まことのいのち

2005.8.21(SUN)
新城教会 岡本信弘師

新約聖書 マタイの福音書 16章26節
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

 ハレルヤ!主の御名を賛美します。久しぶりに礼拝メッセージを取り次ぐことができることを心から感謝します。毎回緊張しますが、神様に立てられて御言葉を語ることができることを感謝します。夏休みもあと十日あまりとなり、学生の方は、もう夏休みが終わってしまうと残念がっているでしょう。しかしある一人の姉妹が疲れて暗い顔をしていたので、「どうしたのですか」と聞くと、「子どもが毎日家にいて疲れてしまった。一日も早く夏休みが終わってほしい」と言われました。私は休みなく働かせていただいていますが、皆さんの祈りに支えられて健康であることを感謝します。

 今日は「まことのいのち」というタイトルで話したいと思います。

『人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。』

 「あなたにとって一番大切なものは何ですか」と聞くと、多くの人が「いのちでしょう。物がたくさんあっても、いのちをなくしたら何もならないでしょう」と言われます。「生きてるだけで丸儲け」という言葉がドラマで使われていましたが、何がなくても、いのちさえあれば何とかなるものではないでしょうか。いのちがあるなら、色々な夢や希望を抱き、幸せを得ることができます。

 東京の聖路加国際病院の名誉院長で、敬虔なクリスチャンである日野原先生が出された、『いのちの言葉』という本の中には、次のような言葉が書かれています。

 「多くの人々は自分の財産や名声や地位を得るために全力投球をしている。それなのに財産やお金よりも大切ないのちのために時間と財産をなぜ提供しないのか。安全に確保されたいのちを、どうして思いっきり有効に使おうとしないのか。自分のいのちを自分で格調高く保つための勉強をもっとしなければならない。」

 彼は名医なので、幸せに生きるために健康は必要であり、定期検診をしたり、睡眠を十分に取ることや、食生活に気をつけて健康管理をするようにと言っています。睡眠時間のことを言われると耳が痛いのですが・・・。とにかく健康管理をすることは大切です。

 最近、身近な人を何人か亡くしました。一人は私の兄の康宏です。彼はここにいるほとんどの人よりも長く教会に来ていました。救われてから毎日、教会に来るのを指折り数えて待ち、教会に来て大声でお祈りし、賛美し、神様を愛し、神様に愛された人でした。兄は、ダウン症という障害を持っていましたので、長生きできないと言われていました。しかし、五十八歳まで長生きできたということは、やるべきことをやって長寿を全うし、天に帰って行ったのだと思います。

 二年前には、私の父が亡くなりました。前日まで教会に来て父の日の祝いをしてもらい、元気だったのですが、次の日に少し調子が悪いといって病院に行き、二、三時間のうちに天に召されてしまいました。本当に突然でした。別れはもちろん寂しいです。しかし、「誰の世話にもならないで、天国へ行きたい」と言っていた父にしてみれば、八十五歳の人生を全うし、願いがかなって良かったと思います。人には色々な人生があり、死に方があると思います。

 そしてつい最近、浜北教会の田中先生が召されました。毎週のように奉仕に出掛けられ、次の週にもたくさんの奉仕が入っている中での突然の死でした。私は先生とはとても親しくさせていただいていましたし、リバイバルミッションでいつも共に働いてきたので、本当にショックを覚えました。

 7月7日、私は出掛けていたのですが、午後十二時少し過ぎに順先生から電話があり、「田中先生が倒れた」と言うのです。それまで脳梗塞などで倒れられたことがありましたので、倒れたことにはそれほど驚きませんでしたが、順先生が続けて「倒れて、今、心臓が止まっている」と言ったので、「心臓が止まっているということは、亡くなったということですか?」と、私はショックを受けながらも冷静に問いただしました。順先生は「それは俺にもわからない…」と言い、とにかく帰ってきてほしいということでしたので、すぐ戻りました。

 詳しいことはあまりわかりませんでしたが、奥さんと一緒に佐久間町にいるときに気分が悪くなり、病院で倒れたと聞き、明先生ととりあえず佐久間町に行こうとしました。すると出がけに、救急ヘリコプターで聖霊病院に搬送されているとの連絡があり、浜松に向かって行くことにしました。病院に着き、受付で「田中政男さんの部屋はどこですか」と聞くと、「その方は今、集中治療室にいて、親族の方も来られています」と言われたので、ヘリで搬送されて、集中治療室にいるということは、まだ大丈夫なのだろうかと思い、明先生と一緒に期待を持ってその部屋に行きました。しかしそこには、人工呼吸器はつけていましたが、心臓が止まってすでに一時間以上経った田中先生が横たわっていました。そして子どもや孫たちがみな集まっていて、医者からは「もう無理でしょう」と言われ、泣き崩れていました。私はその姿を見て、かける言葉もありませんでした。

 そして約二十分後に奥様の芙美子先生が来られました。私は、先生の心臓がすでに停止していたと聞いていたので、当然奥様もそのことを知っていて、覚悟して病室に入って来られる思ってましたが、先生がヘリに乗せられる時には意識もあったらしく、まさか心臓が止まっているとは思ってなかったようで、横たわっておられる先生を見て、呆然とされていました。その姿はあまりにも痛々しく、その悲しい現実を目の当たりにし、私も胸がつまり、涙が溢れました。私はこれまでにも、いろいろな体験をしてきましたが、このように、人の死に直面することほど衝撃的なことはありません。

 まだ私が若かった頃にも、そのような経験がありました。二十数年前のことです。教会に来ていた高校を出たばかりの一人のクリスチャンホームの子が、バイクで豊橋に通っていました。仕事を終えての帰り道、彼は暴走していた車と接触して事故に遭いました。連絡を受けてすぐ、私は明先生と一緒に駆けつけました。しかし、そこには冷たくなったその青年が横たわっており、お父さんとお母さんが遺体にすがりついて泣いていました。私はその姿を見て、激しい衝撃を受け、何とも言えない悲しみにおそわれました。しかし滝元先生はさすがでした。お父さんに向かって「兄弟、しっかりしなさい」と言い、励ましておられました。また、今回も田中先生の子や孫たちに「まず賛美しよう」と言い、「お祈りしましょう」と導いておられました。

 人のいのちはわかりません。人の死は多くの人に衝撃を与え、悲しみを与えます。私たちもいつか死を迎えるときが来ます。どんなに頑張っても二百歳まで生きられるわけはありません。二百歳どころか私たちはいのちを一分一秒たりとも延ばすことばできません。この教会でも、すでに多くの方が天に召されていきました。しかし、聖書には、いのちは神様の手の中にあると教えています。

 田中先生の葬儀のとき、奥様が、テモテ第一の手紙四章七節『私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました』の御言葉を開き、先生はやるべきことをやり通したので、神様が天に帰らせたのだと証しされていました。私もその証しを聞き、いのちは主の手の中にあるけれど、生かされている間、走るべき道のりを走り終えたということができるように生きたいと思わされました。

 今年は戦後六十周年で、終戦記念の日には様々な記念式典が行われ、各国の人が戦争について意見を述べているのを聞きました。諸外国の、特にアジアの人たちの多くは「日本が悪い」と言っていました。戦争によって多くの若者が戦死し、国も大きな被害を受けました。どれだけの人が殺されたのでしょう。六十年経った今も、その怒りをどこかにぶつけなければ収まらない様子に、死は、多くの人々に憎しみや悲しみを植え付けてしまうものだとつくづく思いました。

 長生きしたいと願う人々がいる一方で、自分で自分のいのちを絶つ人も増えています。まったく見ず知らずの人たちが、インターネットを通じて集団自殺をする場合もあります。統計によると、平成十六年に自殺をした人は、三万二千三百二十五人だそうです。これを一日平均にすると九十人です。一年間で交通事故で死ぬ人が毎年七千人ほどだということですから、それに比べるとなんと多くの人が自らいのちを絶っているかがわかります。

 私は、自殺についてのホームページを開いてみました。「自殺した死後はどうなるの?」という問いに、こんなことが書かれていました。

 「ここのホームページに死ぬと言っている人も、死にたいって言っている人もいっぱいいるじゃん。でもどうやっても止められない。助けてあげたいけど救ってあげることができない。苦しくても生きて欲しいって望むことで余計に追いつめてしまうかも知れない。死にたいという人は簡単にその言葉を言ってはいない。その現実があるのに行きろって言えなくなる。なんで生きるのか。こんなに苦しいのに生きる意味があるの。自分にも答えが出せないのに死ぬ決意をしている人に何が言える? 止めたいけど、止められない。このままで本当にいいのかなぁ?」 

 投稿している人は、自分は死を選んでいるわけではないけれど、死にたいと思っている人に手を差し伸べ、「やめなさい。そんなことをやっても仕方ない。生きてさえいればもっといいことがあるよ、と言ってあげられない」と嘆いています。多くの人は生きている意味がわからない、いのちの尊さも知らない、生きていく力も湧いてこない状態に陥っています。人を勇気づける答えを持っていない。それが現代の多くの人たちの現実ではないかと思います。私たちが、今どのような時に生きているかを知り、それに対処していく術を得ることも大切なことだと思います。

 また、ある人が、「どんな生き方をしたかというよりも、どんな死に方をするかが問題である」と言っているのを聞いたことがありましたが、有名なクリスチャン医師が、インタビュー記事の中でこんなことを言っているのが目にとまりました。

 「入院している方たちを見ていると、二つに分けることができる。病状が重くて痛くてたまらず、ひどく苦しみもだえて死んでいく人と、どんなに病状が重くても、平安の内に死を迎える人の二つだ。一方のひどく苦しみもがいて死んでいく人は、自分の力で生き、人生を切り開いてきたという人。そして平安の内に死を迎えるほとんんどの人が、自分は生かされてきたと思っている人だ」。皆さんはどちらのタイプでしょうか。

 聖書は、人は神によって生まれ、神によって生かされていると教えています。私たちは自分で生きているかのように思いますが、そうではありません。私たちは神様の手の中にあり、神様によって生かされて今ここにあります。

 創世記一章一節は、『はじめに、神は天と地を創造した』という御言葉から始まっています。目に見えるすべてのものは神によって造られ、造られた鳥や獣などすべてのものを支配するようにと、神は人間アダムとエバを造られました。そこには楽しみと喜び、祝福がありました。しかし、神の言葉に背き、神から離れてしまったことにより、罪の中に生きるものとなってしまいました。自分で生きていけるかのように錯覚し、自分勝手な生活をし、その罪は増え広がるばかりでした。私たちは罪を犯し続け、その結果、ローマ人への手紙三章二十三節に『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・・、』とあるように、神からの恵みと祝福を受けることができないようになってしまいました。皆さんの中で、自分は一度も罪を犯さなかったと言える方は誰もいないと思います。人は誰かに教えられなくても人を憎み、欺き、人と争うことを覚え、その罪の中にいます。何とかそこから抜け出したいと思いながら、自分ではどうすることもできないのです。

 人の一生は、七十年、八十年、またある人は百歳以上生きるかも知れません。しかし、いつか死ぬときが来ます。そして、神様の前に立つときが来るのです。

 『そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている』(ヘブル書九章二十七節)このことは、私たちが信じても信じなくても、紛れもない事実です。

 死んだ後の時間は永遠です。その永遠からすると人生は一瞬です。ですから、永遠をどこで過ごすかはとても重要です。そして、それを決められるのは、この地上にいる間だけなのです。ある意味人生は、永遠の時をどこで過ごすかの執行猶予期間と言えるかも知れません。では、どうしたら永遠のいのちを得ることができるのでしょうか。それは、私を造り、私を生かしてくださっている神様を認めるかどうかです。

 私たちは神の前に罪を犯し、罪に定められて永遠の滅びを待つだけの者でした。しかし、神様は私たちが救われる道を用意してくださいました。それがイエス・キリストです。

 『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。』(第一ヨハネ 四章九節)

 いのちを得させてくださるために、まことのいのちを与えてくださるために、神がイエス・キリストを遣わされました。私たちは決断しなければなりません。罪を持ったまま「永遠の滅び」への道を歩むのか、イエス・キリストを認め、「まことのいのち」を持ち、「永遠の祝福」を獲得するかのどちらかです。中間はありません。私たちがイエス様を知らずに生活しているときにも、神様はあなたに愛を注ぎ、救いの手を差し伸べてくださっています。神様を認め、信じ受け入れるだけで救われるのです。

 しかし、クリスチャンであっても愛を実践することは難しいことです。皆さんどうですか? 人のために祈りましょうと言われて、初めのうちは人のことを祈っていても、いつの間にか自分の願い事の祈りになってしまっていることはありませんか。他の人に、どれだけ犠牲を払って愛を注ぐことができるでしょうか。自分の愛する人のためならば、愛を注ぎ犠牲を払うことができるかも知れません。その代表的なものに、母の愛があります。自分の子どもが大変な病気にかかったとき、母親は何とか救ってほしい、自分のいのちと引き替えにでも、いのちを投げ出しても自分の子どもを何とか救いたいと願うものでしょう。子どものためなら、何でもしてあげたいと思うでしょう。母親の愛は、偉大です。しかし、キリストの愛は、母親の愛のみならず、愛と称されるものすべてを超えた愛を示してくださる方です。

 ヨハネ十五章十三節には、

『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。』と書かれています。皆さんは、「友のためにいのちを捨てる」などと、考えたことがないかも知れません。

 三浦綾子先生が書かれた『塩狩峠』という本があります。明治四十二年に北海道の士別と旭川の間にある塩狩峠で実際に起こった出来事が題材となっています。ずいぶん昔のことですが、映画も公開されました。私はそれを見て、感動しました。

 主人公は、永野さんという方でした。永野さんのお母さんはイエス・キリストを信じていましたが、周りの人からは耶蘇教と言われて迫害され、家を出されたため、永野さんは祖母に育てられました。成長し、友人の吉川さんに誘われ鉄道員となりました。吉川さんにはふじ子という妹がいましたが、彼はふじ子さんに思いを寄せていました。ふじ子さんたちとかかわる中で、彼女の明るい生き方や、街角で伝道している牧師の話を聞いたことをきっかけに、クリスチャンになり、その後、何とか神様の福音を多くの人に伝えたいという熱心なクリスチャンに成長しました。

 ふじ子さんは片足が不自由で、結核を患っていました(三浦綾子先生ご自身も、カリエスという大病を患い、長い間病床に伏しておられたことがありました。先生は、ふじ子さんにご自身をダブらせておられたのかも知れません)。しかし、永野さんはふじ子さんを励まし、病気と闘ってきたことによって、だんだんと癒されてきました。その中で、ふたりは結婚を考えるようになりました。

 明治四十二年二月十八日、ふじ子さんとの結納の日、永野さんは二両編成の蒸気機関車に乗って札幌に向かい、塩狩峠に差し掛かりました。その峠はそんなに勾配が急ではありませんが、当時の蒸気機関車では峠を越えるのは大変でした。永野さんは後ろの車両に乗っていました。峠の頂上に差し掛かったとき、振動で前の車両と後ろの車両が外れてしまいました。そして前の車両は行ってしまい、後ろの車両は離れたと同時に上ってきた坂を後ずさりし始めました。そこには緊急ブレーキがついていましたが、二月の凍り付いたような線路にはブレーキも十分に利かず、少しずつ速度が増していくという状況でした。永野さんは鉄道員で何度もそこを往復していたので、このまま進んでいったら最後にはカーブを曲がりきることができないだろうと判断し、色々な方法を講じましたがどうすることもできませんでした。車両にはたくさんの乗客がおり、カーブがすぐそこに迫っている。その状況の中で、永野さんは、「今なら自分の体でこの車両をとめることができる」と判断したのです。

 突然、列車が止まりました。乗客はどうして止まったかわからないけれど、喜んで外に出ました。見ると、一面真っ白の雪の所に真っ赤な血がほとばしっていました。それは永野さんの血でした。彼は自分の身を投げ出し、その車輪の下敷きになったのです。そこに乗っていた人全員が、永野さんの犠牲によって助かったのです。

 映画を見終わって、自分がそこにいたらどうしただろうか、助けてあげられただろうかと考えました。私には不可能だと思います。その列車は脱線すると決まっていたわけではありません。また、脱線したとしても全員が死ぬとは限りません。そのような状況の中で、身を投げ出そうという決断はできなかっただろうと思います。しかし永野さんは自分の身を投げ出し、愛を実践した素晴らしい人でした。まさに、友のためにいのちを捨てるということだったと思います。それは、まさにキリストの姿でした。

『キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。』(第一ペテロ三章十八節)

 悪い人々とは、すなわち罪人である私たちのことです。イエス・キリストは、今から二千年ほど前に、神様に背を向けている罪人の私たちのためにこの地上に来てくださり、すべての人の罪を背負い、当然地獄に行くべき人間のために身代わりとなり、いのちを投げ出し、十字架刑にかかって死んでくださいました。その大きな愛の故に、私たちは今生かされています。そのことを思うとき、私たちはどれだけ神様に返すことができるだろうかと思います。聖書には「自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう」と書かれていますが、私たちには差し出すものが何もありません。私たちは当然滅ぶべき者であり、地獄に行く者です。しかし、私たちが自分の罪を認め、「神様、赦してください。私の罪のために十字架にかかってくださったイエス様を信じます」と告白するなら、すべての罪が赦され、永遠のいのちを持つことができます。素晴らしい神様を自分の救い主として受け取ってください。

 また、第一テモテ六章十九節に

『まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。』とあるように、この地上における今の幸せだけではなく、これから永遠に続く幸せをいただくために、良き備えをしてまいりましょう。素晴らしい神の恵みが皆さまの上にありますように。

 お祈りします。


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