何一つ忘れるな

2005.6.19(SUN)
新城教会 上條 実牧師

旧約聖書 旧約聖書 詩篇 103 篇 1 節〜 5 節
わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。

 ハレルヤ!今日この場所で御言葉を取り次ぐことができることを感謝します。今日は「父の日」です。私の子どもたちも段々大きくなり、その度に口答えが多くなります。何もできない親ですが、信仰を受け継ぐことができ、私の子どもも三人ともここに来ることができていることを感謝します。自分の父親を人間的に見ると、正直言って何もしてくれなかったと思います。火曜日から金曜日までずっと伝道旅行に出ており、土曜日には子ども祈祷会をしてくださったことゆえに、今の自分があると思います。日曜礼拝をし、月曜日は色々な仕事をして火曜日からまたいなくなるという父でしたので、どこにも旅行に連れて行ってもらったことがありませんが、今振り返ると父によって救われ、今神様に召されて主のために働くことができることを感謝します。今日は詩篇一〇三篇の御言葉から「何一つ忘れるなというタイトルで学びます。

 来月は私の誕生日で免許の書き換えをします。私は、ずっとゴールド免許でしたが、今回は一度捕まってしまったのでブルーの免許になってしまいます。そんな中で視力検査があるので、眼鏡屋に行き調整をしました。以前の眼鏡は少し見にくかったので色々なレンズをはめてみました。そして「このレンズはどうですか。近くを見てください」と言われました。近くが見やすくて、遠くを見ると段々よく見えるようになりました。店の人が「これは遠近両用」ですと言われました。少しショックを受けましたが、そんな年になってしまったかと思いました。ある本に、アメリカで一人の牧師が大きな白い紙に一つの点を書いて、「これは何でしょうか。」と言いました。すると「点です」と答えました。そして牧師は、「他に何かありませんか」と言いました。「他には何もない」と言いました。そこで牧師は「なぜ黒い点しか見えないのですか。白い部分がたくさんあるではないですか。」と言いました。聖書は、「何一つ忘れるな」とありますし、一〇三篇五節は魅力的な御言葉です。

『あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』

とあります。一生が良いもので満たされると聖書に書かれています。私たちはそのような素晴らしい祝福を信じていますが、過去を考えてみてください。「あなたの人生はどんな人生でしたか?」楽しいこと、嬉しかったこと、良かったことがあると思います。先日私の家内と話していました。「小学校時代はどんな思い出があったの?」と聞かれました。すぐに思い出したことは、楽しい思い出ではなく、恥ずかしい思い出でした。学校の校庭で遊んだ後、ジャケットを忘れてしまいました。そして次の月曜日になり、全体朝礼の時に全校生徒の前で先生に「これは誰のだ?」と聞かれました。私はすぐに取りに行こうと思っていましたが、その思いと同時にその私のジャケットのポケットの中からハンカチが入っていますと取り出しました。一枚、二枚、三枚と … 五、六枚ほどハンカチを出すのです。私はハンカチを出すのを忘れてどんどん新しいハンカチを持ってきては使っていたようです。先生の配慮がなかったのもあると思いますが、私は恥ずかしい思いになりました。後でそっと職員室に取りに行ったことを覚えています。私たちは人生を顧みると、良いことを思い出すこともありますが、良いことを思い出して、「人生は最高だった。」となかかな言うことができず、私たちは苦労した、大変だったと思うことがあります。何一つ忘れるなとありますが、結構楽しい思い出、良かったと思う思い出を忘れてしまっていることがあります。しかし私たちはイエス・キリストを知っています。その神様が私たちに素晴らしい祝福を与えてくださることは、そしてあなたの一生を良いもので満たしてくださると教えています。夜休むときに、「良かった。今日は生きていて良かった」と神様に感謝の祈りができるのが私たちだと思います。今朝、朝起きて感謝の祈りをしました。すると何分感謝の祈りができたでしょうか。五分も続きませんでした。今までずっと感謝の祈りをしました。子どもの頃の事から色々なことを振り返って祈りましたが、ふと気がつくと、「イエス様、お願いです」と祈っていました。私たちは感謝ができず、良いものは忘れてしまい、悪いものはすっかり忘れてしまいます。大きな白い紙にある小さな文字だけが気になって仕方がないのです。しかし、今日は「何一つ忘れるな」ということを覚えてください。イエス様が十字架にかかられ、私たちは素晴らしい神様の祝福をいただき、永遠に生かされています。詩編一一六篇六節に、

『主はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。』

とあります。私たちは色々な困難や自分の足りなさの中でトラブルに巻き込まれる時にも、神様が守ってくださる、そして救ってくださるという約束が書かれています。また一一六篇十二節に、

『主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。』

とあります。感謝の祈りをすると五分しか持たない私ですが、考えてみると私は牧師の家庭に生まれ育ったから今信仰を持つことができたと思います。また小さな時から色々なことがありましたが、主が守ってくださいました。 病気の時もありましたが元気にしてくださって今があります。今私たちここにあることを考えるときに、あなたがたくさんの主の恵みをいただいていると思いますが、何を神様にお返しすることができるか、また何を今お返ししているか、またこれからも何をお返しすることができるでしょうか。聖書の中に色々なことが書かれていますが、イスラエルの民が苦労したことについてたくさん書かれています。その中で一番苦労したのではないかと思われる箇所が出エジプトの時だと思います。四三〇年間エジプトで奴隷生活をしました。モーセが現れてパロと交渉しているときにこの上もない苦しみがあり、わらも与えられないで煉瓦を作れと言われたくらいに労働に明け暮れて彼らは苦しんでいました。自分の民がありながら彼らはエジプトで苦しんでいました。そんな中で神の使いであるモーセが出エジプトをすることができ、イスラエルの民を連れ出しました。出エジプト記には、色々な祝福が書かれています。水がないと言えば、岩から水がほとばしり出、食べ物がなくなれば天使が食べていたマナが降ってきて、素晴らしい食べ物が与えられました。また肉が食べたいと言えば、どこからかウズラが飛んできてウズラを食べました。また履いていた靴はすり切れることがなかったという奇跡がありました。またイスラエルの民は神様から数々の奇跡を受けているにもかかわらず、イスラエルの民は、四十年間荒野をさまよい、カナンの地に入ったのはたった二人でした。ヨシュアとカレブだけでした。なぜ彼らがエジプトから移ってカナンの地に入れなかったのでしょうか。それは感謝ができなかったからです。申命記六章十二節に、

『あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。』

とあります。エジプトでどんなに苦労したかを覚えなさい。そのことを考えたら、あなたは自由のみではないか。それを忘れてはいけないと教えています。また申命記八章十一節から二十節に、

『気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。――主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。――あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。あなたが万一、あなたの神、主を忘れ、ほかの神々に従い、これらに仕え、これらを拝むようなことがあれば、きょう、私はあなたがたに警告する。あなたがたは必ず滅びる。主があなたがたの前で滅ぼされる国々のように、あなたがたも滅びる。あなたがたがあなたがたの神、主の御声に聞き従わないからである。』

とあります。今の私たちの祝福は、自分で築いてきたと思いがちですが、すべては神様の御手にあることだと思います。しかしそれを忘れてしまいます。私たちは感謝の祈りができず、お願いの祈りは心に満たされています。私たちは一生懸命祈っていながらそれが答えられないと不満になります。素晴らしい祝福をいただいていながらも、出エジプトをして奴隷生活から解放されたのにもかかわらず、イスラエルの民がつぶやいたのと同じように私たちも永遠の滅び地獄から解放され、また素晴らしい祝福で満たされてきたにもかかわらず、これが欲しい、でも叶えられない、こんな問題がある、なんでだろうか … と知らないうちに私たちはつぶやいています。八章十九節に、

『あなたが万一、あなたの神、主を忘れ、ほかの神々に従い、これらに仕え、これらを拝むようなことがあれば、きょう、私はあなたがたに警告する。あなたがたは必ず滅びる。』

とあります。詩編一〇三篇は、「一生良いもので満たされる。」とあります。しかしこちらの御言葉は、「あなたが主が良くしてくださったことを忘れてしまい感謝がなくなってしまうならば、あなたは滅びるとあります。私たちは今あることは主に感謝し、これからも必ず主が良くしてくださるので今の現状を心から感謝していきたいと思います。私たちの教会を見ても今まで色々なところを通ってきましたが、このように何の障害もなく平安のうちに礼拝を守ることができ、神様を賛美することができ、祈ることができることはこの教会も主が守ってくださったと思います。また自分の家族や自分自身のことを考えるとき、これまで色々なことがありましたが、今主が守ってくださる。しかしそのような気持ちを私たちが持ち続けていかなければいけないことを聞けばわかりますが、口から出る言葉は、「なぜ、こうなるのだろうか。もっと祝福が欲しい … 」と私たちはむさぼってしまいます。そしてぶつぶつ私たちはつぶやいてしまいます。私たちは、のど元過ぎれば熱さ忘れるという言葉がありますが、その時に大変だった時には、「神様 … 」と求めます。そしてそのような時には感謝をしていても、もっと欲しい … 、もっとこうなって欲しいと祝福に飽きたらずにどん欲になってしまいます。神様はその祝福を与えてくださいますが、知らないうちに私たちに与えてくださった恵みが感謝できなくなるのと同時に、知らないうちに神様に対して不平を言ってしまったり、周りの人たちに対しても鋭い矢であの人がこう言ったから … 、こうやったから … と自分を棚に上げて知らないうちに人を責めてしまい、あの人がいるからこうなってしまったと決めつけてしまうことがあると思います。しかし、私たちは神様に生かされています。これまで祝福を神様からいただいていますので人ではなく、神様を見上げていきたいと思います。 

 また素晴らしい人であり、どの底に落とされてまた祝福された人物からも学ぶことができます。それはヨブです。ヨブ記一章一節から三節に、

『ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。』

とあります。うらやましいです。素晴らしい財産を持ったヨブでした。「東の人々の中で」一番の富豪であった」と記されています。この箇所には、家畜を持っていたことが記されています。よくわからないのでこれを今のお金でどれくらいになるかを計算してみました。羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、牝ロバ五百頭を持っていました。あるホームページで北海道のジンギスカン屋に聞いた価格が出ていました。羊七千頭は、日本なら肉で一頭三万円、ニュージーランドならば七百円とありました。三万円が七千頭です。計算すると二億一千万円です。これだけでもリッチだと思います。また、らくだ三千頭は湘南プロダクションの動物レンタル会社では、らくだ一回レンタル百万円とありました。ホームページを見るとらくだの安い価格は三十万円でした。三十万円が三千頭です。九億円になります。そして牛五百くびきです。二頭が一くびきなので千頭です。宮崎県都城市の農協の子牛の価格は高いと一頭三百万円とありましたが、平均約三十五万円であるようです。三十五万円が千頭です。三億五千万円です。そていロバの価格は八十万円から一五〇万円で最高三百万円のようです。八十万円として五百頭は四億になります。全部足すと十八億六千万円です。今の価格で計算するとこのようになりますが、当時の値段とは違うかも知れません。これだけを見てもヨブはなんと幸せな人物だろうと思います。東の方では一番の富豪であったとあるので、更に家があり、子どもが男七人、女三人があり、いつもパーティーをし、礼拝をしていました。敬虔なクリスチャンで非の打ち所のないほど素晴らしい清さを持っていました。しかし、ヨブはそのまま順調にいったかというと、そうではなく、世間を循環していたサタンが来て、神様が「ヨブを見たか」と威張ったときに、「神様が祝福したら、ヨブは立派なクリスチャン生活を送っているのですよ。あの財産をとったら、またあの体を病気にさせたらヨブはあなたをのろいますよ。」とサタンが言いました。神様の赦しの中でヨブをサタンに渡され、ヨブは散々な目に遭いました。ヨブは素晴らしい祝福を受けながら、ヨブはどん底に落とされたとき、彼の生き様は仕方がないだろうと思ってしまいます。しかしヨブ記三章一節に、

『その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。』

とあります。素晴らしい祝福をいただいたヨブがどん底に落とされました。その時にヨブは神様に向かって「私は生まれなかったら良かった。」と後悔ではなく、のろっています。生まれなかったら良かった。なぜ私はこの世に生まれてきたのだろうかというのです。ある意味で私たちも同じような経験をしたことがあるかも知れません。サタンが主に赦しをもらってヨブを大変な目に遭わせ、ヨブが苦しんで叫んだ心の叫びですが、私たちも色々な問題があると、「自分は生まれてこなければ良かったではないか」と自分が生まれたことを否定してしまい、神様の前に呪ってしまうことがあるかも知れません。また三章十一節に、

『なぜ、私は、胎から出たとき、死ななかったのか。なぜ、私は、生まれ出たとき、息絶えなかったのか。』

とあります。せっかく神様からあなたが生かされ、素晴らしい祝福をいただいて生活をしていますが、一つの問題で苦しみ、神様をのろって自分は死にたいと思う思い、その悪魔音策略にはまってしまい、自分は生きている値打ちがない、自分は死んでしまえば良い … と考えているヨブです。またヨブ記三章二十節に、

『なぜ、苦しむ者に光が与えられ、心の痛んだ者にいのちが与えられるのだろう。』

とあります。自分はこんなに苦しんでいるのになぜ自分にいのちが与えられているのだろうか、なぜ生きているのだろうか、なぜ苦しいのだろうか … と生かされていることについて苦しみ、自分は神様に生かされていない、愛されていない、自分は罪を犯しているからそれを悪魔が攻めてきて、もう自分は駄目だ、生きる値打ちがない … でもイエス様を信じているから自殺は罪でできないけれど、生きていくことはなんて苦しいことなのだろうかと思う時がないでしょうか。しかしそのヨブに主の御手が現されています。四十二章二節から三節に、

『あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。』

とあります。ヨブは目が覚めました。神様の計画があると初めてヨブは理解しました。その前の二章には、なぜ自分がこの世に出てきたのか、神様は自分を祝福してくれないのではないか … と不平不満を神様にヨブは訴えていました。しかし彼が目覚めて主にもう一度目を向けたときに、どんな計画も主が与えてくださっているということです。またヘブル人への手紙十二章十節に、

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』

自分が間違った道があったときに、私たちに教えてくださるということです。またローマ人への手紙八章二十八節に、

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』

とあります。今日「私は駄目だ。何の良いこともなかった。神様のために頑張ってやっていこうと思ったが今はこんな状態。神様に私たちは色々なものをぶつけて、なぜこんなふうなのですか。なぜ病気なのですか。なぜこんな経済状態ですか … 一生良いもので満たされると言うがそれは嘘ではないですかと叫びたくなることもあるかも知れません。ヨブが苦しんで地の塵に親しい者になってもう一度主を見上げたときに、

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』

とあります。これも自分に必要で通らなければいけないところであったと覚えなければなりません。決して主は悪いことをされる方ではありません。神様は祝福の連続であなたを一生涯良いもので満たしてくださる方です。私たちはそのまま良くなったら素晴らしいですが、私たちは小さな点だけにしがみついて、なぜこんなに苦しいのだろうかとそのことばかりに目が留まりやすいです。しかし、すべてが神の御手にあり生かされています。健康、家、財産もすべてを私たちは主から受けていると思います。ヨブは「私は主を汚していた。主は計画を通してこのようにしてくださった」と目覚めました。ヨブ記四十二章十節に、

『ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて二倍に増された。』

とあります。「友人のために祈った」とあります。私たちはすぐに人のせいにします。「あの人がこうしたから … 」と言いますが、今日その人を愛してください。敵を愛してその方のために祈り始めたときに、ヨブは元通りにされたの同時に、所有物をすべて二倍にしてくださったとあります。また人を責めるだけではなく、私たちは神様を責めていることがあります。神様は生きていると言うけれども、神様に従ってもこんなに苦労したのではないかと思うことがあるかも知れません。しかし、すべてが神の計画にあり、私たちは生かされています。私の人生はすべてイエス様のものであるとわかる時に私たちは幸せをいただき、素晴らしい恵みをいただくことができます。今日祝福をいただいていないと思われる方は、祈り始めましょう。今まで色々なことで人を責め、あの人がいるから今こんなふうになってしまったと思っていたら、敵のために愛し、とりなしていきたいと思います。ヨブの友人たちは、神に従うのをやめるように忠告したり、奥さんも神様に従うのをやめるよう忠告しました。しかしヨブはもう一度へりくだること、神様が生きていて私たちに必ず計画をもって祝福をくださる神様であること、自分一人では何もすることができない、自分で金を儲けたように、自分でここまで地位を築いてきたのように、また自分でそれまで祝福を築いてきたかのように思いがちですが、すべては主の御手にあることを覚えてください。あなたが今ここに存在していることは、イエス様の御手にあることを覚えてください。『主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな』とあります。今日この礼拝で感謝していますか。私たちは賛美をささげましたが、私はここに来て「守られて来ることができ、感謝します」と祈ることができました。そして色々な祈りがわき出てきました。今日健康があることを感謝しました。健康で働くことができて感謝します。私は良い者で、知恵もなく、何もできない者かも知れませんが私は私で良い。今の自分で良い、苦しいままでも必ず良くしてくださる、必ず神様は益としてくださると信じます。今私たちがするべきことは、まず『主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな』ということです。良くしてくださると思って握っていても良くなりません。

  『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

とありますが、信仰を持っていても時々挫折します。なぜ良くならないのだろうかと思います。そうしたら神は生きていないのではないかと私たちは、人のせいにしたり神のせいにしたりします。私たちはまず御言葉を握る前にするべき事は、ヨブがしたことで友人のために祈ったこと、自分の色々な忠告をした人のためにも祝福を祈り始めていくときに、友のために祈り始めていくときに、神様が祝福を返してくださった。元通りに返してくださったと同時に、ヨブの所有物を二倍にしてくださったとあります。『主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな』とあります。この御言葉をもう一度覚えてください。ここまで良くしてくださったこと、ここまで守られたことは感謝です。しかし今色々な問題があっても必ず主が脱出の道を備えてくださる。そしてすべての事を益としてくださる。またそれを通して祝福をくださるということです。ですから私たちは主が良くしてくださったことを忘れずに、心から主に感謝してください。今病気の方、その病気を心から感謝し始めてください。また経済的な問題も感謝してみてください。今まで食べれたことを感謝してください。また色々な問題があったらその問題も感謝して進み始めてください。その時に主はあなたの一生を良いもので満たしてくださるという約束です。

 イギリスのマルチン・ヘンリーという牧師がいました。その方はいつも感謝にあふれていました。しかし礼拝後、家に帰る途中、強盗に襲われて殴られたり蹴られたりお金を奪われて裸同然になって倒れていたそうです。朝方つゆに触れてそれで気づいて家に帰りました。普通ならその犯人に対して、なんてひどい奴だ … と憎みますが、彼は講壇に立ちその事件を顧みて感謝したそうです。「私は強盗に出会って死ななかったことを感謝します。私もイエス様に出会わなかったらあのように強盗になっていたかも知れません。しかしイエス様の哀れみによってこのような神の愛を知るものとなったことを感謝します。強盗に殴られ金は奪われましたけど、彼らは私の信仰を奪っていくことがありませんでした。このようなことについて感謝します。」と言いました。私でしたら、本当にひどい犯人で … と報告してしまいそうですが、何事も感謝していました。今ある現実を感謝しましょう。そしてあなたの下に全部の責任を持ってくださっている主の御手があり、絶対にあなたを滅ぼさない、あなたを孤児としない。あなたを苦しい目に遭わせない。苦しいときにも主が導いてくださるとあなたの下に御手があることを覚えてください。今私たちがするべき事は、主を見上げること、「イエス様。あなたにこんなに素晴らしい祝福があることを感謝します」と感謝をささげていきたいと思います。詩篇一一六篇十二節に、

『主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。』

今から聖餐をいただきますが、「あなたの十字架を感謝します」と心から神様に感謝をささげましょう。また献金もあります。ギデオン献金がありますが、この働きは尊い働きでこの献金で聖書を作り、学校や病院などに配布します。私たちではできませんが、ギデオン協会の方がそれを配ってくださいます。私たちのできないことをしてくださる協会に聖書を作るためにささげるので心から精一杯ささげて感謝していきたいと思います。イエス様、あなたのために私の持っているからだも、持っているお金も何もかもをあなたにお返ししますと神様に感謝の時を持ちたいと思います。お祈りします。


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