その名は不思議

2005.3.6(SUN)
新城教会 滝元 順師

旧約聖書 士師記 13章17節〜18節
そこで、マノアは主の使いに言った。「お名まえは何とおっしゃるのですか。あなたのおことばが実現しましたら、私たちは、あなたをほめたたえたいのです。」主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたはそれを聞こうとするのか。わたしの名は不思議という。」

 ハレルヤ!今朝、皆さんの前で御言葉を語ることができて感謝します。今日は士師記から、「その名は不思議」というタイトル語ります。

『そこで、マノアは主の使いに言った。「お名まえは何とおっしゃるのですか。あなたのおことばが実現しましたら、私たちは、あなたをほめたたえたいのです。」主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたはそれを聞こうとするのか。わたしの名は不思議という。」』

 マノアの奥さんは不妊症で、子どもを産むことができませんでした。しかしある日、主の使いが現れて、「あなたは子どもを産みます」と語りました。それが何度か続きました。それでマノアは恐れて、「あなたのお名前は?」と聞くと、主の使いは「わたしの名は不思議」と答えました。それは主の使いの名前と言うよりも、「主ご自身の名前」でした。イザヤ書九章六節に、

『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。』

とあります。これは、イエス様のことです。イエス様のお名前の一つに「不思議」という名前があります。
 「不思議」という言葉を辞書で調べると、「どう考えても理解できないこと」とあります。私も時々、お互いの会話の中で、「あいつは不思議な奴だなあ」と言います。それは、「あいつは理解できない」という意味で使います。神様の一つの側面が、「どのように理解しようとしても理解できない」という側面です。英語で不思議を「ワンダー」と言います。「ワンダー」という言葉は、「ワンダフル」とも使います。それは「驚き」の意味です。神は神秘的で、理解を超えたお方ですが、同時に、驚きをもたらすお方です。その方と私たちはお付き合いをしているのです。クリスチャン生活とは、天地宇宙を創られた神とのおつきあいを意味します。そのためには、神がどのようなお方であるかを理解しなければなりません。
 人は神を自分の知恵で理解しようとしますが、理解することはできません。「どうしたら神様がわかるのですか?」という質問が時々あります。私も、どうやって説明したら良いのだろうかと考えます。神とは、そもそも、どう考えても理解できないお方なのです。もしも神を人間の知恵で理解できたら、神は人間以下になってしまいます。理解できないお方とお付き合いしていることが、クリスチャン生活の前提です。
 しかしその方は「驚き」でもあります。驚くべき事を人生に起こしてくださいます。それゆえに、どうにも理解できないお方を驚きによって信じるのです。ある意味でクリスチャン生活は、理解できない領域と、驚きの領域が交互に現されるような傾向があると思います。ですから、神の驚くべき業だけに目を留めていると、理解不可能なことを起こったときに、つまずいてしまうのです。神様は理解を超えたところで働かれる、不思議なお方です。
 そもそも人間の存在は不思議です。神がおられなければ人間は存在しません。現代科学は人間を遺伝子レベルで説き明かすようになりました。人は始め母の胎内で、細胞分裂を繰り返して大きくなっていきますが、その細胞のすべてに、全体の設計図がコピーされるのです。そのような中から、目は目、鼻は鼻とその中から自分の担当部署の設計図を読み出して、体全体が造られるようです。遺伝子レベルで人間を見ると、進化論はどうにも立ちゆきません。神様がおられなければ、あり得ないことです。不思議なるお方がおられるのです。聖書には、神によって人の設計図が書かれ、かたち創られた事を裏付けるような不思議な言葉があります。詩篇一三九篇十五節から十七節に、

『私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。』

 神は人生の全てを、ご自分の書物に瞬間的に書き記されたとあります。もしかしたら、人生に起こる全ての情報が、遺伝子の中に記されているのかも知れないと言われています。詩篇の御言葉は、それを裏付けているかのようです。『あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。』とあるからです。
 神が私たちのために立てられた計画に沿って生きるならば、決して揺るぐことはありません。将来については隠されていてわかりませんが、神が既にご自分の書物の中にすべてを書き記してくださっているのです。聖書を見ると、人が母親の胎内にかたち創られる前から、神の計画の中にあったことがわかります。イザヤ書四十六章三節に、

『わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。』

 私たちは偶然に生まれたのではなく、生まれる前から神のみ手の中にありました。またエレミヤ書一章五節に、

『「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」』

 私たちが胎内に宿る前から、神様は私たちを知っておられたのです。一人一人は神の目には高価で尊いのです。またエペソ人への手紙一章四節には、

『すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。』

 この地球がいつできたのかは、誰にもわかりません。しかし神は私たちを、世界の基の置かれる前から聖く、傷のない者にしようと計画されていたのです。それは、私たちにとっては及びもつかない事です。不思議なるお方が私たちを選んでくださったことをしっかりと心に留めましょう。そうすれば、エペソ人への手紙二章十節の言葉が理解できます。

『私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』

 今日ここにおられる方々全員が、神によって創られました。神のよって創られていない人はひとりもいません。皆、神の作品です。作品は一点一点、作者が心を込めて作ったものです。絵を描くのが好きな方にとって、自分の描いた作品の一点一点には、思い入れがあります。コピーは何回でも取れますが、作品はその瞬間にしか出せない味があります。神様が私たちを作品として創って下さいました。全員が神の作品であるならば、不必要な人はひとりもいないのです。私たちの日々に起こる全ての事柄は、既に、神が把握しておられます。
 今週は、春木さんと森本さんの結婚式があります。結婚とは不思議です。互いに背景の違う男女がある日出会い、生涯をともに過ごそうとするのです。人間は恋をする動物です。「人間はなぜ恋をするのか?」
 恋には不思議な側面があります。それは、自分の兄弟姉妹、肉親がどんなに魅力的であっても、恋に陥ることがないからです。けれども道で歩いていて、見知らぬ魅力的な人と出会うと、恋いに陥いるのです。どこに差があるのでしょうか。あるところに、その理由は「緊張感」にあると書かれていました。人間は緊張すると脳でホルモンが分泌され、恋いに陥るのだそうです。吊り橋のグラグラした危ないところで、男女を出会わせると、普通の道で会ったのと比較すると、吊り橋の落ちそうな所で出会った男女の方が後から連絡を取り合うようです。なぜならば、吊り橋上のほうが緊張しているからです。結婚して、夫婦関係が崩れるのは、ある意味で緊張感がなくなるからです。出会った当初は、お互いに良いところを見せようと、緊張感を持って接しますが、結婚して日が経つと緊張感がなくなります。
 しかし少しの緊張感によって恋いに陥り、結婚にまで至るというだけでは、結婚の神秘は説明できません。結婚は、神が計画して下さったのです。既に結婚されている方々は、緊張感ではなく、神の計画の中で出会って結婚したのです。同時に、神様は将来に向けての計画をお持ちです。不思議なお方と関わるならば、用意されている事柄も皆、不思議です。ある時には理解できないことが人生に起こってきますが、それは、不思議な方とのお付き合いの結果です。第一コリント二章九節に、

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

とあります。神様が私たちに用意されている事柄は、見たことも、聞いたことも、思いに浮かんだこともない、理解できない不思議な事柄を人生に用意されていると聖書は教えています。
 またローマ人への手紙八章二十八節に、

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』

とあります。「神を愛する人々」とは、イエス様を自分の救い主として信じている者、すなわちクリスチャンたちの事です。時には「こんな出来事が益となるだろうか」「私は今どん底だ」と思うような経験がクリスチャン生活の中にもあります。「なぜ、神様はこんなに苦しいことを私に許されるですか?」と言われることがありますが、神様は、すべての事を働かせて万事益としてくださるのです。
 私は体操競技を時々見ます。選手たちは空中で何回転もし、最後に両足で着地します。空中で逆さになって、そのまま頭から落ちてたらたいへん危険です。しかし、危ないからと言って、普通に飛んで着地をしたらどうでしょうか。得点は0点になってしまいます。そこにひねりや宙返りが入り、また、考えられないような動きが組み合わされ、最後に着地がうまくいくと、選手は割れるような拍手を受け高得点を得ます。
 人生もある意味で同じかも知れません。時にはひねり、宙返り、これは駄目だ、このままでは死んでしまうというようなこともあるかも知れません。しかし不思議なる方は、最終的に着地を決めてくださり、神が与えてくださる得点は十・〇の完璧です。
 三月二十七日は「復活祭」です。イエス様が十字架にかかられ、三日目によみがえられた記念日です。英語では「イースター」と言います。しかし、「イースター」という言葉はあまり良い意味ではありません。それは「春の女神」の名前だからです。言葉は初めの意味があり、だんだん使い方が変わり全く違う意味に置き換えられることがあります。そして、オリジナルの意味がたいへん悪い場合もあります。「イースター」は今では、イエス様のよみがえりを意味していますが、昔は、ゲルマン民族の「春の女神」の呼び名でした。日本風に言うならば、復活祭のことを「天照」とか「稲荷」というようなものです。そもそも「不思議」という言葉も仏教用語ですので、日本語の使い方は難しいのですが・・・。しかし聖書には、「偶像の神々の名を口にしてはならない」ともありますので、「イースター」という用語は、あまり使わない方が良いと私は考えます。だから私たちは、「復活祭」と日本語で呼んでいます。復活祭はイエス様が十字架で死なれ、よみがえられたことを記念しています。マルコ十六章一節から五節に、

『さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」とみなで話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。』

 昔は遺体に香料を塗る習慣があったようです。そのために女たちが墓に向かいました。しかしイエス様の墓には大きな石があり、封印されていました。そこにはローマの兵隊が番をしていました。だから女たちは、「あの大きな石をどうやって取りのけようか」と話しながら墓に向かいました。
 私はこの記事を読むたびに、これは神が女性に与えている賜物であると感じます。男性であれば、石が置いてある、封印がある、ローマの兵隊が番をしている、そんなところには始めから行きません。行く方がばかばかしいと思います。しかし女性は愛が先行して、行動を取っています。そのような行動は男性にとって「不思議」な領域かも知れません。しかし、そんな中に神が働かれます。墓に着いたら、墓石が転がされていたばかりか、イエス様はよみがえられていました。
 私は何週間か前に一人でイスラエルに行きました。園の墓と言われる、イエス様が葬られてよみがえられた場所にも行きました。イスラエルに行くと、聖書に記されている場面や情景がよくわかります。
 先週、リバイバル聖書学校があり、卒業式がありました。二十六名の方々が卒業、または終了されました。この教会からは、加藤悦子姉が卒業されました。また、小林雅子姉が新城に滞在されていましたが、彼女も卒業されまもなく九州に帰られます。そして、牧師として働きます。皆、イエス様がよみがえられたということを知らせるために、伝道に遣わされていきます。イエス様が今も生きていることを理解しなければ、生涯そんな働きはできないと思います。もしも、イエス様がよみがえられなければ、働きは空しいです。イエス様はよみがえられ、今も生きておられます。
 四月に今度は、神学生と共に、イスラエルのとりなしのツアーを行うことになりました。新城教会の兄弟姉妹で一緒に行かれたい方は、ぜひ一緒に行ってください。イスラエルに行くと、聖書の事実を確認することができます。
 女性たちが三人、朝早くイエス様の墓に行くと、墓は空っぽでした。イエス様がよみがえられていました。女性たちは、一つの目的を持っていきました。それは、「イエス様のからだに香油を塗る」ということでした。彼女たちにとって、墓の入り口にある石をどうやって取り除くかが一番大きな問題でした。しかし彼女たちが墓に行って見ると、彼女たちの持っていた問題は取り除かれていました。墓が開いていて、問題が取り除かれているのを確認しました。しかし墓の中に入ると、もっと驚きました。何とイエス様がよみがえっていたからです。それは、見たことも、聞いたことも、思ったこともないことでした。
 時々人生に問題が起こることがあります。そうすると、何とか石を取り除いていただきたいと願うのです。「この石は取れないだろうか…」と思います。しかし神が持っておられる計画は、ただ、石を転がされるだけではなく、見たことも、聞いたことも、思いに浮かんだこともないような事柄を、その奥に用意されているのです。なぜならば、神様は不思議なお方だからです。目の前にある石が取り除かれることも驚きですが、その奥に踏み込んだ時、理解できないことが私たちの中に起こされます。
 イエス様の十字架と復活を通して、私たちに「完全勝利」が与えられました。コロサイ人への手紙二章十二節から十五節の御言葉は、バプテスマの時にお読みする御言葉であり、ある意味で、私の働きの中心の御言葉でもあります。

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

 イエス様が十字架にかかられて、死なれよみがえられたことは、イエス様が天においても、地においても、すべての権威を受け取ってくださったという意味があります。その結果、私たちもよみがえりの権威を共有できるようになったのです。『信じてバプテスマを受ける者は、救われます』とあります。バプテスマを受けておられない方は、ぜひ受けて下さい。バプテスマはイエス様の十字架と復活を、瞬間的にたどる「不思議」です。不思議なる方が行われる、最大の不思議かも知れません。それは生きたままで、イエス様の十字架と復活までを瞬間的にたどるからです。その結果、罪が赦され、私たちに不利な債務証書が無効にされ、すべての支配と権威の武装が解除される、すなわち、悪魔・悪霊が持っていた武器が全部取り上げられ、悪魔とその組織、悪霊どもが捕虜となり、私たちに立ち向かうことができなくなるのです。聖書はバプテスマにより、完全勝利をあなたにあげると教えています。それは神秘であり、「不思議」です。なぜなら、神は不思議なお方だからです。水の中に入って出るだけで、イエス様の権威を共有できます。時々、バプテスマに躊躇しますが、バプテスマを受けても表面上は変わりません。バプテスマを受けた途端、額に十字架が浮かぶことはありません。バプテスマによって、イエス様のよみがえりの権威を瞬間的に受け取るのです。
 間もなく牧師館が建ちます。そうしたら、今建っている明牧師の家を取り壊します。そこを整備し、バプテスマや野外結婚式ができるような場所を造りたいと願っています。
 バプテスマは大変重要です。よみがえりを瞬間的にたどるからです。イエス様が受け取った完全勝利があなたに与えられます。これは神の不思議です。

 士師記に出てきたマノアの子どもは「サムソン」でした。当時、イスラエルは四十年間、ペリシテというカナンの土着の人たちによって苦しめられていました。なぜならば、イスラエルが罪を犯したからです。イスラエルは祝福を失い、四十年間苦しんでいました。そんな中に、一人の男・サムソンが神の計画により生まれたのです。そしてこの一人の人物が、イスラエルをペリシテの圧政から解放しました。彼には、ペリシテの大群を一人で打ち破る不思議な力が与えられました。
 旧約聖書は、常に新約聖書から解釈しなければなりません。旧約聖書だけで解釈するなら、律法的になってしまいます。師士記に新約的視点を重ねると、サムソンはイエス様ご自身を現しています。また、私たち自身をもそこに見いだすことができます。私たちがイエス様を信じるならば、どのような敵の中にあっても、サムソンのように油注がれて敵に勝利できる、一人であっても敵に勝つことができるのです。皆さんの中で、「私は家族の中でたった一人のクリスチャンです」と言われる方がおられたら、士師記を読んで下さい。神がサムソンに油注いで、一人でペリシテからイスラエルを解放したからです。同じように、主は敵のただ中であなた一人を使って勝利されます。
 ある時サムソンが一人で道を歩いていました。するとライオンが現れて、彼を襲おうとしました。しかしサムソンは、そのライオンを素手で捕まえて、あたかも子山羊を引き裂くかのように、やっつけたというのです。サムソンはそれを道に投げ出しました。ライオンは百獣の王で狙った獲物は絶対に倒すのが普通ですが、何とサムソンは、そのライオンを一撃で引き裂いてしまいました。これは私たちクリスチャンの姿を意味してます。神様は私たちに力を与え、どんな霊的獣が襲いかかってきても、それらを一撃で倒すことができるのです。
 サムソンは、その後ライオンはどうなったのか見に行きました。するとそのライオンの死骸に蜂がたかっていました。それはミツバチで、よく見るとそこには蜜がたくさんありました。それを見たサムソンは、ミツバチを追い払い密を食べながら家に帰り、それを皆に与えたと記されています。
 そしてサムソンは、ペリシテ人に一つの謎かけをしました。その謎が解けたら褒美をあげる、しかし解けなかったらお前たちから褒美をよこせ、と言いました。士師記十四章十四節に、

『そこで、サムソンは彼らに言った。「食らうものから食べ物が出、強いものから甘い物が出た。」彼らは三日たっても、そのなぞを明かすことができなかった。』

 彼らはその謎かけを三日間考えましたがわかりませんでした。しかし四日目にわかりました。なぜなら彼らが、サムソンの奥さんを騙して答えを聞いたからです。
 「食らうものから食べ物が出た」また「強いものから甘いものが出た」とは、サムソンが倒した「ライオンと蜜」のことでした。ペリシテ人がサムソンの奥さんを騙して、謎を解いたということで、サムソンは怒って彼らに戦いを仕掛けました。
 これは、神が私たちに預言的に告げていることでもあるのです。「食らうものから食べ物が出る」
 私たちを食いつくし、人生を壊すような存在を通して、私たちを生かす食べ物が出るというのです。それは通常では考えられない事柄です。
 教会に来られる方々は、ライオンに食われそうという問題を持って来る方が多いです。しかし、食らうものから食べ物が出ます。問題に苦しめられて食べられそうなところから命の息が吹き出ます。神様は不思議を成され、驚きを与えられます。食われそうなただ中から食べ物が出て、「強いものから甘いものが出る」のです。ライオンの体から蜜が取れたのと同様に、考えもしなかったところから甘い物を引き出してくださるのです。なぜならば、神は「わたしの名は不思議」と言われたからです。
 「私は獅子に食べられそうだ」と感じている人は、この御言葉を信じて下さい。そのような中から食べ物が出、強い者から甘いものが出るのです。神は不思議なお方です。
 最後に、詩篇一三九篇一節から六節をお読みします。

『主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。』

 神は私たちが立つのも、座るのもすべて知っておられ、あなたの道をことごとく知っておられ、私たちが言葉を出す前から知っておられるお方です。人間は一方向しか守ることはできませんが、神は前も後ろも上も下も取り囲み守ることができるお方だと教えています。それは、私たちにはあまりにも高くて、及びもつかない事だと詩編の記者は語っています。こんな不思議なお方と過ごすことができるのは素晴らしいです。
 今日も不思議な方があなたとともにおられます。このお方と一生涯歩んでいきましょう。不思議としるしを現していただきたいと願います。
 続いて、聖餐式を行いますが、これも不思議です。私たちの食するパンとぶどうのジュースはイエス様の流して下さった血であり、また裂かれた肉であると聖書は教えています。罪の赦しときよめを祈り、もう一度、よみがえりの権威の中に置いていただきましょう。債務証書が無効にされ、武装が解除されます。お祈りします。


[バックナンバー]