「さあ、再建に取りかかろう!」
〜人生再建の法則〜

2005.7.31(SUN)
新城教会 滝元 順師

旧約聖書 ネヘミヤ記 2 章 17 節〜 18 節
それから、私は彼らに言った。「あなたがたは、私たちの当面している困難を見ている。エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼き払われたままである。さあ、エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上そしりを受けないようにしよう。」そして、私に恵みを下さった私の神の御手のことと、また、王が私に話したことばを、彼らに告げた。そこで彼らは、「さあ、再建に取りかかろう。」と言って、この良い仕事に着手した。

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。三週間ぶりに新城教会で礼拝メッセージを取り次ぐことができて感謝します。

 今年は、「北関東リバイバルミッション」が開かれるので、準備しています。私もその関係で、色々な教会で奉仕をさせていただいています。二週間にわたり、茨城県と群馬県において奉仕をさせていただきました。また、先週の月曜と火曜日は、北関東の先生方が集まって祈祷会をしました。三十名以上の牧師たちが集まり、ともに日本のリバイバルを祈りました。その祈祷会は五月に第一回目が行われ、大変祝福されました。同じ地域の牧師たちが集まり、同じ目的で真剣に神に叫んで祈る素晴らしいひとときでした。そこには、今は亡き、田中政男先生がおられ、最後に「提案がある」と言われました。そして、「もう一度この祈祷会をしたい」と語られました。なぜならば、その祈祷会がとても祝福されたからでした。「先生、その時には来てくださいよ。」と言うと、「私はもうすでに予定が入っている」と言われました。しかし田中先生は、今回、天でその祈祷会に参加されたのではないかと思います。主が、日本の再建に取り組んでくださっていると強く感じました。

 先ほどお読みしたネヘミヤ記から「さあ、再建に取りかかろう!」というタイトルで学びます。今日は、旧約聖書の中に出てくるストーリーです。私は最近新しい聖書を買いました。旧約聖書と新約聖書で「聖書」と呼ばれます。旧約聖書は、イスラエルの歴史が中心を占めています。

 イスラエルに国家的大事件が二度ほどありました。その一回目は、イスラエルがエジプトの奴隷になったことでした。そして第二回目は、バビロニア帝国にまたもや奴隷にされたことでした。今日お読みしたネヘミヤ記は、ユダヤ人たちがバビロニア帝国から助け出され、自分の国に戻った頃のことです。年代を大雑把に言うと、「紀元前五百年頃」の出来事です。今から二五〇〇年程前のことです。

 聖書は文字通り、「イスラエルの歴史」として捕らえることができますが、同時に、今を生きる私たちにも適応されます。ネヘミヤ記の前に「エズラ記」がありますが、エズラを通してバビロンからユダヤ人は解放されました。彼らは自分の国に帰ってきて、まず、神の宮を建て直しました。そしてその後、ネヘミヤは、町を守る城壁を建て直す仕事をしました。今日はそこから学びます。

 これを私たちに適応するならば、人生を再建するために必要なことは、まず初めに「神の宮が建て直される」ということです。人間の不幸の中心は、神との交わりが断たれていることに原因があります。人間はもともと、神によって創られているのですが、そのパイプが切れていたらどうでしょうか。神からの力は人生には流れません。まず、神の宮が建て直されることにおいて、神との関係が正常になり、神からの力を受けることができます。

 ここにおられるほとんどの方は、神様との関係が修復された方たちです。もしも今日初めて来られた方は、ぜひ関係を修復して帰ってください。そうすれば人生が変えられます。

 ユダヤ人たちは、廃墟と化した自分の町に戻ってきたのですが、最初にしたことは神の宮を建て直したことでした。その後、ネヘミヤを通して行われたのが、町の城壁の再建でした。

 イスラエルに行くと、聖書の世界がよくわかります。今年私は、イスラエルに二回も行きました。今も昔と同じ場所にエルサレムはあります。ですから、今から千年、二千年も前の城壁の跡を見ることができます。

 城壁とは何か?それは敵の攻撃から身を守る為の施設です。人生には色々な攻撃が仕掛けられますが、城壁が再建されるとは「人生の守り」とも言うことができます。ネヘミヤ記から、守りのためにどうしたら良いかを、歴史的事実を通して学ぶことができます。ぜひ、ネヘミヤ記をお読みください。これは私たちの人生にも対応し、日本のリバイバルにも対応します。すべての回復についての適応として、学ぶことが出来ます。

 さて、三章一節から三節には、城壁がどのようにして建て直されたのかが、記されています。

『こうして、大祭司エルヤシブは、その兄弟の祭司たちと、羊の門の再建に取りかかった。彼らはそれを聖別して、とびらを取りつけた。彼らはメアのやぐらまで聖別し、ハナヌエルのやぐらにまで及んだ。彼の次にエリコの人々が建て、その次にイムリの子ザクルが建てた。魚の門はセナアの子らが建てた。彼らは梁を置き、とびら、かんぬき、横木を取りつけた。』

 三章から、城壁が色々な人々の手によって建て直された様子を記しています。私たちの人生においても、同じことが言えます。自分一人の力ではどうにもなりませんが、周りの協力によって、建て直されていくのです。教会に来ると、それまで持っていた価値観が変えられます。そもそも、私たちが住んでいる世界は「強いものに価値がある」という価値観の中に生きています。弱かったら良いポジションを受けることはできないし、何しろ、人よりも強くなくてはいけない、という考え方の中に生きています。特に、この日本はその考えが強いように感じます。その背景に、教育の中で進化論がまことしやかに、真理かのように語られているという現実があるからです。進化論はそもそも、自然淘汰で生物の進化を説明しているので、弱い種族は強い種族に滅ぼされたということです。ですから、知らないうちに、「弱いものは滅びて、強くなければ生き抜くことはできない」という考え方が根底に置かれるのです。だから、なかなかうまくいきません。問題の根底に、神を認めないという考え方があるのです。

 しかし教会に来ると、その考え方が変わります。人は神によって創られたのです。進化論はすべて偶然の産物です。すべてが突然変異です。しかし私たちは、創造主なる神を認めることができます。創造者なる神が、私たちと共におられること、私たちひとりひとりに、適切な目的が定められていることを知るのです。同時に、聖書には個人の位置づけが示されています。第一コリント十二章二十七節に、

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』

 人間の体は、色々な器官で構成されています。今日ここに、三百名以上の方々がおられますが、ひとりひとりが、キリストのからだの各器官です。人間は目に見えるところに大きな価値を置きます。見えるところが立派ならば、「この人は素晴らしい人だ」と思います。見えるところが立派ではないと、「あまり価値がない」と考えるかも知れません。しかし教会は、そのような所ではありません。キリストのからだの各器官であると教えていますので、ひとりひとりがなくてはならない存在であり、誰一人欠けてもいけないのです。第一コリントの十二章二十二節には、

『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。』

とあります。私たちのからだの中で、生きるためにどうしても必要なものは、内側にしまわれています。お腹の中には内蔵があります。それらは生きるために、どうしても必要なものです。それは見えないところに隠されています。

 ミス・ユニバースコンテストがありますが、そこで選ばれる女性たちは外見が美しい人たちです。選ばれる人は相当美人と言われる人です。美人コンテストは、多少胃腸が悪くても問題はありません。いつも胃薬を飲んでいても、駄目だとは言われません。この人は世界一胃腸が強かったから優勝したということはありません。外だけを見て判断されます。けれども、実際、私たちが生きていくために必要なところは、見えないところです。人生も同じです。多くの方がおられ、ある人は目立ち、ある人は目立たないかも知れませんが、目立たない人の方が重要です。教会の中で一番重要な人はどなたでしょうか?あえて言うならば、あまり目立たない人です。逆に、一番目立つ人は、教会の中で誰でしょうか。もしかしたら、牧師かも知れません。それはあまり重要ではないのです。目立たない方々は重要です。

 ある時、私の所にある方が来られ、「私のために祈ってください。」と言われました。「どうしたのですか?」と聞くと、「私は最近、あまり祈ることができなくなったので、祈りの力が回復するように祈ってください」と言われました。私は牧師なので、「あなたが祈れるように祈ります」と言いました。しかし、「ところであなたは、毎日、どのくらい祈っていますか?」と聞くと、その方はあまり他の人と話すのは得意ではないようですが、神様と話すのが得意で「一日六時間くらい祈ります」と言われました。私は、「十分祈っているのではないか。すごい」と言いました。「ところで祈れないというのは、どのくらい祈れないの?」と聞くと、「三時間しか、祈れなくなってしまいました」と言うのです。十分祈っているではないか、と思いました。

 陰で真剣に祈ってくださっている方々がいます。私の働きは目立つ働きなので、あまり重要ではないのかも知れません。しかし背後で祈ってくださっている方々によって、力をもらって働くことができます。いつも皆さんの祈りに支えられて、働きができることを感謝しています。弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないのです。そして各人が、「キリストのからだの各器官」なので、自分の再建のためには、お互いを必要としているのです。今日お隣に座っておられる方々は、あなたにとって重要なキリストの体の器官です。ですから、いつもお隣の方を祝福し、仲良く信仰生活を歩むことが大切です。お近くの方に、「私にとってあなたは重要な人です」と挨拶してください。互いがキリストのからだとして、一つとなっていきたいと思います。

 ネヘミヤ記を読むと、城壁を再建するにあたり、色々なタイプの人たちがいたのが分かります。私たちの人生にも、周りに色々なタイプの人たちがいます。そんな色々なタイプのコラボレーションによって、回復は前進していきます。ネヘミヤ記の三章十二節に、

『その次に、エルサレムの残りの半区の長、ロヘシュの子シャルムが、自分の娘たちといっしょに修理した。』

 ここにシャルムという人が出てきます。彼はエルサレムの城壁を修理するときに、「自分の娘と一緒」に修理したとあります。地域社会に属していると、色々なお役があり、公園や川の掃除などがあります。なかなか、家族総出で自主的に手伝う人は、いないと思います。エルサレムの城壁を再建するときにも、地域住民が出て修理をしたと思いますが、シャルムという人は、自分の娘まで連れてきて一家総出で仕事をしました。私たちが神に仕えていくときに、一家で仕えることができるならば、どんなに素晴らしいではないでしょうか。聖書は、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』と教えているので、家族総出で神様のために、また、日本のリバイバルのために用いられることを祈りたいと思います。

 先週の金曜日に、H兄のお父さんが亡くなられました。お父さんはこの教会に、来られたことはありませんでしたが、病床でイエス様を信じました。それまで偶像礼拝に熱心な奥さんが、葬式を教会式でやってくださいと言われました。嬉しかったです。すぐに私たちは、お手伝いをさせていただきました。今日も、午後一時から葬儀がありますが、来られる方は皆イエス様を信じておられない方々ですので、皆が主を知ることができるようにお祈りください。

 しかし日本では、葬式を変えることにはたいへん勇気がいります。今まで仏教でやっていたのを、キリスト教式でやるのには、まわりから色々な意見が出ます。

 私が行くと、一人のおばさんが固い表情をされており、「新城教会の牧師です。葬儀をお任せください」と言うと、嫌そうな顔をされていました。なぜかと思いましたが、こんな時にキリスト教に変えたら、「たたりが来る」というのです。そのたたりも、今の代ではなく、次の代に来るからキリスト教に変えてはいけない、というのです。私はたたりが来るような葬式をやっていてはいけないと思いました。仏教から変えたら、たたりが来るというのでは、仏教の背後に何がいるのかと思います。キリスト教には、たたりはありません。神は祝福の神であり、私たちを再建してくださるお方です。絶対にたたりはありません。またキリスト教では、長い間拝んであげないと極楽に行けないというようなものではなく、「死んだら即、天国に行くことができますよ」と話しました。するとその方も理解されました。

 ネヘミヤ書三章二十節に、

『そそのあとに、ザカイの子バルクが、城壁の曲がりかどから大祭司エルヤシブの家の門のところまでの続きの部分を、熱心に修理した。』

 ここには「熱心に」と記録されています。教会も熱心に祈ってくださる方々などの「熱心さ」によって支えられています。私たちも一度しかない人生、神への「熱心さ」は重要なことだと思います。主の前に熱い心を持ちたいと願います。

 私は「全日本リバイバルミッション」の働きをしていますが、頭が下がるほど熱心に支えてくださる方々が多くおられます。この働きは、十二年前の甲子園ミッションから始まったのですが、毎年変わらずに熱心に支えてくださる方がいます。特に私は、この新城教会の兄弟姉妹に、心から感謝しています。定期的に支えてくださり、熱心に祈ってくださるこの群れがなければ、今までやってくることは出来ませんでした。

 バルクという人物が熱心に修理したと書かれていますが、私たちも熱い気持ちを持って、神様のために働いていきたいと願います。

 さて、それとは反対に、こんな人も出てきました。ネヘミヤ記三章五節に、

『その次に、テコア人たちが修理したが、そのすぐれた人たちは彼らの主人たちの工事に協力しなかった。』

 時々、あまり協力してくれないという人もいます。人生の中にも、そのようなことがあります。協力的な人もいれば、あまり協力しない人もいます。聖書の時代も同じでした。みんなで城壁を建て直そうという熱心さもあるのですが、あまり協力しない人もいたのです。また三章二十三節に、

『そのあとに、低地の人々である祭司たちが修理した。そのあとに、ベニヤミンとハシュブが、彼らの家に面する所を修理した。そのあとに、アナネヤの子マアセヤの子アザルヤが、自分の家の近くを修理した。』

とあります。アザルヤは、「自分の家の近くだけ」を修理したというのです。更に、もっと要領の良い人がいます。三章三十節に、

『そのあとに、シェレムヤの子ハナヌヤと、ツァラフの六男ハヌンが、その続きの部分を修理した。そのあとに、ベレクヤの子メシュラムが、自分の部屋に面する部分を修理した。』

 メシュラムは、「自分の部屋に面する部分」だけを修理したのです。色々な人がいます。

 私も小学校の時に、よく言われました。母が父兄会に行くと、いつも嫌な顔をして帰ってきました。それは先生から、「この子は掃除をよくさぼる」と言われたからです。私にはさぼったという意識はありませんでしたが、どうもそうだったようです。私が一番好きな掃除場所は外庭掃除でした。ほうきを持ってチャンチャンバラバラやっているのですが、先生が来ると掃除をしている振りをするのです。先生はよく見ているのです。人生の中には、ずるい人や、もっとずるい人も出てきます。熱心に協力してくれる人もいれば、また、協力してくれない人もいます。自己中心な人もいて、自分のことしかやらない人もいるかも知れません。

 しかしながら、最終的には、そのような人たちが寄せ集まることによって、城壁は再建されていくのです。時々、「周りに熱心な人たちだけを置いてください。協力しない人はいなくなりますように、ずるい人や嫌な人はいない方が良い」と考えます。しかし神様は、色々なタイプの人たちを周りに配備し、再建の仕事に協力させて下さるのです。日本のリバイバルも、まさに同じかも知れません。

 さて、ネヘミヤ記四章一節から三節に、

『サヌバラテは私たちが城壁を修復していることを聞くと、怒り、また非常に憤慨して、ユダヤ人たちをあざけった。彼はその同胞と、サマリヤの有力者たちの前で言った。「この哀れなユダヤ人たちは、いったい何をしているのか。あれを修復して、いけにえをささげようとするのか。一日で仕上げようとするのか。焼けてしまった石をちりあくたの山から生き返らせようとするのか。」彼のそばにいたアモン人トビヤもまた、「彼らの建て直している城壁なら、一匹の狐が上っても、その石垣をくずしてしまうだろう。」と言った。』

 「サヌバラテ」と「トビヤ」という人物が出てきますが、この人たちはただ協力しないとか要領が良いというのではなく、「城壁の再建に積極的に反対」し、「妨害」しました。トビヤは「おまえたちが作り直している城壁なんか、一匹の狐が上ってもその石垣は崩れてしまう」と士気を崩すようなことを言いました。

 最近テレビを見ていたら、のどかな風景が映り、皆で牛を追っているのです。牛が逃げてパトカーが追跡しているのです。「日本も平和だ。牛一頭でこんな騒ぎになるなんて・・。いったいどこだろうか?」と思ったら、「新城」と出たので驚きました。この教会に来られている方の家は、牛に体当たりされてドアが壊れたと言われました。大変なニュースになっていました。牛ならばともかく、一匹の狐で壊れると言われたのです。その人たちは、工事を積極的に「妨害」しました。ネヘミヤ記四章十一節に、

『一方、私たちの敵は言った。「彼らの知らないうちに、また見ないうちに、彼らの真中にはいり込んで、彼らを殺し、その工事をやめさせよう。」

とあります。協力しないとか、要領がいいと言うのはまだ良いのですが、妨害する力も働いてきました。

 人生にも、積極的に妨害するような出来事が、時には起こって来ます。また、そのような行為をする人物が現れたりします。そのような勢力が立ち上がってくると、私たちはやる気を失います。

 リバイバルミッションの働きに協力をしないとか、悪口を言うくらいならば良いのですが、積極的に妨害する力も持ち上がり、働きを壊されるようなこともよく体験しました。

 しかし特に、このネヘミヤ記から学びたいことは、このような妨害が起こる背後に、霊的な世界とのつながりがあったのを見ることができます。

 人生の中に、色々な妨害や問題が起こったときに、恐れて引き返してはならないのです。信仰生活という枠組みの中で、イエス様のために固く信仰に立っていこう決心するときに、色々な妨害が起こることがあります。しかしそのような時、私たちは、心を強くして戦っていかなければなりません。

 サヌバラテとトビヤが現れたことによって、ユダヤ人たちは恐れました。もうやめようかと心くじかれました。しかし、そのような時、ネヘミヤは大変素晴らしい言葉を語りました。四章十四節に、

『私は彼らが恐れているのを見て立ち上がり、おもだった人々や、代表者たち、およびその他の人々に言った。「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」』

 私たちがイエス・キリストを信じ従っていくことは、自分のためでもありますが、同時に、「兄弟、息子、娘、妻、また家のため」なのです。私たちの信仰は、未来に関して責任があります。自分だけではなく、自分の未来、ある人の未来、特に、自分の兄弟、息子、娘、妻、また家のための戦いです。イエス様を信じて、偶像を拝まないでクリスチャンとして歩んでいこうとするならば、大きな戦いがあります。しかしその戦いは、あなただけではなく、家族や家をも救い出す戦いなのです。だから、恐れてはいけないと語られています。

 さて、ネヘミヤ記の前にはエズラ記があります。ここにも妨害者が出てきます。しかし神は、そんな妨害の中でも彼らを助け、神の宮は建て上げられました。これはネヘミヤ記との関連の中で起こったことです。

 エズラ記五章一節から五節に、

『さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも彼らといっしょにいて、彼らを助けた。そのとき、川向こうの総督タテナイと、シェタル・ボズナイと、その同僚とがやって来て、こう言った。「だれがあなたがたに命令を下して、この宮を建て、この城壁を修復させようとしたのか。」そしてまた、「この建物を建てている者たちの名は何というのか。」と尋ねた。しかし、ユダヤ人の長老たちの上には神の目が注がれていたので、このことがダリヨスに報告され、ついで、このことについての書状が来るまで、この者たちは彼らの働きをやめさせることができなかった。』

 バビロンから帰還した人々が、神の宮を建て直す工事を始めたとき、川向こうの総督タテナイとシェタル・ボズナイという者たちが来て、「誰の許可で宮を建てているのだ。やめてしまえ!」と大変な妨害がありました。しかし神はその働きを守ってくださったと記録されています。

 聖書は立体的に読まなければ、その事実が浮かび上がって来ない部分があります。エズラ記に「イドの子ゼカリヤ」とあります。また「エホツァダクの子ヨシュア」という人物が出てきます。この二人に心の留めましょう。

 ゼカリヤは預言者でした。彼が預言した言葉が記されているのが「ゼカリヤ書」です。ゼカリヤ書は、エズラ記からは遠く離れたところに位置していますので、なかなか気づかないのですが、ゼカリヤ書を見ると、妨害の場面が違った視点で記されています。

 ゼカリヤ書三章一節に、

『主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。』

とあります。「大祭司ヨシュア」と記されていますが、これはエズラ記の「エホツァダクの子ヨシュア」と同一人物です。彼は国を代表する大祭司でした。ヨシュアもゼカリヤも神の宮・城壁を建て直す工事現場にいました。工事中、川向こうから敵の勢力がやって来て、「工事をやめてしまえ!」と妨害しました。

 また、ネヘミヤ記には、サヌバラテやトビヤが来て、その工事を中止させようとしました。これは現実の世界での反対勢力として、立ち上がった人々でした。しかしゼカリヤはそんな中で、一つの光景を見せられました。

 ゼカリヤ書三章一節から五節に、

『主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。」ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、彼に服を着せた。そのとき、主の使いはそばに立っていた。』

 ヨシュアもゼカリヤも工事現場にいたはずです。工事現場では敵が来て、「工事をやめてしまえ」と脅かしていました。けれども同時に、ゼカリヤは、ヨシュアが汚れた服を着て神の前に立っている光景を目にしたのです。その周りには御使いも立っていましたが、同時に、「サタン」も立っていたというのです。サタンは何をしていたのでしょうか。それは、「ヨシュアの服が汚い」と言って、神の前でヨシュアを訴えていたのです。その同時刻、地上では何が起こっていたのでしょうか?敵が来て、「彼らの工事を中止させようとしていた」のです。

 人生の中にも、様々な問題が起こってきますが、それはこの地上だけの問題ではなく、問題の発生源は見えない世界、霊的な世界から発せられていると教えています。このことに気づかないと、なかなか勝利しないのです。霊的な敵が訴えているがゆえに、その結果として、現実にも苦しめられることが多くあるのかも知れません。

 しかしイエス・キリストを信じるとき、汚い着物が洗われるのです。これはイエス様の十字架の血潮によって、罪がきよめられることにより、敵の訴えが取り下げられることに他なりません。

 同時にゼカリヤは、ヨシュアの横でとりなしをしていました。「ヨシュアの汚い服を綺麗な服に替えてください。また、頭にターバンを巻いてください」と、とりなしをしていました。

 勝利するために必要なことは、周りにとりなしてくれる人がいる事です。城壁を建て直すためには、色々な人がいると話しましたが、色々な人とは、あなたのとりなし手として用意されている人たちのことです。特に、教会に来て得る友とは、単なるお茶のみ友達ではなく、「祈りの友達」を得ることになります。そして私たちは熱心に、友のためにとりなし、祈る者にならなければならない、と教えています。とりなしの祈りによって、霊的世界に勝利がもたらされます。その結果として、エズラ記五章五節に、

『しかし、ユダヤ人の長老たちの上には神の目が注がれていたので、このことがダリヨスに報告され、ついで、このことについての書状が来るまで、この者たちは彼らの働きをやめさせることができなかった。』

とあります。天における戦いに勝利したときに、この地上での戦いにも勝利したのです。ここから、私たちの視点が、この地上だけでなく、優先順位が天における戦いに向けられなければなりません。最初に、見えない霊的世界で勝利し、その結果として、地上で勝利を受け取るのです。私たちの戦いは、血肉によるものではなく天における霊的戦いであることに気づかされます。

 ネヘミヤ記四章十六節、十七節に、

『その日以来、私に仕える若い者の半分は工事を続け、他の半分は、槍や、盾、弓、よろいで身を固めていた。一方、隊長たちはユダの全家を守った。城壁を築く者たち、荷をかついで運ぶ者たちは、片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握っていた。』

 敵が来たときに、彼らの仕事のスタイルが変わりました。今までは両手で仕事をしていましたが、それからというもの、「片手で仕事をし、片手には槍を堅く握って」いつでも戦う準備をして仕事をしました。

 その結果、ネヘミヤ記六章十五節、十六節に、

『こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。私たちの敵がみな、これを聞いたとき、私たちの回りの諸国民はみな恐れ、大いに面目を失った。この工事が、私たちの神によってなされたことを知ったからである。』

 なんと五十二日間という短い期間で、エルサレムの城壁は修復されたのです。その背景に、彼らが片手で仕事をし、片手には槍を握っていたという事実がありました。

 私たちにも同じ事が言えます。生活のただ中で、常に片手には槍を握っていること、それは、訴えようとする霊的な敵に立ち向かう意識を持つならば、短期間のうちに城壁が完成したように、私たちは回復するのです。

 ネヘミヤ記の城壁の再建は、ただ単なる城壁の再建ではなく、目に見えない世界との関わりについて教えており、同時に、私たちの人生にも適応できることだと思います。

 先日、群馬県に行ったとき、あるご夫婦と会いました。その方はご自分の息子さんをオウム真理教に捕われています。オウムの事件は十年近く経ち、風化しているように思いますが、まだ裁判は続いています。

 私はある時、その方に頼まれてオウム裁判に行きました。「彼らは執行猶予判決を受けるでしょう。釈放されたら、捕まえて話してください」と言われました。ちょっと緊張しましたが、「はい、何でもやります」と言いました。その時はまだ、オウム事件に対してマスコミの関心が高く、報道陣もたくさんおりました。彼らが釈放されたとき、「キリスト教の牧師です。お話ししませんか」と言っても多分、無理だろうと思いました。警察も協力してくれて、もしも彼らが自主的に話をしたいと言うならば、この部屋を使ってください、と裁判所の中に部屋を貸してくれました。私はそこで待っていようかとも思いましたが、待っていても来ないだろうと思いました。

 それで私は祈りました。「主よ。どうしたら良いですか?」すると、「見える世界で戦っても勝てないから、見えない世界で彼らを縛っている、悪しきものが打ち砕かれるように祈りなさい」と教えてくださいました。

 だから私は法廷に入り、裁判を見ながら真剣に祈っていました。背後の悪魔の力が打ち砕かれるようにと、心の中で祈っていました。「主よ。どうしたらいいですか。どうしたら、彼らに主が働いてくださいますか」と祈っていました。これと言った名案は浮かびませんでした。

 しかしそのうちに、一つのアイディアが浮かんできました。それは、先によく祈っておいて、彼らの背中にでも触ったら、聖霊様が働いてくださるのでは・・・、と思いました。それで、事前によく祈ってから、私の手を彼らの上に置こうと考えました。私は、「彼らにタッチしてやる!」と心を決めて準備しました。

 執行猶予で、彼らはその場で解放されるという予測でした。すでに裁判所の前には仲間たちが待っており、物々しい雰囲気でした。

 やがて裁判が終わり、彼らが解放されると、すごい勢いで彼らは仲間の車に向かって走っていきました。報道陣やテレビカメラも彼らを追いかけて行きます。その一団と共に、私も走りました。なんと、私は一番速く走り、彼らが仲間の車に飛び込むと同時に、私もその車の中に飛び乗りました。そして彼の背中を、思い切り叩きました。

 すると、「誰だおまえは!!」と言って、私は車から押し出されてしまいました。周囲の人が、「あなたはどういう関係ですか。どなたですか?」と言われましたが。あれで何か起こったのかな・・・と思っていました。

 しかし今回、嬉しいことがありました。彼がある人に宛てた手紙で、「僕は組織に疑問を感じているのです。これからどうしたらいいかな」と書いてあったからです。神が見えない世界で勝利を与えておられると感じて感謝しました。

 ぜひ祈ってください。私はその方のために、解放の祈りをさせていただきたいと願っています。私が一瞬でも手を置いたとき、彼らを訴えていた悪魔の力が砕かれ始めたのだろうと思いました。ある時には、勝利まで時間がかかるかも知れません。またある時は、短い時間で新しいことが起こるかも知れません。しかし、目に見えない世界で勝利を得るとき、見える世界でも確実に、勝利を得るという法則を学ぶことができます。

 教会は目に見えない世界で勝利する秘訣を学ぶ場所でもあります。いつも祈りと共に仕事をするなら、勝利が与えられます。今週も、片手に槍を持ち、戦いの油注ぎを受け取りましょう。お互いのために、とりなし祈るとき、神の勝利が現されます。今日すべての方が、見えない世界で勝利を勝ちとり、新しいいのちを受けることができるように祈ります。


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