「見よ。わたしは新しい事をする。」

2005.5.29(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

旧約聖書 イザヤ書  43 章 18 節〜 21 節
先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。

 ハレルヤ!おはようございます。久しぶりに、新城教会でメッセージを取り次ぐことができ感謝します。私にとってこの一ヶ月は怒濤のような日々でした。息子の結婚式があったり、ジョー先生が来られたり、また色々な場所での奉仕があったりと大変忙しい中にありましたが、皆さんのお祈りに支えられ、守られたことを心から感謝します。これから御言葉を学びます。

『見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。』

 今日のみ言葉は一人一人にとって、主から語られる、預言的なメッセージとなるように期待してます。また、新城教会にとってもそうなることを期待しています。この御言葉は「ざわめき」の賛美にもなっています。

見よ わたしは新しい事をする

今もう それが起ころうとしている

荒野に道を 荒れ地に川を

荒野に水が 川のように

この地のすべての人々が 主の御名をあがめる

この地のすべての人々が 主の栄誉を宣べ伝える

 神様は私たちに、常に新しいものを用意されています。しかし聖書の中には「この世には新しいものは何もない」という言葉もあります。世の中にあるものは、ある意味で新しいものは何もないかもしれません。「新しい」と言われるものでも、古いものが復興して流行するというようなサイクルの中にあります。けれども神様は創造者なので、無から有を生み出す事が出来るお方です。そして神は常に、私たちに新しいものを用意してくださっています。天地創造はすでに完成していますが、神の私たちに対する創造のわざは、今もなお継続中です。私たちの人生の中に、常に新しい事を行ってくださるお方です。第一コリント二章九節に、

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

 イエス・キリストを信じる人生に起こってくるのは、『目が見たことのない、耳が聞いたことのない、心に浮かんだことのない』事柄です。人間は過去の経験を通して、将来を予測して生きています。しかし主を愛するものには、「見たことも、聞いたことも、思いに浮かんだこともないこと」を用意されています。ですから、日曜日に教会に来たら、ぜひ、神の偉大な力に期待して一週間を過ごしてください。クリスチャン生活とは、聖書に記されている事柄を信仰によって受け取ることです。神が新しい事を行ってくださると信じて生きるのです。

 けれども、新しいことに対する評価は、長い時間をかけて、やがて気づくものでもあります。後になってから、「主は新しい事をしてくださった」とわかるのです。クリスチャンになって、ある人は長く、ある人は短いかもしれません。感謝な事に、昨日はバプテスマが行われました。きれいな中庭ができてからの第一号バプテスマでした。主は信仰の長さに関係なく、新しいものを用意されています。しかし同時に、クリスチャン生活は、「振り返ると奇跡が見える」というものでもあります。

 私も少し年をとったせいかもしれませんが、人生を振り返るようになりました。振り返ってみると、私の中にも、この教会の中にも、主が素晴らしい事をしてくださった事に気づかされます。私たちは長く、この場所で礼拝を守っています。この場所に最初に教会が建てられたのは、今から四十七〜四十八年も前の事です。私の弟、開が生まれた年にこの場所に会堂が建ちました。この場所は昔は桑畑でした。当時、私は小学生でしたが、会堂建築のために、みんなで桑の根株を抜く作業を手伝いました。手に血まめを作りながら、真剣に桑の根を抜いたのを覚えています。それで会堂が建った時はとても嬉しかったです。赤い屋根の小さな教会がこの場に建ち、一同たいへん感動しました。

 しかし当時、新城教会が今のように導かれるとは、誰も予想しませんでした。そのころ教会に来られていた人々は、ほんの十数名でした。今日はここで三百名以上の方々と共に礼拝を守っています。こんなに多くなるとは、夢にも思いませんでした。振り返ると、神の奇跡がわかります。

 教会の成長は、ある意味で、所属教会のクリスチャンの人生に重なっていると言えます。それは目に見えない世界の勝利が、見える世界の勝利につながるからです。たとえば、ある人が教会に来て、やがてその教会が弱くなって消えそうになったならば、教会は敗北していることになります。しかし教会が神の祝福の中で導かれ、拡充していくならば、それは見えない領域における勝利が見える領域に投影されている結果でもあるのです。ということは、教会とは、建物や施設ではなく人そのものですから、目に見える教会の推移は、教会に属する兄弟姉妹の人生にも対応するのです。

 新城教会が荒れ地の桑畑を開墾することから始まり、ここまで導かれた経緯は、新城教会に属する皆さんの人生そのものにも対応していると信じます。

 さて、この場所に最初に建てられた赤い屋根の小さな会堂は、しばらくすると狭くなり増築されました。この中には古い会堂、増築された教会を知っている人はあまり多くはおられません。かつてこの場所にそんな光景がありました。


「新城教会 旧会堂」

 しかし特に新城教会が変えられたのは、一九九二年の事でした。それは祈っている中に聖霊様が訪れて下さったからです。それは青年たちが真剣に祈り始めた時から始まりました。当時私も青年でした。夏の暑い最中、「ハートフル・サパー」という集会を計画しました。その時青年たちは、真剣に祈って神からのビジョンをいただきました。それは、「ハートフル・サパーに一二〇〇人を動員しよう」という計画でした。はじめ私はそれを聞いて、「そんなことは無理ではないか」と思いました。しかし、神にとって不可能はないから、「まずは祈ろう」ということで青年たちが真剣に祈り始めました。会場として予定されていた豊川河川敷に毎晩集まり、五月から六十日間連続で祈るように導かれました。この戦いは血肉の戦いではなく、霊的戦いであるということが教えられ、戦いの祈りも始まりました。その結果、ハートフルサパーは祝福され、一二〇〇人以上が集まりました。


「ハートフル・サパー」

 あの集会は、ある意味、新城教会に対する未来の一つの預言的な集会ではなかったかと感じています。青年たちは川岸に新城教会を作りました。水辺の教会に多くの人が集まっている光景は、新城教会の将来の姿を現す、預言的なものであったと信じます。

 その後私たちは、「甲子園ミッション」へと導かれました。甲子園球場は六万人収容可能な大きな会場です。そこで全国的なリバイバル集会を計画しました。神がハートフル・サパーで現された栄光を見て、私たちは強い信仰が与えられました。「甲子園での集会も必ずできる」と信じました。ハートフル・サパーに、祈りと霊的戦いによって神が勝利を与えてくださった事を通して励まされ、「全日本リバイバル甲子園ミッション」に挑戦したのです。それは一九九三年十一月に行われました。甲子園球場のど真ん中に、大きな十字架の舞台を作りました。それは天が開かれた祝福された集会となりました。振り返ると、それらがすべて神の計画の中で導かれたことがわかります。


「甲子園リバイバルミッション」

 このように、クリスチャン生活は、後になって「新しいことが起こっていた」と知ることができます。時々、「神様は本当に新しいことをしてくださるのだろうか・・」と疑いを持つときがあります。しかし後になって振り返ると、主が新しいことをして下さっていたとわかります。

 甲子園ミッションは素晴らしい集会でした。このような集会がふつうにできるような日本になると良いと思います。これが将来、日本に起こるリバイバルの預言的現れであったと信じます。

 このように、新城市に「新城教会」が設立されて五十数年になりますが、神がすばらしい事を成してくださいました。一九八〇年に現在の会堂が建ち、その後一九九二年に教育館が建ち、二〇〇四年度には神学校と牧師館、そして、中庭まで完成しました。北側から始まった工事は南側道路まで達し、敷地内にこれ以上建物を建てることはできません。犬小屋一つも建てられないほどです。これもある意味、見えない世界との関わりがあると思います。それは神が北側から働きを始められ、霊的働きの一つが完成されたことを意味しているのかもしれません。

 教会に神が現してくださった新しいこと、それは、皆さんの人生にも対応するものであると信じます。初めは小さな事から始まるかもしれませんが、見たことも、聞いたことも、思いに浮かんだこともないような事柄が起こされ、やがて神が完成してくださると信じましょう。

 神がなされる新しい事は、振り返るときに知ることができます。しかし同時に、神がなされる新しいことは、イザヤ書四十三章十九節から二十一節に、

『見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。』

とあります。この御言葉は、イスラエルに行くとよく理解できます。荒れ地に川が出現するという表現は、日本ではわかり難いところがあります。なぜなら、日本の川は常に流れているからです。

 イスラエルには「荒野」と呼ばれる砂漠地帯があり、そこは乾燥して岩と砂地で、ほとんど水がない地域です。「こんなところに放り出されたら、どうなってしまうのだろうか・・」と思います。そんな中でもベドウィンと呼ばれる遊牧民たちが生活しています。また、野の獣たちも生活しています。水もないようなところで、どうして生活できるのだろうかと思います。しかし、そんな荒野に突然川が出現する事があるのです。けれども荒野には、全くと言っていいほど雨が降りません。

 イスラエルの地形は、エルサレムは標高七百、八百メートルの高地で、四十キロ南下すると死海に達します。死海は地中海よりもマイナス四百メートルです。したがって、死海とエルサレムでは、高低差が千二百メートル程あります。地中海から風が吹き、湿った空気が押し寄せてきても、ほとんどエルサレムの山地で水分は落ちてしまいます。そのため、雨が降るのはエルサレム付近です。後は水分が抜けた空気がエルサレムを超えて死海方面に吹くので、エルサレムよりも下の地形は乾いた荒れ地になるのです。しかし、エルサレムの山々で降った雨は谷に沿って南に流れ下り、荒野に突然鉄砲水のように吹き出すのです。昔、イスラエルに行ったときに、その現象が目の前で起こり、死海沿岸の道路が流され渡れなかったことがありました。雨が降るはずのない晴天に、突如として荒野に川が出現するのです。しかしその水によって、遊牧民や獣たちは生きることができるのです。

 それは、神の新しい業のきっかけが「瞬間的なもの」であることをも意味しています。瞬間的に神は新しいことをなされるのです。「こんな晴天の日に水が出るわけがない」「こんなに乾ききっているではないか … 」と言うときに、突如として、鉄砲水が出現するイスラエルの荒野と同じように、私たちの人生にも神は突如として新しいことを行われるのです。

 神は人生に「神の時」を設けておられます。私たちは、ただ歴史を振り返るだけではなく、常に、瞬間的な神の時に対応できるよう準備しなければならないのです。

 新しい事が起きるきっかけは「瞬間的」です。神の瞬間的な時を見逃さないようにと教えています。

 教会の誕生は、ペンテコステの日に起こりました。教会の誕生について、使徒の働き二章一節から四節に、

『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』

と記されています。教会の誕生も瞬間的な出来事でした。人々が祈っていたときに、突然、響きが起こり、聖霊の訪れがありました。そして、神のわざが始まりました。それは私たちにも置き換えることができます。ルカの福音書十七章二十節から二十四節に、

『さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。』 

とあります。今のこの世界は混沌としています。「これからどうなるのだろうか・・」と不安に思います。いくら人間が努力しても、どうにもならない時代にあります。このままの延長線を予測するならば、大変な時代になってしまうでしょう。しかしそんな中、ある日突然、神がわざを成されるます。それは人間の歴史に対して、神自ら、「もうここで終わり … 」と終止符を打つ日が来るからです。「再び主が帰って来られる」再臨の日が来ます。それはいつかわかりませんが、必ず、その日は近い将来か、または遠い将来のある日に起こります。私たちはある意味で、主が来られる日を待ち望む毎日であるべきです。今日主が帰って来られても良いように、常に準備する事が大切です。いつでも主の前に立つことができるよう、自分自身を点検しなければなりません。主を信じる者は、御国に引き上げられますが、そうでない者は地上に残されてしまうと記されています。私たちは主がいつ帰ってこられても、主と出会うことができるよう準備が必要です。「もしも今日、イエス様がお帰りになったならば、私を忘れないでください」と、常に、主の前に謙虚でありたいと願います。これがイエス様が語られた御言葉の究極的な意味です。「神の国の現れ」とは、やがて主が帰って来られる日を意味します。

 しかし同時に、神の国の現れとは、人生のただ中に現される「神の時」をも意味します。主が帰って来られる再臨と同じように、突如として神の時が人生のただ中に現されるのを逃してはいけないのです。神が人生に新しいことを成されるのは、ちょうどいなずまが東から西に光るのと同じ、「瞬間的なもの」であると教えています。だから、私たちは神の新しい働きの現れに対して、常に準備しなければならないのです。今週も神はあなたに、神の国の現れを計画されているはずです。それを逃してはいけません。それは瞬間的なことかも知れません。けれども、それを捕まえると、新しいことが起こります。やがて振り返ってみると、「あの日の一コマは、本当に神の時であった」とわかる日が来るのです。毎日の何気ない行動の中に、神の深い計画と現れがあることを意識すべきです。

 一週間前にはジョー先生一行が新城に来られました。私とジョー先生とは親友です。国を超えて、お互い素晴らしい主にある仲間となりました。先生と親友になったのは、一般的には、偶然が偶然を呼んだようなことが起こったからでした。

 一九八六年に、教会の「教育館」をどうやって建てるべきかを考えていました。しかし建物よりも、その中身のほうが大切だということを感じて、教会のシステムを研究しなければならないと考えました。それで、キリスト教先進国のアメリカ、ロサンゼルスに研修に行くことにしました。しかし出発を直前にして、大きな妨害がありました。ある人から、「アメリカには絶対に行くな!」と強く止められました。けれども私たちは反対を押し切って、あえてアメリカに出発して行きました。ロサンゼルスに行った帰りに、ハワイに立ち寄りました。ホノルルの教会を少し見学してから、ビーチで楽んで帰りの飛行機に乗りました。私は白いパンツに青いアロハ・シャツ、サングラスをかけていました。飛行機の中で寝ようかと思いましたが、なぜかその日は聖書を取り出して読んでいました。普通飛行機に乗ると、聖書は十分、二十分で読めなくなってしまうのですが、その日に限って、二時間近く読んでいました。

 すると、斜め後ろの席の白髪のおばさんから、「もしもし、あなたはクリスチャンですか?」と声を掛けられました。私は「ハイ、そうです。あなたは?」と話しました。その人は「綾子・ビラップス」という、日系のアメリカ人女性でした。彼女は、「私は日本に短期宣教師として行くところだ」と言われました。私は「それは尊い働きですね。」と言って、社交辞令で、「もしもお時間がありましたら、新城教会にお立ち寄りください」と名刺を渡しました。まさか来るとは思っていませんでしたが、一ヶ月ぐらいたってから電話がありました。「もしもし、飛行機の中で出会ったものですが、そちらに立ち寄っても良いですか?」

 それから、綾子先生との交わりが始まりました。しばらくすると、彼女から手紙が届きました。「私は今までハワイに住んでいましたが、今度、ワシントン州のタコマという町に移ることになりました。」

 私は少しがっかりしました。なぜならばハワイに遊びの拠点が出来て楽しみにしていたのが、ワシントン州に移ってしまったからです。

 彼女はタコマに引っ越してから、どの教会に行くべきかわからず祈っていたそうです。アメリカは日本に比べて教会がたくさんあります。彼女は祈りながら、付近の教会を一軒ずつ回ったそうです。いくつか祈りながら回る中で、あまり大きくない古い教会がありました。その教会に行ったとき、主が、「あなたは、ここで腰を据えて礼拝しなさい」と語られたそうです。

 そして、偶然に入ったその教会の副牧師が、「ジョー先生」でした。それがきっかけで、私たちとその教会との交流が始まりました。やがてジョー先生はヤキマに移り、その中で色々と苦しんでいるときに日本に来て、一緒に県民の森へ祈りに行きました。その時、聖霊様がジョー先生に触れ、国を超えて霊的戦いの勇士とされ、戦う教会となりました。

 後から聞いた話ですが、綾子先生が私と会う前日、祈っていたときに主がこのように語られたそうです。「あなたは明日飛行機の中で一人の男性と出会います。この出会いは、大きな意味があるので真剣に祈りなさい」

 するとアメリカ本土の病院から電話があったそうです。それは、「あなたの息子が危篤なので、すぐに帰ってきてください」

 綾子先生は、当時ハワイに住んでおり、息子さんはアメリカの本土に住んでいました。本土に住む息子が病気で危篤状態になったというのです。主が、「明日、飛行機に乗ると一人の男性に出会います。それは重要な出会いだ」と語られている一方、息子が危篤状態になってアメリカ本土に帰るようにと、病院から電話があったのです。

 あなたなら、そのような状況の中、どちらを選びますか?いくら、神から語られていたとしても、息子が死にそうならば息子のところに行くのが普通です。しかしそんな中でも彼女は真剣に神を求めたそうです。

 「神様、どうしたらいいのですか。」

 その時、再び主が語られたそうです。

 「あなたの息子の命はわたしが預かるから、心配せずに日本に行きなさい」

それで、日本に旅立つことを決心し、緊張しながら飛行機に乗ったそうです。どんなに素晴らしい神の器が機内にいるのだろうか・・と思って、緊張して搭乗したそうです。彼女は祈りながら、周りを見回したそうですが、そんな風貌な人はどこにもいなかったのです。変な人が斜め前に座っていました。それは、白いパンツ、アロハ・シャツサングラスをしている日本人男性でした。初めは不審に思っていたそうですが、「人はうわべを見るが、神は心を見られる」・・その男性は、週刊誌を取り出すかと思いきや、なんと、聖書を取り出したのです。男性は一時間、二時間と真剣に聖書を読んでいるではないですか。それでもまだ信じられず、続けて祈っていたそうです。

 「主よ。あなたが語られたのはこの人の事なのでしょうか。私には信じられません。」すると、しばらくすると主が、「そうだ」と語られ、それで綾子先生は私に話しかけて来られたそうです。それはとても不思議なことですが、本当に起こったことです。

 悪魔は、神の時を妨害しようと働きます。私たちがアメリカに行こうとしたときに、「絶対に行くな!」という反対がありました。もしもその時にくじけてアメリカに行かなければ、今日はなかったのです。また、綾子先生が飛行機に乗ろうとしたとき、息子さんが危険にさらされていました。そんな戦いもあったのですが、神は時を守ってくださいました。その結果、多くの人が神の時をつかみました。色々な条件が重なり、新しいことが起きました。綾子先生が新城教会に来なければ、一九九二年の聖霊の訪れもなかったかもしれません。今では新城教会とジョー先生、そして「ヤキマ・バレーフェローシップ」とは、切っても切れないすばらしい霊的関係にあります。それは神の奇跡の業であり、新しい事が起こった結果です。

 それらが起こっている最中には、将来何が起こるのか全くわかりません。しかしそれが新しいことでした。ある意味、神の時が訪れは、そのようなのかも知れません。神の時は神々しく現れるものではなく、生活のただ中に普段着のままで、神は時を備えておられるのです。ですから、常に私たちは注意深く見守り、神の時を捕まえなければなりません。

 マタイの福音書二十五章一節から十三節に、

『そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。』

 ここから教えられることは、「その日、その時を私たちは知らない」という事です。ただ時に対応ができたのは、「五人の賢い娘」であり、「油を持っていた人たち」でした。どれが神の時であり、神の日であるかはわかりませんが、油を携えているのならば対応できると教えています。油とは「聖霊の注ぎ」です。常に、私たちが聖霊に満たされ、聖霊様の支配の中にあるならば、その日、その時を知らなくても対応できると教えています。

 今日私たちはもう一度聖霊に満たされ、愚かな娘ではなく、賢い娘のように油をいただきましょう。日頃の生活は何気なく見えるかも知れませんが、それは将来、偉大な働きをなす、神の時に対応するのです。お祈りします。


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