「主に信頼せよ」

2005.4.24(SUN)
新城教会 滝元 明師

旧約聖書 詩篇 37篇3節〜6節

主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。

ハレルヤ!いつも皆さんのお祈りを感謝致します。先週、この教会からイスラエルに大勢の方が行かれていたので少し寂しかったですが、皆さんが無事帰って来られたことを心から感謝します。

 私は先週、福島で日曜日には三回メッセージを語りました。五月には「関東リバイバル聖会」があり、九月には「北関東リバイバルミッション」があるので、色々な教会を巡回しています。

 今日は、詩篇三十七篇から「主に信頼せよ」というタイトルで学びます。

詩篇三十七章三節に、

 

『主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。』

 

とあります。神様を信頼すること、神を信じ、「より頼む」ということです。私たちの人生で信頼する場所がないと寂しいです。例えば、子どもが親に信頼することは素晴らしいですが、親を信頼できないならば寂しいです。またある時には、友だちを信頼します。しかし裏切られた時は悲しいです。またある方は、お金を信頼します。しかしお金もなくなる時が来ます。また自分の健康など、色々なものに信頼します。しかし、人間の世界は信頼してもいつか崩れることがあります。

 皆さんはイエス様を信頼し、また、毎週礼拝で御言葉を取り次いでいる牧師たちを信頼してくださっていると思います。しかし先日、牧師と言われる人がセクハラをしたというニュースが報道され、牧師も信頼できなくなってしまいます。今、日本に約八千の教会がありますが、一人の牧師が罪を犯したとしても、全ての牧師がそうだと思ってはいけません。牧師は信頼される仕事ですが、すべてがそうだとも思ってはいけません。新城教会には牧師が何人もいますが、完全ではありませんが、よい牧師たちです。互いに信頼し合い、愛し合うことは大切です。

 どんな素晴らしい人であっても、いつかは亡くなる時が来ます。先週、岡本康宏兄が危なくて、今晩が山かも知れないと言われました。私は驚いて、康宏兄に会いに行き、「やっちゃん」と声をかけました。昏睡状態でした。私は彼の大好きな賛美を歌って、聖書を読み、お祈りをしました。しかしその晩、彼は持ち直しました。次の日に会いに行くと、目をぱっちりと開けていました。「やっちゃん。わかるか?」と言うと、うなずきました。「先生だよ。わかるか?」「うん!」と言っていました。いつどうなるのかは誰にもわかりません。人間はいつかは死ぬ日が来ます。互いに信頼することは大切ですが、絶対的に信頼できる場所を持つことが大切です。『主に信頼して善を行なえ』とありますが、信頼して失望させられる事がない場所を聖書は提供しています。ローマ人への手紙に、『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』とあります。彼とは「イエス様」です。イエス様に信頼したら失望することはありません。

 私は家内と結婚し、六月になると五十六年になります。そしてイエス様を信じてからは五十七年です。イエス様こそ、私の人生をかける方、信頼できる方だと信じました。今朝、祈りながら考えていました。「彼に信頼する者は失望することはない」と信じ、今まで失望せずに来ることができたことは感謝です。

 旧約聖書の中に、「主」という言葉がありますが、文語体の聖書では「エホバ」と表現されています。イスラエル民族が奴隷から解放される前、モーセがホレブの山で羊を飼っている時に神が現れて、「あなたを奴隷解放のために遣わす」と言われました。その時にモーセは質問しました。「私たちの先祖の神が、私を遣わしたと語ってもきっと人々は質問すると思います。あなたを遣わした神は何という名前か教えてください。」と聞くと、神様は「わたしはある。これがわたしの名だ」と言われました。口語訳聖書には、「あってあるもの」と訳されています。「わたしはある」ということは、永遠に存在しているということです。私たちは、「わたしはある」という存在ではなく、いつかはなくなる存在です。神様は永遠から永遠まで、ずっと変わることがありません。主を信頼することは、「わたしはある」という、永遠に変わらない神を信じることです。『イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも同じです』とあります。天と地を創られた神を信じていきましょう。

 私は何回かハワイに行きました。そこで、ハワイ在住の日本人ビジネスマンの奥さんたちの集会がありました。その教会の牧師が、クリスチャンでない奥さんたちに向かって、このように話されました。「皆さんがアメリカに来たら、アメリカでは使ってはいけない言葉があります。それは、あなたの宗教は何ですか、という問いに対して無神論者です、と答えてはいけない」と話ました。無神論とは、全くより頼む場所がなく、神なしで自分の力で生きられるという考え方です。しかしアメリカの社会では無神論者が一番軽蔑されます。だから、アメリカは共産主義が嫌いです。また、「あなたの宗教は何ですか」と聞かれる時に「家は仏教です」という答え方は駄目だと言われました。「家」ではなく「あなた」がどうであるか、ということなのです。「私はクリスチャンです。イエス様を信頼しています。」と答えたら素晴らしいです。

 また、私はヨーロッパに行ったことがあります。一九七二年に五十日程スウェーデンに行きました。フィンランド、ノルウェーにも行きました。スウェーデンは、昔は海賊の国でしたが、今は唯一の神を信じる国となりました。国旗には十字架が掲げられています。ずっとイエス様を信じることは素晴らしいです。日本人は偶像礼拝をしています。宗教でもあちらこちらを拝んでいます。しかしヨーロッパでは、絶対的な神を自分の神として信じています。主に信頼することは大切です。詩篇六十二章八節に、

 

『民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。』

 

とあります。「民よ」という所に、自分の名前を当てはめてみてください。「滝元明よ。どんなときにも、神に信頼せよ」というようにです。人生には色々な事がありますが、どんなときにも神を信頼し、苦しい時にも主を信頼して心を注ぎだして祈ってみなさいと教えています。神は私たちの避け所であり、どんな恐ろしい敵が来ても、避けどころは神であると教えています。また詩篇一一五篇十一節に、

 

『主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。』

 

とあります。イエス様こそ、あなたの信頼する方、助けであり、盾です。今日、イエス様に信頼してください。「イエス様。あなたを信頼します。愛しています」と告白してください。イエス様は、『わたしは道であり、真理であり、いのちです』と言われました。世の中の人は真理が何かわかりません。しかしイエス様は真理です。『神は実にそのひと子をお与えになったほどに、世を愛された』とありますが、父なる天の神がひとり子を世の救い主としてお与えになった程に愛されているのです。イエス様は私たちのために十字架にかかられて死なれました。それは、ひとり子なるイエス様を十字架につけるために与えてくださった、天の父なる神を信頼しなさいと言われます。神様は皆さんを愛されています。神の愛は、ひとり子なるイエス様を、この地上に送られた程に愛されています。イエス様が十字架について死なれ、苦しみを受けられて黄泉の力を打ち破ってよみがえって天に帰られ、今、父の右に座していると聖書に記されています。十字架にかかって死ぬ程に愛されています。あなたを愛している神を、今日も信頼しなさいと教えています。

 イエス様が天に帰られる時に、「わたしは天においても地においても、一切の権威を持っている」と語られました。すべての支配権をもっておられる真の神に信頼しなさいと教えています。そうしたら、あなたの人生は祝福されると教えています。詩篇三十七篇四節に、

 

『主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。』

 

とあります。クリスチャン生活、すなわち、神を信じているならば、誠実な生活をすることができます。誠実とは嘘、偽りのない生活です。「主を恐れて、主を喜びとしなさい」と教えています。「私にとって一番の喜びは主です」と喜んでいきましょう。

 「我が喜び 我がいのち」という賛美がありますが、イエス様が私たちの喜び、イエス様が私たちのいのちです。人生に色々な問題がありますが、本気でイエス様に信頼し、喜んでいたら、必ず願いを聞き遂げてくださいます。何か問題がある方は、「難しい、いつまで経っても駄目だ」と思わずに、「いかなる時にも主に信頼します」と、より頼んでください。必ず、これからの人生に勝利があります。イザヤ書五十八章十三節から十四節に、

 

『もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。」と主の御口が語られたからである。』

 

とあります。「安息日に出歩くことをやめ」とありますが、今は安息日とは言わず、「聖日」と言います。主を喜ぶことは、主の日を守ることから始まります。

 今日は日曜日です。皆さんは教会に来ることが嬉しいですか。朝起きた時に、「今日は教会に行く!」という喜びがありますか。「また行かなければならないか…」というのではなく、イエス様を礼拝する喜びがあれば素晴らしいです。六日間働き、七日目は主の安息の日であると言われたのは神です。七日目について、聖書に、『七日目は、あなたの神、主の安息である』と言われます。聖なる日とは、神様の日です。今日は日曜礼拝です。これは聖日です。もし日曜日を自分の日ではなく、主の日として礼拝したら、イエス様があなたの喜びとなります。『安息日を「喜びの日」と呼び、「はえある日」と呼び…』とあります。「はえある日」とはどういう意味でしょうか。文語体の聖書には、「楽しみの日」とあります。日曜日は「楽しみの日」です。ある方は看護士さんで、どうしても日曜日に働かなければならない方もおられると思いますが、聖日は「主の安息の日」と決めたら喜びが来るとあります。

 私は先日ある本を読みました。その中にこんな話が書かれていました。ある奥さんが熱心に教会に通っていました。ご主人はクリスチャンではないので、教会には来ませんでした。しかしある時、そのご主人がレストランを始めました。奥さんはクリスチャンなので、「日曜は礼拝に行きましょう」と言いました。しかしご主人は「行きたくない」と言いました。そこで牧師に相談をしました。するとご主人は、「日曜日にレストランをやらなくては食べていけない」と喧嘩のようになりました。そこで牧師は、「まずは、三ヶ月間教会に来ないでずっと働きなさい。そして、その後、三ヶ月間、日曜礼拝に来てみて下さい。そして収入が多い方を選んだら良いです」と勧めたそうです。それで、やってみたそうです。三ヶ月間働き、後の三ヶ月間は、イエス様が嫌いであったご主人も日曜日は休んで、一緒に教会に来ました。

 それで礼拝を守った期間と、守らない期間を比較してみました。すると日曜日に礼拝に来た三ヶ月の方が祝福されていたそうです。遊んでいて儲かるとは、こんな良いことはないと、ご主人もクリスチャンになったという話しでした。

 日曜日を「はえある日」「楽しみの日」とするならば、主は喜びの日としようとあります。

 

『そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。」』

 

とあります。東京の深川に材木問屋があります。昔、そこに川端京五郎という人がいました。彼はクリスチャンで、区会議員をされた人でもありましたが、必ず日曜日は休みました。そして彼は議員として絶対に酒を飲まず、たばこも吸わず、イエス様に従っていました。ずいぶん周りからは非難を受けました。初めはバカにされていましたが、昭和の恐慌の不景気の時に、やっぱり信用できるのは「あそこだ」と言われ、その材木屋がとても栄えました。五十年間同じのれんをかけて続けたところは三軒、四軒しかないと言われています。最近教会に来られるようになった方々は、「うまいことを言って騙されてはいけない」と思わないで下さい。私は五十七年間やって来て大丈夫だったので、大丈夫です。私が大丈夫と言うからではなく、聖書の言葉に従うのです。そうすれば、祝福されます。イエス様を喜びとしたら、『わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。』とありますので、社会的にも地位を与え、あなたを尊く用いてくださるということです。ですからイエス様を信頼してください。詩篇三十七篇五節に、

 

『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』

 

とあります。色々な計画がありますが、今日は主に委ねてください。信頼があれば委ねることができます。信頼がないと委ねることができません。聖書は神の御言葉です。誰が何と言っても神の御言葉ですので、神の御言葉に従うならば、必ず祝福されます。心配せずに委ねてみてください。ネヘミヤ書に、

 

『主を喜ぶことはあなたがたの力です』とあります。私は文語体の聖書を持っています。文語体では、

 

『而して彼らに言いけるは、汝ら去りて

肥えたる者を食ひ 甘き者を飲め

而してその備えをなし得ざる者に

之を分ちおくれ 此日は彼らの主の聖日なり

汝ら憂ふることをせざれ

エホバを喜ぶ事は汝の力なるぞかしと』

 

とあります。日曜日には美味しい物を食べなさい。そして貧乏な人には分けて与えてあげなさい。そしてこの日は主の日です。主の日を尊びなさいと教えています。また教会に来たら礼拝中に悩み事を考えていてはいけません。心配事があっても、心配事をやめなさいというのです。聖書に「一日の苦労は、その日一日に十分あります。明日は明日が心配します。」と書かれています。心配事もすべて任せなさいと教えています。そして『エホバを喜ぶ事は汝の力なるぞかしと』とありますが、神様を喜ぶことがあなたの力になりますと教えています。イエス様を喜んでいきましょう。詩篇三十七篇五節に、

 

『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』

 

 神様は絶対に裏切ることはありません。人には失望しますが、神様にはどんなに悪いことがあっても主に信頼することです。

 私は三年間鉱山の土方をやっていました。「八つ橋マンガン」という鉱山で、もう少しで木馬の下敷きになり、死にそうになった経験があります。あとから私は、「山に向かって目を上げる」という賛美歌を歌いながら、助けられたことを喜びました。鉱山をしている時代に、とても貧乏なところを通りました。東京の集会に行ったとき、「私は将来どうなるだろうか・・」と思っていました。先がわかりませんでした。その時に賛美歌を歌いました。その賛美歌を賛美する中で確信を持ちました。それは賛美歌四百九十四番です

1)我が行く道 いついかに

なるべきかは つゆ知らねど

主はみこころ なしたまわん

*備えたもう 主の道を

 踏みてゆかん ひとすじ

2)心たけく たゆまざれ

人は代わり 世は移れど

主はみこころ なしたまわん

3)荒海をも うち開き
すなはらにも マナを降らせ
主はみこころ なしたまわん

この賛美を涙しながら歌いました。「私の道はどんなになるのかわからないが、すべてイエス様にお任せしよう」と思いました。このように導かれるとは、想像していませんでしたが、主は一番良いことをしてくださいました。今、心配事のある方は委ねてください。小細工をせずに、主を喜びとしてください。聖日を守って主を喜んでください。そして、主を信頼してください。そうしたら、主はあなたの望みに答えてくださいます。十字架にかかって、私たちの罪のために死なれた程に愛されている神がおられます。この方に信頼しましょう。「今日から私は主に信頼します。私の道を主に委ねます。今日から私は主を喜びとします!」とお祈りしましょう。事業のこと、家族のこと、経済的なこと、病気のことなど、色々問題がありますが、主に信頼しましょう。


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