「幸せに生きる」

2005.5.1(SUN)
新城教会 滝元 順師

新約聖書 マタイの福音書 5章1節〜10節
この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
  悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
  柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから
  義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
  あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
  心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
  平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
  義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」

 ハレルヤ!今日は久しぶりに新城教会で奉仕できることを心から感謝します。私は四月十日の礼拝後、八日間イスラエルに行き、その後すぐに北海道に行きましたので、新城教会の礼拝には出ることができませんでした。その間に新しい牧師館が完成して、乞食が王様になったような気分です。素晴らしい牧師館を作って下さったことを感謝します。佐野兄が設計に携わって下さいました。現在、中庭を整備中ですが、鈴木剛兄がやって下さっています。次回、礼拝に来られたら、中庭で楽しむことができると思います。
 人生は一度しかありません。誰でも幸せに生きることを願っています。今日はマタイの福音書五章の、イエス様が語られた山上の説教から、「幸せに生きる」という主題で学びます。
 『心の貧しい者は幸いです』とあります。『幸い』とは「幸せ」という意味ですから、ここから「幸せに生きるための秘訣」について学べます。
 先週は大変痛ましい列車事故がありました。日本全体が心を痛め、また、世界にも悲しみが発信されました。いつ何時、何が起こるのかわかりません。神の守りを祈らずして生活はできないと思います。神にある守りを真剣に祈らなければなりません。これから電車に乗る時には、一、二両目には乗らない方が良いと思います。しかしそうなると、飯田線は一〜二両しかないので、どこに乗りましょうかという事になりますが・・。
 私の知っている方が毎朝、福知山線で通っていたそうです。それも今回事故を起こした時間帯の電車の二両目に毎日乗っていたそうです。しかし事故の朝は教会で集会があり、教会の方から、「どうしてもその集会に行って欲しい」と言われたので集会に行き、いつもの電車に乗らなかったので事故を免れたそうです。瞬間的に神の守りの手が差しのばされなければ、安全に幸せに生きる事はできません。神は私たちに、実際的な助けの御手を差しのばして下さるお方です。また、私たちは、神の言葉から幸せに生きる秘訣を学ぶ事ができます。
 マタイ五章の山の上の説教は、イエス様がガリラヤ湖畔の丘で語られた説教です。いつかイスラエルに行かれると良いと思います。先々週、二十二名の方々が私とともにイスラエルに行きました。その方々は、この場所の光景が目に浮かぶと思います。マタイ五章一節に、

『この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。』

とあります。日本的に解釈すると、険しく高い山に登ったというイメージがありますが、ガリラヤ湖畔は、なだらかな丘のような所です。昔は音響システムのようなものはなかったので、イエス様は丘の下の方から丘の斜面にいる群衆に向かって話されたのではないかと言われています。

『「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。』

 ここでは『幸いです』という言葉が八回に渡って使われています。ガリラヤ湖畔の丘に行くと、山上の説教を記念して八角形の教会が建っています。ここで語られている言葉は、イエス様が、神の国の価値観を弟子たちに教えられたところです。
 私たちは多様化した価値観の中に生きています。何を基準に生きるべきか、なかなか難しい時代です。昔は高かった品物が安くなったり、昔は重大であった事柄が現代では問題視されなくなったりと、めまぐるしく価値が変わる時代に生きています。何を基準に生きていけばよいのかわからない時代ですが、そんな中にあっても、聖書が提示する神の国の価値観によって生きるならば、間違いはありません。
 人間は根底に据えられている価値観によって行動をとります。山上の説教はマタイの五章から七章まで続きます。ぜひ、すべてお読み下さい。「あなたがたは幸せです」と語られている言葉は、一般的に持っている基準と照らし合わせると、それはあまり幸せではないものもあります。しかし神が提供されている価値基準は、世の中が変わっても変わらない真理ですので、重要です。
 そもそも第一にイエス様は、『心の貧しい人は幸い』と言われました。どうでしょうか?一般的に心の貧しい者は幸せでしょうか。現代は、心の豊かさを求める時代です。一般的には、「心が豊かな人は幸いです」と考えるのではないでしょうか。いくらお金があっても、健康であっても、心が豊かでなければ満ち足りた人生を送ることはできません。しかしイエス様は、『心の貧しい者は幸いです』と語られました。
 ある意味で教会に来られるようになった背景は、何らかの心に貧しさを感じて来られた方が多いのではないでしょうか。そして真理なるイエス様に出会ったと思います。心の貧しさは、本当の幸せにつながるのです。
 また、『悲しむ者は幸いです』と記されています。普通は、悲しい時に幸せとは言いません。悲しい時に誰かから慰めてもらうと心癒されます。しかし人間の慰めにも限度があります。本当の慰めは神から来るのです。ゆえに、『悲しむ者は幸い』なのです。もしも今、悲しみの中にある方は、神からの真の慰めを受けることができると知って下さい。
 五章十節に、

『義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。』

 キリスト教の歴史は、迫害の歴史です。迫害を受けながら信仰を守り通してきた歴史があります。聖書は、迫害されている者が幸せだと教えています。この日本で信仰を持ち続けることはある意味、大変なところもあります。最近も何件か相談を受けました。それは、「今年組長になったけれど、偶像の札を配らなければならない」とか、神社の掃除や祭りなどがあって大変だと言われます。「どうしたら良いでしょうか」と相談されるので、総代さんの所に行き、自分がクリスチャンであることを伝え、「それらは出来ない」とはっきり伝えるようにと勧めます。ある人は、「それをやめたらこの地域には住めないよ」と脅されたそうです。しかし今はそのように脅したら法律に違反します。信教の自由が保証されていますから、私たちは何を信じても良く、宗教行事に参加しなくても良いのです。イエス様は、迫害を恐れてはいけないと教えています。

『義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。』

 神の国は、ある意味で迫害の中に現されます。中国は未だに共産党の支配で教会は困難を強いられています。中国には政府公認の「三自愛教会」があります。中国は表向きには、「私たちは教会を迫害してはいません。教会もありますよ」と言っていますが、実はそれは政府によってコントロールされている教会なのです。主に対する本当の信仰を告白し、神の国の価値観に従いたいと願うならば、政府公認の教会では育ちません。そのような中、一説によると一億人以上の人々が地下教会に属していると言われます。それは別に地下にあるわけではなく、秘密に礼拝を守っている人々です。日本では、何もとがめられる事なく礼拝できることは恵みです。中国では、礼拝を守る事により、逮捕されたり、迫害を受けることがあります。しかしそんな中、すごい奇跡が起こり教会は前進し続けています。キリスト教の歴史を見ると、迫害の中で神の国が現され、宣教が前進した歴史があります。時々私たちも異教の風習の中で、迫害があるかも知れませんが、心を強くして前進しなければなりません。今日、「あなたがたは幸いです」と語られたイエス様の言葉に耳を傾け、心に留めていきましょう。
 さてマタイの七章には、山上の説教の結論が語られています。十二節から、『狭い門から入りなさい。』『実によって見分けなさい。』『偽預言者に注意しなさい』と語られています。そして、最終的に、『岩の上に家を建てる』というたとえ話をイエス様は語られました。山上の説教は、私たちがどのような価値観の上に人生を築き上げるかについての教えでもあります。見かけは同じように見えても、基礎が違うことにより、最終結論が変わってしまう事があるのです。
 マタイの二十章二十五節から二十七節に、

『そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。』

 一般的に「偉い人」とは、どのような人でしょうか。偉い人とは、仕える人々が回りに多くおり、何をしなくても全てが整えられるような人の事だと思います。しかしイエス様は、「偉くなりたいと思ったら、みなに仕える人になりなさい」と語られました。
 最近のニュースで、キリスト教界の中におかしな教会が出て、世間を騒がせました。日本に八千程の教会がありますが、一人の牧師がセクハラをすると、全ての牧師がそうではないかと疑われます。ある人は「十字架を掲げて、同じような教えをしている。教会も気を付けなくては・・」と言うかも知れません。しかし、ある意味で、山の上の説教は、見かけは同じ宗教のようで、教えはあまり変わらないように見えても、悪い価値観や動機付けの基礎があると、マタイ七章で結論として述べられているように、「実が悪い」、「偽預言者」となるのです。だから常に狭い門から入り、自分がどのような価値観に立っているのかを点検し、見極めるようにと勧めているのです。
 教会のもっとも大切なものは、目に見える会堂やプログラムではなく、教会がどのような価値観の土台に立っているかです。それはクリスチャン生活においても同様です。この世の価値ではなく、神の国の価値観に立っているかどうかがもっとも大切です。それが幸せに生きるための秘訣でもあります。
 そもそも今回の事件は、金容疑者が人々を支配し、皆から仕えられ、あたかも自分が神かのように振る舞っていたところに問題がありました。これは聖書的価値観に反するものです。聖書は、「偉くなりたいと思ったら、皆に仕える者になりなさい」と教えています。世の中と同じような価値観で教会が成り立っているならば、良い実は結ばれないのです。
 実は五年程前に私は、「聖神中央教会」に関わって被害を受けた人の解放に携わったことがありました。その教会は土台となっている価値観があまりにも悪いので、危険性を感じていました。
 牧師が自分が偉くなりたい、皆に仕えてもらいたいと願うなら、それは教会ではなくなります。結ばれる実は悪いものとなり、偽預言者にもなりかねないのです。行きつく先は、砂の上に建てられた家となり、風が吹いたら倒れてしまうのです。私たちは、イエス様という岩の上に、常に基礎を置くことが大切です。
 使徒の働き二十章三十四節から三十五節に、

『あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」』

とあります。これはパウロが語った言葉です。パウロは現実的にイエス様に出会ったことはないのではないかと思われます。ダマスコ途上でよみがえりの主に出会ったことは記されていますが、イエス様と顔を合わせて会ったことはないのではないかと思われます。しかしこのパウロが、大きな働きをしました。彼が用いられた秘訣は、基礎としていた価値観・動機付けが主の前に正しかったために用いられたのだと思います。彼は人生の土台として二つの土台がありました。その一は、

『あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと』

とあります。パウロはいつも「弱い者を助ける」という心構えで主の前に生きていました。日本でも、「弱い者を助けましょう」というような運動があります。しかし日本は、教育の中で進化論を教えています。「弱い者を助けましょう・・」と言いながら、一方では進化論において「自然淘汰」を教えています。進化論では弱い種族は自然淘汰によって消え、強い種族だけが生き残ったという理論ですから、本当の意味で弱い者を助けるという心が育ちません。聖書は、仮に目の前に弱く見えるような存在があっても、それは決して本質的に弱いわけではないと教えています。人間は皆、神によって創られているので、その人にしかできない重要な仕事と目的があるのです。しかし、人はすべてを一人でカバーしているわけではなく、誰かの助けが必要です。他の人によって個人の真価が引き出されるのです。聖書に「キリストの体の各器官」という言葉がありますが、各器官は互いに他の器官を助け合いながら成り立ち、真価を発揮するのです。
 今、岡本康宏兄が病気で入院されています。彼は「ダウン症」という。重い障害を持って生まれました。けれども彼はイエス様を信じて、毎日曜日にここに来られていました。彼は弱く見えますが、実は、彼の存在は大きいのです。彼が岡本家に生まれたことにより、最初、お母さんがイエス様を信じ、やがて家族全員がイエス様を信じました。康宏君によってお母さんの心が貧しくなり、悲しみをもって教会に来られましたが、イエス様と出会っていやされたのです。そして今度は、同じような境遇にある方々を慰める側になり、弱い者を助ける人生を歩まれています。ですから、弱さはある意味、敵ではありません。誰かの助けによって神のみこころが現されます。ですから私たちはパウロと同じように、「このようにして弱い者を助ける」という土台を心に据えるべきです。
 もう一つ、パウロが常に考えていたことは、

『主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。』

 山上の説教には『受けるより与える方が幸いである』という言葉は含まれていませんが、イエス様がどこかで語られたようです。そしてパウロが一番印象に残ったイエス様の言葉が、『受けるよりも与える方が幸い』という言葉でした。これは一般の価値観から言うと、まったく逆だと思います。一般的には、お金も儲けた方が幸せですし、誰かにプレゼントをあげるより、もらった方が幸せです。一般的に、私たちは受けるために人生を歩んでいるのかも知れません。しかし人生は与える側に回る時、幸せになると教えています。時々私たちの周りに助けを必要としている人が現れる事があります。「助けなければならない・・」とは思いますが、その人を助けると結果的に負担となるかも知れません。しかしパウロと同じ与える視点で、イエス様がもっておられた神の国の価値観で人々に仕える時、「幸せになる」と教えています。
 私は先週の金曜日から五日間、北海道で奉仕しました。先週北海道では雪が降っていて寒かったです。日本は狭いようで広いです。今回、なぜ北海道に行ったかというと、沖縄の教会から招かれて北海道に行きました。それは、この教会にも来てくださった沖縄ベテル教会のエミルダ・ミランダ先生が私を招いて下さったからです。彼女は八才の時に神様から日本に行くようにと語られ、日本に行く日を待ちこがれていました。そしてやがて沖縄に宣教師として来られた方です。
 なぜ沖縄に住む彼女が北海道に重荷を持ったのでしょうか。それはある時、北海道の牧師が沖縄の教会に立ち寄られたからです。それは数人しか集まっていない北海道の小さな教会の牧師夫妻であったそうです。彼らから北海道での働きを聞いて、何とか力になりたいと願ったそうです。それで、自分の教会のメンバーを連れて自費で北海道に行き、小さな教会の兄弟姉妹を励ます働きをされていたそうです。しかし教会が祝福されるためには、霊的戦いが必要であることに気づき、私を招くように計画をされたのです。今回彼女は、北海道でメッセージをするわけでもなく、一緒に集会に出てとりなし祈って下さいました。私は、エミ先生が犠牲を払って北海道のために働かれているのを見て感動しました。沖縄の教会が北海道のために働いても、一般的には何の徳にもならないと思いますが、一生懸命犠牲を払っている姿に感動し、心から感謝しました。
 彼女が北海道で働きを始めたことにより、色々な領域に働きが拡大しました。普通では私と交わりがない教会でも、今回は集会を持つことができました。そして先週の月曜日には、北海道の先生方とともにとりなしの祈りに行く事が出来ました。
 北海道を語るには、「アイヌ民族」について忘れる事ができません。日本人は単一民族のように思っている人が多いですが、実は、色々な民族による混血なのです。日本列島に最初に入ってきたのは「縄文人」と呼ばれる人々でした。そしてその末裔がアイヌの方々です。最近、日本政府はアイヌ民族の尊厳を回復するための法律をやっと成立させました。今回私たちは、倭人と言われる本土人とアイヌ民族の最後の戦いの地にとりなしの祈りに出向きました。その地に立った時、私はたいへん嬉しく思いました。なぜならそこには一つの理由があったからです。
 三年程前私は、北海道の家庭的な教会に招かれました。少人数の前で話しをするのは、難しいものです。なぜなら全員の表情が見えるからです。私はその教会に連続して招かれ、話すことも無くなってしまいました。それで他の先生をその教会に紹介したことがありました。しかしその先生の都合が悪く、私が再び行くことになりました。そのために祈っていると、「行くからには、真剣に祈って出向くように」と語られたように感じました。それで一日前に北海道に行き、とりなしの祈りをしてから、集会に行く事にしました。それで北海道の地図を広げ、祈りながら調べている中で、北海道のある町に行って祈るようにという強い印象を受けました。それが倭人とアイヌの最後の戦いの地でした。私は一日前に北海道入りし、集会のためにいろいろな場所をとりなしてから、小さな教会に行きました。それは数人の集会でした。その中にまだクリスチャンではない男性が奥さんに連れてこられていました。彼はあまり聞く気がないような態度で、集会に出席されていました。そんな中、私は一言、「今回、私はこの集会に来る前にある町に行って祈るようにと示されたので、そこまで行って来ました。」と語りました。するとその男性が顔を上げました。そして真剣に話しを聞き出しました。なぜならば、その方は広い北海道の中で、私が前日にとりなしに行った小さな町の出身者であったからです。彼はその後、本気で福音を聞き、イエス様を信じ救われたのです。今では奥さんとともに熱心に教会に通っておられます。あの時に、聖霊の声を聞いて、そこまで行って祈って良かったと思いました。
 それから三年後の今回、沖縄、北海道の牧師たちとともに、同じ場所に立って祈ることが出来たのです。
 時々この世の価値観に従うなら、行動がとれないような場合があるかもしれません。しかしそんな中に神の国の鍵があるように思います。イエス様が教えてくださった価値観とともに、クリスチャン生活を送りましょう。

 最後にもう一度、マタイの五章三節から十節をお読みしたいと思います。この御言葉を心に据えましょう。

『「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。』

 続いてマタイ二十章二十五節から二十七節に、

『そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。』

 使徒二十章三十五節に、

『このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」』


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