気づくと心が燃え始めます。聖霊の火を受けているのです。

 弟子たちは、「よみがえりのイエス様に出会った」という仲間のレポートに混乱していました。彼らがそのことについて話し合ったり、論じ合っている中に、イエスさまはおられました。二十五節から二十七節に、

『するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。』

 第二に、「聖書全体から、イエス様がご自分を説き明かされた」とありますが、私たちが、生活の中で御言葉をよく読むことです。それも、旧約聖書から新約聖書の中にイエス様を中心として読むときに、心が燃やされるのです。旧約聖書はイエス様がお生まれになる前のストーリーが記されていますが、その時代にも、イエス様はおられました。旧約聖書でも、イエス様はどこにおられるのだろうか祈りながら読んでいくうちに、御言葉とともに心が燃え始めるのです。

 今週、二〇〇四年の終わりの週に、心から主に感謝しつつ御言葉をお読みください。あまりよくわからなくても、聖書の言葉は神の言葉なので、私たちに語りかけてくださるのです。「主よ。エマオの途上で弟子たちに近づかれたように、私にも近づいてください。そして心を燃やしてください。」と祈ってみてください。聖書を読んでいる中で、心が燃やされます。

 二十九節に、

『それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。』

と書かれています。イエス様は先に行ってしまいそうでした。しかし二人の弟子たちはイエス様と話し合ったり、論じ合っている中で心が燃え、彼らは強いて、イエス様を引き留めました。この時点で、今まで自分たちの話していた相手が、よみがえりのイエス様である事が分かりました。

 私たちの信仰は、まず「信じる」ことから始まります。イエス様を救い主として信じるところから始まります。しかし、信じるレベルだけではいけません。次は、「知る」という領域に入らなければなりません。弟子たちはすでに、「イエス様はよみがえられた」と聞き、混乱はしていたとは思いますが、「仲間がそういうのだから、きっと本当だろう・・」と信じていたと思います。しかし、今度は目が開かれて、自分でイエス様を「知り」ました。私たちも、信じる信仰から、知る信仰に変えられなければなりません。

 誰かが、「宝くじが当たった」と言って「信じられない、嘘だよ〜」と言っても、実際に当たり券を見せられたら、信じないわけにはいけません。イエス様を信じるだけではなく、「知る」必要があるのです。

 聖霊と火のバプテスマは、イエス様を信じる信仰から知る領域へと私たちを導きます。二〇〇五年はイエス様を信じるだけではなく、イエス様を知る領域に入りましょう。ホセア書六章三節に、

『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。』

 私たちはリバイバルを求めています。日本にリバイバルが起こり、多くの人がイエス様を信じ、イエス様を知って欲しいと願っています。リバイバルは、どうしたら起こるのでしょうか。ここに法則があります。

 『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。』とあります。次の言葉の前に「そうすれば」という言葉を挿入するとよくわかります。

『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。(そうすれば)主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」』

 イエス様を信じた者たちが、主を知ることを切に求めれば、夜があって朝が確実に来るように、また、イスラエルでは初めの雨があると、後の雨の季節が必ずあるように、百パーセントの確率で主は来てくださるという約束です。個人においても、国においても、原則は同じです。私たちが主を知ることを切に求め続けるならば、主は必ず、この国に来てくださいます。リバイバルのためには、ただイエス様を信じるだけでなく、「主を深く知りたい」という、飢え渇き持った人々が多くなったならば、リバイバルが起こります。詩篇一〇五篇四節に、

『主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。』

とあります。私たちの生活の中心に、「イエス様を深く知りたい」という切なる思いを持つことです。「主を知ることを切に追い求めなさい」と命令形で書かれています。英語の聖書では、「試してみよ」と書かれています。主を知ることを試してみてください。そうすれば、主が来られます。二〇〇五年に向かって、切に主を求めて下さい。

 この礼拝に出席している子どもたちは偉いと思います。私が大人向けの、難しい話しをしてもおとなしく聞いています。私がこのくらいの頃は、絵を描いていました。しかし彼らはちゃんと聞いています。子どもたちも主を切に求めています。必ず、彼らは祝福されます。主を切に求めるときに、主は、私たちの所にに来てくださいます。

 「イエス様。あなたをもっと知りたいです」と祈ってください。その時に、主は私たちに現れてくださるのです。

 イエス様が先に行ってしまいそうなときに、彼らはもっとイエス様を知りたいと願い引き留めました。その時に目が開かれました。教会は休む所ですが、イエス様のことをもっと知りたいという願いにおいては、休んではいけないのです。これで十分と思ってはいけません。イエス様のことを、切に、求めるときに聖霊の火が燃えます。

 ヨハネの福音書に、「その方は、私たちに聖霊と火のバプテスマをお授けになります」とありますが、「火」というテーマで前後を読んでいくと、火とは情熱の火、私たちの心が燃やすという意味もありますが、「さばきの火」というテーマがその中心にあることに気づきます。「さばきのために、斧が根本に置かれている」と、必ずしも良い意味ではなく聖霊の火について語られています。聖霊の火とは、情熱の火とともに「さばきの火」なのです。ペテロ第二の三章七節に、

『しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。』

 今、社会はあまりもひどい状態にあります。背後に悪魔も働いていますが、人間の決断も深く関わっています。人が神に従わず、罪の道をまっしぐらに歩んでいることに大きな理由があります。神様は人類にいつも悔い改めを迫っておられます。「罪から離れなさい。正しい道に帰りなさい。」と語っておられます。私たちに残されてといる時は限られています。

 今年日本には、あまり良いことがありませんでした。数多くの台風が日本を直撃し、洪水があり、大地震があり、自然の脅威に見舞われました。明牧師が前回メッセージされていましたが、時々、神は人間にサインを送られます。自然界を通して、人の心を揺るがします。聖書は決して、被害を被った人々が特に悪いなどとは言っていません。国に属する皆が罪深いと言われました。日本にこのような事が起こるのは、日本全体が罪深いということです。日本は悔い改めなければなりません。「このままでは、日本は滅びてしまう・・・」と神は叫ばれています。地震で今まで築き上げられたものが一瞬にして倒壊しました。新潟の山古志村で鯉を飼っていた人が、瞬間的に池が割れて鯉が全部駄目になってしまい、これからどうしたら良いのかと声を上げて泣いていました。人生は、どこでそのようなことが起こるのかわかりません。神がその気になれば、地球を再創造することぐらい簡単なことです。神は、人に、「悔い改めなさい。正しい道を歩みなさい。」と語られます。人間には良心があります。良心とは、神がさばきの日のための基準として人に与えているものです。「あなたの心に基準がありましたよ。でも、あなたの行動は、良心に反することばかりではなかったですか・・・」と言われます。

 ある意味で、今、日本は将来を神に問われている時期だと思います。悔い改めなければ、大変なことになってしまいます。東海地方は地震が起こるかもしれない、危ないと言われています。神が日本に持っておられるさばきの計画書を実際に見たら、何も手が付けれらなくなるほどの恐怖を持つかも知れません。

 しかし、そんな中でも希望があるとしたら何でしょうか。それがクリスチャンです。クリスチャンたちが、今こそ、さばきを目前に、主に情熱の炎を燃やしてとりなし祈るときが来ています。そうすれば、主は、さばきから国を救われるという原則があります。この時こそ、私たちは心を燃やさなければなりません。国のために心を燃やし、とりなし祈らなければなりません。

 「とりなし」とは、英語で「インターセッション(intercession)」と言います。ラテン語の「インテルとケデーレ」という言葉の結合からできています。この意味は、「真ん中に入っていく」という意味があります。「AとBの間に割って入っていく」という意味です。イメージ的には、頑固親父が息子の不祥事に怒り、「このバカ息子。お前は勘当だ。家から出て行け!」と怒っているときに、「ちょっと待って、お父ちゃん。私に免じて息子をゆるしてあげて!」と真剣に、父親と息子との間に入ってとりなす母の姿のようです。

 クリスチャンは今、日本のためにとりなし祈らなければなりません。日本と神の間に入って、聖霊による情熱の火をもって、「主よ、日本を哀れんでください。日本をさばかないでください。日本を救ってください。リバイバルしてください!」と真剣に祈らなければならない時が来ています。エゼキエル書十三章五節に、

『あなたがたは、主の日に、戦いに耐えるために、破れ口を修理もせず、イスラエルの家の石垣も築かなかった。』

またエゼキエル書二十二章三十節、

『わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。』

とあります。神は国を見ています。罪が多くなると破れ口が出来、悪しき力が入って国を破壊します。しかし、「破れ口を修理してくれる人はいないだろうか」と主は叫んでおられます。私たちは、主の叫び声を聞かなければなりません。救いを得ている者たちが、神と人との間に入り、迫っているさばきの真ん中に入って、破れ口を修理するために、主を求めなければなりません。「主よ。どうか、この国を回復してください。この国をさばかないでください。」と祈らなければなりません。

 聖霊の火は、私たちに、さばきを止めるための情熱を与えるものです。主から、日本に迫っている滅びの現実を強く知らせていただき、破れ口に立って祈らなければなりません。第二歴代誌十六章九節に、

『主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。』

 イエス様の願いは、日本を滅ぼすことではありません。「破れ口に誰か立ってくれないか。」また、「とりなして祈る火を持っている人はいないだろうか」と探しておられます。私たちは、イエス様と同じ思いを持って、「主よ。私をその破れ口に遣わしてください。日本のために祈る者とさせてください」と祈る者になりたいです。イエス様の心と一つになったら、御力を現してくださるのです。主は、「わたしの力を帯びて、わたしと共に戦ってください」と呼びかけておられます。

 二〇〇四年の最後の日曜日、もう一度聖霊の火を求めて祈りましょう。熱く燃やされ、主の思いを知りましょう。破れ口を塞ぐ者でありたいです。そのために、聖霊の火を与えてくださいと心から願いましょう。

 神は今年、私たちを祝福し助けてくださいました。しかし、それだけで満足してはいけません。主の心を知り、聖霊の火をいただき、この国のために祈りたいと願います。二〇〇五年の始まりは、「四日間連続リバイバル」と題して、六十六時間を祈りでつなごうとしています。二〇〇五年は、日本の救い、リバイバルのため、苦しみや悲しみの中にある人々の癒し解放の為に、力が与えられるよう祈って行きたいと思います。

 イエス様はあなたに聖霊の火を注いで、リバイバルのために用いてくださると信じます。安逸をむさぼるのではなく、更に、主を深く知ることができますように。もしも、「自分のことしか考えていなかった」と言われる人は悔い改め、イエス様の思いをいただき、日本のためにとりなすことができますように。日本のリバイバルのために、とりなし祈ることができますように!

<祈り>

「主よ。感謝します。二〇〇四年を、ここまで導いてくださったことを感謝します。この最後の日曜日、私たちは主の前に出ています。個人、家族、地域、国を代表して御前に出て祈っています。なまぬるい者であることを赦してください。火のない者であることを赦してください。イエスさまが、聖霊の火によって奉仕されたように、私たちに聖霊の火を下してください。皆の心に火を下さい。日本は大きな神のさばきの直前にあるのかも知れません。しかし、主よ、日本を哀れんでください。あなたは日本をさばくことより、とりなしの祈りによって、国を救おうとされていることを感謝します。どうか、破れ口に立つ者とさせてください。破れ口を修理する者としてください。主よ。そのために、私たちの心を燃やしてください。聖霊の火で満たしてください。あなたを切に求めます。あなたをもっと知らせてください。あなたの思いを、もっと知ることができますように。聖霊の火に燃え、力に満たされて、日本のためにとりなし祈ることができますように。また、救いを必要とされてる人々のために、とりなし祈ることができますよう導いてください。今日は聖霊の火が注がれ、リバイバルの火を受け取ることができますように。主よ感謝します。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。」

 今日は「聖餐式」があります。ルカの福音書二十四章二十八節から、

『彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。』

とあります。これは「聖餐式」を現しています。彼らが、主を切に求めました。そして、イエス様が食卓につかれて、最後の晩餐の時と同じように、彼らにパンを渡されたときに目が開かれました。その瞬間、「イエス様だ!」とわかりました。するとイエス様の姿は見なくなりました。しかし、彼らは気づきました。

『そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」』

 聖霊の火が心にあるとわかりました。イエス様とともに聖餐に預かったときに、弟子たちの心に火がつきました。

『すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。』

 彼らはエマオに向かっていましたが、よみがえりのイエス様と出会って心燃やされ、来た道を引き返し、エルサレムへ上っていきました。すると、仲間たちも皆、心燃やされていました。そのきっかけとなったのが、イエス様を強いて引き留め、聖餐を一緒にしたことでした。

 今日私たちは、聖餐をイエス様とともにします。そこで目が開かれ、心燃やされることができます。少し信仰が下っている方も、今日からもう一度上ることができます。エルサレムに上っていき、主に仕える決断をする時となるよう願います。心が熱く燃やされる時になることを願います。お祈りします。


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