恐れからの解放

2005.4.10(SUN)
新城教会 滝元 順師

新約聖書 マルコの福音書 4章35節〜5章3節
さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。

 ハレルヤ!今日は皆さんとともに、聖書から学ぶことができて感謝します。先週の日曜日には、九州の教会で奉仕させていただきました。皆さんのお祈りに支えられ、先週は「リバイバル聖書神学校」も新学期を迎え、今回は二十名の方々が入学されました。今日は、礼拝が終わってから、二十二名の方々と共にイスラエルに行きますので、ぜひ祈ってください。

 春は新しい転機の時です。教会の週報も新しくなり、春らしくなりました。また四月二十一日からは、新城教会のラジオ放送が始まります。毎週木曜日、八時十分から八時三十分まで、「FM豊橋」84.3MHzにおいて、「Shinshiro church Gospel station」という番組が始まります。ローカルな放送局なので、広範囲には入らないのですが、インターネットにて番組を流しますので、どこでも聞くことができます。今回の放送は教会側で全部作るのではなく、ラジオ局のパーソナリティーとの掛け合いで行います。大変おもしろいと思います。良いかたちで地域に福音が広がるように、ぜひお祈りください。

 今日は、「恐れからの解放」というタイトルで、皆さんとともに学びます。人間には基本的に恐れがあります。「私には全く恐れがありません」と言う人はいないと思います。もしも、恐れがなかったら危険です。例えば、毒蛇に手を出したら、かみつかれます。また、火の中に手を入れたら、火傷してしまいます。恐れは、自分を守る防御作用でもあり、神が与えたものです。

 私はイスラエルに行きますが、「大丈夫ですか?」と心配してくださいます。危ないところに入ると危険もありますが、危険な所に近づかなければ大丈夫です。世界中、どこでも同じです。そのように、基本的な恐れは、良い結果を生みます。しかし、恐れが増大し、必要以上だと幸せに生きることはできません。教会は、神が基本的に与えてくださった恐れの範囲内に止まるように、誤差を調整する場所です。恐れが少な過ぎる人は少し増やし、恐れが多すぎる人は減らし、幸せな人生を歩んでいただきたいと願います。

 先日、こんな話しを読みました。ある農家で、夜、畑に忍び込んでスイカを食べる悪い人がいるので、良い対策はないだろうかと考えたそうです。そして、最高のアイディアが生まれたそうです。それは、看板を張り出すことでした。翌日、畑に行くと、一つもスイカが盗まれていなかったそうです。看板には、「警告!この畑に青酸カリ入りのスイカ一個有り」と書いてあったそうです。その効果が出て、泥棒は恐ろしくてスイカに手を出さなかったのです。

 しかし、農夫は、看板を見て恐れました。看板には、書き加えられた言葉がありました。「今日は二個有り注意!」

 泥棒もよく考えたものだと感心しますが、私たちは、常に恐れに支配されながら生きています。

 今日お読みした箇所のテーマは、「恐れ」です。マタイ、マルコ、ルカの三福音書が取り上げています。イエス様のご生涯の中の、大きな働きの一つとして、取り上げられています。

 ある日イエス様は「ゲラサ」という地に行きました。ガリラヤ湖にティベリアという場所がありますが、その対岸にゲラサはあります。私たちは今回、ゲラサに行こうと計画しています。

 イエス様は舟に乗って、また、他の船も従えて湖を渡っていると、途中、暴風になりました。舟は水をかぶって、弟子たちは死ぬようなめに遭遇しました。しかしイエス様は、舟の中でぐっすり眠っておられました。弟子たちは恐れて、イエス様を起こしました。するとイエス様は風と波に向かい、「静まれ!」と叫ばれました。すると風と波は一瞬にして静まりました。それを見た人々は、再び、恐れました。

 やがて一行がゲラサに行くと、墓場に住んでいた悪霊に支配されていた男が飛び出てきて、ひれ伏しました。それを見た弟子たちは、またまた恐れました。なぜならば、誰にもコントロールできない男が、イエス様によって正常になったからです。その様子を見てゲラサの人たちも恐れました。

 この箇所は、人間が持っている「恐れ」について教えています。私たちも時々、恐れに支配されます。

 弟子たちは「自然災害に対しての恐れ」を持ちました。暴風という自分ではどうにもできない事態に遭遇しました。皆さんの中には、大地震に遭遇された人がいます。多分心には恐れがあると思います。そんな経験をすると、人生は変わってしまうらしいのです。少しでも揺れただけで、身構えて、揺れに全く対応できなくなってしまうそうです。

 続いて、弟子達は、イエス様が自然界を支配したことに対して恐れを抱きました。

 また、悪しき力に制せられていた男を見て恐れました。人は超自然的な力に遭遇する時に恐れます。

 日本人が拝んでいる神々は、石や木や金属です。普通に考えると、「大丈夫だろうか・・」と思うようなものばかりです。皆さんも、日々そのような場面を見ながら生活していると思います。石や木や金属を拝んでいる人に、「すいません。あなたの頭は大丈夫ですか。これはただの石や木ですよ」と言えば、「何を言っているのですか。私は正常ですよ」と怒られると思います。日本人はそれを見ても何も問題視しません。

 例えば、私の息子が川から石を拾ってきて、「僕のお父さん」と書いて「お父さん、おはようございます。お水をどうぞ」と言い始めたら、病院に連れて行きます。しかし、「僕の神様」と書いて話しかけても、何も言いません。不思議です。

 それは日本人の間に、暗黙の了解があるからです。「あれは石や木や金属だが、拝むと人間よりも強そうな存在が来る・・」と感じるからです。それは学問にも科学にもなりません。しかし、体験的に知っているのです。だから何も言わないのです。その背景に「霊体験」があります。金縛りにあった人はかなり多いと思います。そのような体験は、宗教的な領域において起こります。仏壇や石仏、寺などの関連で体験することが多いのです。

 何年か前に一人のビジネスマンが教会に訪ねて来られ、「話しを聞いてください」と言われました。そして「私の話は、ちょっと頭がおかしいと思われるかも知れませんが、聞いてくださいますか?」と言われました。

 話によると、おばあさんが亡くなって、悲しんでいたそうです。それで、おばあさんの仏壇をいつも拝んでしたそうです。しばらくすると、おばあさんを祀っている仏壇の部屋の廊下で、奇妙な音がし始めたそうです。彼は仏間で寝ていたのですが、ある晩誰かが歩く足音が聞こえたそうです。誰か一人が通り過ぎていったかと思うと、向きを変えてまた歩いてくる音がしたそうです。それが一人ではなく二人に増えたというのです。どんどん足音が増えて、六人にまで増えたそうです。そして、六つの黒い影が目の前に勢揃いしたというのです。

 またある晩、夜中に目を開けると、死んだはずのおばあさんが立っていたそうです。しかしおばあさんは普段とは様子が違い、顔におしろいを塗り、目と鼻と口だけが出ていたそうです。すると人差し指を出して、額とあごにさわって「また来るよ」っと言って去っていったそうです。それから彼はパニックして、家から出られなくなったというのです。周りも心配して、彼を病院に連れて行ったそうです。医者が「何でもお話しください・・・」と言うので全てを話したそうです。すると医者はそれを聞き、「だいぶお疲れですね。ゆっくりお休みになってください」と言って、たくさんの薬を出してくれたそうです。しかし薬を飲んでも全く効果がなかったそうです(彼が見たのは、おばあさんのふりをした悪霊です)。

 マルコの福音書を読んで分かるのは、恐れの背後に、目に見えない霊的な存在が関与していたという事実です。イエス様がゲラサに上陸した時に、誰の手にも負えない男が駆け寄ってきて、ひれ伏して迎えたのです。

 私は先々週、九州に行きました。先生方が喜んで私たちを迎えてくださいました。私は嬉しかったですが、イエス様とちょっと違うので寂しく思いました。「私から悪霊を追い出さないでください」と、行く先々で手に負えない、悪霊に支配されている人々が出迎えるようになったら、私も本物かも知れません。

 イエス様を迎えたのは、ゲラサの村長でもなく、悪霊に支配されていた男でした。彼は夜昼墓場で叫び続け、どのようにしても、彼を拘束できなかったのです。鎖や足かせでつないでもそれらを引きちぎり、どうにもならない状況でした。それは、背後に霊的な力が関わっていたからでした。

 イエス様が悪霊を追い出した時、「おまえの名前は何だ?」と聞くと、「私たちはレギオンです」と答えました。「レギオン」とは、ローマ軍の一個大隊を指す言葉でした。当時イスラエルには、ローマの軍が駐留していました。レギオンとは、約六千人からなる大隊を示す言葉でした。その男は、六千もの悪しき霊に支配されていたのです。これを読むと日本人は、「すごい。六千匹もの悪霊が体の中にぎっしり入っていたのか?!」と思います。イエス様が「悪霊よ出て行け!」と命じられると、蜂の巣から蜂が飛び出すかのように、六千匹出て行ったと考えます。

 今日の午後、「霊的戦いセミナ−」を行いますので、ぜひご参加ください。日本人の恐れの根元は、「物の中に霊が宿る」という考え方です。偶像礼拝は、物の中に霊が宿るという考え方がなければ成立しません。アメリカやヨーロッパに行くと、仏像や石仏はほとんどありません。しかし日本にはたくさんあります。なぜ、アメリカやヨーロッパの人たちは仏像を作らないかというと、考え方が違うからです。日本人には、物の中に霊が宿るという考え方が強くあります。そのために、悪霊が体の中に入っているのではないかと恐れます。もしも、一人を拘束するのに六千匹の悪霊が必要ならば、悪霊は恐ろしくありません。

 マルコの五章十節を見ると、

『そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。』

 悪霊どもは「ゲラサ」という「地方」に固執していたのです。レギオンは一人の男を恐ろしい存在に仕立て上げ、地域全体を恐れで支配していました。それが証拠に、イエス様がその男を正常に戻したのにもかかわらず、地域の人々は何と言ったのでしょう。普通ならば、自分たちを苦しめていた男が正常になったわけですから、「ありがとうございました。」とイエス様に感謝し、名誉市民にでもする程だと思います。しかしルカの福音書八章三十六節から三十七節に、

                                                    

『目撃者たちは、悪霊につかれていた人の救われた次第を、その人々に知らせた。ゲラサ地方の民衆はみな、すっかりおびえてしまい、イエスに自分たちのところから離れていただきたいと願った。そこで、イエスは舟に乗って帰られた。』

とあります。すごい奇蹟が起こったのにもかかわらず、イエス様に向かってゲラサの人々は、「この地方から出て行ってください」と頼みました。

 なぜ、このような反応が起こったのでしょうか。それには、いくつかの要因があったと思います。ゲラサの人々はこの光景をつぶさに見ていました。自分たちが一番恐れていた墓場に住んでいる男が、イエス様がゲラサに着た途端、取り乱したように走り出してイエス様の前にひれ伏して、言いなりになっている姿を見ました。彼らにとっては、イエス様はガリラヤから渡ってきた大親分とでも考えたのでしょう。それで彼らはイエス様に対してさらに恐れ、「出て行ってください」と頼んだ事でしょう。

 するとイエス様は、すごすごと帰って行かれました。解放された男はイエスさまに、「お供をさせてください」と頼みました。しかしイエス様はついてこいとは言われませんでした。「家に帰り、神がどんなに偉大なことをしてくださったのかを、告げ知らせなさい」と言いました。私だったら、地域の人々が受け入れなかったら怒ると思います。そして、「私についてきて、次の集会で証してください」と言うと思います。

 しかしイエス様は、「帰りなさい」と言われました。その男は帰っていき、民衆のただ中に入っていきました。その結果、民衆は彼が本当に正常になっているのを見ました。その時、イエス様は大親分ではなく、男の解放者であるとわかり、民衆から恐れは消えたのです。ここから分かるのは、レギオンのターゲットは、墓場に住んでいる男はさることながら「民衆」にあった事が分かります。ある意味で日本でも悪魔の策略は同じです。一つの恐ろしい存在を作り、それに人々を集約させる策略です。ゲラサ全体が恐れによって支配されていたのと同じように、日本の町にも恐れの力が働いています。もしも「何か理由は分からないけれど恐れがある」ならば、その背後に見えない力が働いているのです。イエス様を信じると、悪しき力から解放され、物の中に霊が宿るという、間違った考え方からも解放されます。

 先ほどの、霊体験をした人に、「イエス様は恐れの霊から解放してくださる、唯一のお方です。」と話し、一緒に祈りました。今、彼は恐れから解放されて、普通になって働いています。

 続いて、私たちが恐れるのは「暗闇」です。暗いところに閉じこめられて恐怖経験があるかも知れません。救いとは、そもそも「暗闇から光りへ」、「サタンの支配下から神の支配に移される」事です。この暗さとは物理的な暗さよりも、「霊的暗さ」です。

 今年九月、「全日本リバイバルミッション」では、「北関東ミッション」を開催します。今回のミッションは、栃木県の宇都宮市で行われます。そこには「日光東照宮」があります。かつて徳川家康という人物により、日本人は暗闇の下に閉じこめられ、身動きできなくなりました。徳川家康は岡崎で生まれです。彼によって日本は、二百数十年にも渡って鎖国し、外に出ることができない時期がありました。暗闇からの解放という意味において、今回の北関東のミッションは重要だと思います。今回のテーマの御言葉は、使徒の働き二十六章の十八節です。

『それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

 先週、テーマソングのレコーディングが行われました。

暗闇から 光に

闇の支配から 主イエスに

その目を開いて 十字架仰げば

すべての罪は赦される

その目を開いて 主イエスを信じて

暗闇から光に

という賛美です。

 最も大きな恐怖は、「死の恐怖」かも知れません。私も一度死にかけたことがあります。川でおぼれて死にそうになりました。死を覚悟しました。今でも水面がぎらぎらしていたのを覚えています。もう駄目だと思った時に、背中が熱くなり水面に引き出されたのを覚えています。死の恐怖は人間を一番強く支配します。ヘブル人への手紙二章十四節から十五節に、

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

とあります。死の恐怖からあなたを解放してくださるとあります。聖書には、イエス様によって死人が生き返り、病が癒されたという記述があります。しかし、その人たちもやがて死んでいきました。人間は誰でも死んでいきます。死がすべての終結だとしたら、たいへん寂しいです。しかしイエス様を信じて、「永遠のいのちが与えられる」とは、なんと素晴らしい特権でしょうか。

 聖書は私たちに、「恐れてはいけない」と直接、語りかけます。ゼパニヤ書三章十四節から十七節に、

『シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。』

 十六節に、『シオンよ。恐れるな。気力を失うな。』とあります。「シオン」というところに「自分の名前」を入れたら良いです。時々、恐れて身動きがとれない時がありますが、神は『恐れるな。気力を失うな。』と語られます。今日、もしも恐れて気力を失っている人がいたら、あなたに主が語られます。「恐れるな!」

 「恐れるな」という言葉は、「神の参戦を戦場に知らせる叫び」と注解されています。今苦しんで戦っている方に、「恐れるな!」と語られています。

 「気力を失うな」とは、直訳すると「手をだらりと下げるな」という意味です。時々、気力を失うと力が入りません。「手を上げる」とは「祈り」という意味にもつながります。祈りがなくなると、気力もなくなります。祈りから離れてはいけないのです。しかし主は、あなたに「決して気力を失わないように」と励ましておられます。続いて、

『あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ』

と叫んでおられます。主ご自身が勇士であるように、私たちも主の勇士として働くことができます。ルカ十章十七節から二十一節に、

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。』

 今日、気力を失い、恐れの中にある人がいたら、恐れから解放されて自由になってください。社会は恐れに縛られています。この恐れに縛られた社会のために、とりなし祈ることが必要です。

 私は午後からイスラエルに行きますが、一つ教えられている御言葉があります。創世記十八章十七節から二十四節です。

『主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。』

 神がソドムとゴモラという町を見て、あまりにも罪が多いので心を痛められ、町を滅ぼそうとされました。しかし神はその近くに住んでいるアブラハムという人物を知っており、「あの人に計画を知らせないわけにはいかない。」と計画を示されました。

「滝元順にわたしの計画を知らせないで、事を実行するわけにはいけない」という間柄になれたらうれしいです。アブラハムはそれ程、神と近い間柄でした。神はアブラハムに、「あの町は罪にまみれているから、滅ぼしてしまう」と告げられました。するとアブラハムは、「神様、もしソドムとゴモラに五十人の正しい人がいたら、どうですか。滅ぼしますか」と、町が滅びないようにとりなしました。すると神は「五十人いたら滅ぼさない」と言われました。ソドムとゴモラには、五十人の正しい人もいませんでした。彼はさらに食らいつき、「四十五人だったらどうですか」

 しかし四十五人見出されませんでした。四十人、三十人、二十人、十人…と神様に食らいついて、町のためにとりなし祈りました。当時、どれくらいの人口がソドムとゴモラにあったのかは分かりませんが、町には十人も正しい人がいなかったのです。死からいのちに移された者として、恐れから解放された者として、アブラハムと同じように町のために祈ることが大切です。とりなしの祈りの原点が、ソドムとゴモラにあるように思います。今回はイスラエルで、ソドムとゴモラがあったと思われる死海に行って、日本のために祈ります。日本が滅ぼされることがないように、日本が救い出されるように祈りたいと願っています。

 同時に、ソドムとゴモラに十人の正しい人がいたら、滅ぼされなかったのです。私たちクリスチャンが、十人の一人になりたいと願います。

 今日ここには、色々な町々から教会に来られていますが、皆さんが町に住んでいることは、とても重要です。あなたには、町に対する責任があります。あなたが、ソドムとゴモラの十人の一人にならなければなりません。「新城市に、これだけ正しい人がいたから、救ってあげよう」と言われるようになりたいです。アブラハムの立場として祈る者であり、同時に、町の正しい者の一人になりたいと願っています。

 悪魔も真剣になって、町を恐れで束縛し、イエス様を拒否する力として働きます。すでに報道で知っているように、京都で変な牧師が出現したことによって、近頃教会のイメージが悪くなっています。そのために、「教会は町から出て行ってください!」と言われるような力が働いています。日本教会の守りを祈らないといけないと思います。背後で悪魔が、「キリスト教は恐ろしい」というようなイメージを作ろうとしています。宗教というものは、一般的に、原点からどんどん変化します。私たちは現代の「キリスト教」という枠組みではなく、「イエス様のライフ・スタイル」そのものであるべきです。イエス様の視点そのものであることが大切です。「イエス様この町に来ないでください、恐いから…」というような、恐れの源が打ち破られるように、祈らなければならないと思います。

 そして、「私を町の正しい者の一人として、罪赦された者として、町に対する責任を果たすことが出来ますように」と祈ることが大切です。

 今日一人一人が恐れから解放され、自由になることができるように、お祈りしたいと思います。ゼパニヤ書三章十四節から、

『シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。』

 イエス様の十字架のよみがえりの力によって、主が勝利を与えてくださると信じ、恐れから解放されるように祈りましょう。また、日本からイエス様を追い出そうとして働く恐れの力が打ち破られるように、アブラハムのように、町に住む正しい者として、とりなしのポジションに立って祈りましょう。


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