彼(アブラム)は主を信じた

2005.2.20(SUN)
新城教会 滝元 明師

旧約聖書 創世記15章1節〜6節
これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 ハレルヤ!感謝します。
 先週は私の親しいひとりの牧師が召され、悲しみがありました。その葬式に行ってきましたが、そこに行って「新城教会は良いなあ」と思いました。なぜなら、教会の音響がしっかりしているからです。葬式は音響がたいへん悪く、私は老人になったのであまり聞こえませんでした。音響を良くしないといけないと思いました。この教会を建てる時には、「音と光」について良く考えました。メッセージをするときに、ライトがあることは良いです。音も大切です。良い話をしても聞こえなくてはなにもなりません。会堂には勾配がついているので、あたかも一対一かのように御言葉を聞くことができます。
 私は今朝、教会に入る時は嬉しかったです。この教会のために初め二百九十四坪を買い、百人が入ることができる会堂を建てました。私たちが新城に開拓に来たとき、新城中学の近くにあった元ダンスホールを買いました。半分は家、半分は教会でした。そこは四軒長屋なので、大きな声で賛美をすると隣の家から苦情が来ました。「滝元さん。やかましいです。あなたがたは歌っているのではなく、怒鳴っているのです。」と怒られました。「待ってください。その内どこかに引っ越しますから…」と言い、お祈りしていましたら、ここに導かれました。この場所はいくら叫んでも外にあまり聞こえません。当時は、教会員は少なかったですが、いくら賛美しても祈っても良い教会と言うことで、地下室を作りました。その時は、皆でスコップで地下室を掘って作りました。献堂式はとても感動しました。献堂式の日には泣いてしまうだろうと思い、前日に地下で泣きはらしてから献堂式に備えたことを覚えています。クリスチャンたちは皆泣きながら、会堂に入ったことを覚えています。そのような涙の祈りがあって、この教会が今ここに建っていることは素晴らしいです。感謝し、これから多くの方が救われることを祈っていきたいと思います。

 今日は「彼(アブラム)は主を信じた」というタイトルで学びます。文語体の聖書には、「アブラム エホバを信ず。エホバ これを義と成したもう」と書いてありました。アブラムは神から「アブラハム」と改名されました。「アブラハム」とは「多くの国民の父」という意味があります。奥さんは「サライ」でしたが、「サラ」という名前に変えられました。「サラ」とは王女という意味があります。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とあります。今日は「アブラムは主を信じた」ということを自分のものとして、「滝元明は主を信じた」というように、皆さんも自分のお名前を入れてください。「信じる」ということは、神様も「あなたを信じる」ということです。「神様、あなたにお任せします」と言うと、「わたしもあなたに委ねよう」と言われます。ある意味で、お互い様です。「神を信じない」と言うと、神様も「お前を信じない」と言われます。信じることは大切です。信じられるもの、絶対者を信じることは素晴らしいです。
 多くの人は一月一日に神社仏閣を拝みに行きます。これは真の神ではありません。田中政男先生が、「先生。新聞に良いことが出ていた」と話されていました。今年は神社仏閣の賽銭に偽札が入りました。また店でも一万円札で安いものを買い、つりをもらったということがありました。新聞にある投稿があったそうです。それは次のようなものです。
 「神様を騙したということで、日本中の神々と仏教の神が集まり、『神を騙すとはけしからん。どうやって罰を与えるか』と会議を開いたそうです。するとその中に、良心的な神がいて、「まあ、そう怒るな。よく考えると、俺たちも偽りの『札』を印刷して皆を騙してきたではないか。だから『偽札』を作った人を怒ってはいけない」と言ったそうです。
 考えてみると、日本の神々は全部嘘です。それを有り難く拝んでいるのは、騙されているのです。ですから、私たちは騙すような神を信じてはいけません。真実な神を信じてください。
 以前、ひとりの先生から聞いた話です。ひとりの奥さんがお産で苦しんでいたそうです。ご主人がそばで神に祈ったそうです。「神様。安産できますように。楽に安産できたら、金の鳥居を二本作ってお礼しますから」と言ったそうです。
 すると奥さんは驚いて、「お父さん、楽に産ませてくれても、そんな金の鳥居を建てるようなお金はないよ」と言ったそうです。すると、「バカだな。今俺が神様を騙している間に早く産んでしまえ!」と言ったそうです。
 火事や地震になると、一番大切なものを持ち出そうとします。地震があったときにあるおばあさんが一番大切なものを持ち出そうと、家の中にあった位牌をかかえて家から必死で逃げ出したそうです。安全なところにまで来て、位牌を救い出すことができて良かったと思ったそうです。しかしその後、空しい気持ちになったそうです。「一番困った時に助けてくれなければならないものを、私が助けたとは何事だろうか・・・」と思ったそうです。日本人が信じている神は、騙したり騙されたりしています。だから信じてはいけません。
 時々、疑い深い人がいます。「神様信じなさい」と言っても、「信じられません。」と言います。しかし、疑うことは悪いことではありません。疑い深い人は科学者になると良いと思います。科学者は疑いが前提です。ニュートンはリンゴが落ちたことで疑いを持ちました。私なら、リンゴが落ちたら「あっ、落ちた」と言って終わってしまいます。しかし彼は、「リンゴは地に落ちたが月は落ちて来ない。どういうことか。また地球はこの周りを回っているが、ここから離れない。これはどういうことか?」と疑いました。そして、万有引力の法則を見出しました。それが一六六五年のことでした。彼は二十三才でした。彼は八十四才で亡くなりましたが、自分の人生を振り返ってこう言いました。「人は私をどう見ているのかわからないが、自分は波打ち際で遊んでいる子どものようだ」と語ったそうです。それは波打ち際で小さな貝殻を拾って喜んでいる、子どもと同じようなもので真理は広いが一つだけ、小さな仕事をしたと言っているようです。私たちが人生の中で神を知ることは素晴らしいです。真実な神を知るのは素晴らしいです。

『彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』

 あなたは、神を信じていますか。創世記十五章一節に神様がアブラムに現れました。主が幻のうちに彼に語りかけ、

『「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」』

 神が語りかけられるときがあります。先日、滝元開副牧師が、『あなたの受ける報いははなはだ大きい』と御言葉をもらったと喜んでいました。私たちが開拓伝道に出たとき、家内に御言葉が与えられました。それは創世記十五章からの『アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。』でした。それは、ある意味で私たちがどん底にあったときです。あれから五十年が経ち、こんな大きな教会が与えられたことは神の恵みです。神を信じることが大切です。アブラムは、「そう言われても子どもがないです。私の奴隷が世継ぎになるのでしょうか」と尋ねました。神様はアブラムを外に連れ出し、天の星を見せ、「天の星を数えることができるか」と尋ねられました。
 星の数がいくつかわかりますか。科学者は、「千億_十億_一億」位と言っています。だからこれは数えることができない、海辺の砂の数程あると言っています。大宇宙です。聖書には、「はじめに神が天と地を創造した」とあります。星を創り、太陽を創り、地上を創られた神が、何を考えられているのだろうかと思います。その神がアブラムに、「あなた自身から産まれるものが世継ぎになる」と語られました。彼はずいぶん年でしたが、「あなたから産まれるものが世継ぎになる」と言われました。しかしこの大宇宙を創られた神ならば、約束を成就してくださるだろうと確信しました。「アブラムは信じた」とあるように、彼は確信しました。そして、それを神は喜ばれ、義と認められました。「義」とは「正しい」ことです。聖書には、「義人はひとりもいない」と書かれています。信じたから義と認めたのです。聖書の神は収益を取る神ではありません。しかし信じたら義とされます。信じるかどうかです。信じることは大切です。最近は人間不信や親子断絶などがありますが、親は子どもから「信じている」と言われると嬉しいです。「お父さんなんか信じられない」と言われたら不幸です。一番この世の中で幸せな人は、信じられる人が多い人です。ひとりの先生がこのように言われました。「三人の信用できる友達がいたら、幸せに生きることができる」
 イエス様を信じると、友を信じることができます。一番不幸な人は誰も信じられない人です。今の世の中には、信じられないことがたくさんあります。
 朝起きて祈りました。そしてテレビを見ました。今日初めに入ったニュースは、新宿の巡査長が麻薬を使って逮捕されたということでした。警察官を信じなければなりませんが、信じることができません。人間には弱さがあります。その他、西武鉄道元社長が自殺したなど、色々な暗いニュースがありました。信じがたいことがたくさんあります。主を信じたという信仰を持つことは互いに信じ合うことができますので、大切です。義と認められたことは、「お前は正しい人間だ」ということです。ダビデが罪を犯したことが聖書に書かれています。自分の部下、バテシバを横取りし、罪を犯しました。その後、彼は苦しみましたが、神に罪を赦されました。詩篇三十二篇に書かれています。

『そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。』

と書かれています。彼は人生の中で一番の幸せは、「罪を赦されたこと」だと言っています。三節に、

『私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。』

とあります。罪を隠していたときは、苦しくてたまりませんでしたが、罪を隠さずに神の前に告白したときに、罪が赦されたと書かれています。主を信じるとは素晴らしいです。
 『心で信じて義とせられ、口にてイエスを主と告白して救われる』とあります。イエス様が私のために十字架にかかられて死なれ、死人の中からよみがえってくださったことを信じたら義とされます。罪が赦されて、神の前に立つことができます。今私たちが神の前に出ることができることは感謝です。神が私たち人間に対して持っている計画は良いことです。アブラムに向かって語られたことは、

『アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。』

 アブラハムが祝福されたことについて書かれています。創世記十二章一節から四節に、

『主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。』

 私たちが信じている神は、「さあ、信じなさい。ついて来なさい。ついてきても何も良いことはないけど、我慢してついて来い。」と言われる方ではありません。素晴らしい祝福を与えるとあります。一節から二節に、

『主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。』

 「祝福するからついて来なさい」と言われています。イエス様を信じることは、過去の罪を赦してあげる、これから信じて従ったら必ず良いことが来るのです。一番良いことは罪が赦されることです。信じて罪が赦され、神の子となったこと、永遠のいのちを持つことができるのです。また、人生を神とともに生きることができるとは素晴らしいです。神の約束に従っていくことです。

 一節に、『主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。』と言われたときに、アブラハムは行くところを知らずして出て行ったと書かれています。「さあ、アブラハム。これから祝福し、大いなる国民とするから父の家を離れてついて来なさい」と語られたとき、「はい。わかりました。」そして、神は彼をカルディヤのウルから連れ出したとあります。アブラハムの父はテラです。ヨシュア記二十四章二節に、

『ヨシュアはすべての民に言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。『あなたがたの先祖たち、アブラハムの父で、ナホルの父でもあるテラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた。』

と記されています。父親のテラは、ユーフラテス川の近くで偶像礼拝をしていました。神が祝福するために、アブラムに向かって「あなたの父を離れて、その地から出てわたしの示す地に行きなさい」と語られました。神の祝福の第一歩として、先祖伝来の偶像礼拝から離れることを教えています。これが祝福のもとだと言われました。偶像礼拝は文化の一つだと言いますが、文化ではなく悪魔の罠です。今まで拝んできた偽りの神々は、のろいを置きます。悪魔は、自分を拝ませておき最後にには、人をのろって地獄に連れて行きます。しかしイエス様は、私たちを救い出して罪を赦し、「あなたを祝福し、大いなる国民にしよう」と言われます。アブハムは天地を創った神を信じました。今日、私たちも主を信じましょう。今の状況が悪くても、神を信じましょう。必ず、神様が導いてくださいます。必ず、恵みを与えるから信じなさいと言われます。信じることは、神様が喜んでくださいます。今日、賛美の中で恵まれました。神様は私たちを守ってくださると賛美しました。

 私は開拓に出る前に、設楽町の八橋に住んでいました。ひとりの方が私たちに家を貸してくださいました。とても良い方で、一年半程無料で家を貸してくださいました。ある日、「滝元さんこの家を買ってくれるか。もし、買うことができなかったら出て行ってくれるか」と言われました。私は困ってしまいました。必死に祈りました。家を与えてくださいと祈り、家を探しました。そして、一軒家を見つけました。下津具村に大きな御殿を見つけました。その家の家主が新城に住んでいました。私は、「イエス様。この家が御心だと信じます。与えてください」と祈りました。雪の日に私は兄に頼んで一緒に新城に来ました。「下津具村の滝元明です。今、キリスト教の伝道をしていますが、お宅の家を貸していただけませんか。」と頼みました。すると一言葉で、「それは駄目だ。他の人に貸すことになっている」と言われました。その時私は、イエス様に降参しました。家に帰り聖書を読むと、詩篇一二一篇の御言葉を読みました。

『昼は日 なんじを打たず。夜は月 なんじを損なわず。』(文語体)

とありました。太陽がいくら照っても、家の中に住むことができると確信しました。家が与えられると確信しました。そして、家内が見城さんに手紙を出しました。「今家を探しているから祈ってください」と書くと、すぐに返事が来ました。「家は何とかするので、来なさい。」と言うのです。それで、新城に来て元ダンスホールを買いました。そして、今日の教会があります。もし当時、下津具村で家を借りていたら今日この教会はなく、私の人生は変わったと思います。イエス様は祝福してくださる方です。ですから、これからの人生を祝福するから信じて従いなさいと神様が言われます。主に信頼するものは、決して失望することはないと聖書に書かれています。私たちも主を信じていきましょう。ローマ人への手紙四章十七節に、

『このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。』

 アブラハムは偉い人だと思います。彼は祝福を受けて、子どもを授かりました。それは彼が百才の時であり、奥さんは九十歳の時でした。その子はイサクでした。彼は子どもが可愛くて仕方ありませんでした。ベエルシェバという所で神様が、「アブラハム。あなたが愛しているひとり子、イサクを全焼のいけにえをしてわたしにささげなさい」と言われました。待って待って約束の子が与えられ、素晴らしいひとりの子です。神様がテストされたことは、アブラハムは神様よりもイサクを愛しすぎたと思います。神様は本当に愛しているかをテストしたと思います。するとアブラハムは早速、たきぎを持ってイサクを連れてモリヤ山に行きました。そして彼は、イサクを燔祭にしようとしました。燔祭とは羊と同じように火で焼くことです。その時イサクは父アブラハムに、「お父さん、燔祭の羊はどこにありますか」と言いました。アブラハムは苦しんだと思います。イエス様が十字架で死なれ、よみに下られたように同じところを通っています。親として、自分のたったひとり子をささげなければいけない。その時アブラハムは、「神が備えてくれる」と語りました。イサクに「神様があなたをささげると言っているからささげるのだよ。」と言ったときイサクは「嫌だ」と言うこともできましたが、イサクは従順に縛られてたきぎの上に乗せられました。アブラハムが斧を振り上げると、天使が「待って。手を下してはいけない」と言いました。そしてふっと見上げると、近くの藪に雄羊がかかっていました。神は、それをとってささげるように言われました。その時に神はアブラハムの気持ちがわかったと言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、大いに増やす。神は誓うところがなく、自分を指して誓った」とあります。あなたの心がわかったから、「わたしは必ずあなたを恵み、恵まん。増やし増やさん」と言われました。彼が約束によって与えられた子をささげて、殺してしまったら、神の約束は成就されません。しかし彼は、「死人を生かすことができる神」を信じました。私がイサクを殺したとしても、神がまた生かして私の所に返してくださると信じました。彼がもった信仰は、復活の信仰でした。私たちもイエス様が死者の中からよみがえったという、信仰を持つことが大切です。十八節に、

『彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。』

とあります。目先を見ると望みがないが、信じたということです。神にとっては不可能はない。無から有を生み出すことができる。神様が「光あれ」と言うと光ができたとあります。また「はじめに神は天と地を創造した」とあります。神様は必ず良いことをしてくださる方です。本気で彼が信じたことは、ないものをあるものにされる神様です。今どのような問題があってもイエス様を信じたら必ず祝福されます。信じましょう。

『アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。』

 私たちも信じましょう。リバイバルを求めていますが、リバイバルが必ず来ると信じましょう。リバイバル拡大聖会で平岡修治先生がメッセージされていました。甲子園ミッション、武道館での集会をしてもなかなかリバイバルが来ませんが、継続して行くことが大切でイエス様が喜んでくださっている。そしてリバイバルは必ず起こされると言われました。ですから、私たちは不信仰によって疑わないで、信仰を持って必ず良くなると祈りましょう。そして信仰によって益々強められ、神によって語られたことは必ず成就してくださると堅く信じていきましょう。イザヤ書四十五章二十二節に、

『地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。』

とあります。信仰をもっても金はかかりません。私は大きな事を信じますが、金はかかりません。それを信じることです。信じて祈り、イエス様が喜んでくだされば、かたちになります。

 私の孫が建築科で勉強しています。彼は卒業制作で、千五百人が入る会堂の設計して提出しました。いつかそうなるようにと思います。これは欲ではありません。この教会がどんなに大きくなっても、私の財産ではないからです。土地があっても、私の財産ではありません。教会が大きくなったら神のものです。新城の全ての人が救われるために、神はすべての人が救われることを望んでおられると聖書に書かれているので、信じたらいつかは新城にもリバイバルが来ます。信じたら栄光を見ることができます。

 ヨハネの福音書三章にイエス様がニコデモに話されました。ニコデモが「イエス様。あなたは神から来られた人でしょう。あなたが神から来られなければ、あなたがされているようなしるしは誰にもできません。」と言いました。するとイエス様は「まことに、まことにあなたに言います。人はだれでも新しく生まれなければ、神の国に入ることはできません。」と言われました。するとニコデモは、「もう私は年をとっているのに、どうしたら新しく生まれることができるのでしょうか。母の胎に入ってもう一度生まれることができるのでしょうか。」と言いました。イエス様は、「人は水と御霊によらなければ、神の国に入ることはできません。」と言われました。「どうしてそんなことがあるのですか」というと、「あなたはイスラエルの教師でありながら、そんなことがわからないのですか。風はおのが好むところに吹く。聖霊によって生まれることも同じことです。」と話されました。そして最後に、「モーセが荒野で蛇を揚げたように、人の子も上げられなければならない」と言われました。

 イスラエル民族がエジプトから解放され、四十年間荒野を通ったときに耐えきれなくなり、つぶやきました。水がない、食べ物がないと言いました。その時に火の蛇が、かみつきました。その時にモーセが、「神様。彼らが悪かったと言っているので赦してください。」と祈ると、神様が、「あなたは青銅で蛇を作り、竿の上にかけなさい。そしてそれを見たものは誰でも救われる」と言われました。これは、将来の十字架を意味しています。モーセは言われたとおりに行いました。「あなたがたは苦しんでいますが、竿にかけられた蛇を見なさい。救われます」と言いました。そして、「見た者はみないやされた」と聖書に書かれています。見上げたら救われると言えば、子どもでも、大人でも誰でもできます。信仰は同じです。今私たちが、見上げるのは、「十字架のイエス様」です。イエス様はあなたのために死なれたのです。そして、死人の中から三日目によみがえられました。信じるだけで罪が赦され、永遠のいのちを持つことができます。簡単なことです。私は教会に行って二回目に信じました。それで救われました。ですから、今日まだ信じられていない方は、「アブラハム主を信じた。そして義と認められた」とあるように、今あなたがイエス様を信じるだけで、義と認められます。どんな罪も赦されます。信じましょう。救われます。問題があっても、良くなると信じましょう。神様が祝福してくださいます。「アブラハム、主を信じた」この御言葉を、自分のものとして信じましょう。イエス様を信じることは祝福です。疑い深い人は、疑いが取れますように。イエス様を信じていきましょう。お祈りします。


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