祝砲

2005.9.4(SUN)
新城教会 滝元 明師

新約聖書 使徒の働き1章4節〜8節
彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 ハレルヤ!今日は久しぶりに新城教会で礼拝ができることを感謝します。今、北関東のリバイバルミッションの準備が忙しく、私は七月二十四日振りに、ここで礼拝を守ることができることを感謝します。これまで皆さんが祈ってくださったことを、感謝します。いよいよ十六日からは「北関東リバイバルミッション」ですので、ぜひ、祈ってください。また祈るだけではなく、ぜひ、お越しください。私も長い間伝道していますが、祈りの力は大きいです。

 ずいぶん昔の話ですが、天に召された田中政男先生と南海クルセードをしました。あちらこちらを巡回し、最後は堺市民会館で大きな集会をしました。その時のことを忘れることができません。その日私は疲れ切って、講壇に立ってメッセージができるかと思う程でした。「イエス様、力をください」とお祈りして、メッセージを始めました。しかし講壇に立って語り出すと、上からの力を感じました。話しながら自分でも「良い話をしているなあ」と感心するくらい、良い話ができました。内に住まわれる聖霊様が語ってくださったと思いました。その集会では、多くの方がイエス様を信じて救われました。

 集会が終わってからすぐに家に電話しました。「もしもし」というと、次男の望が電話に出た途端、「お父ちゃん、今日の集会は良かっただろう。」と言いました。「なぜわかったの?」と聞くと、「新城教会でお父ちゃんが説教している間、ずっとみんなで祈ったよ」と言われました。それで良かったと思いました。ですから皆さん、来ることができない方は、ぜひ北関東リバイバルミッションのために祈ってください。今週も毎日、北関東のための祈り会が持たれますので、そこにも来られる方はぜひお越しください。また今日の午後はリバイバルミッションニュース九月号が発送されますので、ぜひお手伝いください。

 今日は「祝砲」というタイトルで御言葉を学びます。「祝砲」という言葉を辞書で見ると、「お祝いの気持ちを表すために打つ空砲」とあります。時々、他の国から大統領などが来ると、空砲を打ちます。また野球を見ていると花火が出ます。それは祝いのしるしです。

 イエス様が私たちのためにこの地上に来られ、十字架の苦しみを受けられて死者の中からよみがえられました。そしてよみがえられた時、四十日間弟子たちに現れて、最後に語られました。

『彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」』

 クリスチャンになって一番素晴らしいことは何でしょうか。病気が治ったとか、経済的に祝福されたとか、イエス様を信じたおかげで社会的な地位が上がったなど、色々なことがあると思います。しかし、一番の祝福は、聖霊を受けることです。これ以上のことはありません。教会に来て聖霊を受けることは、最高のことです。内住のキリストと言いますが、イエス様が私の内に住んでくださった、神が私の内に来てくださったということです。もし皆さんの中で、まだイエス様が自分の所に来てくださっていない、と言われる方は、ぜひイエス様を受け入れ、この素晴らしい祝福をいただいてください。

 ここには非常に魅力的なことが書かれています。「父の約束を待ちなさい。ヨハネは水のバプテスマを授けたが、もう間もなく、聖霊のバプテスマを受けます」とあります。もう間もなくとは、イエス様が天に帰られた十日後でした。約束通り聖霊が下りました。今度の北関東リバイバルミッションは、必ず祝福されると信じています。なぜ祝福されるかというと、毎日祈っていますし、霊的戦いであちらこちらをとりなして祈っているので、これだけ祈って、何もないということはないと信じています。必ず祝福されます。今まで見たこともない、素晴らしい集会ができると信じています。ですから、皆さん期待してください。「また同じではないか・・」とは思わないでください。来られたら必ず祝福されますので、期待してください。

 「間もなく聖霊を受けます」と言われた弟子たちは、期待感があったと思います。その時弟子たちは、「主よ。今こそ、イスラエルを再興してくださるのですか」と言いました。弟子たちは、イスラエルの国、自分の国について考えていました。イスラエルはローマの支配にありました。「あなたがたは聖霊のバプテスマを受けます」と言われると、「主よ、今こそ、イスラエルの国を再興してくださるのですか」と言いました。ユダヤ人たちは、自分の国に対する愛を持ちました。

 あなたは、自分の国を愛していますか。日本を愛して「今こそ日本を再興してくださるのですか」と日本に対する期待感を持つことが大切です。「今こそ日本を変えてください」と祈るべきです。皆さんは日本を愛されていますか。日本人が救われて、天国に行ってもらいたいです。「今こそ日本の国を変えてください」とイエス様に期待しましょう。イエス様は、いつかということはわからなくても良い、それは主の権威の元にあることだと言われました。そして聖霊が来たら、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ及び地の果てにまで、私の証人になると言われました。そして弟子たちは父の約束である聖霊のバプテスマを待ち望みました。

 十日間祈ったときに、突然激しい響きとともに聖霊が下り、その音を聞いてエルサレム中の人が集まったとあります。「祝砲」というタイトルは、「聖霊が下ったときに大きな音がした」という所にあります。どこかで花火が上がるとわかります。また、台風が来たらわかります。彼らが祈っていると激しい響きが家全体に響き渡ったとあります。皆が来て福音を聞き、その日三千人以上の人が救われました。

 私はその響きは何だろうかと考えました。聖霊が静かに来たら響きはありません。けれども、父の約束、最初のアダムとエバによって失われた聖霊が、救いが完成された五旬節の日に、もう一度来られたということは、「神様の祝砲」であると信じます。これは歴史が始まって以来、素晴らしい事柄でした。

 一九九二年二月十三日に、愛知県民の森で「甲子園ミッション」のために祈っていました。すると突然響きが起こり、聖霊に触れられたという経験をされた方が何人かいます。順牧師がよく話されます。それはかつて日本になかった、霊的戦いの始まりでした。日本のリバイバルがそこから始まるという、神様の祝砲でした。その日以来、新城教会が変わりました。賛美や祈りやとりなしの祈りなどが与えられました。それは祝砲でした。聖霊を受けることは素晴らしいことです。聖霊を受けることは最高のことです。創世記一章二十六節に、

『そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。』

とあります。神様の創造はすごいことです。「われわれ」とは神様のことです。神様は三位一体です。父、子、聖霊なる神です。だから単数ではなく、複数で「われわれ」と書かれています。神様は神様のかたちに似るように人間を創られました。

『海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』

人間に神のかたちを与えて支配権を与えました。これはとても素晴らしいことです。創世記一章二十七節に、

『神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。』

とあります。神様は人間を特別に、ご自分に似たかたちに創造されました。獣はそうではありません。人間だけです。また創世記二章七節に、

『その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。』

 人間は神様がちりから創られました。そして最後に、鼻から息を入れました。そして人は生き物となりました。神の息は聖霊様です。しかしこの聖霊様が、人が罪を犯したことにより去っていきました。しかし、ペンテコステの日に、もう一度聖霊様が来て下さいました。神様は人間を神のかたちに創られて、一つの命令をされました。創世記二章十六節から十七節に、

『神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」』

とあります。神様はエデンの園に人間を創り、園にたくさんの美味しい木の実を創りました。「何でも食べて良いが、中央にある善悪の知識を知る木の実だけは食べてはいけない。それを食べると必ず死ぬ」と言われました。しかしアダムとエバは、他に何でも食べるものがあるのに、ついにサタンの誘惑に負け、善悪の知識を知る木の実を食べてしまいました。三章一節から七節に、

『さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。』

 蛇がエバを誘惑しました。エバはなぜ誘惑されたのかと考えました。神様が「善悪の知識の木からとって食べるな。食べたら死ぬ」と言われたのに、彼女はその言葉を軽く考えていたと思います。

 礼拝に来て、御言葉を聞いています。ある人は本気になって聞いています。しかし軽く考えて、「今日は先生うまいことを言っているなあ。下手だなあ」と思っているのではいけません。しっかりと、御言葉を信じなければいけません。

 私は数年前にイスラエルに行きました。「ベエル・シェバ」という所に行きました。そこはアブラハムがいたところです。ガイドさんがアブラハムが飲んだ井戸などに案内してくれました。そして私は何回もイスラエルに行っていますので、後ろの方に立ってガイドの話をあまり聞きませんでした。「私は何回も来たし、何回もその話は聞いたよ…」と思っていました。その時に一つの御言葉が心に来ました。

『あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない。』

と語られました。せっかくガイドが話しているのに、おまえはなぜ聞かないのか。心に留めないのかと言われました。私は驚きました。「はい、すみません」と悔い改めて、それから良く聞きました。

 礼拝でも同じです。聖書を見ると、獣に対する支配権は人間にあります。しかしこの時は、蛇が人間を支配したのです。もしよく神の御言葉を聞きいていたら、蛇が「本当に取って食べてはいけない、と神が言ったのですか」と言ったときに、エバは「触れてもいけないし、食べると死ぬと言われたから」とは言わなかったと思います。支配権が与えられているエバは、「何を言っているの。蛇のくせに。支配するのはあんたではなく、私よ!」とはっきりと言わなければなりませんでした。しかしエバは、「神様は触れてもいけないし、食べてもいけないけど…」とぼやいて、結局は支配権をサタンに渡しています。

 クリスチャンもそうです。イエス様が復活によってサタンに打ち勝つ権威を与えられたのに、信じない人はいつも恐れて考え込んでいます。御言葉をしっかりと聞かなければなりません。蛇が、「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と言っていますが、私がエバであったら、「退け!私たちが創造された理由を知らないのか。私たちは初めから神のかたちに似せて創られている。偉そうに言うなっ。」と言います。しかしエバは御言葉をしっかりと、心に留めていなかったと思います。見ると美味しそうで、賢くなるとは素晴らしいから、取って食べたのです。また一緒にいた夫にとって食べさせたとあります。

 私たちにも時々、誘惑がありますが、そのような時はどうしたら良いでしょうか。「食べたら神のようになりますよ。絶対に死にませんよ」と言われます。その時、「ちょっと待ってください。祈ってみます。」と間を置くことが大切です。「本当に食べたら死なないかどうか、私を創ってくださった神様に一度聞いてみます」と言ったら、蛇は、「おお、神になんか聞いちゃあ駄目だ」と言うと思います。「神様、神様のようになると言われたけどどうですか」と言うと、神様は「はじめから死ぬと言ったでしょう。サタンの言うことを聞くな!」と言われると思います。誘惑があるときには、必ず一歩間を置いてください。すぐに「ああ、そうか」というのではなく、祈ってみることが大切です。イエス様に聞いてみなければなりません。

 私の想像によれば、その時にアダムは一緒にいなかったと思います。もしアダムとエバが一緒にいたら、蛇に誘惑されたときに、「エバ、駄目だよ。騙されちゃあ。神様はそう言わないよ」と言ったと思います。しかし、きっとエバは一人だったのでしょう。アダムが来たときに、「絶対に食べても死なないと言われたので、一緒に食べましょうか。」と言い、彼女が食べて栄光を失った裸の姿を見て、アダムも同情して食べたのかもしれません。夫婦の間はいつでも一致していなければなりません。一方通行ではいけません。どんな誘惑が来ても、夫婦がしっかりしていたら勝つことができます。しかし、一方だけだと負けやすいところがあります。

 しかし彼らは食べてついに死にました。そして人類は呪われてしまいました。人には神の息があり、霊がありました。しかし死んだということは、人間から霊が去りました。それは、「人間は普通と同じような動物になった」ということです。一番大きなことは、神様と人間に罪という壁ができ、人間は神と交わることができなくなったということです。一人の人が罪を犯したことによって、全人類が死ぬ者となったと書いてあります。これは、アダムが犯した罪のためです。戦争やテロや地震など、また日本でも毎日のように殺人があり、問題が尽きません。しかし問題はアダムから始まっています。アダムが罪を犯したゆえに、こんな問題が起こりました。ここで神様が呪われました。神様が蛇に対して言ったことは、「一生涯おまえは腹ばいで歩け」と言われました。

 女に対して、子を産む苦しみを与えること、また、夫があなたを支配するようにと言われました。世界の多くの地域で、女性の地位が低くて苦しめられています。また男は、のろいとして額から汗を流しながら一生懸命、働くようにと言われました。しかし私たちは、そののろいから解放されることができます。ガラテヤ三章十三節から十四節に、

『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。』

と書かれています。のろわれた死んだ状態の人類を救うために、神が御子イエス様を人間の肉体を取ってこの地上に送られました。そして最後にイエス様が十字架にかかられて死なれました。聖書には、「木にかけられるものはのろわれる」とあります。イエス様は木にかけられて、のろいを受けられました。聖書を見ると、「モーセが荒野で蛇を上げられたように」とありますが、イエス様もモーセが上げた蛇と同じように十字架にかけられ、頭にいばらの冠をかけられて、人間ののろい受け、罪のない神の御子が背負ってくださいました。イエス様は大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(神、神、どうしてわたしを見捨てるのですか)」と叫ばれました。イエス様は一度も罪を犯したことがないので捨てられる必要はありません。しかしイエス様が、全人類の罪を背負い、呪われたものとして人類の代わりに十字架につけられて、私たちのために死んでくださったのです。よみに下り人類の誰もが打ち破ることができなかった、罪を打ち破り、死人の中から三日目によみがえってくださいました。復活されました。私たちはのろいから解放されたのです。

 イエス様は天に帰られました。その時に初めに父から約束の聖霊を受けました。アダムの時に失った聖霊である神の息をもう一度人間に与えました。それは五旬節の日に、大きな響きとともに聖霊をくださったことです。聖霊は音ばかり出されるわけではありませんが、それは神様の喜びとして、「ついにあがないが完成され、人間は死から勝利を得て、のろいから解放され、もう一度創られた時と同じ姿に回復した、今日はお祝いだ!」という意味においても聖霊をくださったと思います。

 「彼らは力を受ける」と言われました。イエス様が十字架につけられるときに、ペテロはイエス様を裏切りました。「あんた。イエス様と一緒にいたでしょう。」と言われると「おら、知らない。」と答えました。「言葉から言ってガリラヤの人でしょう」と言われると、「おら、知らない」と答えました。三度も誓って、イエス様とは関係ないと言った弱々しいペテロが聖霊を受けた時、力を受けました。そして大胆になって語りました。「さあ、聞きなさい。あなたがたが十字架につけたイエスを、神が死者の中からよみがえらせた。今あなたがたが見聞きしていることは、父の約束の聖霊を下されたことだ。悔い改めなさい」と言ったときに皆の罪が示され、「あなたがたが十字架につけたイエスを神は死人の中からよみがえらせ、主となし、キリストとした。」と言うことは、あなたがたが十字架につけたイエスは「救い主です。キリストです。神の子です。」という意味です。彼らは目が覚めて、自分たちは救い主を殺した。どうしたら良いかという時に、「悔い改めてイエス・キリストによるバプテスマを受けなさい。そうしたら聖霊を賜物として受ける。」と言いました。そして、その時に三千人が救われ、バプテスマを受けたと書かれています。

 力は何でしょうか。ヨハネ三章には、ニコデモについて書かれています。「あなたが神から来られた先生であることを知っています。もしもあなたが神から来ていなければ、そのようなしるしはだれもできません。」と言うと、イエス様が「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言われました。「先生、こんな年をとって新しく生まれることができますか。」と言うと、イエス様は「人は誰でも水と御霊によらなければ、神の国を見ることはできない」と言いました。その時にニコデモは理解できませんでした。「先生。どうしてそんなことがありますか。」と言いました。「ユダヤ人の教師で、そのようなこともわからないか」と言いました。それは、旧約時代に預言されていた、やがて聖霊が下される、元の状態に回復されるということです。父の約束がペンテコステの日に音を持って来てくださったことは、神様が「やった〜!」という「祝砲」です。信じたら聖霊を受けます。元の人間になります。またもう一つは、どんな過去の罪もイエス様のあがないによって赦されます。新しく生まれることができます。さばきから救われて、永遠のいのちを持ちます。天国に入る市民権が与えられます。また、それだけではありません。イエス様がよみがえられたように、やがて私たちも復活することができます。間もなくイエス様が来られます。その時にはイエス様と同じ、朽ちることがない体で復活することができるという、約束があります。聖霊が下ったことは素晴らしいお祝いです。ルカの福音書十五章には、「ひとりの人が悔い改めたら天においては大きな喜びがある」と書かれています。誰かが救われたら天において「やったー!救われた」という喜びがあります。これは祝福です。今日まだ罪の中にいて死んだら、地獄に行ってしまうかも知れないと恐れがある方、罪を犯してしまった、赦されないかも知れないと言われる方、赦されます。まだのろいから解放されていない方は、のろいから解放されます。素晴らしいいのちが与えられますので、今日はイエス様を心から喜びましょう。

 しかし大きな音がなくても良いです。聖書に、「彼を信じ、受け入れたものには神の子となる特権を与える」またガラテヤ人の手紙には、「信仰によって御霊を受けることができる」とあります。イエス様が木にかけられてのろわれたものとなって死なれ、死の力を打ち破りよみがえってくださったことを信じるだけで罪が赦され、神の子とされることができます。まだのろいと恐れの中にあり、まだ悪魔に騙されて私の罪は赦されていないと思われる方がおられますか。私は駄目だと思われる方はおられますか。駄目な人はいません。イエス様は勝利を取られましたので、信仰を持ちましょう。今日ここに聖霊様がおられます。まだ罪の赦しの確信がない方、また聖霊の満たしの確信がないと言われる方は罪の赦しをいただき、イエス様を心に受け入れて聖霊を受けましょう。お祈りします。


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