あなたは愛されています

2005.2.6(SUN)
新城教会 滝元 順師

旧約聖書 イザヤ書 43章4節〜7節
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。わたしは、北に向かって『引き渡せ』と言い、南に向かって『引き止めるな』と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。

 ハレルヤ!今日皆さんとともに御言葉を学ぶことができて感謝します。今日は「あなたは愛されています」というテーマで学びます。誰かから、愛されていると感じることは幸せです。「誰にも愛されていない」という人は寂しいです。生きる力が湧いてきません。教会は一つのファミリーです。相互に愛し合い、支え合っていくのです。しかし人間の愛には限りがあります。神の愛が必要です。神の愛を感じながら生きることは、素晴らしい特権です。イザヤ書は神が人類に語っておられる言葉です。

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』

「わたし」とは、神ご自身であり、イエス様です。「あなた」とは、私たち一人ひとりを指しています。また、全人類を指しています。今日、この御言葉だけでもしっかりと心に留めてお帰り下さい。あなたの前に神が立たれてこのように語られます。
 時々人は「私には価値がある」「あの人には価値がない」「あの人は罪深い」「私はきよい」などと評価し合います。しかし神の前に人は皆、罪人です。そんな罪人のために、神の子イエス様が地上に来て下さり、全人類、私自身の罪の身代わりになられて十字架で死なれました。また、死んだだけではなく、よみがえって下さいました。
 人類は神から離れて罪を犯した結果、永遠の滅びに向かってしまいましたが、そんな人類を助けるためにイエス様はこの地上に来て、私たちの罪の身代わりとなって死んで下さいました。『だからわたしは人をあなたの変わりにし』とあります。イエス様があなたの身代わりとなって下さったことは、いのちがけであなたを愛しておられる証拠です。神様の愛を感じることは素晴らしいです。誰かが自分のためにいのちを捨ててくれたとしたら、どんなに感謝するでしょうか。『人がその友のために命を捨てること、これよりも大きな愛は誰も持っていません。』と聖書に書かれていますが、イエス様はあなたのためにいのちを捨てて下さり、永遠のいのちへの道を開いて下さったのです。
 同時に、『国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』とあります。旧約聖書を読むと救いは、「ユダヤ人だけの救い」というテーマを見ます。選民であるユダヤ人だけに神は姿を現され、ユダヤ人以外の異邦人には救いが及ばないというような印象を受けます。そうすると、日本人は救われることができません。旧約聖書を読むと、異邦人には望みがないのかも知れないと考えます。しかし神は救いをユダヤ人だけにとどめませんでした。選民と呼ばれるイスラエルを犠牲にしてまで、全世界に救いを持ち出して下さったのです。現在は、全人類が神の救いを共有できる特権に預かっています。そのためか、現在はユダヤ人の中にはクリスチャンは少ないのです。彼らは、「イエスを神の御子としては信じない」と言います。やがて救い主がやって来ると信じています。けれども、彼らはイエス様を救い主としては信じていません。
 救いはエルサレムから始まり、全世界に伝えられ、最後は、福音を拒んでいたユダヤ人たちも救いに預かることができるという、預言が聖書にあります。
 さて、私は皆さんにぜひお祈りいただきたいことがあります。来週の日曜日は、二月十三日です。この日は私にとって、大きな記念日です。なぜならば、一九九二年の二月十三日に愛知県民の森において、聖霊が注がれた記念日であるからです。それで私も変えられ、教会も変えられたという大きな記念日です。私は主に、「今年はこの記念日に何をしたら良いのでしょうか」と祈っていました。一つは、五日間の連続祈祷会を行うことが導かれています。しかし、今年は主から一つのことが示されています。それは、「聖霊が注がれた原点に行って、日本のリバイバルのために祈ってくるように」という志が与えられています。それとともに、私にはたくさんの祈りの課題があり、原点でもう一度主の前に取り組んで祈らなければならないという、気持ちにさせられています。
 私は昨年も真剣に祈り、全日本のためにも働かせていただいたつもりでした。そんな中、たくさんのみ業を主は現して下さいました。けれども、真剣に祈っていても祈りが聞かれず、及ばなかったこともたくさんありました。それで私は責任を感じています。教会は救いの場所でなければなりません。もちろん、神の御心は短期間では判断できないのは確かです。しかし、どうしても救われて欲しい、癒されて欲しい、解決して欲しいという問題が解かれずに葛藤するときがあります。
 私は問題や病を抱えて教会に来られる方と祈るときによく考えます。「もしも、イエス様がここに来られたら、何をされるだろうか」と考えます。「祈ったけれど、この病気は治りませんでした。私の手には負えません。無理でした。あなたの問題には手が付けられません。あきらめて下さい」とは、絶対に言われないと思います。イエス様がその場におられたならば、絶対に、病を癒され、解放され、問題も取り去って下さるはずです。しかし、私が人々の前に立つときに、無力さを感じます。「主よ。赦して下さい。私自身の至らなさのゆえに、あなたに対する愛に答えることができないがゆえに、神のわざを止めているとしたら赦して下さい」と祈っています。
 そのような中で、私は神から御言葉を与えられた経験があります。それは今から数年前のことですが、イスラエルに行ったときのことです。私がこれまでにイスラエルに行った最後のツアーでした。私はチームの団長として、イスラエルに行きました。帰国の前日、エルサレムのホテルで朝早く起きて、目の前に広がるエルサレムの街を見ながら祈っていました。その中で主が、はっきりと私に御言葉を与えて下さいました。それがイザヤ書三十三章二十節から二十四節です。

『私たちの祝祭の都、シオンを見よ。あなたの目は、安らかな住まい、取り払われることのない天幕、エルサレムを見る。その鉄のくいはとこしえに抜かれず、その綱は一つも切られない。しかも、そこには威厳のある主が私たちとともにおられる。そこには多くの川があり、広々とした川がある。櫓をこぐ船もそこを通わず、大船もそこを通らない。まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。あなたの帆の綱は解け、帆柱の基は、結びつけることができず、帆は、張ることもできない。そのとき、おびただしい分捕り物や獲物は分け取られ、足のなえた者も獲物をかすめる。そこに住む者は、だれも「私は病気だ」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。』

神が私に超自然的に語られた経験でした。とても驚きました。特に、

『あなたの帆の綱は解け、帆柱の基は、結びつけることができず、帆は、張ることもできない。そのとき、おびただしい分捕り物や獲物は分け取られ、足のなえた者も獲物をかすめる。そこに住む者は、だれも「私は病気だ」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。』

この言葉が強く印象に残りました。「あなたは生涯かけて、帆柱に結ばれている綱を解く働きをしなさい」と語られました。現在私は、霊的解放という働きをさせていただいています。罪の綱を断ち切り、背後に働いている悪しき力を打ち破る働きをさせていただいています。しかし当時は、そのような仕事はあまりしていませんでした。しかしその時に主は、「その働きをするように」と語られました。それにより『「そこに住む者は、だれも「私は病気だ」とは言わない。』そして『そのとき、おびただしい分捕り物や獲物は分け取られる』、魂の救いが起こることを教えて下さいました。その時、「解放の働きを通してこの御言葉を成就してあげるから、しっかりとこの御言葉を心に留めなさい」と語られたと信じています。そして最近、どうしてもその原点に行って祈らなければならないと思うようになりました。それで私は、来週の日曜日、礼拝後に出発し、六日間イスラエルに行くことにしました。そこで今まで不可能であったことが可能になるように、日本にリバイバルが起こされるように、真剣に祈りたいと願っています。ぜひ、皆さんも祈り支えて下さい。私はひとりで行きます。もちろん、イエス様もともに行って下さいます。最近、私はひとりで東京へとりなしの祈りに行きました。誰も話す相手がいないので、一日中イエス様とだけ話していました。真剣に祈ることができました。だから今回もひとりでイスラエルに行って祈るのです。皆さんのためにも真剣に祈ります。今まで癒されなかった病や、解かれない問題が解かれるように、神の国が現されるように真剣に祈りたいと思っています。これが無駄足、無駄骨にならないように、ぜひお祈りください。そしてこのことが主から語られている事ならば、実現すると信じています。神は私たちを愛しておられます。

 人間はなぜ神に愛される存在であるのかと考えます。なぜ、神がこんなにも人を愛してくれるのだろうかと考えます。人間と猿を比べるとあまり変わらないかも知れません。人間も猿のように毛深い人もいます。人間だけを愛してくれるとは信じられないことです。
 先週教育テレビで、「遺伝子工学最前線」という番組をやっていました。最近は遺伝子工学が発達して、人間は遺伝子によって形造られているということがわかってきました。人間がどのようにして造られるのか、というプロセスについて話していました。人は母の胎内に宿ると、細胞分裂を繰り返して成長します。細胞は元々個体を形作る設計図を持っており、細胞は人を造る設計図をすべての細胞にコピーするそうです。そして全ての細胞は、体を造る設計図の情報を受け取るそうです。
 感謝な事に、牧師館の工事も順調に進んでいます。この教会の設計士である佐野兄が素晴らしい設計をしてくださいました。家はまだできていませんが、図面があるのでどのような家が建つのかわかっています。現在、色々な業者が出入りしています。そして皆が同じ図面を持っています。大工さんが二人来て同じ図面を持っていたために、家が二軒できたら困ります。各々の大工さんに、「あなたは一階部分」、「二階の部分」と担当する場所の指示が親方から出されています。その為に同じ図面を持っていますが、一軒の家が出来るのです。
 人間の体もそうらしいのです。それぞれの細胞には、体の全情報がコピーされますが、「あなたは目、あなたは胃袋、あなたは手、あなたは足…」とそれぞれの場所の情報を読み取る命令が下り、一冊の全体情報の中から目なら目の部分だけの設計図を読んで形造るそうです。神がおられなければ、そのようなことはあり得ません。また更に不思議なことが言われていました。目を造れ、足を造れ、そして心臓を造れなどと命令を下す遺伝子を「ホメオ・ボックス」というそうですが、それは全生物が共有している遺伝子だそうです。こんな実験をしていました。マウスの中から、目を造る命令を下す遺伝子を取り出し、ハエの足にそれを埋め込みました。すると足に目ができました。それもマウスの目ではなく、ハエの目ができるのです。将来、再生医療を通して角膜を失った人を再生させる可能性についてもやっていました。すごいと思いました。目を造れと命令を下す遺伝子は、マウスもハエも人も同じかも知れないというのです。そのように見ると、人間はあまりハエと変わらないのではないかと思います。もしかしたら、「ハエの目を造れ」という遺伝子を取り出して、目を失った人に入れたらハエのような目になるのではなく、人間の目になるかも知れないのです。すべての生物が共有しているとは、親方はひとり、神が全てを創られたということに他なりません。このように遺伝子レベルで人を見ると、「人間が神様に愛されているとは、どういうことなのだろうか」と思います。しかし神様は、人間に対して愛を語られています。『わたしの目には、あなたが高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』と言われます。決して「わたしの目にはハエが高価で尊い。わたしはハエを愛している」とは言われません。人間だけが愛されています。どうしてでしょうか。人間はどうして神の愛を受ける事が出来るのでしょうか。それを知ることは、私たちが神から愛されていることを確認するために、大変重要です。詩篇八篇三節から五節に、

『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。』

 イスラエルの二代目の王ダビデは、人とは何者なのだろうか。天地を造られた神が私たちに目を留められるとは、どうしてだろうかと疑問を持ちました。そして神の前に祈りました。するとその祈りに対する答えがありました。五節、

『あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。』

 神は人を神よりもいくらか劣る存在として創られたのです。英語の「キング・ジェームス・バージョン」の訳を見ると、この箇所を「あなたは人を天使よりいくらか劣るものとし」と訳しています。原語は「エロヒーム」という言葉が使われています。これは「神」としか訳すことができない言葉です。なぜ、歴史の中で「天使」という訳がなされたのかについて、チャールズ・クラフトという先生が『神の権威』という本の中で論じています。それは、人間が神よりいくらか劣る存在として創られたなどとは、信じることができなかった為に、「神」とは訳さず、「天使」と訳したと記していました。しかし日本の聖書は原語に忠実で、「神よりいくらか劣るものとし」と正しく訳されています。私たちは神よりもいくらか劣る存在として創られたのです。神に次ぐ存在です。
 人間は必ず神を求めます。どこの国の人でも、文化的な背景が違ったとしても、神を求めます。人間は神に従属するという性格があります。しかし、動物には決して神を求める性格はありません。どんなに賢いチンパンジーも、そんな性格は持っていません。
 先ほどの番組の中で、遺伝子工学の次にチンパンジーについてやっていました。チンパンジーはある種の言語を持っていると言われ、そのことを何十年も研究している学者のことが紹介されていました。チンパンジーには言語や感情もあるそうです。例えば、チンパンジーの母親が子どもを亡くしたら、とても悲しむそうです。お母さんチンパンジーはずっと死んだ子どもに付き添っていて、そのまま死んでしまうこともあるそうです。その人は神を信じない研究者なので、チンパンジーが感情や言語を持っているとは人間の根元を探ることにつながると言って、チンパンジー研究をしているそうです。進化論を信じているので、チンパンジーから人間になっていると思っているのです。私をそれを見ていて、ばからしいと思いました。同じ神が創られていたのならば、同じような感情や行動パターン、言語を備えていてもおかしくはないと思います。チンパンジーは木を折って道具を作り、蟻を釣ってなめたりするようです。しかし宗教心はありません。動物は人間に頼ります。皆さんの中にも、ペットが好きな方がおられると思います。私の世代はペットに対する愛情が少し薄いようです。私は昭和二十六年生まれで、食糧難の時代に育ったので動物を見ると、愛玩よりも食糧という見方をしてしまうところがあります。昔この近くで、鶏を飼っているところがあり、そこからよくひよこを買って来て育てました。十円出すとひよこを十羽ほどくれました。それはペットではなく、「早く大きくなれ!いつ食べられるだろうか…」と育てていました。十羽育てると、大体一羽か二羽が大きくなります。夏頃に大きくなるようにして、それを袋に入れて仲間たちとともにキャンプに行きました。そしてその鶏は、二度と帰ってきませんでした。
 さて、犬や猫は人間に頼ります。それは神がそのように創られたからです。神、人間、動物という順序で創られました。神は人を愛して下さいます。そして人間も神を愛し、その愛を受けて、人は人を愛し、動物を愛するという、愛の流れがあるのです。まず神との関係がしっかりしなければなりません。ある意味で、現代はペットに対する愛が少しねじれているところがあります。ある人が私に、「家の犬が死んだの。その時の悲しみは、主人が亡くなった時よりも悲しかった。私のワンちゃんは、一回も裏切らなかったけれど、主人は何度も私を裏切ったから」と言っていました。ある学者が、「日本人の動物愛護精神は、ヨーロッパとは違う」と書いていました。「日本人の動物愛護は輪廻精神に基づいている」というのです。犬を愛するときに、「こいつも昔は人間だったかも知れない。人間界にいた時に悪さをしたから犬になってしまって…私も犬に良くしないと犬になってしまうと困る…」と思うらしいのです。
 私たちが神から愛されていると知ることは、人をも愛することができ、動物との関係も正常化し、一番良い関係になると思います。人間関係においても、ペットとの関係においても、神との関係は重要だと思います。

 創世記は人が造られた経緯について書かれています。そして、神が人類に初めに語られた言葉が記されています。創世記一章二十六節から二十八節に、

『神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』

 ここでは深い情報を私たちに提供しています。「われわれに似せて」とあります。これは「三位一体」を表しています。原文は、主語が複数で動詞が単数という構文だそうです。神は人を神のかたちに創造し、神が人に語られたことは、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」とあります。神様が人間を創られた目的は、生物を支配させるためでした。神はご自分に似せてすべてを創られ、生き物を支配させるために創られました。人間の創造の目的は、「地をはう全ての生き物を支配する」ためです。そしてその後、三章一節から四節に、

『さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。』

 ここで蛇が登場します。しかしこの蛇は、実際に存在する蛇ではなく、悪魔・悪霊を表しています。なぜ「蛇」と表現されたのでしょうか。神が人に語られる時、神はどのように語られるのでしょうか。聖書は神の言葉が記されていますが、神の言葉を受け取ったのは人間でした。イザヤ書はイザヤという預言者が、神の言葉を受け取って記述しました。『わたしの目には、あなたが高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』とあります。
 神が預言者に語られるときに、一つの法則があると思います。それは、預言者が持っている経験や知識、世界観を超えては、語ることはできないということです(もちろん、内容については、理解できない事柄もありますが)。何らかの情報が事前にあるので言葉を受け取ることができるのです。たとえば、英語ができる人は英語を受け取る能力、素養があるのです。英語を聞くと、言葉、言語として受け取る能力があります。しかし英語を受け取る素養がなければ、ただの音です。何の意味も持ちません。知識があればそれに反応します。例えば、神が預言者イザヤにジャンボジェット機を見せて、それについて記述するように語られたとします。しかし、ジャンボ・ジェットを見せられたとしても、イザヤはなんと記述して良いのかわかりません。イザヤは、「火を吐く怪鳥」とでも記すのかも知れません。その時に持っている知識で、精一杯見たものを表現するのです。
 創世記三章一節もそうだと思います。蛇は悪魔・悪霊のことですが、悪魔・悪霊は目に見えない存在です。神が人間に見えない存在を知らせる場合、困難があります。しかし当時彼ら(創世記はモーセが記述したとも言われます)が知っていた人類の敵で、気持ちの悪い存在として蛇があったのです。だから、蛇を使って霊的な存在を表したのだと思います。三章一節は、そのような中でも、さらに大きな情報を提供しています。

『さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。』

とあります。「蛇」は、「野の獣」に属していました。神は色々な野の獣を創られました。『見えるもの、見えないもの、王座、主権も』と書かれていますので、見えない領域に生きる生物も創られました。しかしそれらは「野の獣」に属するのです。そして、野の獣の中で、狡猾な存在、頭の良い存在がありました。それが天使であり、その一部が堕落した悪魔・悪霊どもです。彼らは知的には、人間よりも狡猾であったのかも知れません。しかし、それは「野の獣」に属します。そして神が人を造って初めに語りかけた言葉が、『地をはうすべてのものを支配しなさい』でした。私たちは神に次ぐ存在として、神に愛されている者して行うべきことは、「地を這うすべてのものを支配する」ことでした。
 三章一節から蛇が出てきて、人類を誘惑しましたが、本当は蛇を支配しなければなりませんでした。けれども、人類は蛇の言うことを聞いてしまいました。その結果、人類は神の言いつけに背いてしまいました。
 時々、「なぜ神は善悪を知る木を創ったのだろうか。それを創らなければ良かったのに」と言われます。神と人間という関係の中で、神は人よりも権威が上です。権威とは、命令によって保たれます。命令を守るか守らないかが、神に従うか従わないかの基準となります。そのような意味においては、善悪を知る木の実でなくても良かったと思われます。たとえば、神がアダムとエバに「食事をする前には、必ず手を洗うのだ」と言われたとします。けれども、アダムとエバは食事の前に、「神様はそう言われたけど、手を洗うのをやめよう」と言って手を洗わなかったとしたら、同じ結末です。それも命令に反することになるからです。また、野の獣の狡猾な者の誘惑によって、神の命令に人が反するならば、神、人、野の獣という順序が入れ替わってしまいます。人類に不幸があるのは、始めの人間アダムとエバが神の言いつけに背き、野の獣の中で狡猾な者に騙され、本来のポジションを明け渡してしまったからです。その結果人類は、野の獣の狡猾な存在に踏み付けられ、支配されるようになりました。しかしイエス様は、最初の命令を回復するために、この地上に来られ、人類の罪の身代わりとなって死んで下さいました。そしてよみがえって下さいました。そのことによって、私たちは、神、人、野の獣の狡猾な者というオリジナルのポジションに戻ることができたのです。それゆえに、人類は野の獣を支配することができます。私たちは、「野の獣を支配する」という、神が人類に与えた、初めの命令を行わなければならないのです。主を信じる者たちは、すでに人生のポジションが変わっています。あなたは神に次ぐ存在、神に愛される存在として、使命が与えられています。それは野の獣を支配することです。

 地上では、多くの人が苦しんでいます。それは野の獣属の狡猾な存在に牛耳られているからです。そこから解放されなければなりません。クリスチャンの使命として、多くの人たちの救いと解放のために、真剣に取り組むことを教えられます。主が私たちを愛しておられ、励まされています。申命記三十三章十二節に、

『ベニヤミンについて言った。「主に愛されている者。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように。」』

 時々子どもがお父さんに肩車されている姿を見ます。肩車をされている子どもは安心です。皆さんを神が愛しておられます。そして、あなたは神様の肩の間に住まうような存在だと教えています。
 ダニエル書十章十八節から十九節に、

『すると、人間のように見える者が、再び私に触れ、私を力づけて、言った。「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。」』

とあります。今日神が私たちを愛され、私たちを力づけておられます。そして、「恐れてはならない」と語られています。あなたは神に次ぐポジションにあるものです。すべての生物を支配して下さい。特に、地をはう狡猾な存在を支配するように、神は愛のうちに使命を与えておられます。私たちは神に愛されている者であることを信じ、歩みたいと思います。お祈りします。


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