天に名が書き記されている喜び

2005.7.3(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

ルカの福音書  10 章 17 節〜 20 節
さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」

 ハレルヤ!おはようございます。今朝このように皆さんと共に、礼拝できることを感謝します。先週は天野先生が来てくださり、すばらしい御言葉を取り次いでくださいました。六月にはたくさんの集会が行われましたが、祝福され、多くの方々が導かれたことを感謝します。

 主を信じる者は、「天に名が記されている」と教えています。天とは、神の世界です。平たく言うならば、「天国」です。そこに、あなたの名が書き記されているというのです。

 天国には帳面があるようです。今日、イエス様を信じていますか?信じている方は、既に、「あなたの名前」が書き記されています。私の名前もあると信じます。今日喜ぶべき事は、「名前が天に書き記されている」ことです。

 先週は悲しいことがありました。それは、この教会に来られている、M兄のお母様が突然亡くなられたからです。まだお若い方ですが、脳出血で倒れられ亡くなりました。たいへんショックでした。しかし、お母さんは時々教会に来られて、福音を聞いていました。イエス様を信じるか、信じないかで、永遠の世界が変わります。救われるのには、チャンスがあります。私はお母さんと話をし、一緒に祈ったことがありました。彼女はそこで、イエス様を信じる告白をし、暗闇の力から解放されるようにと祈りました。まさかその後、亡くなるとは思っても見ませんでした。人の人生はわかりません。誰でもいつかは、そのような日が来ます。しかし、天に名が記されているならば、私たちは永遠を天国で過ごすことができます。この部分は、人間ならば、誰でもクリアーしなければならないことです。黙示録二十章十二節から十五節に、

『また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。』

とあります。聖書は、人類の歴史が永遠に続くとは教えていません。今の時代はあまりにも混乱が多くあります。放っておけば、世界は自滅してしまうでしょう。時々親が、子どものけんかを見て、あまりにもひどくなっていくと、止めに入ります。同様に、人間があまりにもひどいことをしていると、神が介入されストップされます。

 大きい者も小さい者も、過去の人も、現在の人も、また未来の人も、すべての人が神の前に出て、さばかれます。

 神は人間ひとりひとりに天使を遣わし、その人の行動を記録しているようです。今の時代は、ビデオや色々な機械を使って、その人の行動をつぶさに記録することができます。人間にそのようなことができるのならば、神にできないはずがありません。日々の行動を、神はいつも記録されています。「今日は嘘をついた。盗んだ … 」などと、記録がされていたら、緊張します。世の中はあまりにも不公平なことが多いです。悪いことをしても捕まらない人もいるし、また、悪いことをしなくても捕まって、最終的に死刑にされた人もいるかも知れません。神様がおられ、それですべてが終わってしまうならば、おかしい事です。正当な裁きがなくてはなりません。聖書が語っていることは、人々は各々、自分の行ないに応じてさばかれるとあります。ですから、私たちは日々の生活に関しても、神の前に生きているという意識を持つことが大切です。

 今週、あなたの側に天使がいて、行動を記録し、どんなことを神の前に報告するのか・・。「神様。あいつは今週大変でしたよ … 」「またか。」と言われるのではなく、「今週彼は素晴らしかった!御心のとおりに歩んでいましたよ!」と報告されるような一週間を送りたいものです。

 その基準として、人間には「良心」が与えられています。どんな人にも、良心があります。教会に来るとか、来ないに関わらず、良いことと、悪いことを照らし合わせながら人は生きています。それは、神がやがて人々の行ないに対して、すべてさばかれることを意味しているのです。ここで、「いのちの書に名の記されていない者は、みな火の池に投げ込まれた」とあります。いのちの書に名が記されていなかったならば、皆、永遠に滅びてしまうということです。だから、「生きている間にイエス様を救い主として信じなさい」と教えています。これは聖書の、厳粛なメッセージです。また二十一章二十三節から二十七節に、

『都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。』

とあります。この御言葉は、究極的には「天国」について教えています。あなたには、いのちの書に名が書き記されているという、確信がありますか。毎週日曜日に教会に来て、「今週も、イエス様を信じて歩んでいこう!」と決断をすることが大切です。

 いのちの書に名が記されるためには、どうしたら良いのでしょうか。ヨハネの福音書三章十六節から十八節に、

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』

 「世」というのは私たち自身です。「ひとり子」とは「イエス様」です。イエス様がこの地上に来てくださったのは、滅びないで、永遠のいのちを持つためであると教えています。今日、イエス様を救い主として信じるならば、あなたは永遠の御国、天国に入ることができます。

 そして次に、『御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである』と教えています。私たち人類は、神の前にどのようにとらえられているのでしょうか。「人類は、皆、悪いことをしているから、ひどい目に遭わせてやる。地獄のどん底に落とそう」というのではありません。神がイエス様を遣わしたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるため、「御子によって救われるために」地上に来てくださったとあります。十八節に、

『御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』

 今まで、さばきについての恐ろしい御言葉を紹介しましたが、いのちの書に名が記されている喜びとは、「御子を信じたらさばかれない」ということです。「神の言いつけに背いたら、さばかれてしまう!」とドキドキしながら、生きなくても良いのです。イエス様を信じたら、さばかれないというのは素晴らしい恵みです。

 いくら裁かれないとしても、神の前に正しい生活をすることは大切です。私たちと神様とは、「愛の関係」です。愛する人が嫌がることは、しない方が良いのです。結婚したら、互いに愛し合っているので、互いに嫌だと思うことは一生懸命止めようと努力します。私も家内から、嫌だと言われることは、止めようと努力します。しかし、なかなかそれがままならないこともありますが・・・。

 私の息子が、先日結婚しましたが、「おっ、努力している」と感動しました。昨日も、彼は奥さんに、「何か手伝うことがあったら言って・・」などと話しているのを聞きました。

 クリスチャンは、イエス様のみこころに従って生きようと努力するのです。悪いことをしたら、鞭を打たれるのではありません。過去にどんな罪があっても、イエス様は私たちの罪を赦してくださいます。この恵みは素晴らしいことです。先週、あなたが、どんなに悪いことをしたとしても、悔い改めるならばさばかれません。イエス様は、十字架の血潮で洗いきよめてくださいます。礼拝は、心を洗うようなものです。

 最近は夏なので、お風呂に一日でも入らないと気持ちが悪いです。日曜日は霊的お風呂のようなものです。教会に来て、一週間の罪の垢や汚れを全部、十字架印のシャンプーで洗いきよめて、一週間を過ごすのです。

 天に名が記されている喜びは、御子を信じることによって「裁きを受けないで済む」という事です。

 ルカ十章一節から六節に、

『その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。どんな家にはいっても、まず、『この家に平安があるように。』と言いなさい。もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。』

とあります。イエス様が七十人の弟子を召し出し、彼らを二人ずつ組みにして、ご自分が行かれようとしている町々に、先に遣わしました。

 イエス様を信じる私たちは、「イエス様の弟子」です。イエス様の弟子は、イエス様の言われることを聞くのです。弟子になると、見よう見まねで師の働きをまねします。私たちも、イエス様の弟子となり、イエス様の言われることを忠実に行うのです。それがクリスチャンです。

 イエス様は弟子たちを選び出し、『ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。』とあります。イエス様は、私たちを派遣されます。特に、ご自分が行かれようとされている、「町や村」に送られるのです。ここには、ふたりづつ、ペアで送ったとあります。町や村とは共同体で、当時もかなりの人口があったと思われます。これは、弟子たちにとって、ある意味、心細かった事だと思います。

 日本でも同じです。日本は、クリスチャンが少ないです。ある人は、「私の村には、クリスチャンはただ一人です。」と言われるかもしれません。不安になるような状況かも知れません。しかし主は、「あなたは遣わされた存在です」と言われます。今日、色々な所から来られていますが、もしも皆さんの周りに、クリスチャンがいないならば、主はあなたを、先にその領域に遣わしておられるのです。

 しかしイエス様は、派遣に先立ち、弟子たちに「注意事項」を語られました。その内容に、弟子たちはたいへん驚いたことと思います。

『さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。』

 狼の群れの中に、小羊が一匹いたらどうなるでしょうか。狼の群れは、素晴らしいディナーがやってきた、と言って子羊をすぐに引き裂くことでしょう。現場にいた七十人の弟子たちは、イエス様の言葉を、相当緊張して聞いたと思います。

 イエスさまが、「今からお前たちをふたりずつ送り出す。しかしそれは、狼の中に小羊を送るようなものだ。覚悟しておけ」という感じだったと思います。

 私たちは神によって遣わされるのですが、ある意味、周りは狼だらけです。そもそも、「町は悪魔の支配下にある」というのが聖書の主張です。町の中には色々な事件が起こります。人々は町で悪い体験をし、問題を起こします。しかしイエス様は、そんな町に、天に名が書き記された者たちを送り込まれるのです。

 近頃、日本に起こっている事柄は、町が悪魔の手に陥っている結果だと思います。先日も、十五歳の子どもたちが、連続して殺人事件を起こしたニュースが取り上げられていました。なぜ、そのような事件が、同じ時期に起こるのでしょうか。少年たちが「おい。明日殺人をやるぞ!」と相談したのならばまだしも、相談もなしに親を殺したり、人を傷つけたりしました。なぜでしょうか。様々な理由が挙げられるとは思いますが、根本的には、背後に悪魔が働いているからです。

 また最近は多くの人が自殺しています。年間、三万人以上が自殺してしまいます。これは、新城市が一年間でなくなってしまう計算です。なぜ、このようなことが起こるのでしょうか。皆さんの中で、もしも、「私は、度々、死にたいという思いに駆り立てられる」と言う人がいたら、解放を祈りしましょう。それは、あなた自身の思いではありません。人は、一秒でも長く生きていたいと願う動物です。私は小学生の時に、川で溺れた経験があります。「もう駄目だ!自分の力では、助かることは無理だ!」と思いましたが、一秒でも長く生きるために、無駄を承知で、手足をバタバタさせて出ようともがきました。

 人は一秒でも長く生きたい存在にも関わらず、「死にたい!」という思いが来るとしたら、これは確実に悪魔の力です。横で、誰かがささやいているのです。

 家の中に、もしも、家族を不幸に投げ入れる目的で、透明人間が入り込んでいたら、どのようなことをするのでしょうか。

 「この家庭の人々を殺してしまえ」という、ボスからの指令を受けて、透明人間が入り込んでいたら、姿がわからない特性を生かして、家の中に問題を起こします。まずは、夫婦の間にもめ事が起こるように立ち回り、夫婦を対立させます。喧嘩すれば、互いに反省して、謝ると思います。しかし透明人間は、謝った努力が無駄になるようなお膳立てをするでしょう。

 次に透明人間は、子どもと一緒に学校に登校します。そして、いじめられるような状況を一生懸命、設定します。友達にいじめられてしょんぼりして、学校から帰ってくると、透明人間はまた耳元でささやきます。「明日は一日、学校に行くのを止めようよ … 」と言うのです。一日が終わると、「もう一泊してみようか」と声を掛けます。

 しばらく学校に行かなくなると、その子にまた語りかけます。「窓の外を見てごらん。みんな楽しそうに学校に行っているじゃないか。学校に行けないのは、君一人だけだよ。君は弱いねえ。」

 そうすると、「僕は弱い・・・」と思います。また、しばらくすると、透明人間が語りかけます。「こんな部屋の中で、一生過ごすなんておもしろくないから、早く死んじゃえよ … 」と言うのです。そうすると、「死んじゃおうか … 」という事になります。

 もしも、そのような環境にあったら、透明人間が発見されない限り、みんな犠牲になっていきます。人間は平等に創られているので、等しく生きる力があります。しかし、透明人間のような悪魔が来て、ひとりひとりに語りかけて、「死んでしまえ、死んでしまえ … 」という声を聞かせるのです。その声を、絶対に聞いてはいけません。

 私は二週間前に、ゴスペル・クワイヤーと共にアメリカに行きました。大変忙しい毎日でした。最初、ポートランドに行き、翌日、ロサンゼルスに行きました。二日後に、シアトルに移動し、再び、ポートランドへ戻り、その晩にヤキマへ移動し、スポケンに行って、ヤキマへ戻り、ポートランドから日本に帰ってきました。

 ジョー先生の教会のためにも、一緒にとりなしの祈りに行きました。悪魔は日本でも、アメリカでも、同じように働いているからです。今回、一つの場所へ、とりなしの祈りに行きました。

 去年、ヤキマにいる私の娘から「祈って!」と言う、祈りのリクエストがありました。それは、ヤキマの教会に来ている、一人の白人の女の子が、行方不明になったためでした。「精神的に不安定な子なので、守りを祈って欲しい」と言われました。私はそれを聞いてから、祈っていました。

 すると、数日後、ジョー先生にその子から電話がありました。「私は今から死にます。さようなら。」先生が、「今どこにいるの?」と聞くと、「それは言えない」と言って電話を切ってしまいました。その後、警察に電話をして、緊急配備してその子を探しました。しかし、探してもわかりませんでした。ジョー先生は祈りました。「主よ。今どこに彼女はいるのでしょうか。教えてください」

 すると主が、「あの場所に行きなさい!」と語られたのです。それは、高速道路で一時間半ほど走った、コロンビア川沿いの一つの場所でした。彼女の電話を聞いている中で、背後に風の音がしたので、その場所が思い起こされたそうです。

 それで、私の娘とジョー先生と、もう一人の男性と、三人でその場所に向かってフリーウェーを走って行きました。現場に着いたのは、夜中の十時くらいだったそうです。すると、そこに彼女の車があったのです!

 主が彼女の居場所を教えてくださったのです。彼らは、車を降りて、叫んで彼女を探しました。その場所は、夜になると風が強く吹くところでした。その上、真っ暗闇で、川縁に沿って切り立った崖がありました。切り立った崖の高さは、百メートル近くあります。

 しばらくすると、遠くで女の子の叫び声が聞こえました。彼女は、展望台の柵を乗り越え、崖っぷちの出っ張った岩に座ってわめいていました。ジョー先生と、私の娘は、真剣に祈りながら彼女に近づき、ついに、彼女をを保護したのです。急いで車に乗せ、教会に連れ帰ったのですが、途中、高速道路へ何度も飛び降りようとするので、私の娘は、一生懸命ドアノブを押さえていたそうです。

 教会に戻ると、警察から電話があったそうです。警察によると、なんと、その晩、同じ崖っぷちから、既に三人の同じ年頃の女の子が、コロンビア川に飛び込んでいたと言うのです。彼女は、実に、四番手でした。しかし、彼女は助けられたのです。

 このようなことは、自然の成り行きでは起りません。それは、悪魔の力以外の何者でもありません。私たちは、狼の中に住んでいるような状況です。それを知らなければ、食われてしまいます。三人の女性たちのように、コロンビア川の深みに投げ込まれるのです。

 今回、私は、その現場に行き、死の力が打ち砕かれるようにと、真剣に祈りました。そこに行ってみると、想像を絶する恐ろしい場所でした。私も夜中に行きましたが、よくぞ、こんな場所を発見できたものだと思いました。

 しかし、その女性は祈りによって解放され、今は何事もなかったかのように、悩んでいる人たちを助ける、カウンセリング事務所で働いています。神が助けてくださったのです。

『さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。』

と、イエス様は語られました。また、

『財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。さあ行きなさい。』

ここを読むと、弟子たちの緊張して出て行く様が、伝わってきます。イエス様は、弟子たちに緊張感を与えて遣わされました。

 しかし弟子たちが帰ってきた時には、どんな状況であったのでしょうか。その様子が、ルカの福音書十章十七節から十九節にレポートされています。

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 弟子たちは、イエス様から脅されて、緊張して町や村に入っていきました。しかし、「イエス様が始めに言われたことは、何だったのだろうか?」と思うほど、痛快な勝利が与えられたのです。そして、

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

と語られました。「イエス様。なんで、初めからこう言ってくれなかったのですか・・・」

 信仰の世界は、案外、緊張感と共に始まりますが、入っていくとそこに、主がおられます。私たちの名が、「天に名が書き記されているゆえに」、実は、大きな勝利が待っているのです。

 主は皆さんを町に遣わされます。しかし、恐れなくても良いというのが、聖書の教えです。「わたしが見ていると、サタンがいなずまのように天から落ちました。」とあります。これは、「町を支配している暗闇の力」が敗北したことを示しています。神の御座の前で訴えていた敵の力が、地に落とされるのです。

 今週、皆さんが町に戻っていくときに、「わたしが見ていると、サタンがいなずまのように天から落ちた」というような、素晴らしいわざが起こされることを期待します。私たちに与えられている権威は、「蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に勝利する」ものです。

 そして、「あなたがたに害を加えるものは何一つない!」と教えています。今日、この御言葉を信じましょう。「私たちに害を加えるものは、何一つない」という御言葉を、受け取りましょう。

 しかしイエス様は、「サタンがあなたがたに服従するからと言って、喜んではいけない」と語られました。なぜかというと、名が書き記されているゆえに、そのようなことが起こるからです。

 一番大切なことは、私たちの名前が、天に書き記されているということです。皆さんにも、そのような権威があることを信じてください。ある方は、弟子たちのように、緊張感を持っているかも知れません。しかし、信じて、その領域に踏み込んでいくならば、神は必ず、あなたに勝利を与えてくださいます。時には、色々な戦いがあるかも知れません。しかしその戦いは、必ず勝利に結びつきます。私たちクリスチャンが、素晴らしいのは、時には、悲しみや問題が起こることもありますが、決して、そこでは終わらないことです。必ず、続編があります。最終的には、神様が結着をつけてくださいます。

 今回、ヤキマに行きました。行くときに、私は少し戦いを感じていました。なぜなら、前回、ここに七名の方が来られましたが、その中に純粋なヤキマ・インディアンの方がおられました。彼はこの教会に来て、一緒に祈りました。その時、主は、彼の霊的な目を開いてくださいました。彼は、「日本でもアメリカでも、町を支配している暗闇の力と戦わなくてはならない」と知らされたのです。

 すると、アメリカの家族から電話がかかってきました。「今、あなたの職場で、大きな問題が起きていて、あなたのポジションがなくなるかも知れない。」

 それは、同僚が彼を訴えて、濡れ衣を着せ、「彼は悪いことをしたので、日本に逃げている」と言いました。彼はたいへんショックを受けて、元気がなくなってしまいました。

 せっかく神が、日本で祝福をしてくださったのに・・・、そんな状況で帰国したので、私は、その後を心配していました。「ヤキマに行ったら、彼に何と言おうか・・・」と考えていました。

 彼と出会って、すぐに、「あれからどうなった?」と聞きました。すると彼は、「あんまり状況は良くない」と言うのです。帰国後、彼のポジションは格下げされ、給料も下げられたと言いました。同時に、「明日は私にとってビッグ・デーだ。」と言いました。

 それは自分を訴えた人と、上役の前に出て決定があるというのです。訴えた人か、自分か、どちらかが首になるというのです。「明日私は、首になるかも知れない」というのです。しかし彼は、「何も悪いことはしていない」というのです。

 「これは祈らなければいけない」と思いました。彼はこう言いました。「日本で祈ったときに、主は、私の霊的な目を開いてくださったけれど、自分の職場に行くと、同じ感覚があった」というのです。

 「この問題は、霊的な戦いの領域の問題だ」と思いました。それで私は、「明日会議の時間に、あなたの職場に行って祈るから … 」と言いました。

 翌日、私はジョー先生と共に彼の職場の横まで行って、「偽りを吹き込んで彼の立場を揺るがしている、暗闇の力を打ち砕いてください!」と真剣に祈りました。

 しばらくすると、ジョー先生の電話が鳴りました。「ハレルヤ!私が勝ちました。私を訴えた者が首になりました。」

 なんと、その場で事実が明らかになり、減給されていた給料も全部戻ってきたと言いました。

 喜んで、感謝の祈りをしていると、また、ジョー先生の電話が鳴りました。それは、ジョー先生の教会の副牧師、ジョン先生からでした。

 彼は広い農場を持っており、飛行機で農場を見回るのです。そこは、インディアンの人々から借りた土地です。

 インディアンの人々は古くから、そこで偶像礼拝をしていました。そこには、「一般人立ち入りに禁止」の場所があり、インディアンたちが儀式をする場所があるようです。ジョン先生は霊的戦いに目が開かれてから、その場で戦って、祈るようになりました。

 彼は子沢山で、六人の子どもがあります。先々週、六番目の男の赤ちゃんが生まれたばかりです。電話というのは、その赤ちゃんが高熱を出して、「緊急入院した」という知らせでした。それを聞いて、私たちはすぐに病院に駆けつけました。私は気軽に行ったのですが、緊急治療室の前には、家族、親族、教会の人々が大勢集まっていました。「放っておいたら、赤ちゃんは死んでしまう」と言われたのです。一方では勝利があり、一方では、新しい問題が、同じ領域で起こりました。「なぜだろうか」と心騒ぎました。

 同じ町で、同じ領域を祈っている時に起こった問題なので、霊的な戦いを強く感じました。次の日、地域のいろいろな場所に出て行って、とりなし祈り、赤ちゃんのいやしを祈りました。

 そして、最後に祈りに行った場所が、昨年、白人の女の子が飛び降り自殺をしようとして、奇跡的に助けられた場所でした。

 私たちは、女の子を保護した場所に立って祈りました。すると、そこには立て看板がありました。

 「この場所はインディアンにとって、聖なる場所でした。彼らは白人とは争わない平和な人たちで、その結果、彼らの持ち物のすべてがとられてしまった」と書かれていました。続いて、「当時、数千人いたインディアンのすべてが、今では絶滅した」と書かれていました。

 ある意味、そこは怨念の場です。白人がインディアンを殺した背後に、悪霊が働いていると思いました。死の力が打ち砕かれて、自殺がなくなるようにと祈りました。

 祈りが終わって帰ろうとすると、ジョン先生から電話がありました。「息子の熱が下がり、医者が色々なテストをしたけれど、全く原因がわからない」ということでした。

 それで、もう一日経って、何も問題がなければ退院だと言われました。主が、勝利を与えてくださいました。

 この体験から、私たちに権威が与えられていること、「私たちに害を加えるものは何もない」という御言葉が、響いてきました。また、権威を確認して、町に入ることが大切であると教えられました。

 今朝、この御言葉をあなたのものとして、受け取ってください。あなたには、権威が与えられており、あなたがたに害を与えるものは何一つありません。しかしそれは「天に名が書き記されているゆえに」権威が与えられているのです。

 マタイの十一章二十五節から三十節に、

『そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』

 この御言葉は、ルカの福音書十章の御言葉と同じ時に、イエス様が語られた御言葉です。イエス様は、

『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。』

と記されている言葉は共通しています。ルカで隠されていることが、マタイにおいて明らかになっています。マタイとルカには相互関係があります。十一章二十八節に、

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』

 ここからわかることは、天に名が書き記されている者たちに、主が休みを用意されているというのです。

 今朝、礼拝に来たら子どもたちが、うれしそうに「もうすぐ夏休みだ」と教えてくれました。子どもたちは夏休みを心待ちにしています。子どもの時代を思い出し、あの日に戻れたら良いなぁと思いました。休みは楽しく、リラックスしています。

 私たちは時々戦いがあり、辛いこともありますが、天に名が記されている者たちに対して、主は休みを与え、その疲れを、取り除いてくださいます。もしも、教会で心に休みと平安を受けたならば、「天に名が記されているから」です。

 同時に、疲れや重荷とは、肉体的、精神的なものだと考えますが、「霊的な疲れ」が最も大きな疲れであることがわかります。

 弟子たちが町に入っていたら、サタンが落ちたということは、霊的なことだからです。私たちが一番厳しく、疲れるのは肉体や魂でもありますが、それ以上に、霊的な疲れです。その疲れに関して、主は重荷を負ってくださり、軽くし、休みを与えてくださると語られています。

 もう一度、天に名が記されていることを喜び、また、天に名が記されている者としての権威を受け、遣わしていただきたいと思います。

 今日まだ、イエス様を信じておられない方は、イエス様を自分の救い主として受け入れてください。そうすれば、さばかることなく、永遠のいのちが与えられます。また、敵に打ち勝つ権威と、休みを得ることができます。この特権を感謝しましょう。お祈りします。


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