ダニエル21日間の戦い

2005.1.16(SUN)
新城教会 滝元 順師

旧約聖書 ダニエル書10章12節〜14節
彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ。なお、その日についての幻があるのだが。」

 ハレルヤ!今日皆さんとともに礼拝を守ることができて、心から感謝します。先週私は、「ダニエル聖会」という聖会に招かれメッセージをしました。
 今世界で一番大きな教会は、韓国の教会です。その教会では約二十万人が礼拝に集まります。それは日本の都市の人口に相当します。それがチョー・ヨンギ先生の教会であり、彼は全世界に教会を持っています。その教会の支部が東京にあり、二十一日間連続してリバイバルのために祈る聖会を持っています。その教会に集われているのは、七割程が韓国の方々ですが、現在、東京で二千名程集まられています。今回私は唯一の日本人講師として奉仕をさせていただきましたが、皆が熱く祈っている姿に深く心を打たれました。日本人は体裁の良い、おとなしい祈りをしますが、韓国の方々は力を込めて「主よ〜!!」と叫んで祈ります。ベルを鳴らさなければ誰ひとり祈りを終えません。私が祈りを導いた時にも、ベルを鳴らすまで、誰も祈りを終えませんでした。その教会の聖会に出て、私はとても恵まれました。
 なぜ「ダニエル聖会」というタイトルをつけたのかと言うと、今日のダニエル書の箇所からです。

『彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ。なお、その日についての幻があるのだが。」』

 ダニエル書における時代的背景は、ユダヤ人がバビロニア帝国に七十年間捕囚され、その後クロス王によって解放され、七十年後、もう一度自分の国に帰ることを許されました。ユダヤ人たちが捕らえられていた七十年間に、エルサレムは崩壊し、荒れ果てていました。
 ダニエルという人物はユダヤ人たちがバビロンに連れて行かれるときに混じっていました。そして、七十年後メド・ペルシャの時代に、ユダヤ人たちが国に帰る時にも生きていて、国の未来について祈っていました。彼は預言者で、自分の民族や国のことを真剣に考え、「この国はどうなるのだろうか・・・」と、これまでの事柄を顧みながら祈っていました。神の預言者ダニエルは「神に叫べば必ず答えてくださる」という神との親密な関係を持っていました。ダニエルは主の前に出て自分の国の未来について真剣に祈っていましたが、なかなか答えが来ませんでした。しかし二十一日後、神の答えが来ました。その瞬間がダニエル書十章十二節から十四節に記されています。私たちにも、祈りの課題がたくさんあります。先週私たちは日本のために、「今年が最後の一年になるかも知れない」という緊迫した思いで、とりなし祈るように導かれました。そのような中で、クリスチャンが一致して祈ることが重要であると、フィジーのリバイバルのDVDを見て祈りました。私たちは、長らく日本のリバイバルを祈っています。日本がさばかれるのではなく、リバイバルが来るように、神に喜ばれる国となるように祈っていますが、なかなか答えが来ない現状があります。また、個人的な祈りの領域においても、答えがなかなか来ないと苦しんでおられる人もいるかも知れません。しかしダニエル書を見ると、祈りとは、どのようなものか、そして、祈りの背景に、どのような霊的世界の動きがあるかについて教えています。それは見える領域と、見えない領域との関連性です。今日私たちは主を礼拝をしていますが、これは見える領域で行われていることです。しかし、礼拝は見えない領域に届きます。可視光線を分解すると七色に分かれます。赤より向こうは「赤外線」という、見えない光があります。最近は赤外線センサーがあります。それは泥棒除けとして使われたりします。見えない光が放射されていて、泥棒が横切るとベルが鳴ります。夜電気が自動的につくのも、それを応用したものです。また、可視光線のもう一つの端は紫色です。それより先は「紫外線」です。これも目には見えませんが、実際に熱い夏の日に外に出ると、紫外線が存在することがわかります。それは、日焼けをするからです。だから女性の方々は、「見えない光」に対抗するために、紫外線除けの化粧品を使います。見えない領域は、常に私たちとともにあります。私たちがこのようにしている間にも、見える領域ととともに見えない存在がうごめいているのです。
 神の領域はそもそも見えない領域です。同時に、天使や悪魔・悪霊という見えない領域も同時存在しています。それはちょうど、可視光線以外は見えないけれど他の光があるのと同じように、目に見えない霊的領域があるのです。信じようと信じまいと、私たちはそのような世界に生きています。ですから、見える領域だけに目を留めるだけでは不完全です。聖書は「見えないものに目を留めるように」と教えています。パウロは「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」と語りました。私たちは見えない領域に目を留めなければなりません。
 ダニエルは国の未来のために、神の前に出て祈りました。地上において膝をかがめ、断食をしながら真剣に祈っていました。しかし、すぐには答えが来ませんでした。祈りだして二十一日後、神からの答えがやって来ました。

『彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。』

 私たちは多くの祈りを神にささげていますが、祈りが聞かれるのはいつの時点でしょうか。それは、「祈ったその日に聞かれている」のです。私たちが神に「助けてください」と祈ったとします。その祈りが聞かれるのは、「祈ったその日」から聞かれているのです。今日、皆さんがこの場所で祈る祈りは、リアルタイムで聞き届けられているのです。しかし、答えがやってくるまでには、時間差があることをも教えています。ダニエルま祈りは聞かれましたが、二十一日間答えを受け取れない状況があったのです。それは、ダニエル書十章十三節に、

『ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ。」』

とあります。神はダニエルの祈りをその日に聞かれました。そして、祈りの答えを天使に渡しました。神の世界から、人間の世界に事を成すために使われるのが、神の使いである「天使」です。霊的な秩序の中にそのような構図があります。
 神はダニエルへの答えを天使に託しました。しかし天使が答えをダニエルに持って行こうとした時に、二十一日間、答えが届かないように立ちはだかっていた存在があったと教えています。それが「ペルシャの国の君」であるとあります。それについて聖書注解書などの意見を総合すると、当時ペルシャという大国を握っていた「悪霊」でした。悪魔が遣わした悪霊のボスが、ダニエルに答えが届かないように真剣に立ちはだかっていたのです。それが二十一日間続きました。ダニエルはその間、真剣に祈り続けていました。すると、天で最強のミカエルがそこに差し向けられ、立ちはだかっていた軍勢が打ち砕かれ、答えが来たというのです。
 ここに、見える領域と見えない領域の関連、そして、祈りがどのようにして届けられるのかを学ぶことができます。同時に、見える領域ではなく、見えない領域で勝利をとらなければ、見える領域を勝ち取ることができないという法則をも学ぶことができます。
 問題が起こったとき、まず見える領域の中で勝利を取ろうと懸命になりますが、実は、多くの問題が見えない領域で立ちはだかっている存在によって発生しているのです。それが打ち砕かれなければ、なかなか現実に勝利が来ません。この年の始めに、まず、見えない領域において、私たちの未来、日本の未来を止めている「日本の君」が打ち負かされ、見えない領域において勝利を勝ち取って歩み出すことが大切です。
 一月から三月までの期間は、ある意味で新しい領域へ踏み出す準備の最終期間でもあります。昨日と今日は「センター試験」が行われており、大学受験を目指す人たちには大変な時期です。その他、就職など色々な新しい領域に展開する時でもあります。そのような中で、この地上での準備もさることながら、見えない領域で勝利を勝ち取るという視点を持つことが大切です。
 話しは変わりますが、次週は、私の息子が婚約することになりました。先日は家族揃って福島家と下條先生にご挨拶に伺いました。婚約式は一麦教会で行なわれます。そんなわけで、我が家にも色々な展開があります。結婚もバラ色に見えますが、これも霊的戦いです。特にクリスチャン同士の結婚は、ある意味で戦いです。なぜならば、主を信じるもの同士の結婚は、神の大きなみ業が表されるからです。ですから悪魔も真剣に引き止めようとします。
 また新しい領域にクリスチャンが入って行くことも戦いです。悪魔はクリスチャンが新しい領域に入って欲しくないのです。例えば、新しい学校や、新しい会社に入れば、皆さんとともに天の軍勢も入っていくのです。そこにはペルシャの君ならぬ「学校を支配する君」や、「会社の君」がいます。それが打ち破られることになるので、悪魔も真剣になって働くのです。クリスチャンが入らないように、結婚しないようにと色々と働きます。また、夫婦が一致しないように、家族が一致しないようにも真剣に働きます。これは見えない領域での戦いです。私たちは、見えない領域で戦って勝利を得ることが必要です。
 ダニエルは二十一日間連続して祈っていました。祈りはお願いの領域のように見えますが、実は、「戦いの領域」の祈りでした。ダニエルは祈りの中で戦っていたのです。継続の祈りは、もはやお願いの領域ではなく、戦いの領域です。天における戦いに参加していたのです。そのためには、見えない世界の構造をよく知る必要があります。

 ダニエルがペルシャの国で祈っていた時期に、イスラエルの民たちは自分の国に帰っていきました。彼らは、まず初めに、神の宮を建て直しました。そのことがエズラ記に記されています。
 聖書の各書の配列は、時代的な順を追っていません。ダニエル書とエズラ記の記述は同時期にありますが、お互い全く関係ないようなページ位置にありますが、聖書を立体的に学ぶことが必要です。
 ダニエルはペルシャで祈っていましたが、イスラエルの人々は自分の国に帰り、宮を建て始めました。宮を建て始めると、敵がやってきて宮を建てることを妨害しました。エズラ記四章二十四節に、

『こうして、エルサレムにある神の宮の工事は中止され、ペルシヤの王ダリヨスの治世の第二年まで中止された。』

とあります。神を礼拝するための宮を建てようとしましたが、周りから敵が来て、「これ以上工事を続けるならば、ひどい目に遭わせるぞ!」と言って、工事は強制的に終了させられてしまいました。ユダヤ人にとっては大変ショックなことでした。
 しかしエズラ記五章は、その工事が、もう一度再開されたと記されています。エズラ記五章一節から三節に、

『さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも彼らといっしょにいて、彼らを助けた。そのとき、川向こうの総督タテナイと、シェタル・ボズナイと、その同僚とがやって来て、こう言った。「だれがあなたがたに命令を下して、この宮を建て、この城壁を修復させようとしたのか。」』

 工事が中止された十数年後、工事は再開されましたが、また、敵がやってきて同じように工事を妨害しました。けれども、五章四節から五節に、

『そしてまた、「この建物を建てている者たちの名は何というのか。」と尋ねた。しかし、ユダヤ人の長老たちの上には神の目が注がれていたので、このことがダリヨスに報告され、ついで、このことについての書状が来るまで、この者たちは彼らの働きをやめさせることができなかった。』

とあります。イスラエルの民は勇気を振り絞って工事を再び始めたのです。すると「同じ敵」が再びやってきて、「同じ言葉で妨害」を加えたのです。しかし、第二回目の工事は止めることができませんでした。その結果、神の宮と城壁は建て直されたのです。
 第一回目の工事は中断されましたが、なぜ、第二回目の工事はうまく進んだのでしょうか。それは、「運が良かったからとか、状況が違ったから」と考えるかも知れません。しかし、実はこの中にも、見えない領域と、見える領域に大きな戦いがあったことがわかります。
 ダニエルが祈っていた時に、イスラエルにおいても見えない領域での戦いがあったのです。エズラ記のに「ゼカリヤ」と「ヨシヤ」という人物が登場していることに心に留めておいてください。
 続いて「ゼカリヤ書」を開きます。ゼカリヤ書一章一節に、

『ダリヨスの第二年の第八の月に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような主のことばがあった。』

とあります。エズラ記四章二十四節には、

『こうして、エルサレムにある神の宮の工事は中止され、ペルシヤの王ダリヨスの治世の第二年まで中止された。』

とあります。ここから、エズラ記の記述と、ゼカリヤが神から預言をもらった時期が同じ「ダリヨスの治世の第二年」であったことが分かります。ゼカリヤ書三章一節から五節に、

『主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。」ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、彼に服を着せた。そのとき、主の使いはそばに立っていた。』

とあります。ゼカリヤ書には、「大祭司ヨシュア」が出てきますが、これは、エズラ記にある「エホツァダクの子ヨシュア」と同人物です。エズラ記では、地上での工事の様子を扱っており、ヨシュアやゼカリヤの励ましによって工事は進みました。そんな環境の中に敵が来て、「工事を中止せよ!」と妨害したのです。けれども、第二回目の工事は順調に進んでいきました。

 しかしその同時刻、もう一つのことが並行して天で起こっていました。ゼカリヤ書三章一節に、

『主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。』

とあります。ヨシュアは地上において神の宮の工事を指揮していました。しかしゼカリヤは、ヨシュアが天で神の前に立っているのを見ました。そしてゼカリヤの右にはサタンが立って、彼を訴えているのを見せられたのです。

 私たちは肉体だけがすべてだと考えますが、イエス・キリストを信じるときにもう一つの体が与えられます。それは、目に見えない「御霊の体」です。その体は、常に神の前に立っているのです。エペソ二章六節に、

『キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』

とあります。私たちがイエス様を信じると、同時に神のみ前で座る者としてのポジションが与えられるのです。私たちは地上にいるのですが、天に権威ある御霊の体があるのです。パウロはそのことに関して深い理解を持っていました。第一コリント十五章三十九節から四十四節で、彼はおもしろい論法でそのことを説明しています。

『すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。』

とあります。私たちがイエス様を信じると、肉体だけでなく、目に見えない御霊の体が同時に存在するようになるのです。これは、二元論的にではなく、同時にあるのです。私たちは見える世界で生活しているようですが、御霊の体は、常に神の前にあるのです。あなたは今日、イエス様とともに「天の座に座っている」のです。

 さて、「天」とは、神の完全支配が現されている「第三の天」を多くの場合想像しますが、目に見える領域は「第一の天」です。「第一の天」と「第三の天」の間は、「第二の天」が存在するのです。これは「戦いの場所」です。私たちの体は「第三の天」にもありますが、肉体を持っている者は、「第二の天」にも立っています。ゆえに、悪魔は第二の天において、私たちを訴えることができるのです。ヨシュアは地上で工事を指揮していましたが、ヨシュアの御霊の体は、第二の天の戦いの領域にもありました。その光景をゼカリヤは見せられたのです。

『主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。』

 サタンは神の前でヨシュアを訴えていました。その同時刻、この地上においては、「敵が来て、ヨシュアやゼカリヤを訴えて」いました。「工事を止めてしまえ」と訴え、妨害していました。これは、見える領域と見えない領域の関連性を現しています。私たちが第二の天でサタンに訴えられるときに、地上では、「問題として反映される」のです。

 信仰生活という枠組みの中で、時々、私たちは問題を体験しますが、その根元は、ヨシュアが天においてサタンに訴えられていた時、地上では、「工事を中止せよ」と問題が起こっていたように、同じような状況を、私たちは常に生活の中で体験しているのです。

 ゼカリヤ書を見ると、サタンがヨシュアを訴えていました。そこでヨシュアは、「汚れた服を着て御使いの前に立っていた」とあります。ヨシュアは、すでに神のものでしたので、サタンは彼自身を訴えることはできませんでした。サタンが訴えていたのは「ヨシュアの服が汚れている」ということでした。その訴えが、地上おいては現実の問題となって現れていました。私たちは既に、神の完全支配の中にあるので悪魔は私たち自身に手を出すことはできません。しかし、もしも、私たちの衣が汚れていたら悪魔は訴えることができます。私たちが、きよい生活をすることは重要です。神の前にきよい生活をすることは、衣を汚さないことです。今日、賛美の中で「白い衣を着た花嫁のように…」と賛美しましたが、結婚式の時に、花嫁が白いドレスを汚していたら大変です。花婿はがっかりします。同様に、私たちは常に白い衣を着て神の前に立つことが大切です。衣が汚れていたらサタンは訴えることができます。それは罪です。

 「大祭司ヨシュア」とは、何を表していたのでしょうか。それは、イスラエル全体を代表していました。大祭司とは国を代表者して神の前に立つ人物です。その衣の汚れは、「国自体の罪」でした。長い間イスラエルは罪を犯していました。それは、偶像礼拝の罪でした。その汚れを悪魔は真剣に訴えていました。その結果が、神の宮が建ち上がらないという、敵の妨害につながっていたのです。私たちは常に白い衣を着て、天において悪魔に訴えられることがないようにしなくてはなりません。けれども、四節から五節に、

『御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、彼に服を着せた。そのとき、主の使いはそばに立っていた。』

 ヨシュアは汚れた服を着ていましたが、「その服を白い衣に替えてあげてください」また「きよいターバンをかぶらせてください」と周囲からの「とりなし」がありました。すると「その罪を赦す」という宣言が天で成されたのです。その時、地上での訴えは取り下げられ工事は前進し、宮は建て上げられました。これは見えない領域での勝利が、見える領域に表されるという「見えない領域と見える領域の関連性」を私たちに教えます。

 ダニエルは二十一日間、神の前に立っていましたが、なかなか答えは来ませんでした。けれども、二十一日後に答えが来ました。そこには、見える領域と、見えない領域での戦いがあったことがわかります。初めはダニエルとイスラエルは見えない領域で訴えられていましたが、打ち破られたのです。結果的に神の答えがきました。今年私たちは見えない領域で勝利を取ることに目を向けるべきです。皆さんの人生においても、見えない領域で勝利を取るならば、見える領域でも勝利を取ることができます。しかし見えない領域で敗北をしている人は、常に見える領域でも敗北です。そのためには、常に、御霊の体が天にあることを意識し、白い衣を着ているか点検しなければなりません。きよい生活をし、白い衣を着ているならば、悪魔は私たちを訴えることはできません。
 「もしかしたら、見えない領域で訴えられている・・」と思われる方は、見えない世界で勝利を取る必要があります。イエス様は、既に、私たちのために十字架にかかられ、罪の身代わりとなって死んでくださいました。だから私たちの衣をもう一度イエス様の十字架の血潮で洗うことができます。それゆえに、私たちはこの地上においても勝利を取ることができます。今年はまず、見えない領域で勝利を勝ち取り、見える領域でも勝利を取りたいものです。
 時には、祈りを継続しなければならないことがあります。しかし、それは天における戦いに参加しているのです。ダニエルは二十一日間、祈り続けたときに天が破られました。そして答えがありました。天の戦いの祈りに、ダニエルと同じように参加するように聖書は勧めているのです。

 今日私たちはこの地上にありますが、もう一つ、御霊の体が天にあることを覚えましょう。大祭司ヨシュアが天において訴えられていたのは、国を代表する罪でした。私たちクリスチャンは日本を代表する者です。「日本」という衣を着せられたらどうでしょうか。それは薄汚れどころか真っ黒です。日本国民が年始に行っていることは偶像礼拝です。ちまたは罪だらけです。私たちは国を代表して、「主よ、衣を洗ってください。私を訴え、国を訴えているサタンの力を打ち砕いてください。勝利を与えてください」と祈りたいと思います。
 今日私たちを訴えているものが打ち破られますようにお祈りしましょう。

(祈り)
「ハレルヤ。天の父なる神様、あなたの御名をあがめて感謝します。私たちは神の御前に御霊の体で立っています。もう一度私たちの衣を、イエス様の十字架の血潮で洗ってください。個人が犯した罪を赦してください。白い衣にしてください。家族や家系が犯している罪も悔い改めます。そこで行われた偶像礼拝や様々な罪を赦してください。また私たちは国を代表して主の前に出ています。日本が犯した歴史的な罪、偶像礼拝の罪を赦してください。白い部分が全くないような衣かも知れませんが、今その衣を十字架の血潮で洗ってください。またこの礼拝に、色々な国々から来られていますが、各国を代表して罪がぬぐい去られますように。すべての罪をきよめ、見えない世界で完全な勝利を与えてください。見えない領域での勝利が、見える領域の勝利として現されますように。ダニエルが二十一日後に祈りの答えを受け取ったように、今年は、天における勝利が地上における勝利として反映される年となりますように。イエス様の名によって祈ります。アーメン。」

 今まで長い間祈ってきた、家族の救いや、様々な問題解決など、見えない領域で勝利し、見える領域において結果が表されるように祈りましょう。

(祈り)
「ハレルヤ、主よ感謝します。今年、私たちが今まで長く祈ってきた領域に、勝利を与えてください。ダニエルが二十一日間祈った時に勝利が与えられたように、私たちにも勝利を与えてください。私たちに立ちはだかって訴えていた悪しき存在が打ち砕かれますように。すべての領域に、勝利を与えてください。経済、健康、家庭、家族の救い、リバイバルを止めている悪魔の力が打ち砕かれますように。そしてあなたの前にきよい衣を着て、地上において天の勝利を見ることができますように。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

 ゼカリヤはヨシュアのために、「とりなし」をしました。周りでのとりなしが、あって勝利しました。自分ひとりの祈りだけでは不十分です。周りの人たちと心一つにして互いのために祈ることができるますように。自分のためではなく、誰かのために祈りましょう。神様が与えられる領域を祈りましょう。

(祈り)
「主よ。今、私たちが祈っている祈りに答えてください。見えない領域に変化が起こることを感謝します。今、私たちのとりなしの祈りによって、人々の訴えが取り下げられていることを信じ、宣言します。どうか見える領域でも勝利を見せてください。今年一年間、見える領域だけではなく、見えない領域に目を留め、勝利を受け取ることができますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン」

勝利を宣言し、主の御名を賛美します!!
 聖餐式を行いますが、聖餐式は衣を見えない領域で洗う意味があります。第一コリント十一章二十八節に、

『ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。』

とあります。自分を吟味することは、見えない領域の衣を洗うとことです。聖餐式が見ない領域で、私たちを訴えているものを打ち砕くもの鍵であると信じます。教会は見えない領域に勝利をもたらす場所です。同時に教会が、悪魔の訴えを見抜くことができるように、教会の衣を訴えられることがないように祈りましょう。すべての領域を含む勝利を与えてくださったイエス様の十字架の血潮によって、勝利できますようにお祈りしましょう。


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