わたしが、あなたの道を守ります!

2005.2.27(SUN)
新城教会 滝元 順師

旧約聖書 詩篇121篇1節〜8節
私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

 ハレルヤ!今日は「わたしが、あなたの道を守ります!」というタイトルで学びます。「わたし」とは神様のことです。神が私たちを守ってくださいます。詩篇一二一篇の御言葉を覚え、神の守りを受け取って一週間を始めて行きたいと願います。
 今の時代は神の守りがなくては、人間が用意した守りを駆使しても完全に守るのは難しい時代です。次の瞬間に何が起こるかわからないからです。
 
『私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
 私の助けは、天地を造られた主から来る。』

 詩篇一二一篇は、「都上りの歌」です。男性には年間三度、都詣でをする定めがあり、エルサレムに上って神を礼拝しました。それは「巡礼」と呼ばれるものです。旧約聖書の時代、神を礼拝するためには特定の場所が必要でした。エルサレムの宮に上って行かなければ礼拝できませんでした。なぜならば、「主の御名をみだりに唱えてはならない」という厳しい律法があったからです。しかし今の時代は、どこにおいても礼拝ができます。今日私たちは現代の神の宮、「教会」で礼拝をしていますが、皆さんが家で礼拝するのも同じ礼拝です。イエス様によって、御霊によりどこでも祈り、礼拝できるようになりました。旧約時代は、子どもが病気になって祈ろうと思っても、主の名をみだりにとなえてはならなかったので、主の御名がつけられている「神の宮」に行って祈らなければなりませんでした。三、四日かけて宮まで行くうちに、子どもの病状が悪化して死んでしまうかも知れません。しかし今は、私たち自身が神の宮であり、どこにおいても主を礼拝することができるのです。私たちは素晴らしい時代の特権に預かっています。
 私は先々週、イスラエルに行きました。皆さんのお祈りに支えられ、また、皆さんの祈りの課題を携えて、イスラエルに行きました。かつてはエルサレムに行って祈る祈りが一番重要でした。この旧約時代の古い契約は、新しい契約と並行して未だに残っています。私がエルサレムに行って現場で祈ることは、ある意味においては大切なことだと思いました。現地にいたのはたったの三日半でしたが、とても充実した主との交わりの時間でした。これから主が、皆さんに素晴らしいことをしてくださると信じています。
 詩篇一二一篇は、イスラエルの山々を見ながら作られた詩です。(少しイスラエルの写真を見ました)
エルサレムを郊外から見ると、街は城壁で囲まれています。イエス様がよくお祈りをなされたオリーブ山から見下ろすと、金色のドームが見えます。これはイスラム教のモスクです。イスラム教もエルサレムを聖地としています。モスクの下は「嘆きの壁」と言ってユダヤ教の聖地です。今、イスラエルには「パレスチナ自治区」が出来ました。ユダヤ人と自治区に住むアラブ人とは、壁があって自由に行き来することができません。しかし今回私は、パレスチナ自治区の方にも入って、とりなし、祈ることが出来ました。国境線があり、警備も厳しいです。私はアラブ人居住区に入っていきイスラムとユダヤ教、キリスト教の確執の中に働く暗闇の力が打ち砕かれるように祈ってきました。
 またイエス様が十字架にかかられた「ゴルゴダの丘」にも行きました。私たちの罪のためにイエス様は自ら、十字架にかかり死んでくださいました。その下にはイエス様の葬られた「園の墓」と呼ばれるお墓があります。イエス様は葬られましたが、三日目によみがえられました。この墓の中には、「ここにはおられません。よみがえられたからです。」と書かれています。私は墓の中に入って、携帯電話で新城教会にいる家内とつないでリバイバルを祈りました。イエス様がよみがえられたことによって完全勝利を私たちに与えてくださいました。イエス様がこの墓から持ち出してくださった、完全勝利を新城教会が受け取ることができるようにと真剣に祈りました。たいへんすばらしい旅でした。

 今日は特に、主が私たちを守ってくださる、「わたしが、あなたの道を守ります」と語られている御言葉から学びます。詩篇一二一篇に「守る」という言葉が六回出てきます。「あなたを守る方は」「イスラエルを守る方は」「あなたを守る方」「すべてのわざわいからあなたを守り」「いのちを守られる」「とこしえまでも守られる」と記されています。
 聖書の中の数字には意味があります。「六」とは人間を表し、「七」は完全数で神を表しています。ここで六回「守ります・・・」と語られているのは、人間側が真剣に守りを固めてみても、最終的に神の守りがなければ不完全だということを語っているのかも知れません。
 「守る」というヘブル語は、単に「あなたを守る」という意味だけではなく、「あなたを保ってあげます」「あなたの砦となってあげます」「あなたをいつも見守っています」「配慮してくださる」「保護してくださる」、「用心してくださる」、「関心をはらう」「助ける」というような意味もあります。そして、「すべてのわざわいからあなたを守る」とあります。
 私たちのまわりには色々なわざわいが起こります。昨年は「天災」といわれる自然界からのわざわいで苦しめられました。また「人災」という人間のミスによってもたらされるわざわいもあります。多くのわざわいが私たちに降りかかってくる可能性があります。先日は、安城のスーパーマーケットで買い物を楽しんでいる人たちが刑務所から出てきた男に襲われて、赤ちゃんが死亡するという悲惨な事件がありました。そのような惨事が起こるなど、だれが予測出来たでしょうか。次の瞬間、何が起こるのか全くわかりません。
 イスラエルは危ないところだと言われています。私がイスラエルに行くというと、「先生、大丈夫ですか」と多くの方が心配してくださいました。なぜならば、イスラエルでは自爆テロがあるからです。テロリストが爆弾を身につけて人の多いところに来て、自らを犠牲にして爆弾を爆発させます。大勢の人が巻き込まれて死にます。しかし自爆テロはイスラエルに限ったことではなく、世界のどこで起こるのかわかりません。そのためイスラエルではたいへん警備が厳しいです。しかしいくら警備を厳しくしても、自爆テロをくい止めることはできません(昨日はテルアビブで自爆テロがあったようですが)。
 現在、徐々に和平も進んでいます。日本も渡航勧告を一レベル引き下げました。アメリカは撤廃しました。今回私がイスラエルに行くことをリバイバル聖書神学校で話すと、皆が行きたいと言いました。多分、四月に神学生のイスラエルツアーを計画します。八日間の日程を組んでいます。新城教会の兄弟姉妹で一緒に行きたい方は申し込んでください。アラブ人の中に入るのは問題ありません。今回私はひとりで歩いてどこにでも行きました。しかしツアーは専用車で行くので、危険が少ないと思われます。けれども、どんな時代が来ても、神の守りがあるならば、私たちは守られます。

 今日は聖書の中から六つの守りのアイテム(item/項目, 条項, 種目, 品目)を受け取りたいと思います。まずは詩篇一一九篇一〇五節、

『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』

 私たちを守るのは、「神の御言葉」であると教えています。私たちは御言葉の約束を握らなければなりません。聖書は二千年、三千年も昔に書かれた書物ですが、主を信じる者には、御言葉が語りかけるという不思議な経験があります。その御言葉が私たちの道を守り導きます。私たちの足元を照らすのは、神の御言葉であると教えています。そして詩篇一一九篇九節から十一節に、

『どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。』

 御言葉を覚えることは大変重要です。それはあなたを危険から守ります。危険と背中合わせに存在するのが「罪」です。罪があるところに危険があります。罪があるところに守りのない無防備な領域があります。罪から守られるためには、御言葉を心に蓄えることが大切です。毎週、私たちが教会に来て御言葉を聞いていますが、知らず知らずのうちに御言葉を心に蓄えることができます。時々私たちは、うかつにも罪の誘惑を受けます。その時、神の御言葉が私たちを引き止めます。
 「ちょっと待て!それは危険だ。手を出してはいけない!」神の御言葉を心にしっかりと蓄えておくことはとても大切なことです。そうするならば、「あなたの道が守られる」のです。
 私はクリスチャンホームに生まれて良かったと思います。「順さん、あなたはクリスチャンホームに生まれなかったら、クリスチャンになってはいませんね。」と言われます。自分でもクリスチャンホームに生まれなかったら、大変な人間になっていただろうと思います。ろくでもないことをしていたかも知れません。しかし、クリスチャンホームに生まれて守られました。それは御言葉のゆえです。両親は少し厳しかったですが、しっかりと御言葉を教えてくれました。それでこのように守られたと思います。御言葉を心に蓄えることは、重要な守りのアイテムです。

 続いて私たちを守るのは、「信仰」です。詩篇一二一篇は「祈りの詩」です。この箇所をよく分析して読むと、初めは「わたしは山に向かって目をあげる」と一人称です。しかし途中で「あなた」と二人称に変わっています。これはおそらく、自分自身が体験したことを他人に伝えているのです。年老いた長老たちが若者たちに歌った詩かも知れません。都に上るときに、色々な危険な道を通らなければなりませんでした。昔は今のように交通網が整備されていなかったので、旅は大変なものでした。また、自分自身の人生にも重ねて歌った詩だと思われます。「私は神に信頼して今まで守られた。だから、あなたにも勧めます。神様に委ねなさい。神があなたを守ってくださる」と歌っています。
 信仰とは、まだ見ていないことを確信し、信じることです。教会に来て、御言葉を聞いているうちに信仰が湧いてきます。「大丈夫だ。今は塞がっている領域もあるが、神は必ず助け守ってくださる!」と信仰が湧いてきます。
 時々信仰が揺らぎます。「今まではよかったけれど、これからは大変なことが起こるのではないか・・・、これから悪いことが起こるのではないだろうか・・・」と心配になります。しかし「将来と希望」とは、「神は今まで守り、助けてくださった、だから将来も助けてくださるに違いない」という確信です。誰も将来を知っている人はいません。神しか知りません。しかしクリスチャンは信仰を持つことができます。「今まで助けてくださった神は、将来に向けて助け、守ってくださる」それが、「将来と希望」につながります。それをつかむ為に必要なのが「信仰」です。まだ見ていない世界をあたかも現実かのように握るのが、信仰の世界です。信仰を強く持っていきましょう。春は色々、くよくよする時期です。「新しい学校に入れるだろうか、うまく生活できるだろうか・・・」と、くよくよするかも知れません。しかし今まで助けてくださった神が、将来も守ってくださらないはずがないのです。信仰はあなたの守りです。
 出エジプト記十七章十節から十三節に、

『ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。』

 イスラエルがアマレクと戦ったとき、モーセが頂に立って手を上げると、イスラエルは勝利しました。しかし、モーセの手が降りるとアマレクが優勢になったとあります。「アマレク」とは「悪魔の勢力」を現しています。「イスラエル」は「神の民」であり、「クリスチャンたち」です。主を信じる者が守られるために、戦いに勝利するためにはどのようにしたら良いのか、悪魔の勢力に打ち勝つためには、どうしたら良いのかを、戦いの構図と共に教えています。
 手を上げている人がいる時に、私たちは勝利できます。手を上げるとは、「祈り」を表しています。祈りの手を上げているときには、神の勢力が強くなります。
 時々、霊的戦いが、聖霊と悪霊との戦いのように考えますが間違いです。霊的戦いは、神の秩序の中で繰り広げられる、「天の軍勢と悪魔の軍勢との戦い」です。祈りがある時、神は天の軍勢を十分に遣わします。しかし祈りがないと、逆に、悪魔の軍勢に押されてしまいます。まず祈ることが守りのアイテムであり、戦いに勝利する秘訣です。
 人間だけに祈り心があります。祈り心を無駄にしてはいけません。人間に祈り心があることは、祈りによって守られる領域があることを示しています。しかし多くの人が本物の神に祈らないので、悪魔に祈っています。その為に、祈れば祈るほどはまっています。クリスチャンは、イエス・キリストの名によって祈ることにより、神に触れることができます。そして敵の勢力を打ち破ることができるのです。
 モーセは戦いにおいて手を上げて祈っていましたが、しばらくすると疲れて手がおりてしまいました。それと共に今まで優勢だったイスラエルは、アマレクに押し戻されたのです。それを見たアロンとフルは両側でモーセの腕を支えました。それによってイスラエルはアマレクに勝利しました。これは支える祈りが必要であることを教えています。誰かが祈って支えてくれることにより、勝利と守りがあります。
 皆さんには、どれだけの祈りの友がいるでしょうか。この箇所は、何がなくとも三人のとりなし手がいたら、戦いに勝つことができると教えているのかも知れません。日曜日に兄弟姉妹と出会ったら、祈りの契約を結ぶと良いと思います。「今週一週間、私のために祈ってください」と祈り支え合う時に、勝利があります。
 私も多くの祈り手に支えられていることを感じます。二月は私の周りに色々な問題があって「疲れた。大変だ」と思っていましたが、皆様の祈りによって支えられました。エペソ人への手紙六章十八節に、

『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』

 そんななかでも、「御霊によるとりなしの祈り」が最も重要です。時々、テレビを見ているとニュース速報が飛び込んで来ます。それは番組中に、突然全く違うテーマが飛び込んで来るのです。そのことによって、緊急の課題を知ることができます。御霊によるとりなしの祈りは、正に、そのようなものだと思います。普段の生活の中でお笑い番組を見ていて、神様のことなど全く忘れているような時に、また、仕事中忙しい時に、ニュース速報のように御霊によるとりなしの祈りが飛び込んでくるのです。それは私たちを危険から守ります。
 先日、私の親友のジョー・ハイト牧師からメールが来ました。「ジュン、お前のために真剣に祈らされた」と言うのです。
 彼は家の庭にジャグジーを置いて雪の中、そこに入ってリラックスしていたそうです。すると突然、天が開けて私が幻の中に現れたそうです。それは私が古い家と、父の家と教育館との間の通路に立って、悪霊と戦っている姿の幻でした。なかなかよく戦っていたそうです。しかし、後ろから大きな悪霊が私を攻撃していたというのです。その時、主が、ジョー先生に「お前も戦いに加わって祈れ…」と語られたそうです。それで直ぐにジャグジーから飛び出て、真剣に祈ったそうです。私の背中から悪霊を引きづりおろす祈りを真剣にしたそうです。一人では足りないと思い、すぐに他のスタッフや牧師たちを呼び出して祈祷会をしたそうです。二時間近く祈ってくれたそうです。それを聞いて、「私はその祈りによって守られた」と思いました。
 そうしたら、一麦西宮教会の下條先生から、「先生のために、また、新城教会のために一晩祈らされましたわ」と言われました。先生は御霊の人なので、主が、「新城教会のために祈ってあげなさい。順牧師のために祈ってあげなさい。」と語られたのです。
 また、色々な兄弟姉妹からも、「先生。最近何かありますか」と聞かれました。御霊によるニュース速報があったようです。御霊によるとりなしの祈りは重要です。今週は、私たちの生活のただ中に、御霊によるニュース速報が与えられ、誰かのための祈りに導かれるように願います。
 東京リバイバルミッションの時に、私は怖い経験をしました。夜中に誰かから私に電話がありました。「もしもし、順先生ですか。今、リバイバル聖書学校の生徒の一人が死にました。」「えっ?どうしてですか?」と聞くと、「事故です。」「えっ?!」
 …しかしそれははっきりとした夢でした。「夢で良かった!!」と思いました。なぜそんな夢を見たのだろうかと思い、私は起きて真剣に祈りました。「どうか、彼らを守ってください。」
 ちょうどそのころ、神学生たちが熱心に東京で路傍伝道をしていました。ある日、新宿の歌舞伎町に行って路傍伝道をしていました。するとひとりの変な男が出て来て、「お前ら、ここでやったら刺すぞっ!」と脅され、本当に刺されそうになったというのです。危なかったのです。後から私はそのことを聞いて、夢の中にニュース速報が入ったのだと思いました。その時真剣に祈ったので、彼らが守られたのだと思います。
 時々主は、色々な方法を通して祈りを要請されます。これは私たちを守るために必要な祈りです。それも自分と言うよりも、他の人たちの為に祈りの要請がなされることが多いのです。それを見落としてはいけません。神はキリストのからだに役割分担を与え、祈りを要請されます。そのとりなしの祈りを通して、守られるのです。
 ヘブル人への手紙十三章十七節に、

『あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。』

 「指導者」とは、牧師や教会に働く者たちのことです。「あなたがたの指導者たちの言うことを聞きなさい」と書かれています。これは「牧師に従え!」と言う抑圧的な印象を与えがちですが、解釈を誤ってはいけません。もしも私が、「私に従いなさい。従わなかったら悪いことが起きますよ!」と言うようになったら、それは教会ではなく「カルト団体」です。一人の意見がすべてになったらおかしいのです。もしも私が、「私の言うことを聞きなさい。私の言うことから外れたら悪いことが起こる!」などと言い出したら、この教会から避難してください。それはもはや教会ではないからです。人は誰もそんなことは言えないからです。この「服従する」という意味は、信頼関係の中で「納得して信頼する」という意味です。私たち牧師が、聖書から語らせていただくメッセージの中に、主が皆さんに伝えようとされているメッセージが含まれていると、信頼関係の中で信じる事です。
 それとともに牧師や伝道者、教会スタッフとは、どのような働き手なのかについても教えていると思います。私は「牧師」という単語があまり好きではありません。牧師とは羊飼いのように、皆を引っ張っていく存在のように捕えられやすいからです。牧者について聖書は、「主が私たちの牧者であれば、乏しいことはありません」と教えています。牧者はあくまでも「イエス様」です。イエス様が牧者ならば、乏しいことはないです。しかし牧師が牧者になってしまうと、乏しいことがたくさんあります。人は牧者にはなれないのです。
 イスラエルにはベドウィンと呼ばれる「遊牧民」がいます。遊牧民は三千年、四千年と同じスタイルの遊牧生活をしています。イスラエル政府は、砂漠を季節とともに動き回っている遊牧民たちを何とか定着させたいようです。それで彼らのために家を提供しているそうです。五つ星高級ホテルに相当する部屋を用意し、彼らを住まわせます。しばらくして、彼らがどうしているかを見に行くと、何と、その素晴らしい部屋には山羊や羊が入っており、遊牧民たちは外で生活しているのです。「なぜ外で寝ているのですか」と聞くと、「部屋は五つ星でも、外は満天の星だ!」などと言っているようです。彼らは何千年も変化しない砂漠の流浪の民です。けれども彼らは色々な砂漠の知恵を持っています。彼らは自分たちや家畜を守るために、犬を飼っています。夜は猛獣が襲ってくる危険な時間帯です。しかし人も犬も眠たいのです。そんな中遊牧民たちは、夜、犬が熟睡しないように耳の先をカットしています。それによって犬は夜の寒さのために傷が痛んで、しびれて熟睡できないそうです。眠りが浅いために猛獣が来てもすぐに気づき、立ち向かうのです。
 牧師やスタッフは、ベドウィンの飼っている犬のような存在と役割です。霊的な世界に対して、日夜、見張りをする役割です。教会に属する兄弟姉妹に獣が襲いかからないように、日夜、霊的見張りをするのです。ぜひ私たちが、眠りこけないように祈ってください。悪魔が皆さんを攻撃する前に私たちが起きあがり、悪魔の力を打ち破ることができるように祈ってください。そして、毎週語られるメッセージが預言的な言葉となりますように、教会が皆さんにとって守りの場となりますよう、祈ってください。私たちが牧羊犬のような働きができるように、ぜひ、祈ってください。

『見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。』

 しかしたとえ、私たちが眠ったとしても、完全なるお方は決してまどろむことも、眠ることもなく、二十四時間片時も離れずに私たちを守って下います。
 教会は人々を守るための機能を神から与えられています。敵の力を先に察知して、打ち破る機能を神が用意されているのです。
 今私が祈っていることは、問題が起こってからとりなしの祈りが始まるのではなく、何も起こらない先に、勝利を祈ることができるようにということです。私がイスラエルに行ったのはそのためでもありました。何か問題が起こる前に、御霊によるとりなしの祈りをいただき、敵の力を打ち砕いて危険から守られますように。また、新城教会にそのような機能が強められるように、祈って頂きたいと思います。詩篇九十一篇十一節に、

『まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。』

とあります。私たちクリスチャンには、目に見えない存在が神から派遣されています。それは護衛である天の御使いたちです。そのことをご存じですか?私たちは敵の勢力、悪魔・悪霊を恐れますが、多くのクリスチャンが、味方の勢力、御使いたちについてはあまり関心がないのです。これは良いことではありません。今日、イエス様を信じる人々には、光の天使が円陣を張り守っています。
 私がイスラエルに出かけようとしたら、ある人から一枚の紙が手渡されました。そこには「出エジプト記二十三章二十節」と書かれていました。

『見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。』

 新城教会の一人の男性が二ヶ月ほど前ブラジルに行きました。そこであるブラジルの教会に出席すると、新城教会のために祈ってくれたそうです。その教会の牧師が、「この御言葉を主が語っていると思いますから、新城教会の牧師たちに手渡してください。」と頼まれたそうです。そしてそれが、私が出掛ける寸前に手渡されたのです。それはイスラエルに旅立とうとしている私に、ぴったりの御言葉でした。 『見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。』
 この御言葉をいただき、主に感謝しました。本当に今回の旅はこの御言葉の通りでした。私はどこに行くのにも歩くしかありません。エルサレムの旧市街は地形が複雑です。城内は迷路のようで一度入り込むと出ることができないような所です。だから私は、成田空港で東西南北がわかるように、磁石を買いました。しかし不思議と、私が行こうとしている場所に地図も見ずして導かれていきました。
 多分、私がイスラエルに行く前に、主が天使たちに「今日から順牧師がイスラエルに行くから、先回りして備えるように。道を導くように。」と指令が出たと思います。私がイスラエルにおいて、何気なく歩いていても天使たちの誘導があって、備えられた場所に導かれたのでしょう。クリスチャンの為には、天の軍勢がともに行動します。
 私はエルサレムで、アクセスの良い場所にあるホテルを宿泊場所として選びました。少し高めのホテルでしたが、一番良いロケーションでした。そこに行くと、一泊朝食付きで九千円で提供されました。また、禁煙の部屋をお願いすると、「あなたの部屋は禁煙どころか、スイートルームが用意されています」と言われました。その部屋は広くて、応接間、居間、寝室、バス・トイレ、食事をする部屋など備わっていました(広すぎてちょっと寂しかったですが・・)。私のために御使いが用意した部屋だと思いました。
 普段の生活でも御使いたちがともにいます。それはイエス様の命令によって派遣されています。私たちは神に祈る必要があります。「今日も十分な御使いたちを、それも強い軍勢を遣わしてください」と祈りましょう。「イエス様の名によって」祈りましょう。御使いに直接祈ることは悪霊礼拝につながります。歴史の中で悪魔はこのことを悟らせないように、天使たちを弱く見せかけているのです。天使の描かれた絵を見ると、およそ強そうには見えません。裸で雀の親戚のように描かれています。しかし実際はすごい軍勢が私たちを取り囲み守っています。今日、皆さんに最強の軍隊が割り当てられ、守られるように祈ります。
 
 詩篇一〇五篇八節から十五節に、

『主は、ご自分の契約をとこしえに覚えておられる。お命じになったみことばは千代にも及ぶ。その契約はアブラハムと結んだもの、イサクへの誓い。主はヤコブのためにそれをおきてとして立て、イスラエルに対する永遠の契約とされた。そのとき主は仰せられた。「わたしはあなたがたの相続地としてあなたに、カナンの地を与える。」そのころ彼らの数は少なかった。まことにわずかで、そのうえそこでは、寄留の他国人であった。彼らは、国から国へ、一つの王国から他の民へと渡り歩いた。しかし主は、だれにも彼らをしいたげさせず、かえって、彼らのために王たちを責められた。「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」』

 「油注がれた者」、「預言者」とは、クリスチャンのことです。神は民の盾となり、暗闇に対してこのように宣言されます。「神の民に決して触れてはならない!」
 イエス様を信じることは素晴らしいです。主は、このような宣言を敵に対してしてくださいます。
 今日私たちは、神の完璧な守りの中にあります。神とともに歩む道は、現在がどうあっても最後は素晴らしい勝利です。

 今からは聖餐式を行います。これは十字架の血潮の守りを表しています。聖餐式を通して、守りが強められることを祈ります。

『見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。』という御言葉に続いて、二十四、二十五節、

『あなたは彼らの神々を拝んではならない。仕えてはならない。また、彼らの風習にならってはならない。これらを徹底的に打ちこわし、その石の柱を粉々に打ち砕かなければならない。あなたがたの神、主に仕えなさい。主はあなたのパンと水を祝福してくださる。わたしはあなたの間から病気を除き去ろう。』

 主の守りの継続で語られていることが、「偶像礼拝から離れる」ということです。その結果として、「パンと水を祝福してくださる」と約束し、「病がなくなる」と教えています。
 偶像礼拝の基本は、「パンと水」です。偶像に供え物をあげて食べるのです。それは呪いをもたらします。
 聖餐式は「パンと水の祝福」です。「あなたの中から病をのぞく」と約束してくださいます。主は私たちを守り、パンと水を祝福してくださいます。


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