幸せになって下さい!

2005.1.30(SUN)
新城教会 滝元 順師

旧約聖書 イザヤ書61章1節〜3節
神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。

 ハレルヤ!今日は皆さんとともに礼拝を守ることができ、心から感謝します。今日は「幸せになって下さい!」というタイトルで学びます。神はあなたに一度だけ、この地上での人生を用意されました。その人生に対してどのように願っておられるかというと、幸せに生きることを願われています。神は天と地を創られました。私たちはやがて天に生きることができますが、なぜ地を創られたのでしょうか。神は人に地においても、天の恵みを受けながら幸せに生きることを願われています。今日は幸せに生きるための秘訣をつかんでいただきたいと願っています。
 私事ですが、先週は息子が婚約しました。私たちは婚約式のために西宮にある一麦教会に出かけました。下條先生が婚約式の司式をしてくださり、こちらからも多くの兄弟姉妹が祝福に駆けつけてくださって心から感謝します。彼らが婚約したきっかけは、十三年前に甲子園球場で集会が行われましたが、その頃から下條先生の教会と働きを共にするようになったことです。昨年は岡本司兄が西宮から奥さんをもらい、再び私の息子が西宮からいただくということで複雑な思いがありましたが、それもこれも「甲子園ミッション」があったからだと話しました。人生はちょっとしたきっかけで、色々な変化があります。最も大きな人生の転換はイエス様との出会いです。さて、イエス様がこの地上に来られた目的がイザヤ書六十一章の一節から三節に記されています。

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。』

「わたし」とはイエス様ご自身を表しています。神がひとり子イエス様をこの地上に遣わされました。神が地上に人間の姿をとって人間を救うために来てくださったのです。イエス様が来られたのは、貧しい者によい知らせを伝えるためです。「貧しい者」を言い換えれば、「幸せでない、不幸な人」と言えます。イエス様は不幸な人によい知らせを伝えるために来てくださったのです。
 この地上には不幸が多いです。今日は祈らなければならないことがあります。それは国際的な問題です。イラクでの選挙の日です。選挙に際してテロが起こり、多くの人が亡くなっています。国を良くしようとすればする程、人々は不幸になっていくような気がします。そのような問題が広がることがないように、私たちはイラクのために心を裂いて祈る必要があります。身の回りを見ると不幸なことがたくさんありますが、イエス様は不幸な人に良い知らせを伝えるために来られたのです。そして「心傷ついた者をいやすために」イエス様が来られたと記されています。心に傷があると幸せに生きることはできません。「心の傷」とは心に切り傷が入っているわけではなく、つらい記憶です。それは過去の忌まわしい記憶です。過去が引き留めて幸せに生きることができないのです。イエス様がこの地上に来られた最大の目的の一つは、過去の忌まわしい記憶を消し去るためです。もしも過去の記憶で苦しめられている人がいたら、今日、イエス様に期待して下さい。
 日本特有の問題に「引きこもり」があります。他の国にもありますが、日本ほど社会的問題に発展していないそうです。日本では百万人もの人が引きこもっているようです。また引きこもり予備軍が一千万人近くいるそうです。なぜだろうかと研究されています。精神的な問題も溢れています。精神的な問題や引きこもりという領域に関わる問題は、食糧が多い国々にあるという統計が出されています。食糧が少なくて、えさ取りに真剣になっているならば、人は精神的に悪くならないそうです。しかし食糧がたくさんあり、食べることに不自由しなくなると悩むそうです。全体的に傷の多い時代に生きています。しかしイエス様はそのような忌まわしい記憶を消すために、この地上に来てくださいました。父なる神様がイエス様に油を注がれました。油そそぎとは、聖霊の注ぎです。私たちが聖霊の油注ぎを受けると、忌まわしい記憶が消え去るのです。教会は聖霊の油そそぎを受ける場所です。今日私たちは礼拝に集っていますが、主を礼拝し、主を求めるときに聖霊の油が注がれます。イエス様が父なる神から油そそぎを受けたように、私たちも聖霊の油そそぎを受けて、気づかないうちに心の傷がいやされていきます。
 しかし心の傷は、過去の記憶だけではありません。何かわからない、別に何かあるわけではないのに傷ついている場合もあります。引きこもりの問題を調査すると、一歳から三歳の間に家族に問題があると、後から形になって現れるそうです。それがどこまで本当かわかりませんが、一歳から三歳とは自分ではどうにもならない年代です。そんな時期の悲しみや苦しみが年を取ってから噴出し、問題となって現れるというのです。そんなことを言ったら、だれも幸せになることはできません。しかしイエス様は心の傷を癒すためにこの地に来てくださったのです。心の傷をいやして下さる方はイエス様であることを堅く信じることが必要です。今日、すべての心の傷がいやされ、過去の忌まわしい記憶も消され、幸せに生きることができるようにと、イエス様は願っておられます。

 同時に人は健康でなければ幸せに生きることができません。私は二週間程前に膝を痛めました。先日、東京のある教会へ奉仕に行きました。東京は階段が多いのです。足首が痛かったのですが少し無理をして一日奉仕をしました。夜の九時頃、集会が終わり帰ろうと思って外に出ると、ひとりの人が来て「私のために祈ってください」と言われました。明治通りという人通りの多い歩道に面した教会前で、その人のためにお祈りしました。真剣に祈って目を開けると、その人の後ろに大勢の人が並んでいました。そこで祈りが始まってしまいました。寒いところで十時半頃まで祈り続けました。それで家に帰ると今度は膝も痛み出しました。一週間程痛かったです。今私は教育館の二階に住んでいるので大変でした。日々健康であることを感謝しなければいけないと思いました。少し病気をすると健康であることを感謝します。今日礼拝に来ることができたのは、少なくとも健康が備えられている証拠です。感謝しなければなりません。それと共に、イエス様は私たちの肉体をもいやしてくださるお方なので、それにも期待しましょう。出エジプト記十五章二十二節から二十六節に、

『モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。 民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか。」と言った。モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」』

 ここでは「わたしは主、あなたをいやす者である」と約束されています。これはエジプトから脱出したイスラエルの民に語られた言葉です。脱出した民とは「クリスチャン」を表しています。神が私たちに語られている言葉は、「わたしは主、あなたをいやす者である」という言葉です。第二列王記二章十九節から二十二節に、

『この町の人々がエリシャに言った。「あなたさまもご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産が多いのです。」すると、エリシャは言った。「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」人々は彼のところにそれを持って来た。エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」こうして、水は良くなり、今日に至っている。エリシャが言ったことばのとおりである。』

 エリコという町がイスラエルにあります。その場所は住むには良いオアシスですが、水が悪く、その水を飲むと流産したりして、死の霊が町を覆っているようでした。そこに預言者エリシャが遣わされました。すると神はエリシャに不思議なことを語られました。「塩を持ってきて水の源に投げ込みなさい。そうしたら水をいやすから。」神はモーセに、「水の中に木を投げ込みなさい」と語られました。そして「わたしは主、あなたをいやす者である」と続けて語られたのです。「水のいやし」と「体のいやし」には関連性があるようです。普通でも、悪い水を飲むと病気になります。最近では水も買わなければなりません。日本はある意味で水が悪い国です。そのように言ったら、「日本は良い水がある国だ」と言われるかも知れません。しかし霊的な視点で日本を見るとき、日本の水源地や水の源に行くと、必ず偶像があります。それはあたかも水が偶像の神々によって与えられたかのようなセッティングです。日本でいくら伝道しても、途中で魂が流産してしまったり、信仰を持っても離れてしまうような結果になるのは、ある意味で水が悪い為かも知れません。そこから流れて来る水を飲んでいたら、聖餐式の逆で、悪霊と交わることになります。水によって心も体もやられてしまうような面があるのかもしれません。しかしイエス様は、水の悪い国に生きる私たちをも、いやすことができる神です。モーセが水に木を投げ込んだのはイエス様の十字架を連想させます。また、エリシャが塩を投げ込んだのは、イエス様の十字架の血潮を連想させます。イエス様が十字架にかかられて血を流し、私たちの病のために死んでくださり、よみがえられたことを信じることによって、私たちにいやしと健康が与えられるのです。
 新城教会の礼拝メッセージを、インターネットで読んでくださっている方々が多くおられます。同時に、日本のいくつかの牧師がいない教会から「礼拝のビデオテープを送って下さい」と言われ少し協力しています。北海道にもそのような教会があり、数人が集まっておられます。私も一年に一度くらい、そこに行き集会を導いたりしてよく知っている教会です。そこの責任者の女性が、昨年体調が悪くなり病院に行ったそうです。すると「リンパ腫」という病気でした。それは体中に腫瘍ができる病のようです。調べてみると十二指腸が塞がってしまう程の腫瘍があり、脾臓にも腫瘍できていて手術をすると命が危ないので、抗ガン剤だけで治療をすることになったと言いました。私もそれを聞いて真剣に祈りました。ちょっと危ないかも知れないと言われていました。北海道に行って祈ってあげるのが愛かとも思いました。しかし北海道に行くにはお金もかかります。また、遠くまで行って祈っても、私の祈りに何の効果もなければ仕方がないと思いました。それで、「私は北海道まで祈りに行くべきでしょうか。私が行っても何も起こらなかったら、周りですでに祈っているから、私もこちらでいのります。しかしもしも、私に使命があるならば教えて下さい」と祈っていました。
 そうしていると、昨年の十一月に北海道にある他の教会から私に招きが来ました。私はその連絡を受けて不思議に思いました。前後のスケジュールを調べたら、前半二日間が空いていました。しかし北海道は広いので、奉仕の場所から病院までは飛行機を乗り継ぎ、レンタカーも必要となります。色々計算をしてみると、数万円かかることがわかりました。しかし、これは神が備えたチャンスだと信じ、思い切って行くことにしました。私は家内とともに行きました。まずはその方の住む地域のとりなしの祈りをしてから、病院を訪問しました。彼女はやつれて今まで見たことのないような顔色でした。しかし私たちは祈りました。「主よ、いやして下さい。助けて下さい」と真剣に心を合わせて祈りました。彼女は六回の抗ガン剤治療を受けることになっていたようですが、二回目で耐えられなくなって中止しました。
 しかし先日、電話がありました。何が起こったと思いますか。カメラで検査してみると腫瘍がどこにもなくなっていたそうです。これは私の祈りが聞かれたということではありません。大勢の人々の祈りが集結して、そのようないやしにつながったのです。しかしその一端に私も加えていただいたことに感謝します。「わたしは主、あなたをいやす者である」という御言葉は真実だと思いました。医者も「これは奇跡だ」と言ったそうです。イエス様はいやして下さるお方です。病気ならば幸せに生きることはできませんが、「わたしは主、あなたをいやす者である」と言われる神がともにおられることは、何と幸せでしょうか。今日、病がある方も希望を捨てずに祈ることが大切です。しかし万が一病気がいやされないとしても、次の段階で天国も用意されています。すべての領域に神の助けが用意されています。けれども、私たちは地上において、いやしを信じて祈らなければなりません。結果がどうであれ、犠牲を払って信じて祈る必要があるのです。時には無駄足、無駄骨のように感じる祈りもあるかも知れません。しかし犠牲を払って祈ると、神が奇跡を現して下さるのです。私はあの時、北海道に行って良かったと思いました。しかし行くことについては、真剣にみこころを求めて祈りました。すると不思議な方法で道が開かれました。神は私たちが健康で生きることを願っておられます。

 さて、私たちの心を責め立てる最も厳しい記憶は、「罪の記憶」だと思います。人間には良心があります。不思議なもので良心は全世界共通です。泥棒をしたら悪い、人を殺したら悪いというように、道徳の規準は全世界どこにおいても同じです。心の中に同じ基準がインプットされています。いくら聖書を読んでいない人でも、心の中には律法が書き込まれていると聖書は語っています。聖書にはモーセの律法がありますが、それがすでに人の心の中に生まれつきインプットされています。だから、悪いことをしたら悪いと感じるのです。
 ある人に、「良心とはどんな形をしているのか」と聞くと、「それは三角形だ」と答えたそうです。心の中に三角形の良心がはまっていて、悪いことをすると回転するそうです。それは三角形なので、角が当たって心が痛いのです。罪を犯すと良心がうずくのです。しかし同じことをいつも繰り返し行っていると、角が取れて良心は丸くなり痛みがなくなるのだというのです。うまいことを言ったものだと思います。
 罪を犯し続けると、良心が麻痺します。しかし罪とは、私たちが幸せに生きることを阻止するものなのです。時々教会に来て「罪について話すから耳が痛い、ああいう話しをしなければもう少し気楽なのに…」と思うかも知れませんが、私たちは罪に対しては厳しくあることが大切です。それは神が楽しいことを制限しているのではなく、基準からはみ出すと幸せに生きることができないと教えているのです。例えば、川や海に「遊泳禁止」という立て札が立っている場所があります。いくら泳ぎやすそうに見えても「遊泳禁止」と書かれていたら泳いでは行けません。海でも遠浅に見えて海水浴に良いと思っても「遊泳禁止」と掲げてあったら泳ぐと危険です。波が巻いていたり、鮫がくるような危険地帯なのかも知れないのです。危険があるから、そのような立て札が掲げられているのです。聖書の中の罪という領域は、一つの立て札です。「ここからは超えては駄目です。この線を越えると危険です」「人生が幸せではなくなってしまうので、ここから入らないで下さい」という立て札です。私たちが罪から離れて生きることは、幸せに生きる秘訣です。しかし罪を犯すと心が痛くなり、幸せに生きることはできません。けれども、罪が赦されたという経験があれば、人は幸せに生きることができます。イエス様がこの地上に来られたのは、私たちの罪を赦し、私たちを義と認めるためでした。イザヤ書一章十八節に、

『「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』

とあります。もしも罪によって心が真っ赤に染まっていても、また真っ黒に染まっていてもイエス様はその罪を赦してくださり、真っ白にしてくださいます。「羊の毛のように白くなる」とあります。イスラエルでの白の概念が羊の毛です。日本では雪が白の概念だと思います。イスラエルの砂漠地帯では雪が降りません。だから雪と共に羊の毛のようにと述べています。私たちの心がどんなに汚れていても、羊の毛のように真っ白にしてくださるのだと教えています。罪が赦されたら幸せになることができます。イエス様の十字架によってすべての罪を赦していただきましょう。教会は決して断罪する場所ではありません。罪の赦しを宣言する場所です。罪の赦しはどこに行ってもありません。罪の償いはできるかも知れません。犯罪を犯したら刑務所に入り、償いはするかも知れません。しかし赦しはありません。けれども、イエス様を信じると罪の赦しがあります。教会は「お前は罪人だ」と罪に定める場所ではありません。罪を赦すための道を教える所であり、赦しの宣言が教会の権威の中に備わっています。「あなたの罪を赦します」とイエス様の名前によって宣言する時に、罪は赦されます。教会は素晴らしい所です。どんなに罪があっても、教会で洗うことができます。「罪が赦された」という確信を得るならば、幸せに生きることができます。今日すべての罪が赦され、幸せになることができますように。イザヤ書六十一章に、

『貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、』

とあります。囚人は幸せではありません。刑務所に入っていたら幸せではありません。捕らわれているからです。
 私は若い頃に、グロリア・シンガーズというバンドをやっていて全国の教会や施設で演奏活動をしました。二十年程賛美の働きをしていました。そこで色々な経験をさせていただきました。ある時、松本の少年刑務所に呼ばれて三日間奉仕をしたことがあります。重大な犯罪を犯した十代の若者たちが、そこに収容されていました。私たちは賛美をし、また、暇な時間は少し交流を持って下さいと言われ、同じ年代なのでドキドキしましたが三日間そこにいました。そんな中、「今日は社会人野球のチームと少年院野球チームが対戦するのですが、少年院チームのメンバーが足りないから入って下さい」と言われました。私は人生で始めて少年院チームで同じユニフォームを着て参加しました。私は球技が全く下手です。球を取れずに転がしてしまったら後ろに看守がいて、「この馬鹿者。何をやっている!!」と怒鳴られました。「すみません」と顔を合わせると、「あっ、あなたでしたか。すみません」と言われました。捕らわれるということは大変だと思いました。捕らわれていたら自由がないのです。刑務所や少年院は大変な所です。しかし釈放されたら嬉しいです。少年たちは釈放日をいつも数えながら生活していました。釈放されると自由があります。
 イエス様が与えてくださる恵みは、捕らわれ人に解放を囚人には釈放を告げるものです。ある人は色々な領域に捕らわれています。自分の力ではどうにもならない、牢獄のような所に入っているかも知れません。しかし、イエス様はそこから解放して下さるのです。特に解放を必要としている領域は、私たちは生まれながらの悪魔の奴隷です。しかしイエス様を信じることによって、暗闇から光に、サタンの支配下から神の支配下に解放し、自由にしてくださると教えています。あなたの周りに悪魔・悪霊が透明人間のように付き添っていていつも妨害していたらどうでしょうか。自分がいくら努力しても無駄です。けれども、敵の力は打ち砕かれます。そうしてあなたは幸せになると教えています。エレミヤ書三十一章十六節から十七節に、

『主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。__主の御告げ。__彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある。__主の御告げ。__あなたの子らは自分の国に帰って来る。』

 多くの人生が泣き声と涙の人生です。その原因はどこにあるのでしょうか。聖書はそんな人生であっても、あなたの人生には希望があると告げています。エレミヤ書三十一章二十七節から三十一節に、その泣き声と涙の理由を知ることができます。、

『見よ。その日が来る。__主の御告げ。__その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。__主の御告げ。__その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。見よ。その日が来る。__主の御告げ。__その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。』

とあります。「新しい契約」とは、後に十字架と復活によって備えられた「新しい契約」であると私は理解しています。「今まであなたの人生は泣き声と涙の人生でした、その理由は、自分でもわからない不条理な理由によって苦しめられてのです」と言っているのです。エレミヤ書三十一章二十九節に、

『『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』とは言わない。』

とあります。泣き声と涙の人生の背景に、「父が酸いぶどうを食べてゆえに子どもの歯が浮く」という信じられない理由があったのです。これは何を意味しているのでしょうか。私たちが家系を見ると、家系の中に同じような問題が繰り返し起こっているのを発見します。時々、結婚する前に色々な調査をすることがあります。「あの家と結ばれて良いのだろうか。家系には問題ないだろうか・・・」
 ある人と結婚したら、問題がもたらされるかも知れないと恐れます。科学的にも学問的にも何の根拠もないのですが、それを信じています。なぜならば、人は家系の問題が継続することを経験的に知っているからです。家系が悪いと幸せになれません。なぜならば、同じ問題を繰り返すからです。「私の家系には特定の病が繰り返し起こっている、いつも精神的な問題、破壊的なテーマが繰り返されている」と言うようなことが多いのです。それが泣き声と涙の人生の理由となっているのです。しかしイエス様がこの地上に来てくださったのは、人と新しい契約を結び、父が酸いぶどう食べたので子どもの歯が浮くというようなことにはならないというのです。家系的な問題やテーマによって泣くことはないと告げています。イエス・キリストを信じることは、家系の呪いからの解放です。家系が変えられることは素晴らしい特権です。イエス様はこの地上に来て下さり、十字架にかかって死なれましたが、それは私たちの家系をもあがなうためでした。自分が酸いぶどうを食べて自分の歯が浮くのは仕方ありません。しかし父が酸いぶどうを食べたゆえに、子どもの歯が浮くということはなくなります。それは十字架による新しい契約によってなくなるのです。家系にどんな悪いテーマがあったとしても恐れないでください。イエス様は、あなたの家系を勝ち取るために地上に来て下さいました。家系を千代に至る祝福へと変えてくださいます。出エジプト記二十章四節から六節に、

『あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。』

 偶像に仕え、真の神から離れていた結果は、三代、四代の呪いでした。しかしイエス・キリストを信じることにより、今度は家系があがなわれ、千代に至る祝福であなたを満たし幸せになると教えています。偶像礼拝は私たちから幸せを奪うものです。私たちが偶像礼拝から離れて主に仕えていくならば、幸せに生きることができます。
 「心の傷をいやしてあげます。病をいやしてあげます。罪を赦してあげます。捕らえられている人は解放してあげます。家系が悪い人は家系を変えて千代に至る祝福を与えてあげます。そして、永遠のいのちを用意しています。幸せになって下さい」と主は今日語られていることを信じ、主のみ声を聞きましょう。お祈りしましょう。

 今から聖餐式を行いますが、聖餐式は水の源を勝ち取るという意味もあると思います。エリシャが水の源に塩を投げ入れたときに水きよくなったとあります。私たちはイエス様の十字架の血によってきよくされることができます。また日本においては食べ物の根元に悪霊的な力が関わっています。エリシャが水源に塩を投げ込んだ時ように、「わたしは主、あなたをいやす者」とモーセに語られたように、源が勝ち取られるように祈りましょう。「私の心の傷の源流にイエス様の血潮と裂かれた肉を投げ込んでください」と祈ってください。不幸と感じる源流に、十字架の血潮を投げ込んでいただきましょう。


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