暗闇から光に

2005.6.12(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 使徒の働き 26 章 17 節〜 18 節
わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。

 ハレルヤ!おはようございます。久しぶりに御言葉を取り次ぐことができることを感謝します。

 今日は、ブラジルから刀川篤先生と、テレサ先生が来会されています。神様は不思議なお方です。先生は十四歳の時にブラジル移民として渡り、ブラジルの奥地に行かれました。色々なことがあって、苦労されたそうですが、最終的にサンパウロ付近に出たそうです。するとそこで日系人伝道をされていた牧師と出会い、その教会に忠実に出席されるようになったそうです。

 やがて、その教会で女の子が救われました。その子が現在、新城教会に来られている田中イレーネ姉です。イレーネ姉が新城教会に来られるようになり、私たちも先生と知り合うことになりました。二年前に私はブラジルで先生にお会いしました。先生の教会でも奉仕をさせていただきました。けれども、先生の教会に行くと、「プレイズ出版」の箱が置いてあって驚きました。

(篤先生の挨拶)

「ハレルヤ!」と皆さんとともに賛美できることを心から感謝致します。世界中どこでも、言葉が通用することはなんと素晴らしいことでしょうか。アメリカ周りで日本にきましたが、待ち時間言葉が通じなくて苦労しました。スペイン語が通じるので何とか用事を足すことができましたが、このように新城教会とお付き合いできることを感謝しています。私は知らないでこの教会が発行しているトラクトを使わせていただいていました。先生が来られたことによってそれがわかりました。神様の導きは素晴らしいです。私たちが全く知らないようなところから、神が御手をさしのべられ、このように知り合うことができたことを、心から感謝いたします。皆さんと礼拝を守ることができる一時を感謝します。主に栄光をお返しします。

(テレサ先生の挨拶)

 日本語で証ができないことを残念に思います。日本語で心の中からお伝えすることができないので、ブラジル語で話させていただきます。日本でこのように日本語でイエス様が称えられていることを知り、皆さんとお交わりできることを特権に思います。主の臨在がどこにでも現されており、特に、この教会で神の臨在を感じることができることを、心から感謝しています。主の御名がこのようにあがめられ、どこにおいても心からたたえる所に、主の臨在が現されていることを知ることができ、交わることができる特権を心から感謝しています。主の御名をあがめ、栄光を帰します(ここまでが挨拶)。

 主の働きは世界中共通です。奥様は日本には全く興味がなかったそうです。しかし新城教会に主が訪れてくださり、聖霊が注がれたことを聞き、日本にぜひ行ってみたいと興味を持ち、今回来てくださいました。

 一九九二年に新城教会に聖霊様が訪れてくださいました。その時、私たちも、教会も変えられました。それから主が教会に一つのしるしを与えてくださいました。聖霊が注がれたときに、地域のとりなしと霊的戦いが開かれました。それが始まったきっかけは、中高生集会「レッツ・プレイズ」でした。それまで中高生の集会を開催しても、クリスチャン以外の学生は数人しか来ませんでした。どんなに興味深いプログラムをしても、新しい人々はあまり来ませんでした。

 しかし主がこのように示してくださいました。それは、「集会前に学校や地域を巡って、背後に働く暗闇の力を打ち砕きなさい。チラシ配布をするときには、子どもたちの心が開かれるように祈ってから配布するように」

 今まで打つ手がなかったので、試しにそのように祈ってから集会を行ってみました。「今回も数人かなあ・・」と思っていましたが、集会が始まると、なんと中高生が続々集まってきて八十名ほどになりました。「これは偶然に違いない・・」と思いました。それでもう一度、同じ方法でやってみました。すると、また同じように多くの中高生たちが集まりました。

 以来、この十数年間、中高生の集い「レッツ・プレイズ」には、中高生が絶えたことがありません。先週の金曜日には、その集会がありました。事前にクリスチャンの中高生たちが主が教えてくださったとおりに、地域や学校に出て行って真剣に祈って備えました。この教会の中高生会のメンバーは、二十五名でシャイな子(?)ばかりです。彼らが祈って友達を誘いました。なんと今回は、「二百十一名」も集まりました。中高生たちが続々集まって、一緒に祈り、主を賛美しました。「もう帰って下さい」と言うまで、みんな帰りませんでした。主が働いてくださいました。これは、霊的戦いの勝利と、リバイバルへの一つの印だと思います。一九九二年から、ずっと主が働き続けてくださっています。ブラジルに行くと、リバイバルが起こっており、どこに行っても人が多く集まります。「レッツ・プレイズ」は、日本においても、やがてそのような日が来ると、主が預言的に現してくださっている集まりであると信じます。主の御名をたたえます。

 今日お読みした「使徒の働き二十六章」の御言葉は、不思議な言葉です。なぜならば、イエス様が十字架にかかられ、よみがえられ、天に帰られたはずなのに、再び地上に語られた言葉だからです。これはサウロ(後のパウロ)に語られた言葉ですが、「救い」について語られた言葉でした。短い言葉の中に、救いの全容が示されています。

『わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

 「救い」とは、何でしょうか。ここには、人間が救い出されなければならない環境について記されています。それは、「サタンの支配から解き放たれる」ことであると告げています。

 時々、「神がおられるならば、なぜ、こんなに不幸なのだろう」と言います。その理由は、「この地上は悪魔の支配下にある」からです。人間は悪魔の支配下で苦しんでいます。すると、「なぜ、神は悪魔・悪霊などを創造したのか・・」とも言われます。そこには深い理由があります。悪魔・悪霊どもは元々、神に仕える天使たちでした。人間は神に創られた作品であるのにもかかわらず、たいへん自由度が高い生物です。神を信じる事も出来るし、信じなくても行動できます。その選択はその人に任されています。

 同様に、神の前に仕える天使たちには、更なる高い自由度が与えられていたのかも知れません。天使たちは、神に自主的に仕えていました。しかしその一部が、ある時、神に謀反を起こしました。そのため彼らは神の怒りにふれ、地に落とされたと聖書に記録されています。イザヤ書十四章十二節から十七節に、

『暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。あなたを見る者は、あなたを見つめ、あなたを見きわめる。『この者が、地を震わせ、王国を震え上がらせ、世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった者なのか。』

 この箇所は悪魔・悪霊について記録されている箇所であると思われます。かつては神に仕える天使であった者たちが、神のようになりたいと願ったのです。

あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう』

 その結果として、彼らは地に落とされてしまいました。これがいつ起こったのでしょうか?それは、人間が創造される以前に起こったのです。「地に落とされた」と記されていますので、この地球と何らかの関連性があると思われます。サタンとその手下たちは、地球に閉じこめられたのでしょう。そして私たちも、悪魔とその一味が閉じこめられた地に住んでいます。そして、人類がサタンの手に渡っているゆえに、私たちは、いつも様々な問題の中で苦しんでいるのです。しかしやがて、人類がその事実をはっきりと知る日が来ます。十六節から十七節に、

『あなたを見る者は、あなたを見つめ、あなたを見きわめる。『この者が、地を震わせ、王国を震え上がらせ、世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった者なのか。』

 身の回りに多くの悲惨な事件を見ますが、それらは偶然が重なって起こっているのではないのです。人々は「仕方がない・・・」と思います。しかし全人類が気づく日が来るのです。ここでは「あなたを見る者は」と訳されてますが、新共同訳聖書では、「おまえ」と訳されています。こちらの訳の方が適切だと思います。「おまえを見る者は、おまえを見つめ、おまえを見きわめる。この者が、地を震わせ、王国を震え上がらせ、世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった者なのか。」

 「世界をひどい目を遭わせていたのは、おまえだったのか!!!」と気づく日が来ます。やがて世界の歴史は神によって終止符が打たれます。その日、全世界の人々がこの事実に気づくのです。しかしそれでは遅いのです。クリスチャンとは、終わりの日ではなく、先にその事実に気づいた者たちです。そしてサタンの支配から解放されるのが「救い」だと教えています。人がサタンの支配から解き放たれ、神の支配に移されることにより、その結果、罪が赦され御国を受け継ぐのです。イエス・キリストを信じる者は、サタンの支配下ではなく、神の支配下に移され、永遠の国に生きることができます。コロサイ一章十三節から十四節に、

『神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。』

とあります。生まれながらの人間は、暗闇の圧制下にありました。しかしイエス様によって、御子のご支配に移されたというのです。今日、イエス様を信じているならば、御子のご支配の中にあり、天国に行くことができます。

 教会に来ると、家族以上のお付き合いになります。なぜならば、永遠をともに過ごす仲間として、集っているからです。隣におられる人は、あなたにとって永遠の仲間です。

 しかし、イエス様を信じなければ、暗闇の支配にあります。一般的に、「あなたは悪魔の支配にあります」と言っても、全く気づいてはいません。たとえば、町に出て行き、「あなたはサタンの支配にありますよ!」と言ったとしても、「あなたは何を言っているのですか。頭がおかしくないですか。」と言われるかも知れません。しかし支配とは、支配されているのに気づかないのが本当の支配です。それが最も強力な支配であると言うことができます。

 ここにおられる方は、日本人が多いです。日本人であれば、こうしている間にも日本国政府の支配を受けています。「今朝起きたら、日本国政府の支配が強くて頭が痛かった」と言われる人はいないと思います。日本国政府の支配を受けていても、何んの気にもならず、毎日、自分の思いどおりに生きています。しかし日本人が「日本国政府の支配を受けている」と気づく瞬間があります。それが、日本から出るときです。海外に行く時、その国の国民である証明書、パスポートを持っていなければ出国できず、相手の国にも入ることはできません。その瞬間、「私は日本の支配を受けていた」とはっきりわかります。

 同様に、死んで国から出るときに、自分がどの国に属していたかが、はっきりわかるのです。私たち人間は、「一度死ぬことと、死後、さばきを受けることが定まっている」と聖書に記されています。それは厳粛な言葉です。今日ここに三百名以上の方が集まっています。しかし確実に言えることは、百年後、ここに戻ることができたら、誰一人としてここには存在していないのです。百年後、建物はまだあるかも知れません。「すみません。百年前に三百人以上の人々が集まって、この場で礼拝していたのを知っていますか?」と聞くと、「知らない」と言われるでしょう。調べてみると、皆んな亡くなっているでしょう。

 人生はどんなに努力したとしても、手をこまねいていても、同じように死んでいきます。ある人は正しい生活をし、ある人は悪いことをしても見つからずに死んでいきます。死ですべて終わりだとしたら、そんな不公平なことはありません。神がおられたら、すべてについて裁かれるはずです。「裁き」とは、罰というよりも「その人の評価」です。その人がどのような人生を歩んだのかという、神の評価があるのです。

 死後、どのようなことがあるのでしょうか。海外旅行に行くと、出国の列に並びます。きっと、あんな感じではないかと思います。そこでは出国審査があります。列に並ぶと、別に悪いことはしていなくても、どきどきしながら係官にパスポートを差し出します。係官はニコリともせず、写真とその人の顔を上目遣いに確認して、問題がなければスタンプを押します。そこを通過しなければ、絶対に外に出ることはできません。

 死んだときも同じかも知れません。何らかの書類を持たされて、神の係官の前に並ぶのだと思います。その時に気づきます。「世界では一度に多くの人が死ぬものだ・・」そこには、世界中から自分と同刻に死んだ人たちが神の係官の前に進み出ている事でしょう。手には何らかの書類を持って、列につきます。係官の前に出るまでには、近くにいる人々と会話をするかも知れません。

 「あなたは何んで死んだのですか?」「私は心筋梗塞です」「私は、ガンでした」「私は交通事故です」「私は老衰です」と、色々な原因で列についた人たちです。そんなことを話しながら、神の係官の前にパスポートを差し出します。神の係官は、おもむろに書類を開き、私なら、「滝元順さん。よかったですね。あなたは神の支配のパスポートですよ。」「そうですか。私はこれからどうなるのですか?」「あなたが語っていたように、ここを通っていくと右側に金色のサインで、天国こちらと出ていますから、そちらにお入りください」と言われることでしょう。私は「神の支配で良かった!」と驚喜して入っていきます。右に廻ると、新城教会から先に天に帰っていった兄弟姉妹が、「順先生、大歓迎!!」という横幕を持って迎えてくれると思います。私が恐る恐る中に入っていくと、イエス様が奥の方から出てこられ、「よく来たなあ」と言ってくださるのかも知れません。それで私は晴れて、天国の住人になります。

 しかしある人が係官の所に行くと、係官の顔が少し曇ります。「あれっ。あなたのパスポートは悪魔の支配ですね。」「えっ、悪魔の支配のパスポート?それって、どういう意味ですか?」

 「悪魔の支配のパスポートでは、悪魔の国に行かなければならないのです。」「えっ、そんな!今から私はどうなるのですか?」「このゲートを入ると、左側に黒いサインが出ていますので、そっちに曲がってください。」「えっ、先ほどの人は右側に曲がったではないですか。なんで私は黒いサインで左側ですか?」「それは、あなたが悪魔の支配のパスポートだからですよ。」「・・今から私はどこに行くのですか?」「まあ、平たく言えば地獄ですね・・・」「そんなの冗談じゃあない。天国に行かせてくださいよ」「残念だね。ここまで来てしまっては、どうにもならないのですよ。ここにはパスポート書き換えの事務所がないのですよ。」「えっ、じゃあ、どこで書き換えが出来たのですか?」「それは地上です。」「地上って、地上のどこですか?」「日本人は書き換えの場所が少なかったからかわいそうだったけれど、ないことはなかったですよ。どんな町にもありましたよ。裏通りなどに行くとあったもんだ。」「それはどこですか?」「教会ですよ。そこに行けば、サタンの支配から神の支配に一発で書き替えてくれたのに、あなたは行かなかったでしょう。」

 「いや、私は教会に行きましたよ。友達に誘われて … 」「でも、あの時寝ていたでしょう。だから駄目だったのですよ。あの日にイエス様を信じたら、瞬間的に変えられたのに、残念だ。」と言われるかも知れません。

 パスポートを暗闇から光に、サタンの支配下から神の支配下に変えることができる唯一の場所が教会です。教会はそのような役目が与えられている、神の国の出先機関です。今日ここにおられる方は、イエス様を救い主として信じていますので、パスポートは神の国に変えられています。ですから、あなたが死んだら、「順先生のメッセージの通りだ!」とびっくりするかも知れません。

 救われるために必要な事は、「イエス様を救い主として認めること」です。「心で信じて義と認められ、口で告白して救われる」と約束されているので、パスポートを書き換えるためには「イエス様を救い主として受け入れます」と信じて告白することです。聖書をみると、神は言葉の中に現わされています。私たちは信じていない神々の名を告白することはできません。しかし、イエス様を救い主として告白することはできます。

 また、信じるとは、どのくらいの深さまで信じたら信じたと言えるのだろうか、と思う人がいるかも知れません。それは、「イエス様は私の救い主です」と告白することが第一歩です。ある意味、それで十分です。テレビを買って来て、みるためにはどうするでしょうか。お父さんが家族をテレビの前に集めて、「まだスイッチを入れないで!今からテレビの勉強会をしょう。これはソニーのテレビだからまず、ソニーの会社から勉強しよう。また、テレビがどうして映るのか、回路図を勉強しよう。電気がここから入って、信号がこのようになるから映るのだ。これでテレビがなぜ映るのか理論はわかった。今度は、放送局について勉強しよう・・・」と言って納得し、「では、テレビを見よう」という人はいません。テレビがなぜ映るのか、何が何だか分かりませんが、電気屋さんがつけてくれた電波の取り出し口に、コードをさしてスイッチを押すだけではないでしょうか。知らなければいけないことは、コードをさすことと、スイッチを入れることです。

 同様に、聖書を全て勉強してから、スイッチを入れなくても良いのです。イエス様を自分の救い主と信じ告白したら、救われるとあります。「イエス様は私の救い主です」と告白しましょう。サタンの支配から、神の支配に移されます。私たちは神の国に住むことができます。こんな素晴らしい特権があるので、私たちは多くの人にこのことを教えなければなりません。信じたら、変えられます。なんと簡単なことでしょうか。

 神は救いを愚かなものにしたとあります。これが神の知恵です。努力したり、勉強したり、お金を払ったり・・・、それで救われるとしたら、特定の人の救いです。しかし、口で告白するだけで救われると言うことは、救いを一見ばからしい、「そんなことで救われてたまるものか・・・」という場所に置かれたのです。これが神の知恵です。

 「暗闇から光に、サタンの支配下から神の支配に」は、今年行われる「北関東リバイバルミッション」のテーマになっています。使徒の働き二十六章十七節から十八節がテーマの御言葉です。

 ここに「彼らに罪の赦し得させ」と記されています。サタンの支配下から解放されると、特典がついて来ます。クレジットカードなどの会員になると、特典がつくというのがありますが、サタンの支配下から神に立ち返るときの特典は、「今まで犯した罪が赦される」ということです。

 今、世界には多くの精神的に苦しんでいる人たちがいます。その多くが、過去に犯した罪の呵責によって病んでいると言われます。罪が赦されたと確信できたら、どのくらい多くの人が癒されるでしょうか。罪は良心的責めを生じさせます。良心は世界共通です。人を殺したら悪いと思い、泥棒をしたら悪いと思います。アフリカの人が「良心は三角形のようだ」と言ったそうです。心の中に三角形があり、悪いことをすると三角形が回転し、角が当たって心が痛むそうです。

 私も良心が痛んだことがあります。高校生の時でした。私は高校時代土木科でした。そこで、実験器具や公式を五十問当てるコンテストがありました。一問につき、二十秒が与えられ、問題を解くのです。まずは校内大会があり、一位になると県大会があり、県大会で優勝すると、全国大会があります。私は初めから、やる気は全くありませんでした。私は勉強嫌いでした。しかし昔から要領が良かったのです。その日私は、クラスで一番できる人の横につきました。私はテスト勉強ではなく、横目で隣の人の回答をカンニングする練習をしていました。それで、冷やかし半分で校内大会に臨みました。すると結果発表があり「二位、滝元順」と呼ばれました。私は驚きました。一位から三位までの人は、県大会に出場しなければなりません。その結果を聞いて、私は心が責められました。その晩、よく寝付けずコンテストのことを思い出していました。罪は悔い改めなければなりません。それを隠していたら、ずっと心が責められます。

 翌日、私は先生の所に行きました。「先生、ごめんなさい。私は悔い改めなければなりません。私は二位になりましたが、あれはカンニングでした。私があんなにできるはずがないでしょう。隣の人の答えを見て二位になったのです。」と言いました。すると、「おまえ、自分で責任をとれ。もう出場者として登録をしたから」と言うのです。「責任とって県大会に行け!」というのです。罪は次の困難を呼び起こします。私はカンニングで県大会に行くはめとなりました。しかし私は悔い改めました。先生は私のカンニングを許してくれましたが、責任をとるように言われました。

 それから私は責任を果たすため、県大会を目指して粘り強く勉強しました。すると、県大会で優勝してしまいました。校内一位になった友達がそれを知って怒っていました。私は愛知県代表として、四国で行われる全国大会に行くことになりました。私は先生二人に付き添われて、松山に行き全国大会に出場したのです。全国大会において私は、「全国二位」になりました。それは学校にとってたいへん名誉らしく、新城高校の校長室に、長らく私の表彰状が掲げられていたそうです。

 私は罪を悔い改めたので、恥を祝福に変えていただきました。罪を犯したらそのままではいけません。先生に「ごめんなさい」と言ってから、心が平安になりました。

 人間が犯す罪は、人に対する罪のように思います。「私はあの人を傷つけてしまった・・・。私も心傷ついた・・・」と言われるかもしれません。人に対する罪もありますが、罪とは、究極的には、人の所有者である神に対する罪となります。

 たとえば、交通事故で誰かの車に傷を付けたら、「車の所有者に対する罪」になります。同様に、私たちも罪を犯すと、神に対する罪になります。ゆえに、神が赦しの権限を持っておられます。イエス様を信じるならば、悪魔の支配下から解放され、罪も赦されるという、素晴らしい特権に預かることが出来るのです。

 今日、神にすべての罪を赦していただきたいと願います。聖書を読むと、罪がなんであるのか、はっきりとわかります。それは「モーセの十戒」に書かれています。

『あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。』

『あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。』

『あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。』

『安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。』

『あなたの父と母を敬え。』

『殺してはならない。』

『姦淫してはならない。

『盗んではならない。』

『あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。』

『あなたの隣人の家を欲しがってはならない。』

 これが罪の基準です。これは旧約聖書の基準なので、新約的概念を必要とする部分もあります。一番から四番は神と人との関係です。十字架は、縦の棒と横の棒があります。ある意味、一番から四番は縦の棒です。それを一言で言えば、「偶像を拝んではいけない」ということです。旧約時代には、「安息日」がありました。ユダヤ教においての安息日は「金曜の夕刻から土曜の夕刻」です。それはなんの仕事もしてはいけないのです。クリスチャンにとって日曜日は、ある意味において、安息日的性格をもっています。普通なら仕事に行く時間に、教会に集まって礼拝しています。これは安息日的要素を持っています。しかし新約的な「安息日を覚えてこれを聖なる日としなさい」ということは、毎日、瞬間瞬間、主のことを覚えることです。

 第三の『あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。』というのは、「イエス様以外の名前を使って祈ってはならない」ということです。日本には、たくさんの神々の名があります。しかしイエス様以外の名前で祈ってはならないのです。

 いくつかの罪が該当したとしても、罪は赦されるのです。今日、すべての罪が赦されることを感謝しましょう。

 今年は、「北関東リバイバルミッション」があります。ぜひお祈りください。栃木県宇都宮市で行われます。毎年、リバイバルミッションの集会を通して、その町や地域のために祈るよう、主が導かれていると思います。栃木県には、大きな神社があります。それは「日光東照宮」です。そこには徳川家康が祀られています。彼は岡崎市で生まれました。徳川家康の誕生によって、教会は今でもひどい目に遭っています。彼がキリスタン迫害をしました。当時はカトリックでしたが、江戸幕府はキリスト教を根絶するために、二百何十年もの間、鎖国をしました。そのことによって神仏習合がなされ、キリスト教徹底迫害という考え方が日本に根付いてしまいました。明治時代に鎖国が取り除かれても、カトリックであろうがプロテスタントであろうが、「キリスト教」そのものを排除する体質が、日本に根付いていました。江戸時代の寺請制度は今の檀家制度へとつながりました。彼が行った行為は、ある意味、日本の歴史を暗闇に落したのです。一人の人物の考え方や行動により、日本全体が縛られてしまいました。ある意味ですごいパワーです。その人物が岡崎で生まれました。

 家康が生まれるに当たり、背後に強い偶像礼拝がありました。彼の母「おだい」は彼を身ごもる前に子授け祈願をしました。子どもを与える事は神にしかできません。しかしながら、その過程で偶像礼拝がなされると、子どもの人生は、悪魔に捕えられるのです。そうなると、悪魔の思いのままの人生が展開されます。家康の母は鳳来寺山で七日間子授け祈願をしたそうです。満願の夜に悪霊が現れ、「子を授けた」というのです。家康が誕生し、やがて彼が天下をとり、「東京」という街を作りました。そこは現在も、日本の中心になっています。ある意味において、東京は悪の巣窟になっています。

 彼は静岡県の駿府城で死にました。彼は自分の死後についても指図していました。「私が死んだら、久能山に葬ってくれ。一年間拝み、日光に墓を移してくれ」と頼みました。そこにも策略がありました。

 日光東照宮は、江戸城の真北に造られました。真北は北極星につながります。星座は北極星を中心に廻っているように見えます。北極星は北の空で動かないということで、昔はそこは神が住んでいる座と考えました。家康は、自分の死後は「北極星のようになりたい」と言いました。その為に、江戸城の真北に、北極星にあわせて日光東照宮を造らせ、自分を祀るように指示したのです。北極星と自分を重ねることにより、呪術的に、自分を「宇宙の主幹者」としたのです。それは「神になりたい」という欲望でした。

 イザヤ書十四章十二節から十四節に、

『暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』

とあるように、天使長が自分が神のようになりたいと思ったことによって、地に落とされ、悪魔になってしまいました。

 「神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう」・・・ある意味、徳川家康も同じ思いを持ったのです。今、日本が悪魔の手に陥っている背後に、そのような事柄も関わっています。現在、私たちはそのような策略を見抜いて、とりなし祈るように導かれています。

 私たちは決して、神のようになりたいという考えをもってはいけません。私たちは神に仕える者です。自分が神のようになって、人々を支配する者ではありません。その結果は地に落とされます。

 「徳川家康のような大それた考え方はない」と言われますが、日本人は「死後供養してほしい」と言います。これは、裏返せば、「自分も神のようになりたい」という考えです。このようなサタンの策略を見抜き、サタンの支配から神の支配に移され、罪が赦された者になることは素晴らしいです。日本が神のもとに立ち返ることができるよう、祈っていきたいと願います。お祈りします。


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