家族とともに喜び楽しめ

2005.1.23(SUN)
新城教会 滝元 明師

旧約聖書 申命記 12章7節
その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。

 ハレルヤ!今朝は皆さんとともに礼拝が持てることを感謝します。先週は西宮一麦教会で奉仕させいただきました。下條先生がしばらく入院されていましたが、お元気になられたことを感謝します。今日は西宮一麦教会で、滝元堅志兄と福島右子姉の婚約式が行われています。祝福をお祈りしましょう。
 今日は申命記の御言葉から「家族とともに喜び楽しめ」というタイトルで学びます。

『その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。』

また申命記十二章十八節から十九節に、

『ただ、あなたの神、主が選ぶ場所で、あなたの息子、娘、男奴隷、女奴隷、およびあなたの町囲みのうちにいるレビ人とともに、あなたの神、主の前でそれらを食べなければならない。あなたの神、主の前で、あなたの手のすべてのわざを喜び楽しみなさい。あなたは一生、あなたの地で、レビ人をないがしろにしないように気をつけなさい。』
 
 今日はご家族で礼拝に来られている方もいれば、まだ家族がクリスチャンになっていない方もいます。一日も早く家族中で礼拝に来ることができるようにお祈ります。聖書には、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』と書かれています。家族は非常に大切です。また、『家族でともに喜び、楽しみなさい』と書かれています。
 最近アメリカのブッシュ大統領が第二期目の就任式をしました。テレビでその様子を見ました。その就任式のために日本円で三十億円が使われたと言われています。ある人はこれを聞いて贅沢だと言います。しかし、それは「アメリカ」という国家の威光を現わすために大切な行事でした。聖書にも、エステル記にアハシュエロス王が祝宴を催したことが書かれています。それは百八十日にも及ぶものでした。毎日ごちそうを食べて喜びました。それによって、いかに自国が繁栄しているかを内外に見せました。アメリカも三十億円をかけて「このように祝福されている」と現していると思います。申命記十二章に、

『あなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。』

と記されています。家族で一緒に祝宴をすることは大切です。それぞれの家庭事情があるのでできないこともあると思いますが、家族が集まって祝宴を開くことは素晴らしいことだと思います。
 私は五百円玉があると必ず貯金をします。そして一年に一度、私の誕生日に私の子どもや孫たちとともに食事会をします。家族が皆で集まって食事会をすることは楽しいです。しかし昨年は沖縄ミッションがあり、九月二十日に私は沖縄にいたのでできませんでした。だから私は家族や子どもたちの飛行機代を出して、なるべく沖縄に来るようにと勧めました。時々ある子どもは私に電話をして、「おやじ。今日焼き肉を食べに行かないかい」と言ってくる時があります。家族で食事ができることは素晴らしいですが、家族中が集まることができないのは悲しいです。誰か子どもが病気であったり、子どもたちが遠くに行っているのは寂しいです。しかし家族中で喜ぶことができたら楽しいです。
 先日新聞を読んでいましたら、「シングル・パパ」が増えたという記事がありました。それはご主人がひとりで子育てをしているということです。奥さんが亡くなったという理由と、悲しくも離婚をしたということが原因に上げられていました。それが全国で十七万三千八百世帯あるようです。母親がいない家庭は寂しいです。また逆に、母親だけで子どもを育てることも寂しいです。
 聖書を見ると神様は家族を回復し、家族中で食事をすることを願われています。家族が祝福され、喜ぶことができるように祈りましょう。家族が祝福されることはとても大切なことです。そのためにどのようにすべきかを、聖書から学びたいと思います。エペソ人への手紙五章二十二節から三十三節は、結婚式でよく読まれる言葉です。二十二節から二十四節に、

『妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。』

 良い家庭を作るためには原則があります。自分勝手に歩むのではなく、祝福の原則があります。二十二節に、

『妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。』

とあります。私が結婚するときに、私を導いてくださった穐近先生が心配されました。なぜならば、私の家内は六歳半年上だからです。ある時に穐近先生が家内を呼んで、「あなたの方が滝元兄よりも年上だけど、夫婦においては年上と言うことは関係ない。聖書には『主に従うように、自分の夫に従いなさい』と書いてあるから、どこまでも夫に従うのだよ。」と言われました。家内は「はい。わかりました。」と言いました。カカア天下ではいけません。奥さんが強くても良いですが、妻が夫に従うことは大切です。妻が夫に従うならば、良い家庭ができると教えています。また五章二十五節から二十八節に、

『夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。』

とあります。また夫に対して教えています。

『夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。』

とあります。家内に教えた後で、穐近先生が私に、「『夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。』と書いてあることは、イエス様が十字架上で死んでくださったように、いのちをかけて妻を愛することだよ」と言われました。夫が妻を愛することは素晴らしいことです。子どもたちも夫婦が愛し合っている姿を見るならば、幸せになることができます。ですから皆さんの中で、もしも愛が足らない人がいたら、奥さんを愛すること、また、ご主人に従うことが大切です。五章二十八節から三十三節に、

『そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。私たちはキリストのからだの部分だからです。「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。』

とあります。結婚されている方はよく考えましょう。夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。奥さんを愛されていますか。「弱い器のようにして尊びなさい」とあります。
 私は個人的によく家内の手伝いをします。食事を作ることはしませんが、時々、食器洗いや洗濯をしたり、アイロンかけをします。結婚してしばらくして、私が家内の仕事を手伝っていたら、私の兄の嫁が、「あきちゃん、男なのにどうしてそんなことをしているの?」と言いました。それは昔の考え方です。私の父親を見ていると、こたつに座っていて何もしないのです。「おい、飯!」「お茶」「寒い…」と言うのです。これは昔の日本男性です。しかし私がなぜ家内を手伝うのかというと、なるべく家内を楽にしてあげたいからです。
 私の友人の牧師がカナダにいます。カナダである奥さんがゴミを袋を出していると、近所から笑われたそうです。「あなたの家はどういう家庭ですか。重たい物は男性が持つ物ですよ。」と言われたそうです。私たちが聖書を基準に生きることは大切です。ですから、妻を愛すること、いのちをかけてキリストがしたように愛することが大切です。愛することができたら、私たちは素晴らしい道を歩むことができます。家族が祝福されることは大切です。家族はからだの一部です。家族皆が愛し合っているならば、家庭が祝福されます。もし夫婦が争っていたら家族は祝福されません。良い家庭を作ることを聖書は教えています。エペソ人への手紙六章一節から三節に、

『子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。』

 夫の立場、妻の立場がありますが、これは子どもたちに対して教えています。子どもたちはお父さんの言うことを聞いていますか?聖書は、

『子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。』

とあります。子どもたちが両親の言うことを聞くならば、幸せで長生きすることができます。親孝行の人は長生きするとあります。箴言六章二十節に、

『わが子よ。あなたの父の命令を守れ。あなたの母の教えを捨てるな。』

とあります。また箴言二十三章二十二節に、

『あなたを生んだ父の言うことを聞け。あなたの年老いた母をさげすんではならない。』

とあります。両親が年をとってもさげすんではいけないと教えています。「お父さん、コンピューターもできないの…」と、さげすんではいけません。よく両親の言うことを聞くならば、祝福されると書かれています。コロサイ人への手紙三章十八節から二十一節に

『妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。』

とあります。エペソ人への手紙にあるのと同様に、夫婦の関係について教えています。そして「子どもたちを怒らせてはいけない」とあります。これは、苛立たせてはいけないということです。子どもを苛立たせると、子どもは反抗的になります。ですから私たちの人生の中で正しい生活をすることが大切です。『父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。』とありますが、エペソ人への手紙六章四節には、

『父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。』

とあります。今日ここに子どもたちを連れて来られていることは素晴らしいです。『主の教育と訓戒によって育てなさい』と書かれています。聖書の御言葉はよく聞いて育つならば間違いない子どもになります。まず十戒をしっかり覚えて子どもたちを育てることが大切です。十戒について書かれている用紙を私は持っています。この用紙は私の部屋にいつも飾ってあります。ここには一九八五年三月二十日と書かれています。これはイスラエルでもらったナフキンです。それを持ってシナイ山に登ったときに、シナイ山の頂上で書きました。

一、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
二、偶像を作ってはならない。拝んではならない。
三、みだりに主の名を唱えてはならない。
四、安息日を覚えて、聖としなさい。
五、あなたの父と母を敬え。

 今の世の中の傾向は、両親の言うことを聞かない人がたくさんにいます。しかしそのような悪魔の罠にかからずに、両親の言うことをよく聞いてください。

六、殺してはならない。

 最近は奈良で小学校の女児が殺害されました。犯人が捕まりましたが、彼は悪いと思っていません。良心の呵責がないのです。「殺してはならない」と書いてあるので、殺してはなりません。

七、姦淫してはならない。

 今の世の中がどうであっても、結婚するまで、純潔を守ることが大切です。また結婚してからも、他の人と不義のきずなを結んではいけません。

八、盗んではならない。
九、あなたの隣人に対して偽りの証言をしてはならない。
十、あなたの隣人のものを欲しがってはならない。

 クリスチャンの子どもたちに、十戒をよく教えていくことが大切です。昔イスラエルでは手に御言葉を書いて歩きながら読みました。また、家の柱にも書きました。聖書の御言葉が私たちを守ります。私たちが御言葉を守って生きるならば、良い家庭を作ることができます。しかし悪魔は時々内輪もめを与えます。
 先日、順牧師も語っていました。内輪もめをするとその家が崩壊してしまうと聖書は教えています。
 初めの人間アダムとエバは、悪魔の誘惑に負けてしまいました。その子どもはカインとアベルです。カインは正しくありませんでした。ある時に畑で取った物を神様にささげましたが、神様はそれに目を留められませんでした。しかしアベルは羊を殺して神様の前にささげました。アベルのささげものは神様に喜ばれました。アダムとエバは子どもたちに話をしたと思います。「私たちは罪を犯したから、神様の前に出るときには必ずあがないをしなければならない。羊をほふって血をささげて、あがないをしなくてはいけないよ。」と教えたと思います。しかしこの教えをカインは聞かなかったので、カインはアベルのささげものを神様が喜ばれたのを見て、癪にさわり妬ましく思いました。そしてカインはアベルを外に呼び出して殺してしましました。この時に家庭の崩壊が起こりました。もし神様の御言葉をカインが聞いていたら、家庭は守られたと思います。
 時々私はテレビを見て恐ろしいと思います。先日もこの近くの大学教授が大阪で女子高生のスカートの中に手を入れて逮捕された、という事件が報道されていました。考えてみると、その先生の奥さんや子どもたちは可哀想です。「お前のお父さんは昨日スカートに手を入れて逮捕されただろう。」と言われるのです。私がもしもユニーに行って万引きしたとします。そんなことはしませんが…。「このネクタイは良いなあ」と思い、ポケットに入れたとします。すると、「ちょっと待ってください。ポケットに入れた物を出しなさい。」「えっ?何もないですよ。」「いや、見てましたよ。あんたは盗んだでしょう」と言われたとします。「あなたの名前は?家はどこですか?」と訪ねられます。「新城市の富沢です。」「職業は何ですか」と言われると、「牧師です…」と言わなければなりません。そして新聞やテレビで報道されてしまいます。「新城市の牧師、万引きネクタイ一本」とタイトルがあがると思います。そうすると家庭は崩壊です。孫たちには、「あんたのおじいちゃんは泥棒だ。あんたも泥棒ではないか…」と言われます。家族の一人ひとりはつながっています。ひとりの罪は皆の悲しみです。だから自分だけだと思ってはいけません。病気になった時は家族中が苦しいです。だから個人には責任があります。もし私たちが罪を犯したらどうでしょうか。私たちは失敗しない人はありません。ルカの福音書十五章十一節から二十四節に、

『またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。』

とあります。放蕩息子はある意味で怠け者だと思います。お父さんが財産を分けました。彼はとてもうまく言ってお父さんを騙したと思います。「お兄さんと一緒に仕事をしていてもつまらない。遠くに行って一旗揚げたいので財産を分けてください」と言ったと思います。しかしお父さんは彼を信用したと思います。彼は財産を持って遠くに行きました。彼は遊んで財産を全部使い果たしてしまいました。すると飢饉が来て、豚を飼う仕事をし、豚が食べるイナゴ豆を食べるようになりました。彼は飢え死にしそうになりました。
 「父」とは神様を表しています。神様から離れていると良い結果をもたらしません。そして彼は堕落し、どん底になった時に我に返りました。十七節に、

『しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。』

彼は自分の失敗に気がつきました。彼は考えました。十八節に、

『立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

 彼は今お父さんの所に帰って「お父さんの金を使ってしまったし、子どもとしてではなく、雇い人のひとり同様にしてもらおう」と思い家に帰りました。これが日本的になると悪魔が「自殺しろ。駄目ではないか…。死ね」と追いつめます。しかし彼は、我に返ってお父さんの所に帰れば良いと立ち上がりました。二十節に、

『こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。』

 アメリカでひとりの娘が堕落し、罪を犯してどん底に陥りました。しかしある時に遠い道を歩いてお母さんの所に帰りました。彼女は夜中に家に着きました。彼女の家には立派な門があったので、どうやって入ろうかと考えていました。娘は恐る恐る家に行くと、門が開いており、電気もついていました。そしてお母さんがまだ起きていました。彼女が「お母さん、帰ってきました。どうして門を閉めなかったのですか?」と言うと、「あなたが家出した日から一度も門を閉めたことがない。いつでも帰ってくることを待っていた。」と言いました。その時彼女は悪いことをしてきましたが、母親の愛を受けて悔い改めたという話しを読んだことがあります。
 このお父さんは、夕方になっても朝になってもいつでも自分の息子のことを考えていたと思います。そしてある日、汚い格好をした息子が帰ってきたときに、

『「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。』

とあります。その時彼は、

『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。』

と言いました。泥棒も姦淫も偽りもすべて天に対しての罪です。彼は「お父さんの財産を使い果たし、罪を犯した。ごめんなさい。雇い人のひとりと同様にしてください。」と言いました。その時にお父さんは抱きしめながら、雇い人が大勢いるところで「一番良い着物を着せなさい。指輪をはめなさい。子牛をほふってお祝いしましょう。」と言って宴会が始まりました。お父さんの愛は、どんなに失敗しても愛してくれます。どんなことがあっても子どもたちはお父さんとお母さんに愛されています。もし罪を犯しているときにへりくだってイエス様の所に来れば、赦されます。悪魔の罠は罪を犯すと、「お前は罪を犯しただろう。絶対に赦されない」と言います。しかしイエス様は私たちの罪のために十字架にかかられて死なれ、地獄の刑罰を受けられ、死人の中からよみがえられました。「わたしはあなたの罪の身代わりに死んだ。あなたの罪を赦してあげる。」と神様が招いておられます。もし心から神様のところに行くならば、心から喜んで家族の中に回復が始まったことが記されています。もし親子の間や夫婦の間に問題があるならば、自分のことのように悔い改めてお祈りしましょう。
 二人の人が神の前に出ました。ひとりはパリサイ人、ひとりは取税人でした。パリサイ人はいつでも自分の正しさを主張していました。彼はある時に神の前に出て天に目を向けて心の中で祈ったとあります。彼は人を見下げていました。

『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

その時に取税人は天を見上げようともせずに自分の胸をたたいて
『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
と言いました。その時、神様は取税人に目を留められて彼を義とされました。

今日私たちは、まず家庭からリバイバルが始まるように、罪があったら悔い改め、家庭で皆で食事ができるように、宴会ができるような家庭になるようにお祈りましょう。また放蕩息子のように罪を犯している人がおられたら悔い改めてください。家族の一致がない方も悔い改めてお祈りしましょう。また夫が妻に対して辛く当たっている方、また奥さんが夫に従えない方、また両親に従えない方は、へりくだって悔い改めのお祈りをしましょう。今日から神様があなたの家族を祝福してくださいます。お祈りしましょう。


[バックナンバー]