ユニティ(一致)

2005.1.9(SUN)
新城教会 滝元 順師

ヨハネの福音書 17章11節〜23節
わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。

 ハレルヤ!「新年あけましておめでとうございます」と、先日言ったばかりですが、もう九日になってしまいました。このまま一年が早く過ぎてしまうのではないかと思います。今年も神と共にある一年を歩みたいと願います。

 イエス様が十字架にかかられる直前、遺言のように最も大切なこととして弟子たちに語られたことがあります。今日お読みした箇所はその一部です。二十一節に、

『それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。』

 イエス様が弟子たちに一つとなるように、一致するようにと祈っておられます。一致とは英語で「ユニティ」と言います。これは「一」という意味のラテン語から来ています。イエス様が私たちに願われていることは、一つとなるようにです。

 昨年から今年にかけて報道されているニュースは、大変悲惨なことばかりです。今一番のメインニュースは、「スマトラ沖大地震」です。大きな被害があり、これは全世界規模の災害だと言われています。前回のメッセージで「世の終わりには戦争と地震というテーマがある」と話しましたが、まさに、私たちは世の終わりの時代を過ごしているかのようです。誰でも世界はこのままではうまくいかないと考えていると思います。正に私たちは、人類最後の章を生きているのかも知れません。これから世界がどのようになっていくのかは、誰にも予想がつきませんが、聖書が語っているとおり、今年も戦争や地震が多い年になるのかも知れません。

 スマトラ沖の地震の被害は大きく、世界各国が支援を始めています。私たちクリスチャンは社会的責任をも果たすべきです。中越の地震の時にも新城教会から多くの義援金が寄せられ届けられました。スマトラ沖の地震においても、支援をしたいと願っています。新城教会は海外援助と宣教のための基金を作っています。その基金から拠出すると共に、来週は、そのために献金をしたいと願います。キリスト教界でスマトラ沖地震の援助を行っている団体がいくつかあるので、一番良い団体を通して義援金を届けたいと願っています。何十万人、何百万人という方々が苦しまれています。ぜひ、被災した方々のためにもお祈り下さい。

 ルカ十三章一節から五節に、

『ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」』

 イエス様の時代にも、悲惨な事件や事故がありました。その一つが、ローマの地方総督ピラトが、ガリラヤ人を殺してガリラヤ人の宗教儀式のいけにえの中に血を混ぜたというのです。これは大きな侮辱であると共に、災難を受けた人たちは神の前に正しくなかったのではないかと思われました。また、エルサレムでは「シロアムの塔」が倒れて、十八人が下敷きになって死んだという事故が起こりました。その時にも、そこで死んだ人々は相当罪深かったのではないかと人々は考え、イエス様に質問したのです。昔も今も、人間の考えは同じであり、同様な質問を持っています。その当時、世間を騒がしていたニュースを題材に、イエス様に質問しに来たのです。

 皆さんにも疑問があると思います。それは、地震と津波で死んだ人や被災した人は、余程罪深い人たちなのか、中越地方は悪い地域なのかという疑問です。

 しかしイエスさまは、「あなたがたも悔い改めなければ、同じように滅びてしまう」と語られました。イエスさまは、災害にあった人々が罪深いとは言われませんでした。ですから、津波や地震で被害を受けた人々に、何か、特別な理由があったわけではないのです。

 しかしある意味、自然災害などを通しても神は人類全体に警告を与えておられます。「罪を犯し続けるなら滅びでしまう。罪を悔い改めなければならない。」

 以前、明牧師がレビ記十八章二十五節から語りました。

『このように、その地も汚れており、それゆえ、わたしはその地の咎を罰するので、その地は、住民を吐き出すことになるからである。』

 罪の故に「地が住民を吐き出す」このようなことが起こり得るのです。世界には罪が蔓延し、地が汚されている現実を多く見ます。

 最近、信じられないような事件が各地で起こっています。私が小学生の頃はのどかなものでした。学校の帰りには必ず、道草を食いながら家まで帰ってきました。学校の帰り道に魚を捕ったり、木にぶら下がったり、秘密基地を作ったりして遊びました。また冬には、田んぼの稲むらに体当たりして壊すことが趣味で、近所のおじさんが「誰だ壊したのは…」と怒って私たちを追いかけ、おじさんから逃げるのが楽しみでした。

 今はそんな風にしながら学校から帰ることはできません。集団登下校です。悪いおじさんが狙っているから気をつけなければなりません。先日、豊橋の方から、子どもたちを見回る腕章を着けた痴漢が現れたと聞きました。助けるような顔をしながら痴漢に来るので、誰も信用できないのが現実です。大変な時代です。神がおられたら、こんな時代に、さばきが迫っていないはずがありません。

 そんな中で、人類へのさばきを食い止めることができるとしたら、どこに望みがあるのでしょうか。それが「教会」です。今や教会の役割が大変重要だと思います。教会だけが罪について、さばきについて、死についてはっきりと語るからです。なぜならば、その領域に解決があるからです。このような時にこそ、教会が声を上げて、罪について、義について、さばきについて世に誤っていることを教えなければならないのです。そのためにも教会は力を受けなければなりません。教会は世に光を輝かす存在になるべきです。神は教会を通してリバイバル、すなわち、霊的復興を社会に起こそうとされています。

 その為に、どうしても必要なことがあります。それは先に救われた者たちが、一つとなり、「一致する」ことです。ヨハネの福音書十七章二十三節に、

『わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。』

 クリスチャンが一致するならば、「全うされる」というのです。これは、「一致すると完成する」という意味です。その結果、神が教会を愛していると世がわかり、リバイバルが起こるのです。

 私たちが、この世界を見て、一体何ができるのか。できることは、ごくわずかかもしれません。しかしまず、教会が心を一つにし、一致することです。そのことによって、世がイエスさまを知るようになるのです。

 ルカの福音書十一章十七節は今年与えられている御言葉です。

『しかし、イエスは、彼らの心を見抜いて言われた。「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。』

 「今年は内輪もめがないように」と前回のメッセージで語りました。内輪もめがあると、家がつぶれてしまうからです。家の繁栄を求めるならば、内輪もめをなくすことです。

 実は我が家でも、年末、少々もめ事がありました。なぜならば、年末は引っ越しなどでたいへん忙しかったからです。特に、家内が一番働きました。私は文句を言うだけで、家内が引っ越しのために一生懸命働いていました。家内もある意味でパニックしていました。それで、いろいろと内輪もめしたのです。感謝な事に、今週は牧師館の棟上げをします。しかし、何しろ忙しかったので、家の中で色々なもめ事がありました。これを捨てるとか、捨てない…、あんた手伝って!などともめていました。連日、険悪なムードが我が家に漂っていました。人が変わったのではないかと思うことが互いにありました。

 そのような中、神がこの言葉を家内に語られました。「内輪もめをしていたら家が滅びる」

 私もギクッとしました。内輪もめとは、人間的、感情的な問題ではなく、霊的問題です。内輪もめがないように、私たちは注意しなければなりません。内輪もめがあったら、その背後に悪霊が働いているのです。そのことを意識し、背後の存在と戦わなければなりません。「背後に働いて、内輪もめの悪霊を打ち破ってください」と祈らなければなりません。

 「家」とは、「教会」も現します。兄弟姉妹や教会の領域の中に内輪もめがあったら、聖霊様は働くことができません。遠からず近からずという関係ではなく、「一致を求める」ことを意識して祈ることが大切です。

 聖書は一致を私たちに勧めています。

 第一コリント一章十節に、

『さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。』

 エペソ四章三節に、

『平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。』

 ピリピ二章二節に、

『私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。』

 ペテロ第一の三章八節に、

『最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。』

 「一致しなさい」「心を一つにしなさい」と教えています。心を一つにすることは祈りが聞かれる為にも重要です。マタイの福音書十八章十九節に、

『まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。』

 私たちが地上で心を一つにして祈るならば、特に「ふたりが」とありますので、夫婦や兄弟姉妹が、心一つにすることが大切です。「心を一つにして祈るときに、天にいるわたしの父がそれをかなえてくださる」と教えています。

 なぜ一致が求められているのでしょうか。イエス様が言われました。「父がわたしにおり、わたしも父にいる」神様とは、三位一体なる方です。父なる神様、子なるイエス様、聖霊様は一つです。そこには分裂がなく、一つであるがゆえに、イエス様は地上で父なる神様と一つになっていたので、父なる神様のみこころを語ることができました。また、聖霊様と一つとなっていたので、素晴らしい癒しのわざを行うことができました。

 教会にも、その原則が当てはまります。今日皆さん一人ひとりには、神様からの特別な能力、すなわち、賜物が与えられています。賜物とは、体の各器官の一つのようであると聖書は教えてます。体の器官がバラバラでは機能できません。一つになっているので機能が発揮されます。一人ひとりに神は霊的な賜物を与えていますが、一致がなくては機能できないのです。

 使徒の働きの時代、聖霊が注がれ、教会は力を受けました。それまでの弟子たちは、迫害の中を逃げまどっていましたが、聖霊を受けたら迫害の中心地、エルサレムで大胆に働くようになりました。

 ある日、ペテロとヨハネが宮に祈りに行くと、美しの門に生まれつき足の利かない男が物乞いをしていました。彼らはその男に、「金銀は私たちにはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエスの御名によって立ち上がりなさい。」と宣言し、生まれつき足がなえている男を立ち上がらせました。それは、多くの人に大きなショックを与えました。その奇跡によって、五千人がクリスチャンになりました。それが使徒の働き三章から四章に書かれています。

 その時、それを不愉快に思った人たちがいました。それが当時のユダヤ教指導者サドカイ人たちでした。

 人間には残酷なところがあります。人間の感覚は偏っていると思います。最近でも、戦争で死んだ兵士たちには、そんなにも心動かず、ある人たちは「敵が死んだ」と言って喜んでいるかも知れません。しかし、災害で大勢亡くなると、同じ人間の死にも関わらず反応が違い、可哀想に思い助けようとします。矛盾するような心理があります。

 この時にも、生まれつき足の利かない男が立ち上がったのは素晴らしいことでしたが、サドカイ人たちはそれを喜びませんでした。ペテロとヨハネはイエス様の復活を宣べ伝えていました。しかしサドカイ人たちは、「復活などはない、霊的な世界はない」という立場にある人たちでした。彼らは、自分たちの持っている信念を曲げられることに対して不快感を持っていたのです。彼らは政治的権力を持っていたので、次のように言いました。使徒の働き四章十六節から二十節に、

『彼らは言った。「あの人たちをどうしよう。あの人たちによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない。しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めよう。」そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」』

 サドカイ人たちは、人が癒されたり、解放されるのを見て不愉快に思いました。なぜならば、自分たちの持っている思想の前提が壊れるからです。これは良いことではありません。神様の力が現されたら喜び、今まで苦しんでいる人たちが解放されたら、喜ぶのが普通です。しかしサドカイ人たちは、「イエスの名前によって語ってはいけない」と言いました。「もしも続けて語るならば、お前たちをひどい目に遭わせる」と脅かしました。その時に弟子たちと教会はどうしたのでしょうか。使徒の働き四章二十九節から三十節に、

『主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」』

と祈りました。このような祈りが出来た前提に四章二十四節があります。

『これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。』

 二十九節から三十三節に、

『主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。』

 教会が脅かしを聞いた時に、心を一つにして神に祈りました。その時に、聖霊が注がれ、更にリバイバルのわざが広がっていったとあります。

 しかし、「心を一つにする、一致する」ことはなかなか難しいです。なぜならば、皆、背景が違うからです。結婚してショックを受けることがあります。男性が一番ショック受けるのは、まず、新妻が作ったカレーライスの味が自分の予想していたカレーライスの味と違うことです。カレーライスには各家庭、独自の文化があります。「カレーライスとはこういうものだ」と心得ています。しかし奥さんが出してくれたカレーライスは、自分が今まで食べ続けて来た味とは違います。

 私が小さな頃はたいへん貧乏でした。母親はカレーライスに、肉の変わりとして鳥の皮肝を入れていました。ですから私は、カレーライスには皮肝が入っているものだと思っていました。卵になりそこねた卵や、鶏の心臓や腸が入っているのがカレーライスだと信じていました。

 ある時に岡本家に遊びに行くと、カレーライスが出されました。すると、皮肝が入っておらず、代わりに、はんぺんが入っていました。カレーライス一つで一致できないのです。

 教会で、「一致しましょう」と言ってもなかなか難しいのです。一致してすべてを同じにするのは不可能なことです。しかし、一つになるとは、何から何までスタイルを同じにするということではありません。それぞれの文化や育ちは違うかも知れませんが、一つにすべきことは「志」です。それは、日本がリバイバルされるように、日本が変えられるようにという「熱い思い」を持たなければなりません。

 ルカの福音書に「だれが罪深いか」という問いがありましたが、そのストーリーに続いてイエス様はこのように語られました。ルカ十三章六節から九節に、

『イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』

 先ほど申しましたように、私たちが過ごしているのは末の時代であり、神の裁きの手が伸びている時代かもしれません。もしかしたら、今、天においてこんな会話がなされているかも知れません。それは、父なる神様と子なるイエス様との会話です。父なる神様は愛なる神様ですが、義なる神でさばき主です。

 「日本に何千年もの間、良い実がなるのを期待して待っていたが、何一つ良い実がなっていない。もう、日本を切り倒してしまいなさい。何のために、土地を塞いでいるのですか」

 こんな会話が、天でなされているのかも知れません。日本の歴史を見るときに、千年も、二千年も偶像礼拝を続け、不品行と淫乱にまみれ、罪におぼれています。この国をよくも今まで神は保って下さいました。

 しかし、「もう限界だ。日本を切り倒してしまいなさい。今年は大災害で二度と立ち上がることが出来ないようにしよう」と語られているかも知れません。

 「園の主人」とは神ご自身を表しています。しかし、「園の番人」とは、イエス様ご自身を表しています。イエス様ご自身は、とりなしをなされるお方です。ローマ書八章三十四節に、

『罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。』

とあります。園の番人であるイエス様は、

『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』

と語られました。今、イエス様が天において、父なる神様にこのようにとりなしておられるのかも知れません。

 「父なる神様、ちょっと待ってください。もう一年待ってくれませんか。もう一年、日本の周りを掘って、肥やしをやってみますから。それで実を結んだら良し。もしも実を結ばなかったら、切り倒してください。もう一年待ってください!」

 もしかしたら、日本にとって今年が悔い改めの最後のチャンスかも知れないし、そうではないのかも知れません。

 私たちクリスチャンは、常に、将来に対して希望を持って歩む必要があります。しかし同時に、「もしかしたら、今年が最後かも知れない」という、ある意味での危機感を持つことが大切です。一年を始めるにあたり、「もしかしたら、今年が日本においての最後のチャンスなのかも知れない。」という危機感を持ち、心を一つにして、日本のために祈らなければなりません。その決断をしなければならない時期に来ているような気がします。もしも、内輪でいざこざがあったら一致が壊れてしまいます。日本を救っていただくために、心を一つにして神の前に出ましょう。「最後の一年かも知れない」という危機的意識を持って、神に近づき、祈りたいと願います。

 さて、今から一つのDVDを見ます。それは南太平洋の小さな島フィジーに起こっているリバイバルのレポートです。フィジーはオーストラリアの東にある小さな島国です。日本からも、多くの観光客が訪れる楽園のような島です。しかし紀元二千年(今から五年前)にクーデターがあり、国が最悪の状況に陥りました。長い間フィジーには、フィジー人とインド人との間に民族的対立がありました。それが2000年に極限に達し、最悪の状況になりました。多くの観光客が来ていましたが、一瞬にして来なくなり全世界への悪いニュースとなりました。

 それまで、クリスチャンたちは国に対してあまり関心がありませんでした。互いがバラバラで国の為に祈ることはありませんでした。そのようなときに神が、「国の災害は教会に責任がある。心を一つにして国の回復のために祈らなければならない」と語りかけ、国家的な祈祷会が開催され一致して真剣に祈り出しました。その祈りに神は答えられ、短期間に国が回復しました。多くの人がクリスチャンとなり、政治は安定し、リバイバルが他の島にまで波及しています。

 特に大きな問題があったのは、観光地よりも農村地でした。そこに住む民族たちは偶像礼拝をしていました。彼らの宗教儀式は火渡りでした。それは日本と同じです。なぜならばフィジーの人たちのルーツは日本人と同じ「モンゴロイド」だからです。日本と同じ宗教観を持っているのです。

 ある村においては、珊瑚礁にたくさん魚がいましたが、五十年程前から魚がいなくなり、珊瑚も壊れ、水も毒の水となって飲めなくなっていたそうです。しかし彼らが一致して悔い改め、回復を祈ったときに、神が瞬間的にその村を癒してくださいました。それまで一匹も魚がいなかったのが、礼拝の最中に魚の大群が押し寄せてきて、地が回復したそうです。志を一つにし、国のために祈ること、内側の一致できない部分に光が照らされるときに、神が国にどのような力を表してくださるかについてレポートしています。ジョージ・オーティス・ジュニアという人が作った映像です。

(ここから20分間映像を見ました)。

 私たちが心を一つにして祈るときに、国を変えてくださるというのが霊的原則です。一致が大切です。南の島に起こったことは、日本でも起こされます。私たちも志を一つにし、主の前に「今年が最後かも知れない・・・」という危機感を持って祈る必要があると思います。大きな問題が日本に起こってからでは心が痛みます。その前に、私たちが心一つにして、祈らなければなりません。

 そして私たちの中に内輪もめがなく、心を一つにし、同じ目標、日本の変革のために祈らなければなりません。立ち上がって、皆さんでお祈りしましょう。バヌアツ共和国の首相が、「この国は神の前に契約を結びます。そして、悪霊との契約を解きます」と祈っていましたが、そのようなことが日本にも現されるように祈りましょう。熱い思いで祈りましょう。

(祈り)

「主よ。私たちは、二〇〇五年が日本にとって、最後の一年かも知れないという危機感を持って御前に出ています。今日、このテーマが新城教会に与えられていることを重く受け止め、主の前に出ます。心を一つにし、同じ志で祈ることができますように。南の島で起こされたことを、日本においても起こしてください。日本にリバイバルを起こしてください。私たちの思いを一つにしてください。志を一つにしてください。内輪もめがありませんように。悪霊の力を打ち砕いてください。夫婦、家族、兄弟姉妹、地域住民との間に働き、内輪もめを起こす悪魔の力を打ち砕いてください。日本が偶像礼拝、姦淫から解放され、主によって一つにされますように。国を代表し、国の命運をかけて祈ります。すべての悪魔との契約を打ち破ってください。そして、イエス様の前に私たちは契約を結びます。この国が主のものとなりますように。そのために、私たちが主の声を聞いて祈る者としてください。破れ口に立つ者としてください。主のみこころを受け止めさせてください。それぞれの領域において、主のわざを成させてください。主に期待します。今年こそ主が訪れてくださる年となりますように。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

 今から行う聖餐式は一致を表すものです。本来は一つのパンを裂くものです。イエス様のからだを表わすパンをみんなで食べるのです。それは一致の象徴です。この聖餐式を通して、教会、家族、全ての領域で一致できるようにお祈りします。

 第二歴代誌七章十四節に、

『わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。』

 ヨハネの十七章二十三節から、

『わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。』

 今日私たちが一つになり、それを通して神の愛が表され、地域・国に流れていきますように。


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