「向きを変えて出発せよ」

2005.4.3(SUN)
新城教会 上條 実師

新約聖書 コリント人への手紙 第二 5章16節
ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

 ハレルヤ!主の御名を賛美します。今日は礼拝でお話しできる事を感謝します。去年は沖縄スーパーミッションが行われました。そして今年の九月には栃木県の宇都宮市において北関東リバイバルミッションが行われます。先週の水曜日から滝元明牧師が決起大会のために巡回しています。ぜひ覚えてお祈りください。北関東地区にも色々な霊的偶像の拠点があります。是非覚えて祈り下されば幸いです。今日は第二コリント五章十六節から学んで行きたいと思います。

『ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。』

今お読みしました箇所をリビングバイブルで読んでみます。

『ですから、世間の評判や外見の善し悪しでクリスチャンを評価するのはやめなさい。以前私はその誤った考え方でキリスト様のことを単に自分と同じ人間と見なしていました。しかし、今はその考えは一転しました。』

私たちはイエス・キリストを真の神様とであると信じています。十字架にかかり葬られ、三日目によみがえって下さったイエス・キリストを真の神であると信じ洗礼を受けました。救い主であり、癒し主、全知全能の神、偉大な神、祈りを答えてくださる神だと信じています。今も生きていて、私たちと共にいて下さる神様であると信じています。しかし忙しい毎日の生活を送っていく中で、知ずうちに神様を過小評価してしまい、仕事や学校では自分中心で生き始めてしまっています。当初は祈らなくてはと強く示されていた課題も祈らなくなり、忘れてしまい、思い出す事すらしない事が多々あります。リビングバイブルで「世間の評判や外見の善し悪しでクリスチャンを評価するのはやめなさい」とありますが、周りのクリスチャンを見ても、特別祝福をもらっているようには見えない。一生懸命祈っている様だけど、自分と五十歩百歩の状態に見聞きできる。神様ってこんなものではないかと自分で神様を過小評価してしまっています。「キリスト様のことを単に自分と同じ人間と見なしていました」と書かれていましたが、困難のときや礼拝の時には神様を意識します。しかし毎日の生活、仕事や学び、日常生活では祈らなくても、それなりにやっていける。神の国と神の義とを第一に求めて行かなくてはと知っているが、自分の楽しい事を第一に求めている生活。大変困ったら求めて祈れば良い。あなたはそんな信仰生活になっていませんか?今日人間的な標準ではなく、人間では立ち入る事のできない領域、永遠のいのちを与え、悪霊から勝利を与え、いつでもどんなときでも働き、祝福を与えてくださる神様に期待しなければなりません。今日のメッセージタイトルとして「向きを変えて出発せよ」というタイトルを掲げました。今年私と言うより、新城教会に教えられている御言葉があります。それは申命記一章六節から十一節の御言葉です。

『私たちの神、主は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、主があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である。」私はあの時、あなたがたにこう言った。「私だけではあなたがたの重荷を負うことはできない。あなたがたの神、主が、あなたがたをふやされたので、見よ、あなたがたは、きょう、空の星のように多い。どうかあなたがたの父祖の神、主が、あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。そしてあなたがたに約束されたとおり、あなたがたを祝福してくださるように』

この申命記というのはモーセが、イスラエル人が奴隷生活をしていたエジプトから神の力で出エジプトできた事を振り返っている書です。このみことばの中に「私たちの神、主は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。」とあります。ホレブと言う所で長く止まり過ぎたとあります。ホレブとは有名な十戒を神様から与えられたシナイ山です。約一年間程イスラエルの民はそこにとどまっていたとみことばから見る事ができます。男だけで六十万人と言われる大群衆。イスラエルの民がホレブに止まっていました。そんな時主は、

『あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。』

と言ったのです。ホレブでの一年は、十戒を主から頂くなど神様から様々な祝福を受けました。しかし聖書の記事を見ると、シナイ山でモーセが四十日四十夜主と交わっている時、民の指導者モーセがなかなか山から降りて来ないので不安になり、自分たちの手で神を作ろうと言い、金の子牛を作り、その中でどんちゃん騒ぎをし始めました。今まで主から多くの奇跡を体験して来ました。紅海が真っ二つにわかれ、乾いた地をわたったり、食べ物がなかった時は、天からマナを降らしてくださったり、肉が食べたいとわがままを言うとウズラが降ってきたり、水が飲みたいというと荒れ地の中でも岩から水を湧きださせたり、日常の生活の中で多くの奇跡を見て来ました。しかしいとも簡単に、指導者がいなくなると目に見えない神に従うのではなく、目に見える偶像を作って、礼拝し、飲み食いしたのです。そんなホレブのなかで、七節

『向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。』

と神様はイスラエルの民に語ったのです。そして八節に、

『見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。』

とあります。まだ所有するところが沢山あるから、出発しなさいと言われました。今日この教会に主が語れと言われていることは、「向きを変えて出発しなさい」。所有する地がたくさんあると神様が言われていると思います。マタイの福音書二十八章十八節には、

『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。』

と記されています。世の全ての権威をお持ちのイエス・キリストが、あなたに、また新城教会に祝福を下さると言っています。先週は復活祭礼拝でした。イエスキリストがよみがえられたことをお祝いしました。今日も死人の中からよみがえられ、目に見えませんが今も生きておられる神が二、三人わたしの名によって集まるところにわたしもいると言っています。だから今日もこの礼拝の真ん中に立ち「わたしはあなたが思っているような小さな神か?そんなに小さいのか?わたしの大きさを知りなさい。」と皆さんに語っていると思います。聖書に神様はこんな神様であると書かれています。第一コリント二章九節に、

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

とあります。見たことも聞いたことも、思い浮かんだことのない祝福をあなたに備えてくださっていると書かれています。しかし自分はあまり信仰も熱心ではないし、罪も多く犯したし、神の前に出る時には、ギリギリ天国に入れるかもしくは天国にはいることができず、バツを受けるのではないかと考えます。祝福を頂く事なんかできない。と考えていないでしょうか?私たちはこれだけ神様に奉仕したから、愛してくださる。奉仕していないからもらえないという考えを持ちます。しかしそうではありません。神様は平等な方です。すべての人のために十字架にかかり、葬られ、甦った神様です。全ての人に祝福を平等に下さる方です。聖書のヘブル十一章一節に

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

とあります。あなたが信仰を持てば見たことのない、聞いたことのない、心に思い浮かんだことのない祝福を下さる。もう備えていてくださっていると言うのです。あなたは立ち止まっていませんか?前進しなさい。向きを変えて出発しなさいと聖書は教えています。イザヤ書四十三章十九節に、

『見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。』

とあります。あなたが信じたら、新しい事が始まるというのです。荒野のような状態でも道を引き、荒れ地のような状態の中に川を与えてくださる神様です。今日あなたが『見よ。わたしは新しいことをする』と神様があなたの心の扉をノックしています。全く考えれない状況でも祝福してあげるというのです。申命記一章六節に、

『私たちの神、主は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。』

七節には、

『向きを変えて、出発せよ。』

とあります。心の扉を閉じてしまっていた出来事、願い事。駄目だと疲れ果ててしまった出来事。この所だけはさわって欲しくないと思っている所。そんなところに神様は出て行きなさい。そこから脱出しなさい。そうすれば見た事も聞いた事も思い浮かんだ事のない祝福を与えてあげる。止まっては行けない。向きを変えて出発しなさいと言っています。八節は、

『見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。』

とあります。主はもうあなたの手に与えてくださっています。あなたが出て行けば受けることができます。来週の日曜日からイスラエル旅行があります。滝元順牧師を始め多くの兄弟姉妹が出掛けていきます。是非祝福された旅になりますようお祈り下さい。そのイスラエルという国の中に死海という有名な湖があります。それは約海抜マイナス四百メートル程の低さだそうです。皆さんもご存知のように塩分が三十パーセントから三十五パーセントあるそうです。先日もテレビのニュースで愛知県の長久手で行われている「愛・地球博」でも、その死海を体験できるプールがあると報道されていましたが、誰でも浮くことができます。しかしその水が目に入ったり、のどに入ると焼けるように痛いです。死海というのは、どこからも水が出て行くところがありません。全部そこに止まるのです。生き物が一匹も住む事ができない、荒れ地です。あなたも死海のように、神の祝福が止まっていませんか。そこから出ていけば良いのです。主の祝福、素晴らしい祝福を与えてくださるという約束です。聖書には、『求めなさい。そうすれば与えられます。』と書かれています。
 ある人は大きな問題を抱えて苦しんでいます。神様に以前祈ってはみたがビクともしない。解決がない。その問題に押しつぶされている人はいませんか。今日あなたもみことばを信じて、「向きを変えて出発」してみてください。あなたが向きを変えて出発して下さい。あきらめないでもう一度祈り始めて下さい。戦い始めて下さい。マタイの十一章二十八節に、

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』

とあります。またイザヤ書十章二十七節に、

『その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。」』

とあります。くびきのように問題と一生付き合っていかなければならないと考えていた人に、向きを変えて出発する時、見た事も聞いた事も、心に思い浮かんだ事のない不思議な解決を与えて下さいます。
 またある方は、罪責感に悩まされて続けている人はいませんか?ある方は悪習慣で、やめたいと思ってもやめられずに苦しんでる人はいませんか。イエスキリストの十字架の血によって罪が赦されるという「赦しの福音」があるにもかかわらず、まだ罪を握りしめ、苦しんでいるかたいませんか?しかし聖書は、箴言二十八章十三節から十四節に、

『自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。』

とあります。また第一ヨハネ一章九節に、

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』

あなたの罪は、十字架を見あげた時、信じた時全ての罪から赦されるのです。いつまでもその罪を引きずって自分の大きな人生の袋に入れているのではなく、二度と罪を思い出さないと聖書に書かれています。イエス様に罪を告白したならば、その罪は赦され、あなたは素晴らしい祝福をいただくことができることを覚えてください。全て赦されるだけでなく、もう二度と思い出さないとあります。また悪習慣から向きを変えて出発したら、必ず止める事ができます。
 まただれにも言い表せない心の傷はありませんか?今多くの方が傷ついています。心の傷に苦しみ続け、毎日が辛くて苦しみ続けている方がいらっしゃいます。精神的な病の人も多く、皆疲れています。その一番の原因は、心の傷です。あの時にあんなことをしなければ良かった、あんな事を言わなければ良かったと過去の事を何時までも引きずってしまうのです。親から虐待されたり、愛する夫や妻から傷を受けたり、会社や学校などの人間関係で傷つき、悩み、病んでしまっている方が多くいます。普段は元気に生活できていても、傷の部分を誰かから、指摘されると傷がうずき、痛くて苦しむのです。前進していた自分が、心の傷によってストップし、逆にバックしているところがあるかも知れません。今は多くのカウンセリングやセミナーがあります。それも神様が与えてくださった方法かも知れません。しかし今日一点一画変わらないみことばに目を向けましょう。みことばは絶対変わる事はなく、完全に現実のものになります。イザヤ書五十三章五節に、

『しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』

とあります。肉体のいやしとともに、イエス・キリストが十字架で受けてくださった傷によってあなたの心の傷も癒されます。また詩篇一四七篇三節に、

『主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。』

とあります。またイザヤ書三十章二十六節に、

『主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。』

とあります。サタンは巧妙で私たちがイエス・キリストを信じてこれから素晴らしい祝福をいただくことを妨げます。その祝福を受けてしまったならば、神の国が大きく広がってしまうからです。ですから私たちに傷を与え、傷にフォーカスを当てて動けなくなるようにさせ、祝福をもらえないようにしてくるのです。今日心に傷があり、自分は駄目だ、辛くて辛くてたまらないと思われる方がおられたら、主はみことばによって完全に癒して下さいます。触れてくださいます。必ずいやしてくださいます。

『主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。』

とあります。月夜のような暗い状態にあっても、主によっていやされ暗い人生から、昼間の様になる。昼間は何でも見えます。行動できます。暗い所がなくなる様になると言うのです。いやそれ以上に日の光は七倍になり、七つの日の光のようになるとあります。七は完全数を表します。あなたに光が降り注ぎ、完全なる癒しを与え、悪霊から完全な勝利を持つ事ができます。今まで祈ろうと思っても、心を少し開けて見るけれど傷が痛すぎる。もう思い出したくない。生涯、誰にも言えない。あきらめてしまった場所に主は触れたいのです。それをただ癒すだけではありません。月の光、暗闇や痛みから日の光になり、それが七倍の光になって、完全に癒されるだけでなく、みんなの前で「みことばによって私はこのようにいやされた」と証しできるように変えてくださるというのです。まったく癒して下さるのです。
 また新城市や近辺の町々を見る時、のどかな自然あふれる素晴らしい土地です。しかしこの町も傷ついています。殺人事件や誘拐事件がありました。また町全体で「設楽原決戦場まつり」を行っていますが、戦いを推奨し、戦争を皆に教えているようなものです。この町は昔多くの方が戦いで死に、傷だらけになり、地に血が流されています。その町の傷についてもエレミヤ書三十三章六節に、

『見よ。わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。』

とあります。地を癒して下さるとあります。この地が平安に満たされ、真実な争いのない町、家庭として下さるとみことばは言っています。ですから是非ご自分の住んでいらっしゃる地域のためにとりなし、あなたの住んでいる町に平安の真実を頂きましょう。色々な町のために私たちが祈り始める時、町の傷が癒され、町が祝福されていくのです。
 またあきらめてしまった祈りの課題はありませんか。さんざん祈ってきたが、全く答えられない。逆にだんだん事態が悪くなって来てしまった。駄目だとあきらめて、カビが生えてしまっているような、いやすでにその祈りの課題は化石になってしまっているかも知れません。そんな祈りの課題に対しても、「向きを変えて出発しなさい。占領するところがたくさんある、与えている、出て行きなさい」と神は言われます。もう一度あなたが今まで祈ったが答えられずに、お蔵入りにしてしまった古い祈りの課題も、再度祈りはじめましょう。必ず主は出発し始めたら祈りに答えてくださいます。特に祈るべき事は、自分の家族、親族、友達の救いのために祈りましょう。今まで祈っていましたが、反対されたり、無関心だったり、他宗教に入信していて等の理由であきらめてしまっていました。しかし今日から祈り始めましょう。占領する地がたくさんあるとみことばは言っています。「
見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、主があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である。」

再度人々の救いのために祈り始めましょう。だれのために祈りなさいと、主があなたに声をかけてくださいます。この人のために祈りなさい。今日この地域のために祈りなさい。誰々の為に祈れと思った事、出会った方々など神様はあなたにわかる形で祈るように示してくださいます。ぜひその声をしっかりと聞き取り、受け取って祈り始めてください。
 私にはここに立ってメッセージする事ができないような失敗をしたことがあります。それは二十年少し前だと思いますが、教会に一人の男性が来られました。そしてその方と私はお話させていただき、お友達になりました。初め来られたときは髭が生え、髪の毛はぐしゃぐしゃで寝て起きたばかりのような格好をし、タバコくさくて、一見して「この人つかれているなぁ」とわかりました。その方は私と同じ年齢でした。また彼は新城に在住で、私と同じように一軒の養子になられていました。子どもも当時は二人でおなじでした。多くの共通点があり、お話して少しずつ心を開き、礼拝に毎週来てくれるようになりました。病いも少しずつ改善されつつありました。服装も普通になり、髭も剃って礼拝に来られました。時がたって私はその方に、バプテスマを勧めていました。すると彼の雲行きが段々怪しくなってきました。季節はちょうど春でした。自分の地域で村祭りがあるというのです。彼は「自分は養子で入って、親が年になってきたので、村などの付き合いは全てお前に任せると言われている。」というのです。彼はイエス様がわかり始め、偶像礼拝、偽りの神々に使えることは、大きな罪だということがわかっていました。彼は悩み始め、再度精神的に悪くなってきました。当時はまだ霊的戦いについて知らない時でしたので、聖書には偶像礼拝は罪だと攻めてばかりしていました。すると次の週からぴたりと、彼は来なくなりました。彼はどうしたのだろうかと思いました。そして何月何日に祭りということがわかっていましたので、祈ってはいました。しかし段々教会に来なくなると、祈らなくなり、祭りの当日は祈ることすら忘れていました。その後、彼の顔を思い出しました。しかし訪問に行かなくてはと思いましたが、今行くと精神的なプレッシャーを与えてしまうのではないかとか、これこれの仕事をしないといけないなど、いろいろ理由を付けて、祈ったり、訪問することをしませんでした。その後ある方から悲しい話を聞きました。その男性はやはり祭りに行ってしまったようですよと聞きました。そしてその後病気が悪くなり、家に引きこもってしまい、自分の家の倉庫で首をつって自殺してしまったというのです。私は彼のことを思って、今行くと精神的にプレッシャーになり、なぜ祭りに行ったのだと彼を苦しめることになる。精神的に悪くなってしまう可能性がある。また自分は嫌われたのではないかなど、もう少し時を延ばした方が良いと自分の思いで彼の家に行くのを控えていました。しかし何度か心の中で「彼の所に行きなさい」と教えられていました。「自殺して死んでしまった」その事を聞いた時、私の責任だと痛烈に思いました。行きなさいと教えられていた時に、行っていたらこんな悲しい事態になっていなかっただろう。そう思うと苦しくて苦しくてたまりませんでした。そのような事が二度とないように。主がこの人のために祈りなさいと言われる時には、できるかぎり祈るようにしています。毎日日常生活をしていて、突然ある人を思い出す時ありませんか?主がその方のために祈れと言っている時だと信じます。誰かの事を思い出したり、出会ったりした時、お祈りしなければいけません。今日あなたが祈りをやめてしまった方がいて、思い出した人がいるなら祈り始めてください。また病気もあきらめないでください。この病気は一生涯付き合っていくのだとあきらめている方も、ルカの福音書八章四十三節からに十二年間長血をわずらった女性について書かれていますが、彼女はいやされました。色々な病院に行き直してもらおうと思いましたが、直らずに持っている者は全部とられてしまい苦しみました。四十四節に、

『イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった。』

とあります。長い間病み、自分はもう癒されないだろうとあきらめていました。しかしイエス様の着物のふさにさわりました。それも近寄っていきイエス様のわからないように、隠れながら触れました。その時完全に癒されました。今まで駄目だとあきらめていた癒しも、あなたが信じて祈り始めたらその祈りも答えられることを覚えてください。
 また霊的に束縛があり、苦しんでおられる方もたくさんおられます。今日覚えてください。ルカの八章二十六節からにゲラサ地方に住んでいる悪霊につかれた人の話があります。その中でゲラサのその場所には誰もが近づくことができない恐ろしい場所でした。男が墓でわめき散らし、悪魔に縛られて叫んでいました。彼は今まで悪霊の束縛にやられて、裸で自分の体に傷をつけ、だれも近寄れない状態でした。そこにイエス・キリストが来られました。なんと彼は完全に解放され、着物を着てイエスの前に座っていたのです。その姿を見た人々は驚きました。
 あなたの神はどんな神様ですか。あなたが向きを変えて出発するだけで主は備えてくださるという約束があることを覚えてください。申命記一章十節から十一節に、

『あなたがたの神、主が、あなたがたをふやされたので、見よ、あなたがたは、きょう、空の星のように多い。どうかあなたがたの父祖の神、主が、あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。そしてあなたがたに約束されたとおり、あなたがたを祝福してくださるように』

とあります。千倍の祝福を下さるという約束です。とどまっていたらこの千倍の祝福はいただくことができません。そんな民に神様は「向きを変えて出発しなさい」と言われました。偶像礼拝をした民に向かって、失敗した民、傷を受けた民に向かって「向きを変えて出発しなさい」出て行きなさいと言われました。私たちは突然明日から路傍伝道をし、町の人々に向かって「イエス様を信じなさい」と語りなさいと言うのではありません。今日あなたが自分の神は偉大な神様であり、見たことも、聞いたことも、心に思い浮かんだこともないことをしてくださる方であることを信じて祈り始める時、出ていく時、祝福を頂けます。祈り始めてください。今までも祈っていたのならば、それ以上のことを一歩進んで神様のために始めてください。今まで集会に出ていなかったならば出てみてください。また今までこれだけの時間を祈ったと言われる方は、その祝福のためにもっと祈りに時間を費やしてください。その問題や色々なことのために、今までとどまっていたところを前進し始めてください。そうしたらこの教会に大きな祝福が溢れます。あなたがたはひとりひとりが各器官です。その期間が死んでしまったり、ストップしてしまったのならば、その体は正常に動きません。死んでしまっていたら滞ってしまい、からだは不自由になってしまいます。皆が前進し始めたなら、からだが機能し始め、成長します。人間的な成長ではなく、神様は千倍の祝福を与えてくださるとあります。今年行政区の組長や、新しい学校、新しい会社に入られる方もいるかも知れません。あなたが向きを変えて出発したなら、祝福を頂く事ができます。すぐに結果が出ない人もいるかも知れません。相変わらず大変な状況下にある方もいるかも知れません。しかしあきらめないで出発してください。ちょうど良い時、神が祝福を与えてくださいます。ヨルダン川をわたる時、ヨルダン川の水かさがありました。その時イスラエルの民は、契約の箱を持って一歩水の中に入りました。以前は紅海を渡った時は、杖をさし出した時に水が分かれました。しかしヨルダン川では一歩入った時、せき止められ、乾いた地を皆が渡ることができました。あなたが向きを変えて出発し、一歩踏み出したならば、不思議な神の大きな力で乾いた陸地を堂々と渡る事ができるのです。誰が理屈をこねてもわからないような不思議なことをしてくださる神様です。神様は、見たことも、聞いたことも、心に思い浮かんだこともないことをしてくださる方です。出発しましょう。そうすれば至るところで、「こんな不思議なことが起こされました。」「こんな神様のみ業を見ました」と至る所で神を賛美することができます。主が千倍にまで祝福して下さることを願い祈って行きたいと思います。三百人の礼拝が三十万人の礼拝です。見たことも、聞いたことも、思い浮かんだこともない、考えられないような祝福です。神は備えてくださっているのはすでに備えてくださっています。あなたが信じたらその通りになります。救われていること、愛されていることを感謝し、とどまっているのではなく、前進していくこと、あなたがとどまるのではなく「向きを変えて出発」しましょう。お祈りします。


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