主の導きの中を

2005.5.8(SUN)
新城教会 上條 実師

エジプト記十三章二十一節〜二十二節
『主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。』

ハレルヤ!今日皆さんの前でお話しができます事を心から感謝致します。今日は母の日です。お母さん方に心から感謝する日です。私は今朝早く起き、外を歩きながら母親のためにお祈りしました。母の健康のために、また良き奉仕ができるように祈りました。また私と家内の母親の所にお花を贈りました。いつも私たちのために祈り、助け、支えてくれている事を心から感謝しています。私は牧師の家庭に生まれながら、一番親不孝をしたと思っています。高校時代「自宅謹慎」になり、両親を悲しませ、特に母親と校長室で長い説教を受けたことを思い出します。でも今はこんな者でも救われ、牧師としてここに立つことができることを感謝しています。特に祈り支えてくれた母親に心から感謝しています。皆さんも是非母の日、お母さんのために祈り、感謝をあらわしてみてください。また今週の土曜日は滝元堅志兄と福島右子姉の結婚式です。大勢の方が来られることになっていますのでぜひ、祝福されるようお祈り下さい。その結婚式のためにアメリカからジョー・ハイト師とそのほか六名の方が来られます。また、沖縄からはエミルダ先生ご夫妻をはじめ六名の方が来られます。その他多くの方が遠くから近くからかけつけてくださいます。来られる道が守られるよう加えてお祈り下されば幸いです。さて皆さんは新城教会が毎週木曜日の夜FM豊橋から放送している「ゴスペルステーション」という番組を聞いて頂けたでしょうか。この間の放送では子ども賛美の「イエス様を信じれば」という賛美を流すと言っていました。ストレートな曲なので大丈夫かなと思いながら祈っていました。やはり放送を聞いてみると、ラジオ局側がストレートすぎるのでやめて欲しいと言われたそうで、変更させられていました。変わりに「向きを変えて出発」という曲がかけられていました。私は「向きを変えて出発明日に向かってゴー … 」と聞いた時に、自分の心の中にもう一曲の歌が思い出されてきました。それは「明日がある」という歌でした。賛美ではなく数年前にリバイバル曲でヒットした曲です。コーヒーの CM で流れていました。初めは、一九六三年に飛行機事故で亡くなった坂本九が歌っていた曲でした。歌詞をみると、今の中高生や青年にはわからない気持ちかも知れませんが「いつもの駅でいつも会う セーラー服のお下げの髪 … もう来る頃 もう来る頃 今日も待ちぼうけ … 」と淡い恋心を歌った、古き良い時代を思わせる歌です。なぜこんな歌を思い出したのかというと、「明日に向かってゴー」とクリスチャンはイエスキリストが自分の救い主だから、確信持って歌えるなぁと考えていた時、昔インターネットで先ほど紹介した「明日がある」という曲について調べたことを思い出したのです。その時に読んだ評論家の記事を忘れることができません。なぜこんな四十年前の曲が、今若者達に受け入れられているのかという記事の中で、これはシンプルな曲名とメロディーが若者にも理解しやすいと言うことでした。その中に三つの理由がありました。第一は若者ばかりではなく、四十代、五十代の大人も明日に希望が持てないでいるからだとありました。第二は、今現在の日本人が共有するキーワードは「不安」である。そして第三は、若者は将来どうにかなるだろうという期待。四十代、五十代は何となく希望の持てた若い頃のこの歌をオーバーラップさせているということが書かれていました。「明日に向かってゴー」という子どもの賛美は、神の前に明日があるから進んでいこうという前進的、肯定的賛美です。しかし今私たちはこの世の中で何に向かって進むべきかわからない時代です。「明日がある」と歌っていますが、今の日本人の共有するキーワードは「不安」その通りだと思いました。今私たちは、「明日がある」と言って準備してもその準備が無駄になってしまうような「不安」だらけの毎日なのです。四月二十五日、尼崎で電車の脱線事故がありました。学校に行くため、会社に行くため、旅行、

遠足などどこかに向かって行く目的をもってあの電車に乗りました。しかしその目的は果たされず事故にあい、百数名の方々は帰らない人になってしまい、多くの方が怪我をするという大惨事になってしまいました。突然計画していた事がストップしてしまいました。明日があると思っていても、自分でいくら綿密に計画していても、私たちは何時ストップするのか全くわからないのです。また本日の新聞報道によると、昨日の朝、長野県の中野村と言う所を豊橋市の方が運転している時九十キロもの岩が突然落ちてきて、運転手の胸に当たり大静脈が切れ、出血多量で死んでしまいましたと書いてありました。テレビでも事故現場が映し出されていましたが、この新城市にでもあるような田舎の山道でした。偶然落石し、何とタイミングが悪く運転手の真上に落ちて来たのです。防護ネットが張られていましたが、その上からちょうど車が来た時に落ち、死亡してしてしまったのです。それまでは隣に乗っている方と楽しく会話をしていたかも知れません。目的地に急いでいたかも知れません。しかしその人は事故現場から前には進む事ができませんでした。命を考える事もできない所で失ってしまいました。また去年は異常気象で台風がたくさん日本に上陸しました。そして多くの被害があり、多くの人が死亡したり、怪我をしたり、家や車等大切なものを失ってしまいました。また大地震がありしました。新潟の中越でも、地震が起こりそうにないと言われていた福岡でも地震がありました。その地震で多くの方が命を落とし、被害に遭われました。また狂牛病、鶏インフルエンザなど、昨年だけでも数多くの出来事が起こりました。私たちは生きているとされていますが、実は生かされており、明日と言うより今、何が起こるかわからないのです。そんな中で私たちクリスチャンは「明日に向かってゴー」と堂々と喜んで賛美することができます。出エジプト記十三章二十一節から二十二節は、有名な出エジプトのところです。四三〇年間ずっと奴隷になっていた民がやっとの事でエジプトを脱出するいことができました。そして荒野を四十年間さまよいカナンの地に入ることができましたがその旅路の前に何が立っていたのでしょうか。出エジプト記十三章二十一節から二十二節に、

『主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。』

とあります。なにもない荒野の中で神様はイスラエルを先導する雲の柱と火の柱という不思議な導き手を用意して下さいました。雲の柱と火の柱が行く所を導いたのです。今の時代もどのように進んでいくべきかわからない。大きな決断をしなければならないという時もあります。どちらに進むべきか迷うことがあります。神様は、昼は雲の柱、夜は火の柱で導かれました。私たちも雲の柱、火の柱で行くべき道を、主の速度で導いていただきたいと思います。聖書には、「きのうもきょうも、いつまでも同じです」と書かれています。ですから、出エジプトの時に働いた神様は、今日この場所におられる神様と同じです。目には見えませんが、今日あなたの前に雲の柱、火の柱を立ててくださっていることを覚えてください。昨晩お祈りした時に、私に火の柱を見せてください。雲の柱を見せてくださいと祈りましたが、実際には何も見えませんでした。自分の生活の中に雲の柱、火の柱が実際に見えたら、何と良いだろうと思います。どこに就職をしたら良いか、だれと結婚したらよいか。全て神の思いがわかるわけですから、どんなに楽であるとかと思います。

 私たちはイエス様の十字架によって救われました。十字架は私たちクリスチャンのすべてです。マタイ一章二十三節に、

『「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)』

とあります。インマヌエルとは神は私たちとともにおられるというのです。神様はいつもともににいて下さる神様です。マタイ二十八章二十節に、

『また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」』

とあります。あなたが意識しても意識しないでも「主はいつまでも世の終わりまであなたがたとともにおられる」と言ってくださっています。神様はいつも私たちと共にいて下さると言う事を知って頂きたいと思います。イスラエルの民は荒野を旅しました。その荒野は砂漠地帯であり、昼間はとても暑くなります。そして夜は気温が下がります。そんな荒野地帯をイスラエルの民を神様は導いたのですが、別に雲や火の柱ではなくても良かったのではと思います。神様が旗とか杖で導いても良かったと思います。なぜ雲の柱だったのでしょうか?それは私的解釈ですが、砂漠地帯の灼熱の太陽下で、雲の柱で導いたら、日をさえぎり、日陰になると思います。イスラエルの民を灼熱の太陽から守って導かれたと思います。また夜は火の柱とあります。夜になると気温がグッと下がります。火には熱があります。火の柱が暖かくします。また夜は真っ暗闇で、真っ暗の所を通ることは恐ろしい事です。それを照らすためにも、神が火の柱を立ててくださったと思います。また暗闇の中に、獣が獲物を探し回っています。しかし火の柱があれば、獣は近づいて来ません。同じように、インマヌエルの神であり、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいますと言ってくださる神様が、熱い時には日陰の中を楽に歩むことができ、暗闇から光に変えてくだり、寒さから守られて暖かくなり、獣のような敵である、悪霊から守って下さることというのです。神様は至れり尽くせりの神様です。出エジプト記十四章十九節から二十節には、

『ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間にはいった。それは真暗な雲であったので、夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった。』

とあります。雲の柱は「前進する」「先導する」だけではなく、敵が侵入することができないように、追いつかないように守ってくださる雲の柱、火の柱であったことを覚えて下さい。また出エジプト記十四章二十三節から二十四節に、

『エジプト人は追いかけて来て、パロの馬も戦車も騎兵も、みな彼らのあとから海の中にはいって行った。朝の見張りのころ、主は火と雲の柱のうちからエジプトの陣営を見おろし、エジプトの陣営をかき乱された。』

とあります。火と雲が一緒に出てきて、エジプトが紅海から追ってきた時、守りと同時に共に戦ってくだると書かれています。また出エジプト記三十三章九節から十節に、

『モーセが天幕にはいると、雲の柱が降りて来て、天幕の入口に立った。主はモーセと語られた。民は、みな、天幕の入口に雲の柱が立つのを見た。民はみな立って、おのおの自分の天幕の入口で伏し拝んだ。』

とあります。戦ったり守って下さる神であることと同時に、ご臨在の神様として天幕の入り口に立って下さる神です。今日の礼拝にも主の臨在があることを覚えて下さい。

「二、三人わたしの名によって集まる時に、わたしもそこにいる」と言われる神が今ここにいて下さることを信じましょう。インマヌエル、神様があなたと一緒におられることを信じましょう。主はいつもまでもあなたとともにいると言われます。すばらしい祝福、すばらしいお方です。では私たちはどのようにしたら今現在雲の柱、火の柱を見る事ができるでしょうか?実際には見えないかも知れませんが、霊の目でどうやって見る事ができるでしょうか?

 それは第一番目に聖書を読むことです。ヨハネ一章一節に、「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とあります。私たちはどのように進むべきかわからない時、御言葉に解決があります。聖書の全てがイエス様です。また私たちの人生のマニュアルです。聖書を読む事、行う事で雲の柱、火の柱を見る事ができます。毎日聖書の御言葉を読みましょう。

 またもう一つは祈りです。聖書の中に「絶えず祈りなさい」と書かれています。祈りのなかで主が動いてくださいます。祈りで道が開かれ、祈りで主のみこころの道に導いて下さいます。祈りは問題解決の鍵です。あなたもしっかりと聖書を読み、祈ってください。毎日どれくらい聖書を読まれますか。またどれくらいお祈りされていますか。祈らなくても聖書を読まなくても時間は過ぎていきます。忙しくて自分の仕事ばかりしていると昨日は目の前にあった雲の柱が、とんでもない位置にあるかも知れません。毎日聖書を読み、祈っていく時に主が正しくあなたを導いて下さることを知って下さい。

また出エジプト記四十章三十四節から三十五節に、

『そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。』

幕屋に満ちていたとあります。幕屋は礼拝する場所です。今日この会堂に雲の柱、火の柱があります。主が御臨在して下さっています。目に見えませんが、今ここにいて下さいます。働いていて下さいます。

 またこの礼拝で語られるみことばによって雲の柱、火の柱が見えます。牧師が語るみことばを通して、私たちに道を示して下さいます。また賛美、祈り、献金、など色々な中で、主の方向に導いて下さることを覚えて下さい。

またもう一つのことは賛美です。詩篇二十二章三節に、

『けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。』                

また詩篇七十一編八節に、

『私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています。』

先日五月三日から四日にかけて、この教会を会場として二十四時間連鎖賛美の集会がありました。多くの方が集まられました。賛美をしている時に、私たちは罪を犯すことがありません。賛美の中に神様が住まわれ、神様に満たされることができます。賛美の中で主の道を進むことができます。ぜひ今週一週間多くの賛美をささげてみて下さい。いつも賛美の中で神様が道を示してくださり、賛美の中で縄目が解かれ、賛美の中で霊的勝利を頂く事ができます。主がともにいて下さいます。ですから私たちは賛美をしていきましょう。

 またもう一つは主にある兄弟姉妹の交わりです。兄姉と交わる大切さを知って頂きたいのです。この教会は一週間の中でたくさんの家庭集会があります。礼拝だけではなかなか交わる事のできない方がいらっしゃいます。週の中日に家庭集会で集まることは意味があります。マタイの十八章二十節に、

『ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。』

とあります。主の前に集まると主がそこにおられます。主がおられると言うことはそこで道を修正して下さり、主が助けて下さり、主が答えてくださることを覚えてください。またヘブル十章二十五節に、

『ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。』

とあります。世の終わりが近づいてきます。その時にこそ、一緒に集まることをやめないで聖徒同志で励まし合いなさいと言うのです。私たちはどのように伝道していくべきかを悩みます。私たちは交わりを通して体験談を証ししあうことができます。兄姉と交わり、悩みも問題もともに祈ることができ、アドバイスを受けたり、したりする事ができます。また電話でも一緒に祈ることができます。聖徒の交わりは非常に大切なものです。ぜひあなたも都合をつけて、礼拝だけではなく家庭集会に出席してみてください。今日の週報に午後からの集会内容が書かれています。新入生・新社会人祝福祈祷会とあります。新しい環境にある方のために祈るという時です。しかしそれだけではありません。お互いのために課題を出し合って祈り合う時もあります。兄弟姉妹との交わりの中で楽しいプログラムを持ちながら、祈る時にそこで私たちは神様からの素晴らしい指針をいただくことができます。自分一人ではどうしようかと悩んでしまう問題も、交わりの中で答えを下さいます。互いが証しし合い、互いに祈り合う時に、主が解決してくださいます。家族は何でも言いあうことができます。私たちは神の家族です。互いに何でも言い合い、その為に祈ってください。また祈ってもらえるという祝福はどんなに大きな励ましでしょうか。「受けるよりも与える方が幸いです」とありますが、祈りあうことができることは素晴らしい祝福です。交わりの中で雲の柱、火の柱を見ることができます。

私たちは雲の柱、火の柱に従って行かなくてはなりません。イスラエルの民は、昼間だけではなく、夜も歩かされた時もありました。また一日、二日と止まって時はイスラエルの民もずっとそこに止まりました。私たちはこの神の導きを全面的に信頼することが大切です。私たちはつい焦ってしまい、早くこのことを解決して欲しいと思います。しかし今日心から「あなたに全信頼を置きます。主よ私を導いてください」と祈りたいと思います。人間的な思いを全部止めて聖霊の働きをしっかりと見つめて進んでいきたいと思います。今日私たちは雲の柱、火の柱が見えずに自分はどうしたら良いかと迷っているかも知れません。今日もう一度、聖書を読み、祈り、交わり、賛美する中で神様からの指針を求めて進みたいと思います。出エジプトの時に神様が雲の柱、火の柱を与えて下さいました。しかしその雲の柱と火の柱が与えられる前に過ぎ越しがなされました。子羊はほふられ、イスラエルの民の家の門と鴨居に血が塗られました。血が塗られた家を主は見のがしました。しかし塗られていないところは長子が殺されました。イエス様に従っていくというのは誰もにありますが、その前に私たちはもう一度十字架の血潮を仰ぎましょう。十字架を覚えましょう。今日私の罪、私が過去犯した、また未来犯すであろうすべての罪のためにイエス・キリストが十字架にかかって下さいました。そして私が当然行かなければならない滅びに身代わりとなって行ってくださり、三日目によみがえって下さいました。その神があなたの心をノックして下さいます。「わたしがあなたの心に入り、あなたとともに食事をし、あなたの心を支配したい」と神が語ってくださっています。今日「イエス様、あなたの十字架を信じます。あなたを愛します。あなたに従います。あなたが待てと言ったら待ちます。あなたが行けと言ったら、大変な時にも従います。私に雲の柱、火の柱を見せてください。どのように進めば良いですか」と主の前に十字架を覚えて祈っていきたいと思います。お祈りします。

主よ悪魔の力から守られていつも守りの中に生きることができるように、祈っていきたいと思います。


[バックナンバー]