豊かなクリスチャン生活

2005.4.17(SUN)
新城教会 岡本 信弘師

新約聖書 マタイの福音書6章31節〜33節
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

ハレルヤ! 皆さんの祈りに支えられ、健康であることを心から感謝します。

 さて、今日は「豊かなクリスチャン生活をするために」ということを学びます。私はクリスチャンホームに生まれなかったら、クリスチャンにはなっていなかったかも知れません。ですから、神様に救われ、永遠の命をいただき、このように奉仕する者にされて幸せな人生を送っていることを思うと、クリスチャンホームに生まれて本当に感謝です。

 順先生が書かれた『クリスチャンって最高だ!』という本がありますが、皆さんは、「クリスチャンって最高だ!」と心から言うことができるでしょうか。一度皆さんで、「クリスチャンって最高だ!」と宣言しましょうか。{「クリスチャンって最高だ!!」}

 新しい年度になり、新しい学校に入ったり就職したりと環境が変わり、不安を感じておられる方もいると思います。初めて保育園に入る子でなくても、クラスが変わったため、泣きながら行っているという子もいるそうですが・・・。どの年代の人であっても、不安と期待が入り交じる時期だと思います。

 昨年の暮れ、私の二〇〇五年に向けてのメッセージは、「小さなことであっても、神様に喜ばれる働きをする」ということでした。自己満足ではなく、誰かの評価ではなく、神様が喜ばれる働きをしましょうと、皆さんに語らせていただきました。

 新しい年を迎えるとき、また何かの節目のとき、私たちは「今年こそ、これをしよう」と決意を新たにしたり、計画を立てたりします。皆さんの中にも、今年こそ、一日三章は聖書を読もうと計画したり、恵まれたリバイバルの話を聞き、心燃やされて一日三時間祈ろうと決心した人もいるかも知れません。

 私も色々な計画をしたことがあります。学生時代には、日記をつけようと心に決め、文房具屋さんで日記帳を買ってきました。昔の日記を開いてみると、初めの数日間は毎日きれいに書いてありますが、その内、三日おき、四日おきと、だんだんと書く回数が減り、二十ページ程書いてあとは真っ白です。再決心をして書こうと思って、また新しい日記帳を買ってくる、そんなことが繰り返されて、日記帳ばかりがたまっていきました。

 私は皆さんがご存じのように何でも早いです。食べること、寝ること、トイレもお風呂も全部早いです。何でも早ければいいというわけではなく、早いということには、良い部分もあれば、悪い部分もあります。悪い部分でいうと、私には、物事に飽きることも早く、長続きしないという欠点があります。

 あるとき、本屋で『仕事ができる人の条件』という本に目がとまりました。中身を見てみると、最初に「仕事ができる人の条件は、やることが早いこと」とありました。「私のことだ!」と思い、さっそく買って読むんでみました。ところが、その後に書かれていたことは、「何でも早く行い、何でもコツコツやり続けることだ」とありました。「長続きさせる」、私には痛いところでした。そして、さらに「良い習慣を身につけることが大切だ」と書かれていました。聖書にも「小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」とありますから、一つ一つ確実に良い習慣を身につけることは大切なことだと思います。

 その本の中には、一つのことを決めて、最低三十日間我慢してそれを続けるなら、それが習慣となって身につく、と書かれていました。習慣づけることは非常に大切ですが、それが身につくまでには、なかなか大変です。また、途方もない計画を立てても続きませんし、それこそ実現に至らせることができません。

 私は今まで色々な計画を立てましたが、ほとんど挫折してきました。しかし最近、ある習慣ができました。皆さんは朝起きて、最初に何をしますか? 顔を洗う人、歯を磨く人、お祈りをする人、聖書を読む人など、色々だと思います。私は朝起きて歯を磨いてから、いつも母親のところに行きます。朝食を出してあげます。そう言うと、「お母さんに食事を作ってあげるのですか。えらいですねぇ」と感心されますが、そうではありません。毎日同じものを食べて、よく飽きないなあと思いながら、ただ、牛乳を温めて、半分に切ったパンを焼いて、バターをつけてあげるのです。

 私がそこに行くようになったのは、初めはスポーツ新聞を見るためでした。そのついでに母親の世話をしていたのですが、それが一つの習慣になりました。時々行くのが遅くなったりすると携帯に電話がかかってきます。東京に出かけているときにもかかってくるので、チョット困りますが・・・。

 母のところへ行った後、ここから車で十五分くらいのところにある公園に行き、ゆっくり歩きながらお祈りをして、八時半くらいまでに帰ってきて仕事を始めるというのが毎日のパターンになりました。初めはこの周辺を歩いて祈っていましたが、近いと、これを先にやった方が良いとか、あっ、あれをやらなければなどと色々なことを考えてしまい、集中して祈ることができなかったので、少し遠くの公園で祈ることにしました。そうすると、真剣に祈ることができるようになりました。これが一つの習慣になり、良かったと思います。

 ここにいらっしゃる誰もが、楽しく豊かなクリスチャン生活をしたいと願っておられると思いますが、クリスチャンであっても、時には落ち込んで、「もうイエス様のことがわからなくなってしまいました」と言われる方がいます。私は、落ち込みの原因が取り除かれるように、その方と一緒にお祈りしました。私も落ち込むときがたまにはあります。私がそう言ったら、「先生でも落ち込むことがあるんですか」と言われましたが、私が落ち込むといっても、たいていは二〜三時間なので、落ち込んでいる内に入らないのかも知れません。

 では、どうしたら豊かなクリスチャン人生を歩むことができるのでしょうか。

 一般的に、お金がある人は、物質的には豊かな生活をしていると思います。私も、もしたくさんお金があったら、教会の隣の土地を購入し駐車場にしたいとか、もっと大きな会堂を建てたいと考えたりします。お金は確かに魅力があります。しかし、聖書の中にこんな言葉があります。

『この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。』(第一テモテ六章十七節)

 ここにいらっしゃる方は、人間というものがたとえお金をたくさん手に入れても、決して満足できないものだ、と知っておられるでしょう。

 マタイの福音書七章二十四節から二十七節に、家を建てた二人の人のたとえがあります。

『だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」』

 一人は岩の上、一人は砂の上に建てました。岩の上は地盤が固いので、土台をつくるのに苦労し、なかなか思うように作業が進まなかったかも知れませんが、やっと建て上げました。もう一人は、砂の上に家を建てました。砂は穴を掘るのも土台をつくるのも簡単です。容易に短期間できれいな家ができたと思います。

 二つの家が完成し、あるとき雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてきたというのです。岩の上に立っている家は、台風が来て雨が打ちつけてもビクともしませんでした。しかし砂の上に建てられた家は、水かさが増えるにつれ、土台の砂が削られ、倒れてしまいました。「それはひどい倒れ方でした」と書かれています。いかに土台が大切かがわかります。

 建設中だった牧師館が、ついに完成しました。教会の付属の建物として、一階には広い倉庫が併設されています。一階が明先生ご夫妻、二階は順先生ご夫妻の住居という二世帯住宅です。良いものが出来上がりましたよ。今日は、内覧会があるようですから、ぜひご覧になってください。

 よその家を見るとき、「間取りがいいですね。きれいなキッチンですね。お風呂が広いですね」などとは言っても、床の下を見て、「しっかりしたいい土台ですね」と言う人はいないと思います。 しかし、家の土台がしっかりしているかどうかは、とても重要です。

 現代は、建物の欠陥が大きな問題になっています。何年かすると戸にすき間ができたり、ドアが開かなくなってしまったり、色々な所に亀裂が入り雨漏りがしたり、ひどい場合は、家全体が傾いたりするそうです。これも、土台がしっかりしていないことの弊害です。クリスチャン生活も同様です。

 ここに子どもたちがいますが、落書きをしていたり、話をしたり、居眠っていたりと、ほとんど話を聞いてはいないと思います。上條先生は忍耐深く子どもたちの中に座っていますが、私がピンチヒッターでそこに座ったときには、時々イライラします。もう少しジッとしていてほしい、と思います。しかし、礼拝のとき、そこに小学生が座っていることは重要です。忍耐を持って長い目で見てください。私の小さな頃は今より厳しく、おしゃべりをしていると怒られたので、人と話すことはありませんでした。でも静かにしていれば良かったので、よく眠っていたという記憶があります。それでも、信仰が守られてきたのは、教会に通い続け、居眠りしながらも御言葉を聞いてきたことのゆえだと思います。これが土台となります。ですから、彼らのことも長い目で見てください。教会をこれから担う若者たちです。

 最近、なぜこんな事が起こるのだろうかと思うような事件が多くあります。自殺、殺人、強盗。また、家庭内にも色々な問題があり、離婚率も上がっており、多くの方が悩んでいます。誰からも愛されない、誰も信じられないと感じている人が多くいます。なんとかしたいと願い、病のいやしのために病院に行ったり、問題の解決に必要な考えられる努力を自分でもします。しかし、一つの問題が解決されても、それは一時的であり、次々と問題が湧き起こり、問題解決が人間の本質的な喜びを満たすものではないことを知っています。

 また、人間には自分の努力や鍛錬では満たすことができない空間があると言われています。それは人間にしかない霊的な部分であると言われます。人は誰もが神を求め、神を信じることにより救いを得ます。ここにいらっしゃる方は、イエス様を信じ、霊的な部分に新しい油が注がれ、喜びのクリスチャン生活をしています。しかし、真の神様を知らない多くの人は、偶像礼拝をしています。神を求めていることには間違いはありませんが、間違った神を求めるので、平安がありません。

 今、雑誌には占いコーナーが必ずあります。またテレビでも、今日の運勢とか、今日の占い、といった形で、普通のニュース番組に天気予報と組み合わされて占いが放送されたりしています。何気なく見ているテレビを通して霊的な部分に入り込もうとする、悪魔の策略です。人々の不安な心を利用して、そこを足がかりに悪魔は人々の心に入ろうとします。ですから、そのことをしっかりと心得、そのような足がかりを与えないようにしなければなりません。そのような罠があることを知り、守りを祈ることが大切です。心の霊的な部分を、良いもので満たすことは、豊かなクリスチャン生活をするためにとても大切なことです。

 また巷では信仰宗教と呼ばれるものがたくさんあります。「キリスト教」と言いながら、実はカルト化しているところもたくさんあります。人々が惑わされるような時代の中で、本物を見極めて、きよい油で満たされるにはどうしたらよいでしょうか。

 エペソ書六章十二節には、こんな御言葉があります。

『私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』

 ここに一つの答えがあります。私たちが惑わされることなく、霊的な部分を満たすためには、戦いが必要です。戦いなしには勝利はありません。教会は、お互いが神の家族として愛し合う素晴らしいところです。しかし、教会から一歩外に出ると、誘惑や迫害など、台風の暴風圏の中に立つような危険にさらされます。ぼんやりしていると、倒れてしまいます。倒れないように、戦っていかなければなりません。

 しかし時々何か満たされない自分があり、自分の弱さを感じることがあると思います。なかなか前進できないのです。私たちがどこか満たされていないところがあると、そこを悪魔は進入口として攻撃をしかけてきます。第一ペテロ五章八節には、

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。』

とあり、悪魔はいつも私たちを狙っていると書かれています。すきを見せるなら、悪魔はそのすきを絶対見逃すことはありません。

 悪魔はどのように関わってくるのでしょうか。

 クリスチャンは、「私は弱い者です。何もできません」と言うことがよくあります。一見、へりくだっているようですが、そこを悪魔が逆に利用し、「おまえは弱くて何もできない」と思わせるのです。

 しかし、よみがえられたイエス様は天に帰られましたが、その代わりに聖霊様をこの地上に送ってくださいました。

 ヨハネ十四章十二節に、

『 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。』

また、

『しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』(ローマ書八章三十七節)

とあり、私たちが聖霊様と共に歩むならば、イエス様がこの地上で行った以上の業を行うことができる、圧倒的な勝利者になることができると教えています。私たちは実際に弱い者ですが、主にあって力づけられた者であることを覚えてください。

 また、悪魔にすきを与えるものの一つに、肉体的な弱さがあります。皆さんも体調を崩されることがあると思いますが、私も二月に四年ぶりに風邪を引いて、五日間寝込みました。私は風邪をひくこともあまりありませんが、今まで、風邪をひいても一日寝ればほとんど治りました。しかし、今回はなかなか治らず、何をする気にもなれませんでした。そんなときにも「クリスチャンは最高だ!」と私は言ったでしょうか。いいえ、「なんでだよ・・・」と愚痴をこぼしていた弱い者です。体が弱ると、愚痴をこぼしたり、不信仰になってしまいがちです。しかし、そんなときにも、落ち込みを入れてくる悪魔に立ち向かっていきましょう。そんな攻撃を受けることのないように、互いの健康のために祈り、体が弱ったときにも支えられる必要があります。

 また、車を運転される方は、事故に遭いそうになり、ヒヤッとしたことが一度や二度はあるかも知れません。車だけでなく、オートバイや自転車でさえ、交通事故に遭うことはあります。中には、私は大丈夫と思いる方もいらっしゃるかも知れませんが、私たちは事故やけがをしないように守られることを祈らなければなりません。神様の守りがなくては、平安な毎日を送ることは困難です。

 体調を悪くしたり、事故やけがで礼拝に来ることができなくなった方もいます。私たちは誰でも年を取れば弱ります。体調を崩すこともあります。しかし肉体的に丈夫であったら信仰が大丈夫かというとそうではありません。反対に、肉体にハンディを持っていながらも信仰が燃えている方もいます。

 北関東ミッションの宣伝のために、星野富弘さんのトラクトを使わせてもらうことになりました。あの方は、中学校の教師をしていたとき、放課後にクラブ活動の指導中、誤って落下し、頸髄を損傷し、手足の自由を奪われました。苦しみの中で真の神様に出会い、口に筆をくわえて絵と詩を書き始めました。今、その詩画集は、多くの人に感動を与えています。クリスチャンには希望があります。肉体にハンディを負っていても、弱くなっても、私たちの内面は潤され、豊かにされることができるのです。

 また、問題や心配事によっても悪魔は侵入してきます。しかし、こんな御言葉があります。

『そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。』

 ここにおられる皆さんは、明日何を食べるか、何を着るかと心配する方はほとんどいらっしゃらないと思います。食べる物がないといっても、冷蔵庫に食材があるかどうか、という程度の心配で、明日、食べる物、着る物を買えるか買えないかという心配はないでしょう。しかし、この時代において、何を食べるか、何を着るかということは、切実な問題だったと思います。そんな重要なことを、イエス様は「心配するのをやめなさい」と言われました。彼らにとっては、何を言っているんだ!という思いがあったかも知れません。

 この御言葉の続きには、こう書かれています。

『こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。』

と言われてから、

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』(マタイの福音書六章三十三節)

 皆さんは何か問題があったら、まず先に問題を排除することを考えるでしょう。しかし、御言葉は、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」とあり、明日がどうかというような重大な問題についても、神様はそんなことを心配しなくてもよい、あなたの心配やあなたの問題はすでに知っていると言われます。問題の解決より先に、神に喜ばれることをまず考え、行うなら、問題は解決し、必要なものが与えられると教えています。

 私たちは、悪魔にすきを与えないようにしなければなりません。そのために、人間的に満たすことのできない空間、霊的な部分に、油を満たす必要があります。ですから、礼拝後にお祈りするときに、肉体が守られ、健康で魂も守られて祝福され、霊的な部分が豊かに満たされるようにとお祈りします。 

 聖書には、霊的に満たされるための方法がたくさん書かれています。御言葉を聞くこと、毎日聖書を読んで御言葉を蓄え、御言葉に従って生活すること、それは、クリスチャンとしての土台を据えることであり、また、聖霊の油を満たす秘訣です。さらに、使徒の働きには『受けるより与える方が幸いです』とあります。人は、与えたら与えた分だけなくなると考えるので、この御言葉は矛盾しているように感じます。しかし、神様の法則は違います。

『あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。』(第二コリント九章十一節)

 神様は私たちを豊かに祝福してくださいます。そしてその祝福を、自分だけのものにするのではなく、それを人々に分け与えていくことを神様が望んでおられます。そうするなら、神様への感謝の気持ちが生み出され、また霊的に満たされていくのです。私たちの天の父なる神様は、無限大に持っておられる方なので、私たちが与えたことに対して、三十倍、六十倍、百倍の祝福をもって報いてくださいます。私たちがどれだけ人に分け与えたとしても、私たちが乏しくなることは決してありません。 

 また、

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』(ヨハネの福音書十二章二十四節)

『これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。』(第二ペテロ一章八節)

とあります。イエス様が全人類の罪を背負って十字架で苦しみを受けられ、刑罰を受けて死に、よみがえってくださったゆえに、私たちは今、生きた者とされています。私たちも誰かのために自分自身をささげるとき、私たちは役に立たない者ではなく、神様が豊かに恵みを与え、多くの実を結ぶ者とされるのです。

 ぜひ信仰を持って、戦っていきたいと思います。今日、その席に座りながらも、大きな重荷を負っている方もいらっしゃるかも知れません。しかし、主はすべての重荷を知っておられます。その重荷を神様にすべて委ねて、身軽になってここから帰っていただきたいと思います。いつも喜びに溢れ、多くの人に分け与え、実を結ぶ者として、「クリスチャンは最高だ!」と宣言しつつ、豊かにされ、素晴らしいクリスチャン生活を送ってまいりましょう。


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