あなたは力を受けます

2005.2.13(SUN)
新城教会 滝元 順師

新約聖書 使徒の働き 1章4節〜8節
彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 ハレルヤ!今朝皆さんとともに礼拝できることを感謝します。今日は二月十三日です。十三年前のこの日に、私は変えられました。愛知県民の森で祈っていたときに、私だけではなく、ともに祈っていた兄弟姉妹、そして、教会にも主は訪れてくださり新しいことが始まりました。この記念日に御言葉を取り次げることを感謝します。

『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。』

 聖霊が注がれるときに人は変えられ、本来の力を取り戻すことができます。聖霊が私たちの所に来てくださるならば、人生に新しい力が注がれます。
 イエス様はこの地上を去る前に、「父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けなさい。わたしは世の終わりまであなたがたとともにいます。」と語られました。聖書を見ると、初代教会の人々が、父、子、聖霊の名によってバプテスマを受けたことが分かります。
 イエス様の弟子たちは、初めイエス様が救い主であることはわかりませんでした。しかしバプテスマのヨハネが現れ、「神に対する悔い改めのバプテスマ」を勧めました。そして、多くの人が悔い改めのバプテスマを受けました。そのことによって神が義であることを自ら告白しました。(ルカ7:29)やがて弟子たちはイエス様が救い主であることがわかりました。それで弟子たちは、人々に「イエス・キリストの名によるバプテスマ」を強調しました。そして、「イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊を受ける」と語りました。イエス・キリストの名によってバプテスマを受けた人々は、続いて「聖霊のバプテスマ」を受けました。これで、「父と子と聖霊の名によって」という三つの条件が満たされました。
 聖霊のバプテスマは、聖霊ご自身の中に百パーセント支配されることです。ある人は、「イエス・キリストを信じたときに父と子と聖霊の名によってバプテスマを受けたのだから、再度、聖霊のバプテスマは必要ない」と言われます。突き詰めて考えると、それは本当です。私たちが、水のバプテスマを「父と子と聖霊の名によって」受けるならば、聖霊のバプテスマも受けるのです。それは、バプテスマに対する信仰と理解、そして意識がはっきりしているならば、聖霊を受けることができます。
 先週、バプテスマがありましたが、水のバプテスマの時に聖霊が注がれる姿を見て、主の御名をあがめました。多くの場合、バプテスマが父、子、聖霊の名によるものでありながら、その意識がはっきりしていません。神はお一人で、イエス様が救い主であることはわかりますが、聖霊様が助け主であり、私たちに力を与えてくださるという三位一体の神のお一人であることがなかなか理解ができません。だから後に、聖霊に満たされるという一つの体験が必要になるのかも知れません。弟子たちも、時間差で聖霊のバプテスマを受けました。しかし今の時代は、父と子と聖霊の名によって同時にバプテスマを受けることができる時代です。それとともに、人生の中に、活ける神の力が力強く臨まれる体験も必要だと思います。
 今日は午後から、「聖霊降臨記念聖会」を持ちます。これはペンデコステの日という意味ではなく、新城教会のペンテコステ、聖霊が注がれたことを記念して行います。一九九二年二月十三日に聖霊が注がれたのは、一九九三年に甲子園球場での大集会を控えた準備祈祷会中に起こりました。午後は、甲子園で行われた集会のなつかしいビデオをダイジェストにまとめたのを見て、リバイバルを祈る集会です。
 甲子園ミッションを実行に移したとき、当時、多くの困難がありました。どうしたら良いのかわからない中で、私たちは祈ることしかできませんでした。二月のこの週に、一週間皆で力を求め、県民の森で連続の徹夜祈祷会を行いました。すると、その最後の日に、神が私たちに訪れ、触れてくださいました。甲子園ミッションには、色々な困難や障害もありましたが、それをものともせずに乗り越える事ができました。そして、三日間で延べ十二万四千人程が集まり神の栄光が現されました。それは神の奇跡でした。聖霊の力がなくては、あのような仕事はできませんでした。あの日に聖霊様が訪れてくださったことによって、あのような大きな働きができました。今日も聖霊の力を受けて、新しくされて歩みたいです。

『彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」』

 彼らは父なる神への忠誠を示す、悔い改めのバプテスマは受けていました。また、イエス様が救い主であることもわかりました。けれども、聖霊については知りませんでした。しかし、イエス様は「もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです」と言われました。六節に、

『そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」』

 弟子たちがイエス様の命令を聞き、十日間エルサレムのマルコの二階座敷にこもって祈っていました。十日目に突然天が開かれて、聖霊が注がれました。その日に教会が誕生しました。続いて三千人が弟子として加えられ、更に、五千人が加えられ、エルサレムで始まったリバイバルは、エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、および、地の果てにまで広がって行きました。今日私たちはこのようにして礼拝をしていますが、二千年程前に、エルサレムで聖霊が注がれなければ、ここで礼拝をしていません。はじめ弟子たちはイエス様の十字架を見て恐れおののき、逃げまどっていました。さらにはイエス様がよみがえられたのを見て、もっと驚いていました。そのような弟子たちに対してイエス様は、「あなたがたが聖霊をうけるならば、地の果てにまで証人となる」と語られました。今日このように私たちが礼拝を守っているのは、弟子たちに聖霊が注がれ、地の果てにまで証人となったからです。
 この礼拝が終わったら、私はイスラエルに行きます。夜の十時の飛行機に乗ると、明日の夕方にはエルサレムに着きます。何のために行くかというと、色々な祈りの課題を祈るのと、また、聖霊が下った原点でリバイバルを祈りたいからです。新しい力をいただいて、今年こそ、主に新しいことを行っていただきたいからです。弟子たちが、「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」と言いましたが、私も、「主よ。今こそ日本を霊的に再興してください!」と祈りたいのです。ぜひみなさんも祈ってください。また、私は皆さんのためにも、特別お祈りしたいと思います。皆さんの中で、何か祈りの課題があったらお知らせ下さい。明日から木曜日まで、イスラエルで祈ることを予定していますので、主の導きがあるように祈ってください。純粋な油そそぎをいただきたいと願っています。

 今日は、どのようにしたら聖霊の注ぎを受けることができるかを学びます。聖霊ご自身はご人格を持った神ご自身ですが、聖書には「油」と表現されているところがあります。聖霊の働きは力と関連があるので、「油」と表現したのではないかと思います。どんなにすばらしい車があっても、ガソリンがなくては走れません。聖霊はご人格があるので、ただ油という物質だけにたとえてはいけないのですが、力という領域もあるので油と表現をされていると思います。聖書は、初めに出ている言葉が最終的に何を意味しているかによって、前半のストーリーを変えて解釈することが可能です。油という言葉が最終的には聖霊のことを指し示しているとしたら、「油」に関する事柄を聖霊ご自身と関連づけて解釈することが可能であると信じます。第二列王記四章一節から七節に、

『預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」』

 このストーリーは、預言者エリシャがやもめの一家を油を増やすという奇跡によって養ったという話しです。しかし、この油を聖霊に置き換え、また油が増えるということを聖霊に満たされ支配される、と意味を置き換えるならば、ここから聖霊に満たされる秘訣を学ぶことができます。
 ここにはいくつかのポイントがあります。やもめの一家は、主人が亡くなったことにより、経済的に大ピンチを迎えていました。家には何もありませんでした。なぜならば、その家には負債があったからです。誰が負債を作ったかについては聖書に記されていませんが、たぶん、ご主人が作った負債であったと思われます。ご主人は負債を残したまま死んでしまったのです。残された家族は働き手を失い、その上、負債もあって生活が行き詰まっていたのです。そのような中、預言者エリシャが現れて、やもめの一家を助けました。エリシャは、「何をしてあげようか」と語りました。
 イエス様の姿とエリシャの働きは重なっています。時々私たちは、人生の中ですべてを失い、「何をしたらいいのだろうか。自分ではどうすることもできない」と言うときがあります。そのような時に、イエス様が私たちの所に来てくださり、「あなたに何をしてあげようか」と語ってくださいます。今日もし、すべてを失ったと言われる方も、希望を失わないでください。イエス様があなたの所に来て、「あなたに何をしてあげようか」と語られます。
 エリシャはやもめに、「あなたの家にはどんなものがあるのか言いなさい。」と言いました。彼女は、「私の家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」と言いました。するとエリシャは、その油つぼを持ってくるように言いました。その油つぼには、油はほとんどありませんでした。当時油は高価なものでしたし、生活には不可欠なものでした。しかし油がほとんどない状態の壺から油が溢れて出て、借りてきた空の壺にも油が移され、家族が支えられたというストーリーです。
 この箇所は、何もなくても、油のつぼ一つあれば大丈夫だということを意味しています。この油のつぼとは、「イエス・キリストへの信仰」です。聖書は「だれも聖霊によらなければ、イエスを主と告白することはできない」と教えています。今日イエス様が主であると告白できるならば、聖霊によって告白しているのです。皆さん中に油のつぼがあるのです。「イエス様は私の救い主です」と告白できますか。それができれば、聖霊があなたの心の中に宿っているのです。「イエス様は救い主です」と告白しましょう。
 ある意味で、小さなつぼに少ない油のような状況であると感じるかも知れませんが、根底に偉大な聖霊様が宿っておられるのです。
 しかしこの少ない油では、やもめの一家は生活できませんでした。油が増えたときに生活が安定しました。私たちにも、同じことが言えると思います。イエス様を救い主として信じるならば、私たちに永遠のいのちが与えられます。イエス様を救い主として受け入れることはとても重要です。なぜならば、永遠のいのちがかかっているからです。私たちはいつ死んでも、天国に行けます。しかし、生活一般に関しては、ある意味で、足りない面もあるのを教えているのかも知れません。そのためには、聖霊に満ちあふれることが大切です。
 私は、今、教育館の二階に住まわせてもらっています。教育館の二階には、四カ所シャワー室があります。シャワー室に入り、赤いコックをひねるとお湯が出ます。先日シャワー室に入り、赤いコックをひねってお湯が出るのを待っていました。しかし待っていてもなかなかお湯が出ませんでした。だからもう一度服を着て、ボイラーの所に行くとスイッチが切ってありました。スイッチをオフにしてしまうと、パイロット・ファイヤーという小さな火が消えてしまいます。だから、コックをひねってもお湯は沸きません。なかなかどころか、永遠にお湯は沸きません。同様に、心に聖霊の火がともっていなければ、満たされることはできません。聖霊の力をいただくためには、「イエス様を救い主として受け入れる」ことが重要です。その小さな火は、コックがひねられた時に重要な役目を果たします。しかし、小さな火だけでは、一年経ってもお湯は出ません。同様に、私たちもイエス様を信じるという段階から、もう一歩進んで「聖霊の力を受ける」ところに進まなければなりません。
 やもめの家から、ほとんど切れかかった油つぼがエリシャの所に運ばれてきたとき奇跡が始まりました。教会にも、色々な奇跡が起こっていますが、それはイエス様を救い主として受け入れるところから始まります。問題をもって教会に来られた人々に、私は「イエス様を救い主として受け入れるお祈りをしてみませんか」とお勧めします。初めは、あまり理解ができないかも知れませんが、まずは「私はあなたを救い主として信じます」と祈るときに、心の中に聖霊の火が灯るのです。そこから、神の奇跡の業が始まるのです。
 何年か前の年末に、教会に電話がかかってきました。「教会に行っても良いですか」「なにかありましたか」と聞きました。すると、「私の家内が精神的な病で、長年苦しんでいてどうにもならない状況です。新城教会の噂を聞いたのです。」というのです。私の記憶では十二月三十一日でした。ひとりの女性が精神病院から直接、新城教会へ連れてこられました。ご主人と親族の何人かに付き添われて一人の女性が来ました。精神的に破壊され、どうにもならない状況でした。ご主人もご家族もご本人も全員、イエス様を信じていませんでした。私はその方々のためにお祈りしました。まず、家族全員がイエス様を信じるように祈りを導きました。全員、「イエスは主です」という告白をして帰られました。
 その後、主は不思議なことを行われました。それから三ヶ月後、ちょうどその方の家の近くに行ったので、スタッフたちと共に家に立ち寄ってみました。その時彼女は、ちょうど病院から帰ってきてキッチンの前に布団を引いて寝ておられました。私は、彼女と話しました。「イエス様は必ず、あなたを立たせてくださるから、心配しないでください」
 彼女と話し終えて帰ろうとしたとき、たばこの臭いがしました。「あなたはたばこを吸っていますか」と聞くと、「はい。毎日一箱か二箱は吸います。どうしても、やめることはできません」と言うのです。私が、「たばこも、やめられるようにお祈りしましょう」と言うと、「へへへ…。それは無理です。絶対にやめれっこない。これがないと生きていけないもん」と言うのです。「でも、イエス様は生きているから、悪い物はやめることはできますよ。」と言いました。それから、タバコがいらなくなるように祈りました。
 何と彼女はその日以来、全くたばこがいらなくなったのです。また、その人の家の庭に、すばらしい車が置いてありました。私は、「これはあなたの車ですか。」と聞きました。すると、「はい。そうです。」「この車に乗って、どこかに遊びに行くのですか」と聞くと、「それができたら良いですね。」というのです。「ただの十五分も運転して、買い物にも行くことができない」と言われました。私は、「あなたは、この車に乗って新城教会に来るようになりますよ。」と言うと、また「へっへへへ…」と笑っていました。しかし現在、その方はいやされて自分で車を運転して新城教会に来られています。先週、県民の森で行われた拡大聖会にも来られていました。それはちょっとした希望から始まりました。「もしかしたら・・・、イエス様が何とかしてくれるかも知れない・・・」とイエス様に頼ったときに癒してくださったのです。イエス様は素晴らしいです。神が癒しを与えてくださいました。今度、その方から証しを直接聞きたいと願っています。

 やもめの家族が奇跡を体験するまえに、エリシャは色々な条件を出しました。その一つは、

『外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。』

と言いました。これは、「主に対する期待と飢え渇き」を表していると思います。時々私たちは信仰生活の中で、「イエス様を信じてもこんなものか、後は自分の努力次第」と期待をなくしてしまうことがあります。空のつぼを借りてくることなど、普通で考えたら「大丈夫か」と思うようなばからしい事です。壺の中には何もないからです。それを行っている姿を外から見たら、「あの人は大丈夫だろうか」と考えると思います。イエス様に対する期待は、外部から見たら「空のつぼを家に持ち込むような行為」かもしれません。けれども、私たちは主に対する期待と、飢え渇きが必要です。主に飢え乾いて、「主よ。私を満たしてください」と願うことが必要です。
 私が語る証しは成功例だけです。祈ってもうまく行かないこともあります。だから私はいつも飢え乾いて主に願っています。その人の身になったら、問題を何とかしてあげたいと思います。また、イエス様なら、何とかしてくださると信じています。私も、空のつぼを借りて来るような、一見無駄に見えることでも、主が言われることは実行したいのです。
 続いて、四節から五節に、

『家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。』

 次にエリシャが出した条件は、「家には入ったらうしろの戸を閉じなさい」と言いました。なぜそのような事を言ったのでしょうか。一節を見ると、その理由がわかります。

『預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」』

 やもめの家族のところには、たびたび貸し主が借金の取り立てに来ていました。皆さんにぜひお勧めしたいのですが、サラ金などに手を出さないようにしてください。もしもそのような状況があったら、教会に相談してください。私は、お金を貸すことはできませんが、色々アドバイスをすることができます。サラ金を借りると大変な目に遭います。そのような人たちのためにお祈りしたことがあり、悲惨な現状を見ています。あるサラ金業者は後からの取り立てがひどいのです。自分の家どころか、家族、親族、また会社にも脅しの電話が入り、ノイローゼ状態になってしまいます。ぜひ、そのようなところに手を出さないで下さい。
 このやもめの家族も、もしかしたら、現代風に言うならば悪いサラ金業者に引っかかったのかも知れません。もしも借金を返さなかったら、子どもたちを形にとって奴隷にすると脅していました。そんな状況下において、扉を閉めないで油が増えるような奇跡が起こっていたら、油は高価なものでしたので、貸し主が来て「何だ油があるではないか」と言ってすべて持って行かれてしまうと思います。また、それと共に子どもたちも、連れて行かれてしまいます。だから、そうならないように「状況を整えてから油を注ぐ」ようにと語ったのでしょう。
 霊的にも同じ事が言えます。私たちが聖霊に満たされるための必要条件は、「扉を閉め切る」事です。
 多くのクリスチャンが信仰生活の中で、色々な挫折を体験します。ある時には喜びに満たされた生活をしていますが、ある時から力を失います。「なぜ、こんなに惨めなのだろうか。私はイエス様を信じたのに・・。」と言います。イエス様のことがわからないというようになってしまうこともあります。燃えて主に仕えていたのが、なぜ冷えてしまったのだろうかと思うことがあります。その一番大きな原因が、「扉が閉められていない」ことです。私たちは扉をしっかりと閉めきらなければなりません。

 人間には、「霊と魂と肉体」の三つの扉があります。霊とは、間違って捕らえられやすいですが、それは、「霊的存在と結びつこうとする機能」です。他の動物にはそのような機能がなく、人間だけにあります。人間には、霊があるので神様と結びつこうとします。また、悪魔・悪霊という霊的な存在にまで結びついてしまいます。霊の機能がしっかりと整理されていなければ、人々を奴隷にするような悪霊に結びついてしまいます。悪しき霊的存在に対して扉が閉められなければ、そこから敵が入ってきて全てのものを持ち去ってしまうのです。これはある意味で、人間の根元に関わる重要な扉だと思います。霊の扉を貸し主に対してしっかりと閉めきるならば、油を保つことができます。出エジプト記二十三章三十二節に、

『あなたは、彼らや、彼らの神々と契約を結んではならない。』

とあります。偶像礼拝とは「悪しき神々との契約」です。それによって霊の機能を悪魔に取られてしまうのです。偶像礼拝は霊という機能を通して悪霊が進入し、良いものを運び出します。悪霊が出入り自由のようになり人生を破壊します。
 先ほど、精神的な病で閉じこもっていた人を紹介しましたが、その家族の方々にイエス様を信じて、偶像礼拝の契約を破棄する祈りを勧めました。色々な問題があったので家族も親族も、熱心に偶像礼拝をしていました。しかし良いことは何もなかったのです。「一度、騙されたと思って、偶像礼拝をやめて、偶像を捨ててイエス様に頼ってみてください」と勧めました。ご主人は賢く振るまい、家に帰ってから奥さんを助けるために偶像を捨てました。何と、そこから霊的世界で悪霊とのつながりの扉が閉じられたのです。そのために悪霊の侵入がなくなり、奥さんは元気になりました。
 私がそのお宅におじゃました時、帰ろうとすると、床下収納から袋取りを出され「これを持って行ってください」と言われました。おみやげか何かと思って、有り難く受け取ると、なんとそれは偶像と札でした。それが袋いっぱいに入っていました。私はそれを持ってきて燃やしました。その結果、敵が侵入することができなくなりました。

 私は今回のメッセージを準備する中で、四章四節の『家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。』という言葉に強い印象を覚えました。やもめの家族は、たぶん亡くなった主人の負債によって責め立てられていたと思います。私たちが責め立てられるのも、自分の犯した罪ではなく他の人の罪です。悪魔が効果的に人をいじめるために用いる手段は「家系」です。家系を見て、麗しいと思うような人は少ないのです。家系の中に、同じような問題が繰り返して起こります。
 先週ひとりの人が教会に来られました。その人は自分で家系図を書いて持ってきました。そこには家系に属する一人ひとりの名前が書かれており、その横には、問題が羅列してありました。その人は熱心に先祖供養をしている人でした。しかしその家系図を見ると、同じような問題が繰り返し起こっているのを見ました。私はそれを見て、「あなたの家系に透明人間のような、隠れて人々を苦しめている存在がいるから、それを打ち破らなければ幸せになることはできない」と話しました。「拝んでいる相手が自分の味方だと思っているかもしれないけれど、実は敵だ」と話すと、「それがわかる」というのです。「では、先祖供養をやめたら良いのです」と言いました。すると、「それは絶対にできない」と言われました。「私は長男の嫁だし、それは絶対にできない」と言われました。私は、「もしもやめることができないならば、今と同じ体制の継続であり、これからも同じようなパターンで問題を繰り返す家系が継承されていくのですよ」と言いました。するとその方は、「それは火を見るより明らかなことだ」と言っていました。同じように流れていくならば、同じようなことが繰り返されます。私は、「自分でやめたいけれど、どうにもやめることができない領域があなたの束縛だ」と話しました。そこから離れることができないのならば、そこが「束縛の根元」なのです。
 しかし、イエス様は、どのような困難が見える家系からも、人を解放してくださるお方です。「まずは、イエス様を信じる祈りから始めましょう。急に、偶像を捨てることはできないかも知れませんが、まずはイエス様を信じましょう」と勧めました。すると、涙を流して真剣に祈られていました。私はその人が早く解放されるように祈っています。霊的貸し主は、自分の負債ではなく、他人の負債を通して来ます。
 しかし今日は特に、「あなたと子どもたちのうしろの戸を閉めなさい」とあります。今まで、私たちは家系についてはよく祈ってきましたが、ここでは、「自分自身と、子どもたちの扉」を閉めるようにと教えてます。私も、自分と子どもたちの扉を閉めることを祈っています。もし子どもたちに問題が起こると、親は傷つきます。悪魔は家系の中に進入して、本人だけではなく、子どもたちの扉をも使って問題を起こします。ここでは、貸し主が来て子どもたちを奴隷にしようとしているとありますが、今日は特に子どもにフォーカスを当てて、「子どもたちの扉を閉める」祈りをしましょう。「子どもたちと一緒に」とありますが、これは重要です。「霊的世界での悪い扉を閉めてください」と子どもたちと一緒に祈ることが大切です。私も子どもたちと一緒に祈るようにしています。
 娘がアメリカに留学していますが、新城にいたときには一緒に祈ることはあまりしませんでした。しかし向こうに行ってからは、大変なことが多いので「祈ってくれ!」とメールが来ます。時々、私は電話をして共に祈ります。子どもたちのうしろの戸を閉じる祈りをしなければならないことを教えられます。特に、霊的世界で子どもたちのうしろの戸を閉めて、決して子どもたちに悪霊が侵入して取られることがないように、子どもたちとともに祈ってください。また、子どもたちも親が祈ってくれるから大丈夫だとは思わないでください。自分のこととして、子どもたちも祈らなければなりません。

 同時に人間には、「魂」という領域があります。その領域にも悪魔は関わり油を持ち去ります。エペソ人への手紙四章二十六節から二十七節、

『怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。』

 時々人間関係の中に憎しみが生じます。それはお互いに最もな理由があります。「私があの人を憎むのは当然だ」と言います。また、それが実際に正しい時もあります。しかし私たちが誰かを赦さないならば、悪魔に機会を与えてしまいます。誰かを赦さないならば、悪魔が機会を捕らえてあなたから良きものを奪い去ってしまうので、扉を閉じるようにと勧めています。それは「赦す」ことです。自分の安全のためにも、憎しみから解放されなければなりません。「イエス様の名によって、__さんを赦します」と祈ることが大切です。

 第一コリント六章十五節から十六節に、

『あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。』

とあります。「ふたりの者は一心同体」という言葉は、結婚式の時に語られる言葉です。しかし、ここでは「遊女との関係」において語られたのです。
 コリントの町には神殿遊郭がありました。男性たちはそこに足を運びました。彼らはそのことを軽く考えていました。「皆がやっていること、別に感情が伴うわけでもない、ちょっとしたお金を払ってやることだから別に悪いことではない」勿論悪いことだとわかっていたと思います。罪を重く捕らえることをせずに、軽く考え、しっかりと心に留めていなかったと思います。けれども、その人たちに対してパウロは言いました。十六節に、

『遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。』

 結婚以外の性的な関係は、神の守りの枠組みから外れます。「ふたりの者は一心同体」という根元は、ひとりの男とひとりの女について語っているのです。それも正式な結婚という枠組みの中で、神はキリストと教会が一つであるように、そのふたりを祝福するという法則です。しかし、結婚の枠組みから外れた性的関係は、肉体を通して悪魔が侵入します。性的な領域について簡単に考えますが、簡単なことではないのです。なぜならば、「ふたりは一心同体」と言う、悪い意味での癒着となるからです。それは相手の霊、肉、魂の領域と一体化することを意味します。遊女はそれまで何百人もの男性と関わったことでしょう。そこには何百人とも一心同体という構図ができてきます。その女性が関わったすべての男性の霊的環境とも一つとなっています。そこで関わった人たちの背後には、死の霊が活発に動いていた家系もあったかも知れません。また破壊的な霊が活発に働いていた家系があったかも知れません。また、病という霊が活発に動いている家系もあったかも知れません。それが性的関係によって一体という関係が生じ、あたかも自分の家系かのように悪霊が働くのです。私たちは注意しなければなりません。ちょっとした遊びだと思っているような関係でも、ふたりの者が「一心同体」という関係が築かれるからです。
 正式な夫婦以外の性的関係は、断固として慎まなければなりません。また、過去にそのような領域があったら、後ろの領域を閉めなければなりません。「性的領域の罪を赦してください。そこで結ばれたふたりの者が一心同体となるという契約を、イエス様の名によって断ち切ります」という祈りが大切です。関わった異性の人数分だけ、この法則が働いて一体となっています。特に、遊女の関わった男性の背後には、どんな複雑な家系を持った人々がいたのかは、皆目分からないからです。そんな人々とも、知らずして一体の契約が結ばれることになるのです。
 イエス様の十字架は罪を赦すとともに、不利な債務証書を無効にする力があるのです。神はその束縛を解いてくださいます。そうしたら、過去にどんな罪があったとしても、正式結婚の枠組みの中で「ふたりの者は一心同体」という関係を築くことができます。その結果、必ず、祝福された家庭ができます。
 私たちは常に、悪魔と戦って扉を閉める勇士として歩みたいと願います。うしろの扉を閉めるならば、私たちに油が満ち溢れます。第二列王記四章七節に、

『彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなた
の負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」』

とあります。聖霊の油そそぎは、「あなたと、あなたの子どもたちが安全に生活するために必要」なことです。私たちが、三つの領域の扉をしっかりと閉じ、空のつぼを持って主の前に出て油を満たしていただきましょう。

 最後に、「油を売って負債を払いなさい」とありますが、私たちの負債は「福音宣教」にあります。私たちは聖霊の力によって、福音を宣べ伝えるのです。『その残りで、あなたと子どもたちは暮らして行けます。』とあります。油を絶やすことがなく、歩んでいくことができるように心から願います。
 私たちの家系の扉、自分自身の扉、子どもたちの扉を閉じる祈りをしましょう。霊、肉、魂すべての領域の悪しき扉が閉じられ、油が満ち溢れるようにお祈りしましょう。

(祈り)
「イエス様、私はイエス様を救い主として信じます。既に私とともに聖霊様がおられることを心から感謝します。今イエス様の名によって家族・家系を代表し、うしろの扉を完全に閉めます。私が霊の領域で開いてしまった扉を閉めてください。偶像礼拝の罪を赦してください。私自身の扉を閉めます。また私の家族、特に子どもたちのために祈ります。今、親として子どもたちのために祈ります。子どもたちに開かれた霊的な悪しき扉をイエス様の名によって、完全に閉め切ります。二度と、子どもの領域に敵の侵入がないように守ってください。
 魂の領域も扉を閉めてください。私の心から憎しみを取り除いてください。悪魔に機会を与えることがないように、助けてください。私に関わるすべての人々を、イエス様の御名によって赦すことを宣言します。赦します。受け入れます。扉を閉め切ります。子どもたちの扉も閉めてください。
 肉体の領域も、完全なきよめを与えてください。夫婦を祝福してください。家庭を祝福してください。神の認めた結婚以外の、すべての悪しき契約書を無効にします。扉を閉めてください。子どもたちの肉体的な領域をも扉を閉めてください。私たちは、空のつぼを持って主の前に出ています。油を満たしてください。聖霊によって支配してください。溢れ流れますように。力を受けますように。イエス様の御名によって勝利を宣言して、お祈りします。アーメン。」


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