主を切に求めよう。

2005.7.10(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

旧約聖書 ホセア書  6章3節
私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。

 ハレルヤ!今日皆さんと共に礼拝が守れることを感謝します。私たちの人生は、色々な出来事がありますが、イエス様を中心に置くときに、すべてが輝きます。

 ご存知のように、先週、田中政男先生が亡くなられ、大きなショックを覚えました。先生はこの新城教会で五十年前にクリスチャンになられました。私は今年の八月で五十四才になりますが、私が四歳の時に、先生は新城教会に来られ救われました。田中先生はこの教会の創設期のメンバーです。

 先生がイエス様を信じて、ある日、神様からの語りかけを受けました。普通、神は御言葉から語りかけてますが、時々、特別な目的を持って直接語りかけることがあります。それは、「浦川に行って伝道しなさい」という声でした。「浦川」という町を全く知りませんでした。どこにあるのかも知りませんでした。しかし調べてみると浦川は、 JR 飯田線沿線にある小さな田舎町であることがわかりました。

 町に行くと、はっきりと主が「この町です。この町で伝道しなさい」と語られたそうです。普通は大きな町で伝道した方が効率が良いのです。しかし神様は都会の人も田舎の人も、また、一軒しかないような大草原に住んでいる人も、愛してくださる方です。田中先生は「浦川」という町で伝道するように語られ、結婚と同時に出かけていきました。そして今に至るまで、伝道を続けました。そして浦川伝道だけでなく、もっと田舎の水窪町という所にも教会を建てました。やがて浦川は過疎化し、人々は「浜北」という町に流出していきました。それで浜北にも教会ができ、現在では、百名以上の方々が集まる大きな教会となりました。

 同時に田中先生は、四〇年以上に渡り、日本中、世界中を回る伝道者になりました。先生は六十八歳で召天され、あまり長い人生ではありませんでしたが、移動距離にすれば、普通の人の何百倍も走りまわり、何倍も働かれた方でした。本当に充実した人生であったと思いす。

 田中先生は先週の水曜日、五十年前、宣教を始めた浦川で、それも最初に救われた老夫婦の家で家庭集会を導き、浦川教会で一夜を過ごし、翌日突然心筋梗塞を起こして亡くなりました。宣教を始めた場所と、天に凱旋した場所が同じでした。主は先生を天での働きのために、永遠の計画の中で召されたのだと思います。

 時々、どう理解して良いのかわからないことが人生には起こることがあります。今回、祈っていたときに、ヘブル人への手紙十一章三十二章四十節の御言葉が心に響いてきました。

『これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行ない、約束のものを得、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、――この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。――荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。』

 聖書の世界は、二つのグループに分けられます。一つは、『火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。』という奇跡の世界です。そのような勇士たちのストーリーが、聖書には多く記されています。

 しかし一方では、『この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。』というような人生を歩んだ信仰者たちの姿についても記されています。

 クリスチャンと言っても、「あの人の人生は大変だった」というような事もあります。しかしここで語られていることは、神は働きをこの地上だけで終了されるのではなく、「更に優れたものを用意されている」という事です。人生には色々なパターンがあるかも知れません。神の計画の中で、ある人は他国の陣営を陥れるような、素晴らしい働きに用いられる人もいます。しかしある人は、「この世は彼らにとってふさわしい所ではなかった」と言うような人生なのかも知れません。しかし神は決して、それで終止符を打たれる方ではないと教えています。ヘブル十二章一節から三節で、

『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。』

とあります。一節に、

『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。』

 「多くの証人たちが雲のように私たちを取り巻いている」というのは、先に天に帰った聖徒たちの群れです。

 先週は、田中先生もですが、梶村さんのおばあさんが、九十四歳で天に召されました。二年ほど前、おばあちゃんが入所されていた施設でバプテスマを行いました。真剣に「イエス様を信じます」と祈っていた、おばあちゃんの姿を思い出します。

 さて、人は天国に行くと、すべての働きを終えてリラックスしているのでしょうか。天国の花園で寝ころんでいると、天使が「ご飯だよ」と呼びに来て、時々地上の様子をチラッと見ながら、「地上は大変だなあ。私たちは天国で幸せだ」と言っているのかも知れません。するとイエス様が来て「何をしてんの?」と尋ねられ、「仕事がないので暇しています」というような風景を想像するかも知れません。

 しかし、そうではありません。天国では、地上の戦いを見ながら、とりなしているのです。新城教会からも、多くの方がすでに天に帰って行かれました。その人たちは、決して天国で寝ころんでいるのではありません。私たちを取り巻いているのです。

 私たちの人生は、オリンピックに出場した選手が競技しているようなものだと教えています。

 私の小学校の時の辛い記憶は、マラソン大会でした。約一キロのでこぼこ道を走って大変だったことを覚えています。途中で呼吸が乱れて、苦しかったのを覚えています。しかしその時一つだけ希望がありました。それは「学校の校門まで走れば何とかなる」という、目標があったことです。ゴールがわからないのでは、とても走れません。ゴールがあるので、走ることができます。人生のゴールがわからない人が多くおられます。しかし私たちのゴールは「イエス様」です。二節に、

『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。』

 イエス様を見上げて、真剣に走るようにと語られています。天に帰った聖徒たちは、私たちを取り巻いて声援を送っているのです。先日もサッカーの試合がありましたが、取り巻きが真剣に応援をします。応援するから、選手たちもその歓声を聞いて頑張ります。私たちも天からの歓声を聞いて、人生を送ることができます。天に帰った人々は、主の御側でとりなす、とりなし手たちです。田中先生は誰よりもリバイバルに関心があり、真剣に祈っておられた先生でした。そんな方が天に帰られたことは、とても意味があると思います。イエス様の一番近くで、日本のリバイバルのために、真剣に祈る役目に加えられたと思います。私たちも、この地上に置かれて、真剣に残されたトラックを走り抜かなければならないと思います。心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためには、どんなときにもイエス様を見つめていること、どんな時にも、イエス様から目を離してはいけないとあります。ホセア書六章三章。

『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。』

「イエス様から目を離さないでゴールを目指して一心に走る」という言葉と重なる言葉がここにあります。『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。』の次に、「そうすれば」という言葉を挿入すると、全体像がよくわかります。『(そうすれば)主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。』

 私たちは日本のリバイバルを求めていますが、何をしたら良いのでしょうか。それは、イエス様から目を離さないで、真剣に主を知ることを追い求める事です。その結果として暁の光のように、大雨のように主が私たちのところに来てくださるのです。今週も私たちはイエス様から目を離さずに、切に、主を追い求めましょう。

 私の人生経験はそんなに長くはありませんが、ある意味で、人生は「一難去ってまた一難」というような面があります。「やっと終わった・・」と思うと、また次の悪いことが起こります。牧師という仕事は、心臓に悪いことがあります。なぜなら心臓に悪い、ショックなことをたくさん聞くからです。今年も、何度もドキッとすることがありました。嬉しいことがあって喜んでいると、がっかりすることがあります。その連続です。「なぜだろうか?」と思います。しかし一つ言えることは、喜んでいるときは良いのですが、がっかりする時は、主を求める良い機会だと言うことです。

 先週は私たちの教会にとって、記念の週でした。なぜならば、一九九二年七月九日に主がこの教会に新しいことをしてくださったからです。それは、地域の霊的戦いが開始された記念日です。その日は同時に、一五七五年の七月九日に起こった、数時間に一万数千人が亡くなるという「設楽が原の戦い」の悲惨な記念日でもありました。だから私たちは緊張して、祈っていました。すると先週、次々と事件が起こり、それらがどのよう関連しているのかわかりませんが、いずれにしても、主が一つ勝利を与えてくださると、また次の事件が起こります。しかし神の扉は、私たちが深く主を求め信頼するかどうかで、次が開かれるのだと思います。案外、華々しいことが起こったときは、感謝の祈りはしますが油断します。しかし、色々な問題があると、心砕かれて真剣に主を求めます。「イエス様。どうしてですか。なぜ、こんなことが起こるのですか。どうしてですか。助けてください」とイエス様から目を離さないで、真剣に求めます。その時、不思議と新しい扉が開かれます。そして次の段階に入り、また、続いて主の前に出なくてはならないようなことが起こるのかも知れません。

 しかしそんな中で、私たちが知らなければならないことは、霊的戦いは、「主を切に求めた結果として前進する」ものであるということです。私たちが、本気で主を求める中に新しい扉が開かれます。夜が来ても必ず朝が来ます。それは、百パーセントの確率です。イスラエルにおいては、春の雨と秋の雨があります。日本においては六月に梅雨があり、確実に雨が降ります。同様に、私たちが真剣に主を求めると、百パーセントの確率で主が来てくださるのです。今週も、それぞれ戦いがあるとは思いますが、そんな中、主を切に求めていくときに、主は百パーセントの確率であなたの所に来てくださり、新しい扉が開かれるのです。

 この御言葉は、賛美になっています。私の若い頃、「いのちのパン」という賛美集が出されました。その中で歌っていたのが「グロリア・シンガーズ」でした。私がそのバンドのリーダーでした。そこにこの歌が収録されています。

私たちは知ろう 主を知ることを切に追い求め

主は暁の光のように 確かに現われ

大雨のように 私たちの所に来て

後の雨のように 地を潤される

 先週、ルカの福音書十章から学びました。七十人の弟子たちが、イエス様からの命令を受け、二人ずつペアになって町や村に遣わさました。やがて七十人が帰ってくると、十章十七節から十九節に、

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 私たちはイエス・キリストを信じることにより、主からの権威をいただくことができます。先ほど、聖書に出てくる人物の中で、ある人は大勝利、ある人は見かけは勝利を得なかったかのように見えますが、最終的に、彼らは勝利したのです。私たちには、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威があるのです。「あなたがたに害を加えるものは、何一つありません」とあります。たとえ、この地上でいのちが消えてしまうようなことがあったとしても、決して、死の力は私たちを地獄に連れて行くことはできません。神の国・天国に瞬間的に引き上げられます。

 田中先生は、心臓が痛くて病院に行くと「心筋梗塞になりかけている」と言われたそうです。それで色々な検査をし、その間、自分でトイレに行ったりしていたようです。やがて医者がドクター・ヘリを呼び、大きな病院に移送することになったようです。しかし突然、ヘリコプターが来る少し前に、容体が急変して天国に行ってしまいました。奥さんや周りも驚いていましたが、本人が一番驚いたと思います。本人としては、「なぜ天国にいるのだろうか・・・」と思ったでしょう。彼は、瞬間的に天に移されたと思います。

 私も、瞬間的に天に召してくださったら感謝だと思います。介護されるようにはなりたくはないと思います。どんなに私たちに権威が与えられていたとしても、最終的には地上でのいのちはなくなります。しかし、最終的権威は、「死の力は私たちに手を触れることができない」という事です。

 イエス様は、『だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』と言われました。

 先週は、「天に名が書き記されている喜び」というタイトルで学びました。今朝は、「その次に出てくるストーリー」を見てみたいと思います。ルカ十章二十五節から二十八節です。

『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」』

これはイエス様と、律法の専門家との問答ですが、律法の専門家は、イエスの弟子たちが喜んで帰ってきた様子を見ていたと思います。「すると」という言葉がある事からもわかります。イエス様が弟子たちに、『悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』と語られているのを、律法学者は近くで見ていたと思います。「天に名が書き記されている」とは、言い換えるならば、「永遠のいのち」です。律法の専門家には、その意味がわかっていました。それで彼は何と言ったのでしょうか。イエス様を試そうとして言っています。

 すると、律法の専門家が、『「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」』と聞きました。そしてイエス様が何と答えるかに、耳を傾けました。彼は律法の専門家なので、イエス様が忠実に聖書に沿って答えられるかどうかをチェックしていたと思います。イエス様は逆に、『「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」』と質問されました。すると律法の専門家は、『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」』と答えました。律法の専門家は、聖書をよく知っていました。聖書の中で、天に名が記される一番大切なことは、

『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

これが一番重要なのです。『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』ということは、「切に主を求める」ことです。今日よりも明日、明日よりも明後日、イエス様についてもっと深く知りたいと思うことが、永遠のいのちに至る道であるのです。同時に語られたことは、

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』

ということです。私たちが神を深く愛すると、その愛が反映されるのです。それはどこでしょうか?太陽は光り輝いています。その光が、この地球に降り注ぎます。それで昼があります。光が発せられると、どこかにそれ投影されます。私たちが目に見えない神を愛すると、愛がどこかに投影されるのです。それは「隣人」に投影されるのです。隣人を愛することは、主を切に求めた結果として現されることです。

 「隣人を愛する」が、「永遠のいのち」の関連性の中で語られました。隣人愛は、永遠のいのちと深い関わりがあります。

 次にイエス様が用いられた例話は、エルサレムからエリコに下る道で一人の人が強盗に襲われたという話でした。ルカの福音書十章三十節から三十七節に、

『イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』

 ここで、イエス様は、隣人を愛することがなんであるかを教えられました。私たちの人生の中にも、これに似た状況があると思います。

 エルサレムからエリコに下る道は急な坂道でした。そこはよく強盗が出るところでした。そこである人が強盗に身ぐるみ剥がれて倒れました。そこに祭司という宗教家が通りました。見ると旅人が倒れていました。関わると大変だと側を通り過ぎました。次に来たのがレビ人でした。彼も神の宮で働いている人でした。彼も通り過ぎてしまいました。

 そして次にサマリヤ人が通りました。サマリヤ人はユダヤ人と敵対関係にありました。サマリヤ人はユダヤ人が好きではありませんでした。ユダヤ人も同様でした。倒れていたのは、おそらくユダヤ人でした。私たちも、このような時があります。気にくわない人が倒れたと聞くと、「いい気味だ」と思ってしまうのです。普通ならば石の一つや二つもぶつけてやろうというぐらいのテンションです。しかし、彼は倒れていたユダヤの旅人を助けたとあります。

 「この中で誰が倒れていた人の隣人ですか?」とイエス様は律法学者に尋ねると、「もちろんサマリヤ人だ」と答えました。すると、『あなたも行って同じようにしなさい』と語られました。

 私たちも人生の中で、誰かを助けなければならないけれど、関わると大変だと思うことが多くあります。しかしここは「永遠のいのち」との関わりについての教えです。身の回りには色々な問題を持っている人々がいます。実際に助けることは、容易ではありません。社会問題がたくさんありますが、政府が一丸となって取り組んでもうまくいかない問題が多いのです。教会が関わっても駄目な問題も多いのです。

 聖書もヒューマニズム的にとらえられやすいのですが、聖書の記述は「永遠のいのち、天に名が書き記される」という目的をもって書かれていますので、誰かが天に名が書き記されるために「隣人となる」ことが大切です。

 皆さんの周りに、まだイエス様を知らない方々が多くいると思います。そのような方々のために、心砕いて祈ることが必要です。また、もう一歩進んで、イエス様を伝えることが必要です。その時、自分どころか、隣人の名も天に書き記されるのです。またその人も深く主を求めるようになり、イエス様との個人的関係の中で、隣人を助けるように変えられるのです。そのような中で、後の雨のように、聖霊様が来てくださり、地が潤されるというリバイバルが起こるのです。

 私は以前、よくウォーキングしていましたが、最近はあまりしていません。ある方に「最近、先生歩いていないでしょう。少し太って来たからわかる」と言われました。それで私は、再び歩くようになりました。歩きながら音楽を聴いたり、御言葉を聞いています。

 先々週、道を歩いていると、すごい声が聞こえました。あるブラジル人女性が電話で激しくやりとりをしていました。私はそばを黙って通り過ぎようとしました。巻き込まれてはめんどうだと思いました。私は知らんぷりして、音楽を聴きながら通過しようとしました。

 けれども気になったので、「どうしたのですか?」と聞きました。その女性は電話で自分の夫に、「あんたなんか信用できない。出て行け!」と言っているようでした。そばで見ていて大変な状況でした。

 夫婦を壊す大きな力が「偽り」だと思います。その夫婦には偽りがありました。ご主人は朝、「仕事に行ってきます」と言って、弁当を持って出かけて行きました。しかしそれは嘘で、彼は遊びに行きました。奥さんは、主人は仕事に行っているものと思い、ご主人の会社に行くと、車はなく、タイムカードも押されていませんでした。友達に聞くと「今日は来ていない」と言われたそうです。

 奥さんはご主人から裏切られました。そうなると、夫婦間はごちゃごちゃします。奥さんが何回電話をしてもご主人は電話に出ません。なぜなら、仕事をしている振りをしていたのです。何度メールしても、電話はかかってきませんでした。

 すると奥さんも大嘘をつきました。ご主人に、「子どもが交通事故にあって入院した」という嘘メールを出したのです。それまで、全く知らんぷりで反応しなかったご主人が、すぐに電話してきました。そして、今から病院に行くというのです。奥さんは、病院の前で待っているというのです。

 はじめそのことを聞いて、私は、「あんた方、せいぜい頑張ってね!」と思っていました。しかし反面、この夫婦をこのまま放っておいたら、いずれ壊れると思いました。

 すると心の中に、「この二人のために、回復を祈ってやれよ … 」と言われてるような気がして来ました。

 それで私は、「病院前でご主人と出会ったら、喧嘩しないで教会に来てください」と勧めました。しかし彼女はそれよりも、「会ったらその場で離婚だ!」と怒っていました。私はもう一度、落ち着くように言いました。それから奥さんは、ご主人と対決するために、出かけていきました。

 私は二人を教会で待っていましたが、なかなか来ませんでした。「もう寝よう」と思っていたら、夜中の一時頃、電話がかかって来ました。「二人でいまから教会に行きます」

 それで私は、夜中の二時ごろまで話を聞いて、二人のためにお祈りをしました。「互いに嘘をつくのは良くない。互いに許し合っていきましょう」と話しました。

 しかし話をよく聞いてみると、この問題は二人だけでなく、同じようなテーマが家系の中に発生していることを知りました。両親も同じように、離婚した経緯がありました。特に、奥さん方のことを聞いたら、お父さんが大きな問題を持っていました。私は、問題の根本的解決のためには、彼女のお父さんに伝道しなくては、娘夫婦はうまくいかないだろうと思いました。だから私はその人に、「お父さんが問題を持っているから、お父さんにイエス様のことを伝えてください」と言いました。私はお父さんや家族は、ブラジルに住んでいると思っていましたら、「お父さんとお母さんは、今、豊川に住んでいる」というのです。すると「おまえ。豊川まで出かけて行き、お父さんと出会って伝道したらどうだ。」と言われているような気がして来ました。

 それで私は、先週の日曜日の午後、お父さんに会いに出かけて行きました。そして、色々な話をしていく中で、お父さんは心を開いてくださいました。彼は自分自身の問題を話してくれました。私は、「そのような問題を解くためには、お父さんが家長として、イエス様を信じ祈らなければなりません。イエス様を信じますか?」と言いました。すると「信じる」と言われました。私は一家の祝福と回復を祈りました。また、お父さんと、いつか一緒に釣りに行くことも約束してしまいました。

 通りかかったときに「隣人を愛すること」について教えられ、実行したとき、娘夫婦は仲良くなり、娘の両親も主を信じ受け入れたのです!

 今週も神が私たちに、時を与えてくださいます。色々な人と会わされ、「この人の為に祈ってあげなさい。この人にイエス様を伝えなさい」と言われるかも知れません。それが、永遠のいのちにつながり、主を求めることにもつながります。主を切に求め、勇気を失うことなく、決勝点を目指して進んでいきたいと願います。お祈りします。


[バックナンバー]