リバイバルを待ち望む

2005.8.28(SUN)
新城教会 滝元 順師

旧約聖書 エレミヤ書 14 章 22 節
異国のむなしい神々の中で、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるでしょうか。私たちの神、主よ。それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたがこれらすべてをなさるからです。

 ハレルヤ!おはようございます。今日、このようにして、皆さんとともに礼拝を守れることを感謝します。早いもので、すでに八月が終わろうとしています。私にとって八月はあったのか、なかったのかわからないような忙しい一ヶ月でしたが、皆さんにとってはどのような月でしたでしょうか。

 先週私は、宮古島、沖縄本島、伊平屋島、伊是名島など、南の島々で奉仕させていただきました。九日間の旅でした。毎年、「沖縄ベテル教会」のエミルダ先生が、沖縄で最も先祖崇拝の盛んな時期に私を招いてくださいます。こちらも暑いですが、今回初めて行った伊平屋島や伊是名島は本当に暑かったです。しかし海はとても綺麗でした。伊是名島の人口は二千人ほどですが、スウェーデン人宣教師と家族が伝道していました。私にとって大変忙しい毎日でしたが、集会はとても祝福されました。

 日本中を廻って感じることは、教会が少ないことです。全国に教会は八千程あると言われますが、礼拝を守っているプロテスタント人口は十数万人です。人口比で言うなら、〇・一〜〇・二パーセントになります。こうしてみると、日本にリバイバル(人々が爆発的にイエス様を信じ、人生が変えられる現象)は本当に起こるのだろうか、と疑問になることがあります。日本には、手で作った神々(偶像)が満ちています。特に沖縄諸島では、先祖崇拝を盛んに行っています。島々に行くと、偶像と呼ばれる「像」はあまりありません。そこで行われているのは、「自然崇拝」です。珊瑚礁や洞窟、大きなガジュマルの木の下で線香を焚いて霊を拝んでいます。イエス・キリストを救い主として信じている人は、あまりいません。私たちは、リバイバルを待ち望んで祈っています。この国が主のものとなり、リバイバルが起こされることを、心から願っています。今日の御言葉は、そんな願いを表している言葉です。

 預言者エレミヤも、同じような気持ちになりました。周囲に虚しい偶像が満ちている中にリバイバルが起こるのだろうか、本当に神は働いてくださるのだろうか、と疑問を持ちました。しかしこの箇所には、主の答えも含まれています。

『異国のむなしい神々の中で、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるでしょうか。私たちの神、主よ。それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたがこれらすべてをなさるからです。』

 日本にも多くの異教の神々が満ちており、「こんな所に大雨が降り、リバイバルが起こるのでしょうか」と、私も主に問いかけます。しかし、御言葉には「それはあなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたがこれらすべてをなさるからです。」と記されています。どんなに状況が悪くても、「主はリバイバルを起こしてくださる」という信仰に立つ必要があります。

 多くの日本人は、永遠の昔からこの列島に住んでいると考えています。古来から日本に住んでいたと考えます。しかし日本人で、この列島に古来から住んでいた人はひとりもいません。日本人のルーツは「渡来人」であり、他の所から移ってきた人たちです。

 聖書を見ると、人々は、初めは一つの所に住んでいたと記されています。当時、人々は同じ言葉でコミュニケーションをしていました。

 しかしある時、人々が集まって塔を建てて、一つの行為をしました。すると神はそれを見て驚き、自ら降りてきて彼らの言葉を混乱させ、人々を全世界に散らしてしまわれました。それが「バベルの塔」の話です。

 人々が塔で何をしたのかを調べてみると、それは「神降ろし」という霊行為でした。真の神がおられるのに、自分のために霊的力を呼び込む「降霊術」を行いました。神はその行為を止めさせ、人々の言葉を混乱させて全世界に散らしました。

 これは降霊術の危険性について教えています。神が人類に直接介入して、その行為を止めさせたのです。人々が散らされたのは、ある意味、人類に対する神の愛の現れであったと思います。

 以来、人類は全世界に移動し始めました。その移動してきた人々の末孫の一つが、私たち、日本人でもあります。

 日本の歴史を調べると、「縄文時代」から始まっています。縄文人は、インドネシアやその付近の島々から、舟で渡ってきた海洋民族であり、狩猟民族でした。かつては日本全体に縄文人が住んでいました。縄文遺跡を調べると、全国至る所にあります。沖縄から北海道にまであります。

 縄文時代の次には「弥生時代」があります。それはおもに、中国の方から朝鮮半島を経て日本に入ってきた人たちでした。彼らによって稲作が日本に持ち込まれました。弥生遺跡は、九州から近畿地方に固まっています。弥生人たちは、稲が育ちにくい所にはあまり移動しませんでした。あまりにも暑い場所や、寒い所では稲が育ちません。したがって日本人とは、縄文系の人々と、弥生系の人々が混ざって出来上がった人種と言えます。日本人にとって、お互いは同じように見えますが、外国人から日本人を見ると、色々な人種が混ざっているように見えるそうです。そのような視点で顔をよく見ると、南の配合が強い人と、中国系が強いと思われる人がいます。

 「日本には古来からの宗教がある」と言う人がいますが、日本の宗教は、すべて渡来人によって持ち込まれたものです。日本古来の宗教などはありません。「異国のむなしい神々の中で」とありますが、日本の神々と呼ばれるものは、「異国の神々」です。最初に日本列島に入ってきた縄文の人たちは、バベルの塔で行われた降霊の手法と共に入ってきました。ですから、南の島々に行くと、そのような習慣がまだ色濃く残っています。ユタやノロという霊能者によって、人々は支配されています。盆の時期には、祖先の霊と呼ばれる存在が呼び出されます。沖縄の島に「久高島」という島がありますが、そこに住んでいる人々は、ほとんどが霊能者とその家族です。そこに行くと、古い日本が残っているような感じで、時間もゆったりと流れています。

 人間は死んだらすぐに神の管理下に入ります。イエス・キリストを信じる人々は、死んだらすぐに天国です。しかし神を信じない人々は、永遠の滅びに入ります。誰一人として、永遠の滅びには行かないで欲しいと願って私たちは伝道しています。多くの人が悪魔に目隠しされています。そのため、本当の神様がわからないのです。天地宇宙を創られた本当の神がわからないのです。何か、自然そのものに力が宿っているように騙されているのです。

 しかし「リバイバル」とは、そのような閉ざされた壁が崩されることです。リバイバルの定義は、「教会と地域の間にある壁が崩されること」です。壁とは、文化的なものや教会の敷居が高いというのではなく、「霊的な壁」が崩されるときに、リバイバルが起こされます。これは、神が人間の世界に直接介入される時に起こります。バベルの塔で、人々が悪霊を呼ぶ行為に浸っていたとき、神が直接介入され降霊術を止めさせたのです。ある意味、そのような事が起こるのがリバイバルです。私たちはそれを待ち望まなければなりません。第二コリント四章一節から四節に、

『こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。』

 イエス様を信じたら、「罪が赦され、永遠のいのちをいただく」という、素晴らしい特権があります。こんな素晴らしい知らせは、どこにもありません。しかしそれを話しても、人々は耳を貸しません。

 「イエス様を信じたら罪が赦されます。イエス様が問題を解決してくれます。死んでも天国に行くことができます。滅びることはありませんよ。」と話しても、「そんなことは信じられない、わからない。」と言って、イエス様を信じません。イエス様を信じられない原因は、どこにあるのでしょうか。

 私は牧師の家庭に生まれたのにもかかわらず、伝道することが大の不得意でした。そんな中で私は牧師になりました。牧師で伝道が不得意なら、やめた方が良いのです。八百屋が野菜を売るのが不得意であったり、魚屋で魚を売るのが不得意なのと同じです。私は長い間、「伝道とは説得工作」だと思っていました。誰かに聖書の解りにくい内容を更に解り難くし、詐欺師まがいの話術を使って伝えるのが伝道かと思っていました。だから私は伝道に消極的でした。

 新城教会の会堂が建ったのは、二十五年前です。会堂ができたとき、ちまたでちょっとした話題になりました。多くの人が「会堂を見せてください」と言って、新会堂に入ってこられました。ちょうどその頃、私は教会のスタッフになりました。多くの人が来られるのは良いのですが、時々「キリスト教について教えてください」と言われる人がいました。当時私が献身したということもセンセーショナルで、対抗心があったのかわかりませんが、岡本信弘先生や上條実先生も続いて献身しました。岡本先生は、当時魚屋でした。彼の自慢は、「今日は何匹鰹が売れた・・」というものでした。しかし彼はペテロのように、包丁を置いて献身しました。また、上條実先生は高校時代、ワルをして謹慎させられたような人物でしたが、悔い改めて献身しました。皆、私の周りにいる人たちは、クリスチャンホームでしたので、伝道が不得意でした。だから誰かから、「イエス様のことを教えてください」と言われると、いつも三人でジャンケンをして、押し付け合っていました。伝道は難しいものと思っていました。

 しかし私たちにも、壁が崩された時がありました。その時、主が私たちに教えてくださったのは、「伝道は説得工作ではない」ということでした。私たちが福音を宣べ伝えても人々が受け入れないのは、「この世の神が覆いをかけている」という事でした。目に覆いがかけられていたら何も見えません。いくら光が照っていても、覆いがかけられていたら、光は見えません。同様に、この世界には霊的な覆いがかけられているというのです。そのため、真理の光が見えないのです。その覆いは、「この世の神々」がかけているのです。この世の神々である「悪魔・悪霊たち」が、人々に覆いをかけているために、真理の光が届かないのです。

 たとえば、あなたが家族の中で、「私はクリスチャンになって幸せになりました。こんなに変えられました。イエス様は素晴らしい神様です!」と話し、日曜日に「そんなに早く起きて、どこに行くの?」と尋ねられたときに、「はい、教会に行きます」と答えたにもかかわらず、家族は福音を聞かず、信じようとしないならば、「覆いがかけられて」いるのです。覆いが取り除かれなければ光が見えません。リバイバルとは、その覆いが取られることです。覆いさえ取り除かれれば、光が見えるようになります。ですから、私たちはこの地を覆っている霊的覆いが取り除かれ、光が届くように祈るべきです。

 エレミヤが、「あなたを待ち望みます」と語りましたが、覆いを取ってくださるように主を待ち望み、戦っていかなければなりません。

 一九九二年に主が私たちに訪れてくださり、伝道は説得工作ではなく、覆いを取ることであると教えてくださいました。以来、私も変えられました。伝道が嫌いでしたが、誰にでも伝道できるようになりました。それも説得ではなく、「覆いが取り除かれる」ために働くときに、救いを多く見せていただけるようになりました。

 皆さんの中で、まだ救われていない家族がいたら、まず、その家族にリバイバルが必要です。そのためには何が必要でしょうか?それは家族の「覆いが取り除かれること」です。あなたがその場所で、覆いが取り除かれるように祈ることが大切です。

 今回、宮古島に行きました。その日はちょうど「盆の入り」でした。向こうの盆は盛大に行われます。外に出ていた親戚や兄弟は、長男の家に帰って来ます。長男の家を「門中(むんちゅう)」と呼びますが、そこに集まって先祖の霊を呼び出し、礼拝行為をします。その盆行事は毎年、厳格に守られています。それは年間でも最も重要な期間です。

 宮古島での集会に、あるご家族が来られました。その方は門中で、「明日からはとても忙しい」と言われました。私はその集会で、人々が拝んでいる対象は先祖の霊だと思っているけど、先祖の振りをした悪霊なので気をつけるように、また、偶像礼拝をしていると家の中に悪いことが起こる、と話しました。

 バベルの塔で人々の言葉がバラバラになり、遠くに散らされました。偶像礼拝の結果は、「言葉が通じなくなる」のです。家族でコミュニケーションができなくなり、関係が遠くなるのです。ご主人は初めて教会に来られましたが、大変賢い方でした。また、聖霊様が強く働いてくださいました。すると、覆われていたものが瞬間的に取り除かれ、イエス様がわかりました。その家にはすでに問題が起こっていて、霊能者を家に連れてきて、色々な指示を仰いでいました。しかし、問題は一向に解決しませんでした。

 集会が終わると、「私は明日、家にある仏壇を捨てたい」と言われました。翌日は「盆の中日」で、一番人が集まる日でした。そんな日に、長男が仏壇を捨てたらどうなるのでしょうか。するとご主人は、「明日の午前中、親族全員に電話をしてクリスチャンになる事を宣言します」と言われました。

 なんと次の日、その家からすべての偶像が運び出され処分され、一家はクリスチャンになりました。それを見た私は、「覆われているものが取られることによって、リバイバルが来る」と確信しました。その家で最も忙しい期間が、一番暇な日になりました。ぜひそのご一家が守られ、成長できるように祈ってください。壁が取り除かれると福音の光が届きます。

 時々、「牧師さん、神様がおられるのに、なぜ、こんなに悪いことが起こるのですか?」と聞かれます。それは、全体的には神の支配にありますが、「この地球は悪魔の支配下にある」からです。第一ヨハネ五章十八節から二十一節に、

『神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。』

とあります。この地球は、悪い者、すなわち、悪魔の支配下にあります。クリスチャンになるとは、「暗闇から光に、サタンの支配下から神の支配に移される」ことです。それは悪い者の支配下から移され、神の支配の中に生きるということです。この世の支配権の中に含まれるのでなく、神の支配の中で生活できるのです。

 私は時々アメリカに行きますが、アメリカに行っても日本人という立場は全く変わりません。アメリカに行けば、アメリカの支配があります。しかし私はアメリカでも日本人として、日本の支配を受けて生活できます。同様に、世界は悪魔の支配の中にあるかも知れませんが、イエス様を信じると悪魔の支配ではなく、神の支配にあるのです。聖書に、「悪いものは私たちに触れることはできない」とありますが、イエス様を信じたら、悪魔・悪霊は私たちに指一本触れることはできないのです。だから私たちは、自信を持って生きていけば良いのです。

 時々、「悪魔が私にかかわってくるのではないか・・」と臆病になっている人がいます。しかし基本的に、悪魔は私たちに指一本触れることはできないのです。そんな中でも、悪魔が私たちにかかわる時があります。なぜでしょうか?

 私は日本人の立場でアメリカに行き、レンタカーを借りて走ります。その時に、「私は日本人だから車は左、人は右」と言い、左側を走行したならばどうでしょうか?すぐに私は警察に捕まります。なぜならば、アメリカの法律は日本とは逆になっているからです。

 ある意味で同じです。地上で生きるためには、ルールを守って生きていかなければなりません。聖書には、色々なルールが記されています。時々、教会に来ると、「あれは駄目だ。これは駄目」とルールがあるので、堅苦しいと言われます。「他の宗教はあまり罪についてはいわない。しかし教会は罪について強く言うから行きにくい。罪と言わなければ、もっと人が集まると思う」と言われます。

 しかしこれは、地上にあって神の民が安全に生きているための立て札です。川に行くと「遊泳禁止」という立て札を見かけます。その立て札が立ててあるところは、一番泳ぎやすそうで、魚がたくさん釣れそうな所ばかりです。しかしそこは危険なので、遊泳禁止になっているのです。

 私たちが、生きていく上でも同じことが言えます。「これをしたら楽しそう・・」と思いますが、その背後に敵が潜んでいます。私たちが突っ切ると、悪魔に捕らえられ、暗闇の法に引っかかってしまいます。だから「注意してください!」と教えています。

 第一ヨハネの五章に、『私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。』の結論として、五章二十一節に、

『子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。』

とあります。これは悪いものの働く「根拠」について教えているのです。それは、手で作った神々である「偶像」にあるのです。

 「モーセの十戒」はとても重要なものです。それは私たちが安全に生きるために、重要です。これはクリスチャンの道徳規準です。

一、あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

二、 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。

三、あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

四、安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

 一〜四は人と神との間を規定しているのです。その中心は、「偶像を作ってはいけない、それは危険なことであり、悪魔が潜んでいる」と教えているのです。

 『主の御名を、みだりに唱えてはならない』とは、新約聖書の概念を重ね合わせて考えると、「イエス様の名前以外で祈ってはいけない」という結論になります。「イエス様」という名前で祈るならば、天の父なる神に祈りが届きます。しかし、他の名前で祈ると、祈りは悪魔に届いてしまうのです。これは重要な法則だと思います。天の父なる神様は、天地・宇宙を創られた偉大なお方なので、私たちには想像がつかないのです。しかしイエス様は神様ですが、この地上に、人間の姿をとって来てくださったお方です。先ほどお読みした聖書の御言葉に、『この方こそ、まことの神永遠のいのちです』とありました。

 神が人の姿をとって来てくださいました。イエス様は神ですが、「神の子」のポジションをお持ちの方です。私たちが絶大なる神様と友達になるためには、神の子と友達になることです。

 たとえば、天皇に会いたいと思って「天皇に会いたい!!」というプラカードを作って皇居付近に行き、叫んでみてください。すると、すぐに警備の警官が出てきます。

 しかしもしも、あなたが皇太子と親友で、「君のお父さんとお母さんに会いたいけど・・会わせてくれない?」と言ったら、会うことができるかも知れません。私たちが本当の神様と会うためには、神の子であるイエス様と親しい友達になることが大切です。イエス様と友達になったら、父なる神様と直通になるのです。

 「わたしの名によって求めなさい。そうすれば、父なる神様のもとに願いごとを運んであげる」とイエス様は言われました。だから、『あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。』という御言葉とともに、『あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。』とあるのです。最終結論は、「イエス様以外に神はなく、イエス様が意外に救われるべき名はない」と教えています。

 第四の『安息日を覚えて、これを聖なる日としなさい。』というのは、旧約聖書の概念です。今は毎日が安息日です。毎日主を覚えてお祈りすることです。そして第五番目からは、

五、あなたの父と母を敬え。

六、殺してはならない。

七、姦淫してはならない。

八、盗んではならない。

九、あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

十、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。

 この五番から十番までは、人と人との関係について教えています。一番から四番目は、人と神との関係。五番から十番は人と人との関係です。その関係は、十字架のようになっています。縦と横の棒があります。縦棒がなければ横棒がかからないように、神様との関係が正常になると、人との関係もうまく行くのです。

 『あなたの父と母を敬え』という教えがあります。ある意味、日本人は親孝行な民族です。しかし日本人の親孝行観は、「儒教」から来ています。その儒教の基本的概念は「孝」です。クリスチャンは、儒教に基づく親孝行観ではいけません。儒教は「陰・陽」です。明るいところがあれば、暗いところもあるのです。「先祖供養なしに孝は成り立たない」のです。「先祖供養と父母を敬うがセット」になっています。儒教的な親孝行ではなく、「真の神に仕え、父と母を敬う」という「十戒にある親孝行観」で生きることが大切です。主にあって親孝行をしてください。子どもたちを教会に連れてくることが大切です。

 「六、殺してはならない。七、姦淫してはならない。八、盗んではならない。九、あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。十、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」

 これらは人と人の間についての規定ですが、私たちが安全に生きていくための秘訣です。罪からしっかりと離れるならば、悪い者は決して触れることはできません。

 今回私は、沖縄のある小さな島に行きました。そこは暗く閉ざされたような場所でした。住民は昔ながらの生活の中にあり、先祖崇拝の暗い因習につかまえられています。そこに住む人たちのほどんどが、霊能者とその家族で、先祖の霊と称するものを呼び出し、その指示を仰いで生活していました。私が出会った家族は、「元ノロ」という位の高い霊能者でした。しかしその家族が偶像礼拝から離れて、イエス様を信じました。そして今、家族が全員クリスチャンになり、家庭集会を開くようになりました。仏壇は取り外され、聖書や信仰書を置く本棚に変わりました。

 そこに行って、本当にかわいそうに思いました。その家に、八十四歳のおばあちゃんがいました。おばあさんには、子どもが八人おられますが、そのうち三人が精神的病であると言われました。また、もう一人は、自ら命を断ってしまったというのです。そんな状況の中で、この霊能者のおばあさんは、暗い人生を歩んでいました。しかしイエス様を信じたのです。

 島人によると、「この地域では、一家に三〜四人の精神病者がいることは普通だ」と言われました。私はおばあさんに、「なぜ、先祖を真剣に拝むようになったのですか?」と聞きました。

 その家の裏山には鍾乳洞があります。そこには、沖縄を創造した神が住んでいると言うのです。高層マンションが建ち並ぶ時代に、沖縄創造の神が洞窟に住んでいるとは、惨めな話です。

 ある日家族が、庭のガジュマルの木を見ていると、洞窟のある山から鬼が降りて来て根本に座ったというのです。そこには金の椅子が置いてあったそうです。なにか、おとぎ話のようですが、彼らはそれを見たと言うのです。

 すると、鬼が「俺をよく拝め。そうしないと、俺は鬼にもなるし神にもなる。だから俺をおろそかにするなよ!」と言って消えたというのです。

 そんな体験があってから、おばあさんはさらに鍾乳洞や祖先を拝むようになりました。沖縄において、ガジュマルは「家系」を表し、先祖崇拝のシンボルです。沖縄創造の神は、「鬼にもなるし神にもなる」と言うのです。

 日本の神々は皆、そのようなものです。これは神ではなく悪魔です。それを拝んでみても良いことは何もないのです。

 霊能者のおばあちゃんはイエス様を信じ、家族全員が救われました。すると病気の子どもたちも教会に来るようになり、徐々に家が変えられています。私たちは教会と地域の間にある、霊的な壁が砕かれるように祈るべきです。リバイバルが起こるように、敵の力が打ち砕かれるように祈らなければなりません。

 聖書は、それが起こると約束しています。アモス書九章十三節に、

『見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る。山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す。』

とあります。「耕す」とは「種まきの準備」です。また「刈る」とは、「収穫」です。種まきの準備と収穫が近寄るとは、魂を刈り取る準備中に、刈り取りが来るという事です。ぶどうの種をまき、実を結ぶまでには何年かかるのか分かりません。ぶどう酒を取るまでには、何年かかるのかわかりません。しかしそれが互いに近づくのです。

 日本は長年にわたって、リバイバルを準備し、種をまいて来ました。しかし収穫するまでには、時間がかかって来ました。しかし種をまく者と、収穫する者が近づく日が来るのです。

 イザヤ書六十五章十七節から二十五節に、

『見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」と主は仰せられる。』

 六十五章二十四節に、

『彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。』

とあります。主が壁を崩されるリバイバルの時には、主を呼ばないうちに聞いてくださる、私たちが語っているときに、既に答えが来ると約束しています。そんなリバイバルが来るように、真剣に祈りたいと思います。

 日本に、また新城に、リバイバルが来ることを信じて、主を待ち望んでいきたいと思います。

 十年程前に、シンディ・ジェイコブス先生が、「日本のリバイバルは沖縄と北海道から始まる」と予言しました。理論的にも、日本民族が構築された霊的地層の最深部からリバイバルが起ると思います。

 しかし私は、なぜ新城が入っていないのだろうかと思っていました。けれども、今年の五月にもシンディ・ジェイコブス先生が日本に来られました。その時にも、「沖縄と北海道からリバイバルが起こります」と予言されたそうです。しかしその中に、「新城からも始まる」と語られたそうです。必ず日本、そして、新城にも大いなるリバイバルが起こされると信じます!お祈りします。


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