God bless you!(祝福があるように!)

2005.3.13(SUN)
新城教会 滝元 順師

旧約聖書 ルツ記2章12節
主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」

 ハレルヤ!今朝このように御言葉を語ることができて感謝します。私たちが社会一般で受ける評価は祝福ではなく、ある時には尊厳を損なわれたり、侮辱されたり、のろいの言葉をかけられたりと、悲しい目に遭うことが多いものです。しかし教会では、お互いに祝福し合うことができます。「God bless you!、神様の祝福がありますように!」とお互いに祝福しあうことができます。誰かから祝福の言葉を宣言してもらうことは嬉しいことです。

 先週は士師記から「神様の名前は不思議」と話しました。神様は不思議なことをなされる方です。士師記十四章十四節に、

『そこで、サムソンは彼らに言った。「食らうものから食べ物が出、強いものから甘い物が出た。」彼らは三日たっても、そのなぞを明かすことができなかった。』

 例えば、ライオンに襲われたら普通は殺され、食べられてしまいます。しかし食べられてしまうような危機から、食べ物が出、強い物から甘い物が出るのです。

 教会に来る背景は、人生の中で食らわれそうな危機に遭遇して来ることが多いのですが、何と、そこから食物が出、甘い物が出るのです。神様は不思議なお方です。今日、色々な問題を持っておられる方は、そこから皆さんの食物が出ます。

 さて、今日は士師記に続く「ルツ記」から学びたいと思います。

 ルツ記が書かれたのは、「さばきつかさが治めていたころ」と一章一節にあるので、士師の時代です。ちょうど、サムソンが活躍したような時代のどこかで起こった出来事です。ぜひ、ルツ記をご自分でお読みください。素晴らしいストーリーです。この中から神様が語られていることについて学びたいと思います。

 キリスト教会が旧約聖書を扱う時には、常に、新約聖書の視点から扱います。イエス様の十字架と復活で与えられた「新しい契約」である、新約聖書の視点で旧約聖書を眺めると、神が人類に語られている事柄がよくわかります。まずはルツ記全体のストーリーを子どもたちにも分かるように話します。

 昔々、士師の時代に、ベツレヘムにエリメレクという人と奥さんのナオミさん、そして、マフロンとキルヨン君というふたりの息子がいました。ある時、彼らの住んでいたユダのベツレヘム地方に飢饉がありました。彼らが住んでいる地域は、真の神を信じている地域でしたが、苦しみがありました。そんな時、彼らは一つの噂を聞きました。それは、隣の国・モアブに行くと食糧が余っているということでした。エリメレクは「モアブに移住すると良い」という噂を聞いて心動かされました。しかし周りの人たちはエリメレクに、「モアブの人々は偶像を拝んでいるし、行かない方が良い。少しは苦しいことがあるかも知れないけど、みんなでこの地で頑張ろう」と言ったことでしょう。しかしエリメレクは現実だけを見て、一家でモアブの地に移住してしまいました。

 しかしやがて、エリメレクの家庭に次から次へと色々な問題が起こり始めました。彼らは通算十年間モアブに住んでいましたが、第一に起こった問題とは、一家の主人であったエリメレク自身が死にました。奥さんのナオミは、ふたりの子どもを抱えて、一生懸命働かなければなりませんでした。やがてマフロンもキルヨンも成長し、現地で奥さんをもらいました。

 やっと落ち着いたかと思ったら、再び、悲しい事件が起こりました。それは、ふたりの息子、マフロンとキルヨンが相次いで死んでしまったからです。十年間にナオミは、主人とふたりの息子を亡くしてしまいました。どれほどの悲しみがあったことでしょう。後に残されたのは、ナオミと現地でもらったふたりの嫁でした。

 ついに傷心のナオミは、故郷に帰る決意をしました。しかし彼女は一度故郷を捨てています。故郷に帰ることは、ある意味で屈辱でした。特に、ユダヤ人が自分の国を捨て、異邦の地に行くとは大変なことでした。

 この頃ベツレヘムは回復し、パンが有り余っているようだという噂を聞きました。そこでナオミは思い切って生まれ故郷に帰る決意を固め、ふたりの嫁、オルパとルツに「私はもうここで生きることができない。生まれ故郷に帰ります。」と言いました。ナオミとお嫁さんたちとは、とても良い関係にありました。ふたりのお嫁さんはナオミと別れることを悲しんで泣きました。しかしナオミは、「あなたがたはまだ若いから、現地にとどまって生活を再スタートするように」と告げました。するとふたりとも、「私たちはあなたと一緒に行きたい」と言いました。しかしナオミは彼女らを説得し、オルパは納得して家に帰りました。しかしルツはどうしても、ナオミと一緒に行動したいと言って聞きませんでした。嫁姑の関係が悪い方は、ルツ記をお読みください。ルツはどうしても、「あなたの死ぬところで私は死にます。あなたの神は私の神です」と言い、ナオミの故郷ベツレヘムに一緒に帰りました。

 ナオミが帰ると、ベツレヘムは小さな町ですから、町中の噂になりました。出て行く時にはエリメレクとふたりの息子が一緒だったのに、帰ってきた時には主人の姿もふたりの息子の姿もなく、見えるのは、ただ、やつれたナオミの姿と知らないモアブの女性でした。噂はどんどん広がり、ふたりは外に出ることもできなくなり、引きこもってしまいました。あまりにも世間の目は冷たかったのです。

 しかしそんなある日、ルツがナオミに「外に出て働きたい」と言い出しました。「働くと言っても仕事がないよ。」「でも私、頑張ってみる」と言って、ルツは外に出ることにしました。

 当時イスラエルにおいては、貧しい人たちのために一つの生きる道が用意されていました。収穫時には穂が畑に落ちます。それを拾い集めずに残しておき、貧しい人たちが畑に入って落ち穂を拾うことができたのです。こんな愛の制度がありました。ルツは色々な畑に出て行き、落ち穂を拾いました。ある日、ルツが喜んで家に帰ってきました。「今日はたくさんの落ち穂を拾うことができました!」

 ナオミが「どこで拾ったの?」と尋ねると、「どこそこの畑で拾った」と答えました。するとナオミは、「それは私の親戚のボアズの畑ですよ」と言いました。なんと、図らずも、ルツが落ち穂を拾いに行ったのは、エリメレクの親族の一人のボアズという人物の畑でした。ボアズは町の有力者で、多くの畑を持っていました。ボアズはルツによくしてくれました。ボアズは使用人たちに、「あの女が来たら、決して止めては行けない。その女のために少し余分に穂を落としてあげなさい。」と言いました。

 ルツは毎日ボアズの畑に通い、落ち穂を拾うようになりました。そんな中、やがてボアズはルツと結婚したのです。

 やがて、ボアズとルツが結婚したことにより子どもが生まれ、イスラエルで最も有名な王「ダビデ」がその家系に生まれました。そして、ダビデ王の家系の中には、最終的にイエス様がお生まれになりました。

 ルツ記を見ると、正に、食らう物から食べ物が出たのです。「もう駄目だ、危機一髪だ」という中に、見えない神の御手があり、奇跡的な展開がありました。

 ルツ記はたった四章の短い箇所ですが、とても重要な事柄を含んでいます。これを読むと色々なことを学ぶことができます。私たちの人生も、偶然のような行動や歩みの連続のように思いますが、実際は、神の手が伸ばされているのです。「最悪、最低、これ以上の不幸はない・・・」という中にも、神のみ手が伸ばされています。そして人が神に従うとき、必ず、祝福がもたらされます。ルツ記二章十二節に、

『主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」』

 ルツ記には「祝福」という言葉や概念が多く出てきます。一度モアブに下ったナオミが、もう一度自分の故郷ベツレヘムに帰った所に、神の祝福がありました。新約的視点からルツ記を見ると、「ベツレヘム」とは「神の支配される場所」として捕らえることができます。なぜならば、ベツレヘムはイエス様がおうまれになった場所でもあるからです。そして「モアブ」はこの「世」を表します。

 三月は年度替わりの月でもあり、不安な方もおられるかも知れません。これから就職してどうなるのか。また、新しい学校に入ってどのように展開するのだろうか、と心配になります。

 私もこの季節になると、何歳になっても当時のことがよみがえってきます。幼稚園から小学校に入る時に、ちょっとした不安な気持ちがあったこと、また、ドキドキして会社説明会に行った時のことなどを思い出します。この時期はある意味で、世の中に出て行かなければならない時期でもあります。けれども初めはドキドキして出て行きますが、四月、五月、六月…と会社に段々慣れて、世の中が何となく楽しくなってきます。

 私は高校を卒業して一年間、あるところで働いた経験があります。そこに行って驚きました。私が高校生の時代には、喫茶店に入るのは罪のように考えていました。喫茶店には艶めかしい女性がいるのではないかと思っていました。だから、「喫茶店に入ってはいけない。そこに行くと堕落する」と考えていました。

 しかし仕事に行くようになると、職場の人から誘われて喫茶店に行くようになりました。最初、緊張しながら喫茶店に入って行くと、私の予想とは全く違い、おいしいコーヒーを飲ませてくれてこころ安らぎました。そして徐々に、仕事のさぼり方を覚えました。さぼっていても事務所に帰ると、「ああ、疲れた…」と仕事をたくさんしたような顔をしていました。だんだんと、「世の中も良いものだ」と考えるようになりました。

 いくら世の中が楽しくなっても、モアブに下っては行けません。時に、クリスチャン生活の中でも飢饉のような時もあるかも知れませんが、モアブに下ってはいけないのです。

 「モアブ」とは、何を表しているのでしょうか?それは、神にならぬ神々、「偶像礼拝」を表しています。エリメレクの一家は、真の神から離れて「偶像礼拝」の地に身を寄せたのです(彼らが完全に偶像礼拝に戻ったとは記されていませんが)。モアブに下った彼らは、初めは良かったのですが、段々と色々な事件が起こってきました。十年間に起きた事件は恐ろしいです。主人が亡くなり、子どもたちも次々と死んでしまいました。今、社会には色々な問題がありますが、その原因の根底に、「偶像礼拝」があることを忘れてはいけません。

 私は本日の礼拝後、名古屋のある教会に行き、「霊的戦いセミナー」をします。そこで偶像礼拝の恐ろしさについて話します。クリスチャンとは、手で作った神々を捨て、真の神に戻った者たちです。モアブは、偶像礼拝を表しています。どんなことがあっても、イエス様から離れて、偶像礼拝に戻ってはいけません。偶像礼拝に戻ってしまうと、やがて色々な問題が起こってきます。偶像礼拝とともに起こってくるテーマは、「破壊と死」です。

 エリメレクの家族に起こった事件は、悲しい破壊と死でした。楽しかった家族は破壊され、家族のメンバーが死んでしまうということでした。

 そのような中、ナオミは故郷に帰りました。彼女が故郷に帰った時、神の祝福はそこから流れました。偶像礼拝から抜け出して、イエス様のもとに帰らなければなりません。「あなたがその翼の下に避け所を求めて来た」とありますが、イエス様という翼のもとに避け所を求めたら、必ず、豊かな報いがあるのです。ナオミがルツを連れて神の翼のもとに帰ってきました。その時、偶然と思われるようなことから最善が起こされました。

 さて、エリメレクの家に、なぜ、主人とふたりの子どもが亡くなるような事件が起こったのでしょうか。聖書をよく調べてみると、その手がかりが浮かび上がってきます。色々な問題が起こる背景に、家系との関連性があるのがわかります。案外、家系の中に同じような問題が繰り返し起こることが多いのです。そして、その根底に偶像礼拝と罪が座しているのです。

 エリメレクの家系にボアズがいましたが、その家系には、ひとりの特殊な人物が加えられていることがわかります。ヨシュア記二章一節に、

ヌンの子ヨシュアは、シティムからひそかにふたりの者を斥候として遣わして、言った。「行って、あの地とエリコを偵察しなさい。」彼らは行って、ラハブという名の遊女の家にはいり、そこに泊まった。

 これはイスラエルがエジプトから脱出し、モアブの草原に陣を敷き、カナンの地に入ろうとした時のことです。モアブの草原に宿営したイスラエルは、エリコとカナンの地を探りました。エリコという敵陣に入った時、一つの家がありました。それは遊女の家でした。そこに入ると、売春婦ラハブがいました。彼女は、イスラエルの斥候たちをかくまい、彼らの命を助けました。そのことがきっかけで、「ラハブ。私たちがあなたの町を攻める時に、必ず、あなたを助ける」という約束がなされたのです。イスラエルがエリコを攻め取ったとき、ラハブは特別に助けられました。その結果、ラハブはイスラエルの中に住むことを許され、やがて、エリメレクと同じ家系の一員に加わったのです。

 なぜ、ボアズがルツに目を留めたのかがわかります。それは、ルツがモアブの女であったからです。ボアズがルツにひかれたのには理由がありました。ボアズの母親は「ラハブ」でした。母親のラハブはルツと同じ故郷の女性でした。肌の色も母親に似ていたことでしょう。ボアズにはルツと母親の姿が重なり、心が動いたのだと思います。

 しかしボアズの母「ラハブ」は、もとは「遊女」でした。遊女とはお金で体を売り、多くの男性と悪い性的関係を結ぶ仕事です。しかし彼女は救われ、神の恵みを受け、イスラエルに加わることができました。しかし、ある意味、家系は恐ろしいものです。

 第一コリント六章十五節から十六節に、

『あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。』

 最近、風俗など現代的売春宿に多くの男性たちが行きます。会社に行って語られる話題の中心は、あまり良い話題ではありません。「旅行に行こう・・・」と誘われ、着いた所が風俗であったりするのです。私たちはそのような誘惑に負けてはいけません。それは後に、恐ろしい結果となるからです。なぜならば、

『遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。』

と聖書は教えているからです。

 結婚とは、「霊、肉、魂」が一つに結合することです。先週は、春木隆兄と昌美姉の結婚式がありましたが、素晴らしい結婚式でした。結婚式では、二人の霊がしっかりと神の前で結ばれるように祈ります。霊が結ばれ、その後、肉体が結ばれるならば、「ふたりは一心同体」という、よい構図ができます。それは、「一人の男性」と「一人の女性」という意味です。その中には、「キリストと教会が一つ」という構図が当てはまり、神の守りがあります。そうすると、素晴らしい家庭ができます。

 しかし、『遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。』という警告の言葉は、男性たちが風俗などに行き、罪を犯すことを意味します。一時の遊びで金を払えば良いと思うかも知れませんが、そこには「結婚の原理」が働くのです。遊女との肉体関係は、遊女と結婚したことと同じであり、一心同体の原理が働くのです。それは、遊女が持ち合わせている背後の家系も、遊女が今までに関係した全男性の家系も、心の傷も、すべて共有することになるのです。遊女がそれまで、どれくらいの男性と関わったかはわかりませんが、それらとすべてつながってしまうのです。それは恐ろしいことです。

 「ラハブ」という女性は遊女でした。やがて彼女はイスラエルの民の中に住み、「サルモン」と正式に結婚しました。しかし過去に結ばれた契約は、依然としてつながっていたことでしょう。今まで関係した多くの男性たちの家系や、モアブの偶像礼拝の契約が秘密の力としてラハブから流れ、働いていたのだと思います(そのほかにもいろいろな要素があったとは思いますが)。

 エリメレクの家族はモアブに行きました。そこでは同じ領域が重なって偶像礼拝と不品行という領域がさらに強まり、破壊と死のスイッチが入ったのかも知れません。その結果として、十年間にわたり色々な破壊的なことが起こったのかも知れません。

 しかし、もしもそのような背景があったとしても、神の翼の下に身をゆだねようと決断して帰るならば、神はその人を助けてくださるというのが聖書の中心メッセージです。イエス様を救い主として受け入れるならば、神の家族に接ぎ木してくださり、すべての呪いから解放してくださるのです。かつては色々な罪の中にあったかも知れませんが、イエス様を信じる時に、いくらラハブのような人物であったとしても、神の家系につないでくださいます。新約時代を生きる私たちには、イエス様の十字架と復活によって、「不利な債務証書を無効にしてくださる」という権利が与えられました。ですから、悪魔は家系を通して、私たちを訴えようとしても、決して訴えることはできないのです。その特権を私たちは持っています。神の翼のもとに帰るとき、神は私たちに祝福をもたらしてくださいます。また、私たちが常にきよい歩みをし、決して、モアブの地で行われている「偶像礼拝や不品行」に負けないで生きるならば、神の家で生きることができます。クリスチャンとは、古きから解放され、新しい神の家に接ぎ木された者たちです。接ぎ木により、渋柿が甘柿になるように、イエス様に接ぎ木されることにより、強いものから甘いものが出てくるのです。それまでどんな問題があっても、イエス様の所に帰る決断を下す時、最悪の状況から、王家につながり、神の家につながるのです。

 昨日は、ふたりの方々がバプテスマを受けられました。これは神の不思議な計画の中で起こされたことです。

 何年か前に教会にAさんという婦人が暗い顔をされて来られました。Aさんはお子さんが引きこもりという問題を持って苦んでいました。しかし、偶像礼拝から離れてイエス様を信じたら不思議なことが起きて、子どもたちの問題が解決しました。そうしたら、同じような問題を持っておられる方々が教会に来るようになりました。その関係から、Bさんという婦人が来られました。Bさんも子どもに問題があるとともに、実家のお母さんが霊的な問題で苦しめられていました。占い師は家系の中に成仏していない人がいるから、もっと拝むようにと言ったそうです。しかし、いくら拝んでも全く良くなりませんでした。そんな中、偶像を捨てイエス様を信じたら変わるとAさんから聞いたのです。

 Bさんは、自分のお母さんのいやしと子どもの問題解決のために、偶像から離れ、イエス様を信じました。私たちは、Bさんのお母さんのためにも真剣にとりなしの祈りをしました。すると不思議と問題がだんだん消えて、お母さんは落ち着いてきました。

 実は、Bさんの家系においては、おばさんにあたるCさん夫妻も、息子さんの問題で恐れ苦しんでいたのです。BさんはCさんにその原因が偶像礼拝にあることを話しました。

 そして昨年、Cさんご夫婦が新城教会に来られました。私は、偶像礼拝が恐ろしい罪であることと、家系にまつわる問題はイエス様以外に解決できないと話しました。そして、家系の偶像礼拝の呪いが打ち砕かれるようにと祈りました。

 Cさんご夫妻は離れたところに住んでおられますので、私の知り合いで霊的戦いを知っている教会を紹介しました。それからCさんご夫婦は、教会に通うようになり、今年の二月に夫婦でバプテスマを受けたのです。今では息子さんも一緒に教会に通っているそうです。

 そして昨日は、なんと、Bさんのご両親が洗礼を受けられたのです。

 一つのことから大きく祝福が拡大したのです。神様は素晴らしいお方です。一人が神のもとに帰る決断をする時に、素晴らしいことがなされました。

 主は生きておられます。これはすべての人々に適応される法則です。モアブの地に止まらず、カナンの地に戻るのです。そうしたら、神は祝福を与えてくださいます。それをルツ記から学ぶことができます。「God Bless You!」主があなたを、祝福してくださいますように。

 今から行われる、聖餐式は神の家につながるという意味があります。モアブの地ではなく、神の家族につながるのです。主があなたのしたことに報いてくださるように。

ルツ記四章二十一節から二十二節に、

『サルモンの子はボアズ、ボアズの子はオベデ、オベデの子はエッサイ、エッサイの子はダビデである。』

また、マタイの福音書一章一節から六節に、

『アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれた。』

とあります。イエス様の家系にふたりのモアブの女性が入っています。それは、「異邦人もやがて神の家族に加えられる」という大きな計画でした。誰でも、神のもとに身を寄せるならば、王の家系、神の家に接ぎ木してくださるのです。私たちは現在、新約の視点から見ています。過去にどんな罪があっても、罪は赦され、不利な債務証書は無効になります。野生種のオリーブが、栽培種の純正オリーブにつながると聖書は告げています。

(祈り)

「主イエス様、今、私はあなたを救い主として信じます。二度と偶像礼拝には戻りません。今日、もう一度、私たちが王の家系、神の家族につながれていることを感謝します。イエス様の名によって聖餐式をいただきます。神の家族につながれた証拠として行います。すべての苦いものを、甘いものに変えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン」


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