「クリスチャンって最高だ!」

2005.8.7(SUN)
新城教会 滝元 順師

新約聖書 エペソ人への手紙 1 章 17 節〜 19 節
どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

 ハレルヤ!先週に引き続いて、御言葉を取り次ぐことができることを心から感謝します。暑い中にありますが、いかがでしょうか。体調を崩さないように、気をつけてください。

 今日は「クリスチャンって最高だ!」というタイトルで学びます。一般的に、クリスチャンは、堅くて、暗くて、つまらない人たちの集団のように思われているかも知れません。しかし、決してそうではありません。クリスチャンは「最高」です。イエス様を信じるならば、最高の人生を歩むことができます。

 何年か前に、私は『クリスチャンって最高だ!』という本を出版しましたが、お読みいただけましたか?ぜひ、お読みください。一冊だけ、今、手元にあるので欲しい方がおられたら、差し上げますがいかがでしょうか?教会に来られたら、ぜひ、積極的に祝福を受け取ってください。

 今日お読みした御言葉は、「クリスチャンって最高だ」ということが「よくわかりますように」という、「祈りの言葉」です。パウロは自分で体験し、エペソの教会の人たちも、「目が開かれるように」と祈りました。十九節に、

『また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』

 「信じる者に働く神の力」がどんなに素晴らしいものであるかを、知ることができますようにという祈りです。

 ここには、多くのクリスチャンがおられます。あなたのクリスチャン生活はいかがでしょうか。イエス様を信じる前の人生とは、全く変わってしまったと感動されている人もいると思います。また、クリスチャンの「ク」は苦しいの「苦だ」と落ち込んでいるかも知れません。しかし皆が「最高だ!」と言えるようになりたいですね。

 奥さんがご主人に、「ねえ、あなた。美しい女性と、頭の良い女性のどっちが好き?」と聞きました。するとご主人は、「何を言うんだい。僕にとって君が最高だ!」と答えました。これは、「あなたは美しくも、頭も良くない」と言わんとしています。イエス様は私たちを、最高の作品として創られ、素晴らしいものを用意されています。

 さて、「クリスチャン」という言葉は、使徒の働きに記されています。十一章二十六節に、

『彼を見つけたうえ、アンテオケに連れて帰った。ふたりは、まる一年、ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた。このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。』(口語訳)

 アンテオケは、イスラエルからさらに北上した場所ですが、そこを拠点に異邦人に宣教が広がりました。そこから、「クリスチャン」という名前が使われるようになりました。当時、クリスチャンという言葉はありませんでした。「クリスチャン」とは、英語で「 christian 」で「 christ + an 」でできています。それは、「キリストに似た者」という意味です。「キリスト」とは、どのような意味かご存知でしょうか。

 先週の「ゴスペル・ステーション」を聞いていたら、キリスト教用語を話題にしていました。「クリスチャン」について、「イエス」という名について、また「アーメン」という意味についてなど、パーソナリティーにかなり突っ込まれていました。私は、彼らがうまく答えることができるだろうかと、手に汗握っていましたが、結構うまく答えていました。後から、「ちゃんと、打ち合わせをしているのか」と聞きましたが、「あまりない」と言っていました。

 「キリスト」とは、「油注がれた者」という意味です。「油注ぎ」とは、かつて、王となる権威の象徴として、オリーブ油が頭に注がれました。「キリスト」とは、「権威づけられた者」という意味です。そして、「クリスチャン」とは、「権威づけられた者に似た者」という意味になります。ですから、私たちにも、素晴らしい権威が備えられているということです。決して、弱々しい者ではなく、権威づけられたイエス様に似た者であるのです。

 エペソ一章二十節から二十一節は、イエス様について書かれています。イエス様がこの地上に来られたときには、完全な人間のとして来られました。ですから、イエス様の姿は、クリスチャンの人生に対応します。

『神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。』

 イエス様は十字架にかかられ、死なれましたが、神の力によってよみがえらされ、神の右の座につかれました。これは、「人としてのイエス様」という視点で記されている言葉です。同時にエペソ二章五節から六節には、

『罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』

とあります。これは、私たちのポジションについての教えです。キリストに似た者であるクリスチャンは、イエス様とともによみがえり、「ともに天の所に座っている」というのです。今日皆さんは、ご自分の座席に座っていますが、もう一カ所座っている場所があります。それは、天において神の右の座に座しておられる、イエス様と共に、「天に座っている」という、権威のポジションです。私たちは常に、イエス様と同じポジションに、権威ある存在として位置づけられています。

 先週は、私たちを「天で訴える存在がある」という話をしました。しかし私たちが、イエス様のポジションにともに座っている立場があれば、悪魔は、天において私たちを訴えることはできません。そもそも、私たちは、「恵みによって」救われました。救いは努力のたまものではなく、恵みによって救われたのです。私たち日本人は、努力しなければ救われないと考えます。聖書を短期間に読み切ったら救われるとか、一日一時間以上お祈りができたら、救われるというのではありません。一方的に、神の恵みによって救われます。

 マルコの福音書十六章十六節に、

『信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。』

とあります。救いとは、心に信じて義と認められ、告白によって救われます。しかしここには、信じて、「バプテスマを受ける者は救われる」と記されています。先週バプテスマがありましたが、バプテスマはある意味で儀式のようです。プロテスタント教会で行われる儀式のようなものは、「バプテスマと聖餐式」です。しかしそれらには、神秘的意味合いがあります。バプテスマはただ、水の中に浸かって出てくるだけですが、私たちの救いと関連性があります。バプテスマには、努力はいりません。ただ単に、水の中に入って出るだけです。しかし目に見えない世界で、大きな変化が起こります。まだ、バプテスマを受けておられない方は、ぜひ受けてください。特に、「クリスチャンって最高だ」という、権威の領域において大きな意味があります。

 バプテスマの時に引用する御言葉があります。それはコロサイ人への手紙二章十二節から十五節です。

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

 教会とは、ある意味で礼典の執行、すなわち、バプテスマを授けたり、聖餐式を行ったり、礼拝を行うことが一つの目的としてうたわれています。しかし、教会がどのような理念で、バプテスマを授けるかはたいへん重要なことだと思います。

 ある方が、「私はバプテスマを受けても、何も変わらない。」と言いました。私が「少しくらいは変わったでしょう」と言うと、「う〜ん、何も変わっていない。強いて言えば、献金袋をもらったことかなあ。」と言われました。それでは寂しいです。

 イエス様を信じれば、救われます。暗闇から光に、サタンの支配から神の支配下に移され、永遠の国・天国に移ることができます。だから、救われるためには、バプテスマは絶対条件ではありません。亡くなる寸前の方に、「バプテスマを受けましょう」と言っても無理です。しかし「イエス様を信じます」と告白すれば救われます。救いは瞬間的なものです。イエス様と一緒に十字架につけられた強盗がいました。二人の強盗がののしっていましたが、一人の強盗は途中で突然我に返って、「イエス様。あなたがパラダイスに行くときには、私を覚えてください」と言いました。その時イエス様は、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われました。これは、イエス様が神である証拠です。私ならば、「舌が渇かないうちに、何を言っているのだ … 。おまえは地獄だ。」と言い返してしまうかも知れません。今まで、ののしっていた強盗も瞬間的に救われ、彼は天国に入ったのです。私たちも、天に行ったらその強盗と会うことができると思います。彼のことを、「世界で一番運の良い男」だと思っていると、「あなたもそうですよ」と言われるかも知れません。瞬間的に私たちは救われます。

 しかし、バプテスマの意味は、

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

 新城教会におけるバプテスマは、この御言葉の概念を中心に行われています。イエス様がよみがえられた時に、「わたしは天においても地においても、いっさいの権威を受け取った」と語られました。「いっさい」という言葉は、よみがえられて初めて使われた言葉です。この「いっさいの権威を受け取った」という言葉は、コロサイ二章と対応しています。バプテスマとは、イエス様の十字架の死と、よみがえりを意味しています。イエス様が十字架にかかられて、よみがえられた時、いっさいの権威を受け取ったのならば、私たちもイエス様のように十字架にかかって死んで、三日目によみがえれば同じように、「いっさいの権威」を受け取ることができるはずです。十字架にかかって、死ぬことまではできるかも知れませんが、三日目によみがえることなどできません。しかし、同じコースを、バプテスマにおいて瞬間的に辿ることができます。バプテスマを受けるときに、イエス様がこの地上で歩まれた、「限定付きの権威」ではなく、「いっさいの権威」を受け取って、歩むことができるのです。

 バプテスマは、「よみがえりの権威」を受ける取る瞬間です。既に、バプテスマを受けられた方は、しっかりと信じてください。バプテスマを受けた後は、イエス様の公生涯の権威から、「よみがえりの権威」へと移されたのです。

 しかしながら、「権威」とは、一言で言えば、「他者に対する圧力」です。たとえば、会社の社長は、社員に対する圧力を持っています。従業員たちは、社長の権威によって働きます。ですから、権威は使い方を誤ると、大変なことにもなり兼ねません。

 クリスチャンには権威がありますが、それはどのようなものでしょうか。エペソ人への手紙を書いたのは、「パウロ」です。パウロの人生の中で最大の発見は、エペソ人への手紙六章十節から十二節の言葉に現されていると思います。

『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』

 彼の人生における最大の発見は、『私たち格闘は血肉に対するものではない』ということでした。私たちの人生は、目に見える領域にあり、それがすべてと思いがちですが、私たちの人生の中での戦いは、『主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天にいる諸々の悪霊に対するもの』と教えています。これは考えてみれば、すごい言葉です。逆から言えば、「目に見える領域の戦いはない」ということです。戦いとは、そもそも、悪霊との戦いであると言っているのです。私たちはこの御言葉を知っていますが、「リアリティー」をもって実践することはなかなか難しいです。現実の世界と共に、常に霊的戦いを意識しているかというと疑問です。私はそのような領域で働かせていただいていますが、「私たちの戦いは、血肉に対するものではない」と、言い切ることはできません。「時には、霊的な戦いもあるでしょう」という立場に立ってしまいます。しかしパウロは、「私たちの格闘は血肉に対するものではない」と言い切っています。

 これは彼の、人生の中での最大発見であると思います。すなわち、神が私たちに与えてくださる権威とは、「他者に対する圧力」と言いましたが、これは「暗闇の支配者たちに対する、絶対的権威」なのです。人間間の圧力ではなく、目に見ない世界に対する権威であることを知るのです。

 「クリスチャンって最高だ!」という由縁は、信じてバプテスマを受けるならば悪魔に対して、完全な権威が与えられると言うことです。そして、私たちがその権威を使うためには、パウロと同じように、「私たちの格闘は血肉に対するものではない」という視点に立たなければなりません。

 コロサイ二章十二節から十五節には、第一に「罪が赦される」とあります。過去に犯した罪は、誰でも心に責めとして残ります。「あんな罪を犯さなければ良かった・・・」別に誰からも教えられるわけではありませんが、罪は心の中にしこりとして残ります。

 一般社会の中でも、罪を犯したらそれに対する結果が必ずつきまといます。私は最近交通違反から守られていますが、何年か前に気持ちよくドライブしていたら、人参棒を持った警察官が出てきて、私の車を止めました。警察官は、私たちが悪いことをしていない限り、何の権威も振るうことはできません。しかし、罪を犯した途端、彼らは私たちに対して権威を持ちます。

 「ちょっと速かったですね。」と言われましたので、「えっ?速かったですか。」と言うと、「速かったなんて、言うものではないですよ。三十キロ以上オーバーですよ。ここでは切符が切れないので、裁判所に行ってください。そのうち、呼び出しの手紙が行きますから。ちゃんと行ってくださいね。行かないと、輪っぱを持った者が迎えに行きますから。」と言われました。

 二週間ほどしたら、本当にはがきが来ました。それで裁判所に行くと、待合室に大勢、仲間のような人たちがいました。ちょっとだけ、アクセルを踏み込んだだけですが、「今から裁判をします」と言われました。そして「判決。罰金刑に処す。」と言われ、四万円を支払うように命じられました。四万円払うことができないなら、「収監」という手もありますというのです。それは、一日二千円で二十日間牢屋に入るというのです。私は四万円払えるか少し不安だったので、家族に相談しました。

 夕食の時、私は少しくらい顔をして話しました。「今日、四万円の罰金と言われたけど、一日二千円で収監という手もある。」と言うと、家族は、「牢屋に入ってくれば良いじゃん。メッセージの材料になるに」と言うのです。しかし私は、早々に、四万円を払いました。

 そしてもう許されたかと思うと、今度は「行政処分」がありました。一ヶ月間の免停になり、運転免許試験所で一日講習の為に缶詰です。午前中は法規の授業を受け、午後は自分が加害者になって真っ暗な人生になったという映画を、三本立てで続けて見せられました。もう帰るときには、ほとんど自分が加害者になってしまった気分になって、肩を落として帰りました。「罪の報酬は死である」と聖書は教えていますが、地上においても、罪に対する報いを受けなければなりません。私たちは人生において、たくさんの罪を犯しています。神の前に出たら、死刑判決以外には無いことでしょう。

 しかし、イエス様を信じたら、「罪が赦され」ます。ローマ書六章十七節から十八節に、

『神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。』

 また六章二十三節に、

『罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。』

とあります。罪が全て赦され、あなたに永遠のいのちを与えるというのです。神が語られているので真実です。クリスチャンは最高です。イエス様を信じるならば、過去の罪がすべて赦されます。多くの方が、精神的な問題で苦しんでいます。しかしその多くが、過去に犯した罪の呵責で苦しんでいます。罪の赦しを受け取ったら、どのくらい多くの人が精神的な病から解放されるだろうかと、ある精神医学者が語っていました。イエス様を信じたら、私たちの罪が赦されると聖書が教えています。ヨハネ三章十六節から十八節に、

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』

とあります。私たちがイエス様を信じるならば、死からいのちに移される、罪が赦されると教えています。素晴らしいことです。

 そして罪が赦されることと同時に、コロサイ二章十四節に、

『いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。』

とあります。「クリスチャンって最高だ」と言える根拠として、「債務証書が無効になる」ということです。

 罪とは、そもそも「十戒」という旧約聖書にある、神と人との契約書に基づいて定められます。私がスピード違反をしたのも、「この道路においては四十キロ制限」と決められているのを、七十キロ以上で走ったので罪に定められたのです。明らかに、私が悪かったと思います。これは法律に基づいています。これは、日本に住む者たちすべてが日本国政府と交わす「契約」なのです。

 同様に、私たちが罪を犯すときに、契約書にサインがなされます。この契約書が、私たちにとって有利であれば良いのですが、「不利な債務証書」になります。保険にはいると、有利な契約が交わされます。保険に入っているがゆえに、事故があった時には保険金がおります。しかし悪い契約書もあります。最近、クレジットカードをよく使います。しかしクレジットカードを使うのも、契約行為なのでよく注意しなければなりません。店がくれたレシートと、クレジットカード会社のレシートを、よく照らし合わせて、金額が同じであるかを確認して、サインしなければなりません。案外、適当にサインしてしまいますが、真剣にサインをしても、いい加減にサインをしても、請求額は同じです。クレジット会社からの請求が、千円しか使っていないのに「十万円」となっていたら、サインをすれば、十万円を払わなければなりません。

 私はあるとき海外で、一桁間違っていたものにサインをしてしまったことがありました。手書きのレシートでした。後から、こんな覚えはないと会社に言いましたが、サインをしたから駄目だと言われ、ショックでした。しかし良い勉強になりました。

 私たちは、罪を気軽に犯しますが、それは「債務証書」です。この債務証書が発行されると、それが敵側の訴えとなります。特に、罪の中で一番の不利な債務証書は、「偶像礼拝」です。申命記五章八節から十節に、

『あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。』

とあります。偶像礼拝をすると、「三代、四代に至るのろい」が入るというのです。ここを読むと、神がのろいを与えるように感じますが、神様は正しい方なので、決してご自分で、のろいを下すような方ではありません。偶像礼拝という理由があることによって、その契約書が悪魔に渡り、「悪魔」が、のろいという領域で働きます。人が罪を犯すことによって、悪魔が三代、四代に渡って、家系の中で働きます。偶像礼拝は、恐ろしいです。申命記の十一章二十六節から二十八節に、

『見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。』

と記されています。これは、モーセが神から受けた言葉です。人生には、「のろいの道」と「祝福の道」があります。今日、皆さんの前に神様が現れ、「のろいか、祝福の、どちらかを選んでください」と言われたら、祝福の道を選ぶと思います。祝福の道を選ぶためには、

『あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。』

とあります。これは「偶像礼拝」です。日本では盆があり、多くの人が死者礼拝をしています。これは偶像礼拝です。聖書ははっきりと、偶像礼拝から離れなさい。それはのろいの道になると教えています。偶像礼拝から離れなければ、家系の中にのろいが入ります。しかし、「クリスチャンって最高だ」と言えるのは、「家系的なのろいから解放される」からです。

 先週、あるところに行きました。そこに初めてお会いする方が来られました。すると、「今日私が来たのは、教会で仏壇を処分できると聞いたからです。」と言うのです。そして、「私は、どこの宗教でも良いですが、ある人に聞くと、教会で処分してくれると聞きました。先日、寺に聞いたら、すごい金額を要求されました。教会では、ただでやってくれるというので、頼みに来ました。勘違いして欲しくないのは、私は、ただ、仏壇処分を頼みに来ただけです。その他は何もありません。キリスト教にはいると誤解しないでください」と言われました。

 私は仏壇回収業か?と思いましたが、「どのくらいの大きさの仏壇ですか?」と聞くと、「背丈よりも大きい」と言われました。

 私はこう言いました。「わかりました。処分しましょう。しかし、あなたが祝福されるために、少し私の話を聞いてください」と言い、「今日は小さな車で来たので、二日後にもう一度ここに戻ってきますから、その時に来てください。そうしたら持って行きますから」と言いました。

 二日後、私はそこに行きました。すると、「ご苦労様です。現場は少し離れたところですが、暑いのでお茶でも飲んでください。」と言われ、自宅に招いてくださいました。その家は、何となく不気味な感じがしました。入ってみると、居間の片壁全体が仏壇でした。「この部屋をどう思います?良い部屋でしょ。」と言われました。

 すごい霊的環境だと思いました。しかし、「ここで引いてはいけない」と思いました。聖書には、「神は、敵の面前で油を注ぎ、食事を整える」と書かれていますので、その方に話しました。

 「今日捨てる仏壇は、あなたの古い仏壇かも知れません。しかしあなたの所に、こんな仏壇があったら、良いことはないですよ。仏壇はあなたの味方になってくれると思うかも知れませんが、これは敵です。」と仏壇の目前で話しました。

 すると真剣に聞いていました。私は、「こんなに大きな仏壇の前で、盛大に礼拝が行われるようになったのは、かつて、この家の家族や家系に何か問題が起こったからではないですか?」と聞きました。すると、「そうです。私の家系はひどいものです」と言われ、家族の不幸について話してくれました。

 私は、「イエス様を信じて、悪霊の力から解放されるように、祈らなければなりません」と言いました。すると、「実は、私はそれを感じていました。先日、私は仏壇の前で泣いて訴えたのです。長いこと真剣に仕えてきたのに、何も良いことがない。どうしてくれる。」と訴えたというのです。

 私は「こんな家に住んでいると、霊現象が起こるのではないですか。」と聞きました。すると、「そんなことは一度もないですよ。私は、霊的に敏感ではありませんから。」と言われました。

 しかし話している途中、その人の後ろにある仏壇から手が伸びて、首をつかまれたような感じを覚えたそうです。そして、様子がおかしくなってしまいました。私は、「あなたが味方と思っていた相手が、敵であると分かったでしょう」と言いました。すると、「私のために、祈ってください」と言われました。

 私は、敵の面前で偶像礼拝の悔い改めを導き、つながりを解く祈りをしました。すると瞬間的に、「直った!」と喜んでいました。

 すると「これから私は何をしたら良いですか?」と聞かれました。それは、聖書の中に出てくるような言葉でした。私は、「これらの仏壇も捨ててください」と言いました。すると「どうしよう … 」と困っていました。

 それで私は、「まずは、拝まないことですね。」と言うと、「もう絶対に拝みません。」と言われました。そしてすぐに仏壇を閉めました。新興宗教の仏壇には、三代ほど前からの十数人分の位牌が祀られており、一つ一つ、水と榊が供えてありましたが、水を全部捨ててしまいました。

 それから、実家の偶像を全部運び出し、悪霊とのつながりを断ち切る祈りをしました。彼女は瞬間的に救われました。このことを通して、私は、常に一歩前に進んで、戦わなければならないと思いました。私たちの戦いは、血肉に対するものではないので、たとえ廃品回収のような仕事を要求をされても、戦いという意識で働くならば、聖霊様が働かれ、敵であることに目を開いてくださいます。

 その後聞いたのですが、祈っているときに、その人の目の前に、光が照らしたそうです。そして私が祈り終えたら、消えたというのです。そんな体験をしたので、「イエス様が救い主に違いない」と思い、イエス様を信じたと言われました。

 今まで味方だと思っていた偶像礼拝が、三代、四代ののろいであり、家系の中にしばりを与え、問題を繰り返し与える敵の力であることを、知らなければなりません。クリスチャンになったら、そのようなのろいから解放されます。それは、「不利な債務証書を無効にする」という素晴らしい約束があるからです。

 さらにコロサイ二章において、「すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし」とありました。これはエペソ六章の「天にいる諸々の悪霊」とありましたが、悪魔の組織が武器を持って、人に立ち向かっていると教えています。その武器を、「武装解除」してくださるのです。

 経済的問題、夫婦の問題、家族を揺るがす問題、病など色々な領域に関する問題がありますが、これは血肉の戦いではないと教えています。悪魔が武器で攻め立てているのです。

 しかし「クリスチャンって最高だ」とは、その武器を武装解除してくださるからです。今日、何らかの武器で攻撃されていたら、私たちは堅く信仰に立ち、武装解除してくださるという信仰を持ってください。もしも病の方がいたら、病という武器で攻撃している武装を、解除されるように祈りましょう。

 マルコ十六章十六節から十八節に、

『信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」』

 信じる者に与えられる権威として、「病人に手を置けば病人は癒される」とあります。教会は病院ではなく、教育機関でもありません。教会は教会の方法で働かなければなりません。それは、聖書にある「病人に手を置けば、病人は癒される」という方法です。

 先日、私の娘からメールが来ました。アメリカからでした。「すぐに電話して!」と書かれていました。メールは恐いです。ちょっとした表現で人を傷つけたり、不安を与えたりします。びっくりマークを付けるか、つけないかで印象が違います。「何が起こったのか!?」と思い、すぐに彼女の携帯に電話をしました。

 娘の所に、友達が日本から来ていました。しかしその友達が、突然病気になったのです。ひどいめまいがして立ち上がれず、歩けなくなりました。一晩寝たら直るかと思ったら、次の日もそうだったようです。それで私にSOSがありました。

 私は娘の友人と携帯電話で話しました。電話で祈るときに、アメリカは何千マイルも離れた場所だと思います。しかし、目に見えない領域では、距離はないのです。祈りはその現場に立つことができるのです。私たちが祈るのは、現場に行って手を置いて祈るのと同じです。

 「病気になって、何か感じたことはありますか?と聞きました。すると、「私はクリスチャンですが、最近少しイエス様から目を離していたので、もっとイエス様のことを真剣に考えなければ、と感じました。」と言われました。その時私に、「彼女はイエス様から目を離して、色々なところを見ているので、目に見えない世界では、めまい状態だ。イエス様だけに目を固定して、イエス様だけを見つめて歩むように祈れ。」という思いが与えられました。それで、「今までイエス様以外を見ていたことを赦してください。目に見えない世界で、目が回っていたら止めてください。そして、現実のめまいもいやしてください。イエス様だけを見つめていきます。アーメン」と祈りました。私は電話で祈りましたが、現場にいるという信仰で、「さあ、立ってごらん」と言いました。すると電話の向こうで、「あっ、直った!」という、叫ぶ声がしました。なんと、祈った瞬間に彼女はいやされたのです。主が奇跡を起こしてくださいました。私の娘は、「イエス様は近くで見ているんだね。」と言いました。悪魔が持っている武器が「武装解除」された結果起こった事です。

 最後に、「彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられる」とあります。ルカの十章十七節から二十一節に、

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。』

とあります。私たちには、「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に勝利する」権威があるのです。これは「彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました」というコロサイ書の御言葉に対応しています。

 けれども、私たちがクリスチャンとして最高なのは、「あなたの名前が天の書に書き記されていること」です。

 イエス様を信じているならば、私たちの名が天に書き記されているゆえに、権威ある働きができるのです。

 全員が、「クリスチャンって最高だ!」と言える人生を歩みたいと願います。神の右の座に着いているイエス様と同じ座に着く者として、暗闇の力に対して権威を使う者となりましょう。お祈りします。


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