「主は今、生きておられる!」

2005.3.27(SUN)
新城教会 滝元 順師

新約聖書 マルコの福音書16章1節〜8節
さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 ハレルヤ!「復活祭」おめでとうございます。今日は、イエス様の復活をお祝いする礼拝が持てることを心から感謝します。「復活祭」とは、イエス様がよみがえられたことを記念する日です。英語では、「イースター」と言いますが、私たちの教会では、なるべく「イースター」という言葉は使わないようにしています。なぜならば、言葉は初めの意味から離れていくことがあるからです。例えば、昔は、豆腐と納豆は使い方が反対でした。納豆のことを豆腐と言い、納豆のことを豆腐と言っていましたが、途中で入れ替わったようです。「腐った豆」がなぜ「トウフ」なのだろうかと思いますが、変わってしまったそうです。

 「イースター」とは、「ゲルマン人の春の女神」豊穣神として祀られていた偶像の名前でした。それがいつの間にか、イエス様の復活を表す言葉に変わってしまいました。「復活祭」を英語では、「イースター」ですが、スペイン語では「パスクァ」と言います。これは「パス・オーバー」、「過ぎ越しの祭り」について言っています。なぜ日本人は英語を採用したのかわかりませんが、いずれにしても、今日はイエス様の復活をお祝いしているのです。

 イエス様がよみがえられたという事実がなくては、キリスト教信仰のすべてが消え去ります。イエス様がよみがえられたことが事実ではければ、私は牧師をやめます。皆さんに嘘を伝える事になるからです。

 人生、死ですべてが終わったら、本当にむなしく寂しいことです。今日、新しい目標に向かって努力されてる人もおられるかも知れませんが、人生がすべて死で終わるとしたら、人は究極的には、墓場に行くために努力しているのです。一生懸命、何の目的で働いているかといえば、墓場に行くためです。また、何のために結婚しようとされるのでしょうか。それは、墓場に行くためです。すべては墓場に行くために生きています。「人生の目的は、墓場に行くためです。」と言って、心に平安がある人はいないと思います。墓場ですべてが終わるならば、適当に生きて悪いこともたくさんして死んでいけば良いと思います。最近は色々な不正がはびこっており、NHK関係の仕事をされている方は大変だと思います。上の人が悪いことをしたので、仕事がやりにくくなっていると思います。人生が墓場で終わってしまうならば、ずるく生きていくのが人生かも知れません。

 しかし人生は、決して墓場で終わるのではありません。今朝、礼拝が始まる前に、「召天者記念会」が行われました。参加された方々は、最低一回は悲しい瞬間に立ち会われた方々です。自分の愛していた肉親が天に召された経験があったからです。しかし「召天者記念会」には望みがあります。なぜならば、永遠があるからです。人生はこの地上だけで終わりではありません。永遠に続くことを証明するために、イエス様はよみがえってくださいました、イエス様を信じたならば、永遠のいのちを受け、永遠を生きることができるのです。教会は、永遠のいのちを紹介するためにあります。

 永遠のいのちとは、ちょうど畑に隠された宝のようなものです。ある人が小作人として、地主の畑を耕していると、ある日、鍬がカチンと音を立てました。そこを掘ってみると、なんと、そこにはすごい宝が埋まっていました。掘り起こして自分の物にしたならば、泥棒になってしまいます。なぜならば、地主の土地だからです。彼はどうしたのでしょうか。全財産を売り払って、地主の所に行き、「この土地を売ってくれませんか。」と言って、土地を買い取りました。土地が自分の物になってから、今度はゆっくりと、白昼堂々その宝を掘り出したという話しが聖書にあります。

 クリスチャン生活は、ある意味でそうだと思います。教会に来て、永遠のいのちがわかったら、何もかも捨てて、イエス様にかけていくことが大切す。日本人は、真理よりも和を重んじるところがあります。

 ある豪華客船が火災になり、沈みそうになりました。それで、船長は何とか皆に救命胴衣を着けさせて、海に飛び込ませたいと考えましたが、皆は恐れてなかなか飛び込まなかったというのです。その船には、色々な国の人が乗船しており、それぞれの国の人を飛び込ませるために悩んだそうです。

 そこで考えました。まずは、イギリス人に向かって、「紳士の皆さん、淑女の皆さん。飛び込んでください!」すると、イギリス人は一斉に海に飛び込んだそうです。続いて、アメリカ人には、「アメリカ人の皆さん、保険がかかっていますから、飛び込んでください」すると皆、飛び込んだそうです。次にドイツ人には、「これは国家の命令だ!」と言うと、彼らは命令に従う国民なので直ぐに飛び込んだそうです。

 そこには北朝鮮の人も乗っていたそうです。「北朝鮮の皆さん。今が脱北のチャンスです!」と叫んだら、皆、海に飛び込んだそうです。

 最後は、日本人がのこりました。それで、「日本人の皆さん。もう既に、みんなが飛び込んでいますよ!」と言うと日本人が一斉に飛び込んだそうです。

 しかし、日本人の中でも関西人は飛び込まなかったそうです。関西人は結構頑固なところがあり、「俺らはそこいらの日本人とはちゃう」とか言って飛び込まなかったそうです。そこで船長は、「関西人の皆さん。阪神が優勝しました!!」と言うと、全員、飛び込んだそうです。

 人は命がかかっていたら、何が何でも海に飛び込まなければならないのです。同様に、真理がわかったら、何もかも捨てて飛び込まなければなりません。

 本当に永遠のいのちがあります。人間は死で終わりではありません。シャボン玉のように大きくなって壊れて消えるような物ではなく、私たちは死んだ瞬間に神の御前に行くのです。だから、クリスチャンは、死んだ人を後から供養する必要はありません。なぜならば、神の元に行っているからです。そこには永遠のいのちとともに、神とともに生きる現実があるからです。私たちはやがて、天に行き彼らと再会できる希望を持っています。ですから、記念会だけで十分です。今日も皆さんと一緒に賛美し祈りましたが、天に帰って行かれた兄弟姉妹も一緒に参加したと思います。彼らは神の世界に住んでいるので、私たちの姿も見ることができると聖書は語っています。「私たちは雲のように、証人たちに囲まれている」とありますので、天に帰られた方々はこの礼拝の光景もじっと見ていると思います。私たちの人生は誰かから見られているのです。イエス様を信じて、天に帰った家族から、また肉親からも見られているという意識を持って、生きることが大切だと思います。

 時々、クリスチャンは遺骨も捨ててしまうのではないかと言われますが、それは間違いです。クリスチャンは遺骨を大切に扱い、しっかりと管理します。

 日本人の意識の根底には、「遺骨信仰」があります。それは骨の中に霊が宿るという考え方です。だから、特に遺骨にこだわります。

 何年か前に、「えひめ丸」が沈んだ時に、日本側の遺族は、「一刻も早く船を引き上げてくれ」と言いました。しかし欧米のメディアは、それについて「もう全員亡くなっているのだから、引き上げなくても良いのでは。危険を冒して引き上げても、骨になっているのだから…。それよりも、引き上げの費用を皆に分けてあげたら良い」と言っていました。しかし、日本人はそれを了承しませんでした。なぜならば、日本人にとって、骨はただのカルシウムの固まりではないのです。その中に「霊が宿っている」と考えているので、いくらお金をかけても拾って欲しいというのです。クリスチャンになっても、そのような概念が残っているかも知れません。自分の肉親がそのような立場に置かれたらどうでしょうか。遺骨を拾うか。その代わりに一億円をもらうのか・・・。どちらを選びますか?我が家で聞くと、一斉に「一億円!」と言っていました。そうは言うものの、一般的にはなかなか一億円とは言えないと思います。もしもお金といったら、「あなたは冷たいね。海の底で凍えている人がいるのに、お金を選ぶの?」と言われます。それは、骨の中に霊が宿っているという概念があるからです。霊は決して骨には宿りません。あなたは死後、骨の中に宿りたいと思いますか。私は嫌です。絶対に、骨の中にいることは嫌です。しかしおかしな事に、死んだ人に関しては、骨の中に閉じこめてしまうのです。

 けれども、遺骨はある意味で重要です。クリスチャンはどのように理解したらよいのでしょうか。私たちは復活を信じています。神はやがて、枯れた骨からでも人をもう一度再生できると言っています。

 エゼキエル書を見ると、枯れた骨々がつながって、もう一度人が再生されたという預言的な言葉があります。昔はそんなことは信じることができませんでした。「そんなことはあり得ない」と考えていました。

 しかし現代科学は、そのようなことがあり得ることを示唆しています。先般、北朝鮮から「横田めぐみさん」と思われる遺骨が返されました。それを遺族が受け取って泣いていました。しかし日本政府は信用していませんでした。それが本物かどうか調べてみなければわからないと言っていました。枯れた骨からどのようにして調べるのかと思います。しかし現代では遺伝子鑑定によって特定できるのです。人間の体は何百億という細胞でできています。その細胞の一つ一つには、その人の遺伝子、「体全体の図面」がコピーされているのです。家が壊れても、建物の図面があれば何回でも再生できます。この教会は築二十五年です。もしも地震で倒れたとしても問題はありません。なぜならば、元の図面が残っているからです。その気になれば、建設会社に「この通りに作って下さい」とお願いすれば、全く同じに作ってくれるからです。人間の骨の中には、その人を完全に再生する情報が残っています。やがて神は、納骨堂に置いてあるような、骨の固まりをちょっとひねって、その人を再生し、それに新しい設計図を加えて、天で生きる機能を合体させ、永遠のいのちを与えるのかも知れません。だから私たちは、遺骨を、永遠の日のために管理しています。イエス様がよみがえられたように、私たちもやがてよみがえることができます。私たちは何としても、永遠のいのちを受け取らなければなりません。畑を買い取らなければなりません。そして、その中に隠されている宝を、掘り出さなければなりません。

 この世の中には、「救い」と言われる道が数多く存在します。日本に宗教法人は、二十万近くあります。宗教家の所に行き、「お宅は真理ですか?」と聞けば、皆、「はい。真理です」と答えると思います。「そうかも知れませんねぇ…」と言ったならば、だれも宗教に来てくれないと思います。そうなると、真理を見つけるのはなかなか難しいです。しかし、イエス様程はっきりと、永遠のいのちについて語られた方はおられませんし、また、死からよみがえられたという方はいません。他の宗教家が、どんなに徳を積んだとしても、死んで終わりですが、イエス様は死から三日目によみがえってくださいました。ですから、私たちはイエス様によって、救われることができます。

 使徒の働き四章十二節に、

『この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」』

とあります。この言葉は、ある意味で排他的に聞こえるかも知れませんが、真理を告げる言葉です。世界には神々と呼ばれる名前が溢れているかも知れませんが、「イエス様以外に救いはない」と教えています。なぜならば、イエス様は、生きておられるからです。人間は、色々な祈りの課題を持っています。それをどうしたら神の元に届けることができるのでしょうか。それは、「イエス様の名前」です。イエス様は、救われるための唯一の名前です。救いとは何でしょうか。使徒の働き、二十六章十七節から十八節に、

『わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

 これは「救い」と、「救いの結果」について教えています。暗闇から光りへ、サタンの支配から神に立ち返らせると言うのです。「救い」とは、「救われなければならない環境」があるのです。救い出されなければ、永遠のいのちを受けることができません。生まれながらの人間は、この箇所で述べられているように、暗闇の中にあります。それは「サタンの支配下」です。「神様がおられるのに、なんとひどい世の中でしょうか」と言われる人がいます。それは、この世がサタンの支配下にあるからです。これから世の中はもっと悪くなるでしょう。それは、悪魔が支配しているからです。悪魔は、この世をメチャクチャにしたいのです。そして、人々を自分の奴隷として、自分の国に連れて行きたいからです。

 かつて世界には、奴隷制度がありました。南米や北米に行くと、その結果としての黒人社会を見ることができます。

 ポルトガル商人が、アフリカに行き多くの奴隷を買いました。そして自分の国や、ブラジルに連れてきて皆を酷使しました。日本には奴隷制度はなかったと思うかも知れませんが、日本人も多く奴隷として売られた歴史があります。世界の奴隷制度を研究している文献を読むと分かります。

 日本にカトリックとともにポルトガルが入ってきました。ちょっと間違えば、私たちもブラジルと同じようにポルトガルに支配されたかも知れません。一五四九年にカトリックが入ってきましたが、ブラジルにも同じ年に入りました。ブラジルはポルトガルの植民地になりましたが、日本は植民化されませんでした。ポルトガルの思惑は同じでした。少しでも歴史が狂っていたら、私たちはいまごろポルトガル語を話していたかも知れません。当時、日本人も大勢、ポルトガル商人によって奴隷として売られたようです。豊臣秀吉は、そのことに関してポルトガルに抗議したようです。

 奴隷になったら、主人の思い通りです。主人の国に従属します。霊的にも同じです。初めの人間アダムとエバが罪を犯したことにより、人類の所有権が悪魔に渡されたのです。だから、生まれながらの人間は、悪魔に所有され、悪魔の国に引かれていくのです。人間は誰に教えられるわけでもなく、嘘を言うようになります。また、悪いことをします。赤ちゃんが生まれ、罪も汚れもないと言いますが、しばらく成長すると、教えてもいないのに自己主張が強くなり、嘘を言ったりします。なぜでしょうか。人間は罪に支配され、悪魔に支配されているからです。それゆえ、人は破壊的な方向ばかりに進んでしまうのです。しかし、イエス様を信じると、所有権が神に移ります。今日、イエス様を信じている方は、所有権は神にあります。まだ、イエス様を信じていないならば、悪魔の支配下にあります。

 支配とは、支配されていても感じないのが本当の支配です。日本人は、このようにしている間にも、日本国政府の支配を受けています。しかしそれには気づきません。朝起きたら、「日本国政府の支配が強くて頭が痛い」と言われる人はほとんどいないと思います。日本人が日本国政府の支配を感じる時は、海外旅行をする時です。「あなたのパスポートを見せて下さい」と言われます。パスポートがないと出国できず、また、相手国にも入ることはできません。その時、「日本の支配を受けている」とはっきりわかります。同様に、私たちが神の支配か、悪魔の支配か、はっきりとわかる日、それは国を出る時です。人生を終えて、国を出て行く時にその支配がはっきりとわかります。「イエス様を信じていてよかった!!」と狂喜する瞬間があるのです。それは人生を終えて、この国から出て行く時です。

 神の前に仕える係官に会う時に、「あなたは神の支配下にありましたね。良かったですね。神の国に入ってください」と言われます。

 しかしもしも、暗闇の支配下にあるならば、「残念ながら、あなたは暗闇の国に行かなければなりません。」と言われます。「何とかしてくださいよ」と言っても「ここまで来てしまうと、どうにもならないのです。あなたは滅びに行かなければならない。そのパスポートを、生きている間に書き換えておくべきだった!」と言われます。

 支配権を書き換えられるのは、地上だけです。書き換えるために必要なのは、イエス様の名前以外にないと言うのです。

 その書き換えはどうしら良いのでしょうか。それはとても簡単です。時々、私たちは救われるためには、すごい努力がいると考えます。聖書を一生懸命読み、修行を積んだら救われるように考えます。しかし神は知恵あるお方です。だから、救いを簡単にされました。それが、神の知恵でした。それは誰にでもわかるものです。誰でも、努力なしに永遠の命が手に入るのです。それはどのような方法でしょうか。ローマ人への手紙十章九節から十三節に、

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。』

とあります。天国に行くためには、簡単です。『もしあなたの口でイエスを主と告白し…』とあります。あなたが「イエスは主です」と告白することが第一段階です。これは「イエス様は私の主であり、私の神様です」という意味です。信じていないことはなかなか口に出すことはできません。少しでも要素があれば、口に出すのです。教会に来て、なかなかイエス様のことがわからないと言われる方がおられますが、聖書の教理をすべて勉強しなくても良いのです。興味があったら勉強しても良いですが、救われるためには、「イエスを主と告白するだけ」で良いのです。

 テレビを買ってきたら、お父さんが家族全員を呼び、「今日はテレビが入った!」と告げるかも知れません。私が子どもの頃、テレビが入ることは、すごいイベントでした。学校から帰り、電気屋がテレビを取り付けに来た日をよく覚えています。私たちは遠巻きにテレビの取り付けを見ていました。この近辺で一番早くテレビを入れたのは、菅谷姉の家でした。商売をされていたので、とても早かったです。私は昔、相撲が好きでよく菅谷家に見に行きました。そこに村中の子どもたちが集まっていました。

 テレビが入ったら、お父さんは家族を集めて、「テレビを見る前に、皆でまず、回路図の勉強をしよう。テレビはなぜ映るのか。一、放送局があるから。」「今テレビ局はライブドアによって買収されそうだ…。次は経済について勉強しなくてはならない」などと言って、多方面からよく勉強し、「よし、これでわかった。なぜテレビを映るのか。さて、テレビを見よう」と言って、スイッチを入れるでしょうか。回路図や放送局については、何も知りませんが、ただスイッチを押してテレビを見ます。

 聖書もわからないところがたくさんあります。しかし、とりあえずスイッチの入れ方さえわかっていれば良いのです。それが、永遠のいのちを受け取る方法です。まず、あなたの口で「イエス様は主です」と告白することです。「イエス様は主です」と告白しましょう。

 そして第二段階は、「あなたの心で、神はイエスを死者の中からよみがえられせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」とあります。これを信じることが大切です。イエス様がよみがえってくださった、今も生きておられると信じるならば、救われるとあります。第一コリント十五章三節から

『私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。』

 新約聖書が記録された当時、実際にイエス様と出会った人々が生き残っていました。またイエス様が十字架にかかられる光景を見た人たちも生き残っていました。そして、よみがえりのイエス様に出会った人たちもいっぱいいました。そのような証人たちがいる中で聖書は書かれたのです。これは歴史的な事実です。このことを信じるならば、あなたは救われるのです。イエス様が、私たちの罪のために十字架にかかられ死んでくださったこと、葬られたこと、三日目によみがえってくださったことを信じるならば、あなたには、永遠のいのちがあります。

 イエス様はよみがえられ、今も生きておられるお方です。「主は今、生きておられまる」という賛美があります。

主は今生きておられる

我が内におられる

すべては主のみ手にあり

明日も生きよう主がおられる

 イエス様は生きておられます。今日、お読みした御言葉は、実際にイエス様のよみがえりの瞬間に立ち会った女性たちの様子をレポートしています。彼女たちは、イエス様がよみがえられたことを見て、驚きました。

 イエス様はよみがえられた後、弟子たちに「ガリラヤに行きなさい。そこでわたしと会うことができます」と言われました。マタイの福音書二十八章十六節からに、

『しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」』

 弟子たちはよみがえりのイエスさまに会いましたが、ある人はよみがえりのイエス様を見ても信じられなかったと正直なレポートがあります。よみがえりのイエス様が、

『「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。』そして『父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい』と言われました。

 この礼拝後には会食会があり、その後、バプテスマがあります。バプテスマは重要です。なぜならば、よみがえりのイエス様が命令されたことだからです。「父と子と聖霊の名によって」バプテスマを授けなさいと言われたのです。バプテスマはいっさいの権威が与えられる瞬間です。イエス様の公生涯の権威は「限定付き」でしたが、よみがえりの権威は誰も侵すことができない「最高の権威」でした。バプテスマを受ける時に、その、最高の権威が私たちにも与えられるのです。それとともにイエス様は、『見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』と言われました。

 私たちはやがて天国に行き、イエス様とともに過ごします。しかしイエス様は、今も、世の終わりまで、あなたとともにいてくださるのです。

 今から「ナザレのイエス」というDVDを少し見ます。今日、語ったイエス様のよみがえりと、イエス様が世の終わりまで、私たちとともにおられるということを描いている部分を見ます。映像を見て、よく信じてください。よみがえりを信じることは、救いのための重要な鍵です。このことを信じましょう。

 今日はイエス様を信じて、永遠のいのちをいただきたい方は祈りましょう。あなたのすべての罪を赦し、永遠のいのちに招き入れてくださいます。告白してお祈りしましょう。

(祈り)

「イエス様。今私は口で告白します。イエス様が、よみがえってくださったことを信じます。イエス様が私の主であり、神であることを心から信じます。受け入れます。私の支配を完全に変えて、永遠のいのちを受け取らせてください。福音を多くの人に伝えることができますように。イエス様がともにいてくださることを、心から感謝します。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」


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