祝福への旅路

2005.9.11(SUN)
新城教会 滝元 順師

旧約聖書 創世記 12 章 1 節〜 3 節
その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

 ハレルヤ!こうして御言葉を取り次ぐことができる特権を感謝します。いよいよ今週は「北関東リバイバルミッション」が行われます。ぜひ、祈って支えていただきたいと思います。毎年、色々なところで「リバイバル・ミッション」が活動していますが、どこで働くのか、みこころを祈りながら常に行っています。そこで今年は、北関東で行われることになったのですが、きっと大きな祝福があると信じます。また、そのような働きの中で、新城教会も祝福へと導いてくださると信じています。

 今日は「祝福への旅路」というタイトルで学びます。私たちは、毎週教会で御言葉を学びます。しかし日頃の生活の中でも、聖書に親しむことが大切です。私はいつも礼拝前半は子どもたちのセクションに座っていますが、子どもたちは毎週、「御言葉の剣」という用紙をもらい、毎日、読んだ聖書箇所と教えられた事柄、お祈りしたことなどを記入しています。また、横には「クイズ」があり、ちょっとした工夫で子どもたちが楽しく聖書を読んでいます。

 イスラエル民族の原点は「アブラハム」です。最初は「アブラム」という名前でしたが、神によって「アブラハム」という名前に変えられました。今日お読みした言葉は、アブラムに神が語られた言葉です。しかしこの言葉は、ユダヤ人に受け継がれ、最終的には、クリスチャンに語られている言葉です。今日この言葉を、自分に対する言葉として受け取りましょう。創世記十二章一節から三節に、

『その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」』

 素晴らしい御言葉です。ここには、「あなたの名は祝福となる」と約束されています。聖書を読むと、人生には二つの道があるのが分かります。その一つは、「混乱と散らされる人生」もう一つは、「祝福への旅路」です。

 創世記十二章は前の十一章を受けた内容です。十一章には、「混乱と散らされる人生」について記されています。創世記十一章四節から九節に、

『そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。』

 十一章には、バベルの塔の物語が記されており、そこでは人々の言葉が混乱し、全地に散らされたという、悲しいストーリーが記されています。

 しかし十二章では、「祝福への旅路」について記されています。生まれながらの人間は混乱と散らされる人生を歩むと言われています。現在の世界を見てわかるのは、混乱と散らされている姿です。

 今日は「衆議院選挙」が行われます。私たちクリスチャンは社会的責任を果たすことが大切です。神ご自身が議員を選び、政治に関与してくださるように祈りつつ選挙に行ってください。「エホバの証人」たちは、選挙を拒否しますが、それは聖書の教えではありません。政治家たちは、混乱している社会を何とか混乱のない社会にしたいと願っています。しかし多くの混乱が世界を覆っています。なぜなら、生まれながらの人間は、混乱と散らされる中にあるからです。

 けれども、そのような中でアブラムは神からの祝福を受けました。私たちクリスチャンは、キリスト教を宗教だとは思っていませんが、一般的に、キリスト教を宗教学的に言うと「啓示宗教」と言われます。

 「啓示」とは、「神自らがご自分を人に示すこと」です。神側から真理を人に示すことを「啓示」と言います。この世の宗教は、「啓示」ではなく「悟り」の宗教です。たとえば、仏教も悟った者だけが救われるというものです。しかし聖書の世界は悟りではなく、啓示の世界です。聖書の成り立ちを見ても、それは神からの「特別啓示」が記されたものです。そこには悟りの境地や修行はありません。神が一方的に人に恵みを授けてくださるのです。ですから、今日私たちは何か悟りを拓くために教会に来ているわけではありません。原則は昔も今も変わりません。神は人に啓示を与えます。

 クリスチャンになった瞬間について考えるとよくわかります。どこかの洞窟にこもって真剣に修行を積んでイエス様がわかったというのではなく、知らないうちに、イエス様が救い主だとわかったのです。それは神からの啓示です。教会に通っていても、「私はまだ、イエス様のことがはっきりわからない」という方も、心配しなくて良いのです。ある時、瞬間的に啓示が与えられます。「この方が神である!」とはっきりわかります。

 神の世界や、霊的事柄は「啓示の領域」に属します。自分が理解したとか、勉強して拓かれたと考えがちですが、それは神が私たちにご自分を現された結果です。クリスチャン生活は日々、神の啓示の中を歩む素晴らしい世界です。

 聖書を見ると、キリスト教撲滅のために真剣に働いていた男でさえ、神はご自分を現されています。それはサウロ(後にパウロ)という人物でした。彼は最終的には、キリスト教発展のために一番用いられた人物となりましたが、初めは、キリスト教は異端だと言って撲滅のために真剣に働いていました。ある日彼は、クリスチャンを捕らえるために、エルサレムからダマスコに向けて出かけて行きました。しかし神は、その途上、彼に啓示を与えました。使徒の働き九章三節から六節に、

『ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」』

 私たちは家族や社会の中で、「あの人がイエス様を信じて欲しいけど、ちょっと無理だ。あの人がクリスチャンになるなんて、あり得ない」と思うことがあります。けれども、神はどんな人でも救うことができます。なぜならば、私たちが信じている神様は、私たちの所に直接来て、ご自分を現してくださる神だからです。今週も、主の臨在の中を歩むことができるように、祈っていきたいと思います。

 同時に私たちが信じる神は、呼べば答えてくださるお方です。エレミヤ書三十三章三節に、

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』

 神様への電話番号は「エレミヤ三十三局の三番」です。「わたしを呼べ。そうすればわたしはあなたに答える」と記されています。誰かに電話をしても答えがないと寂しいです。最近は携帯電話が普及しています。しかし、「今は出られません」とアナウンスが流れるとがっかりします。しかしイエス様は、「忙しくて出られません」と言われる方ではありません。私たちが呼んだら答えてくださる神様です。今週も、緊急事態には、イエス様にまず電話をかけてください。「わたしを呼びなさい。そうすればわたしはあなたに答える」とあります。

 私たちは、祈りの答えについて、自分の予想した答えをもらいたいと願います。今抱えている問題が「このように解決して欲しい」とか、「このようになって欲しい」という願望を持って神に祈ります。時にはその通りになります。しかしその通りにならないことも、多く経験するかも知れません。

 ある意味で、私たちの祈りが百発百中なら、神様は私たちの子分のようになってしまいます。この世の神々は、皆そのようなところがあります。人々は神を自分に従わせ、自分のできない事を叶えさせる道具として使います。

 しかし私たちクリスチャンは、そうではありません。祈るときに神は答えてくださいますが、『あなたの知らない理解を超えた大いなる事をあなたに告げよう』とあるように、神の答えは、「理解ができない答え」があるということです。時には祈っても願い通りにならないこともあるかも知れません。しかし神様の答えは、いつも、私たちの理解を超える「大いなる事」を用意してくださっているのです。

 この新城教会の歴史を見てもそうだと思います。私はこの教会の息子として生まれました。両親は、新城中学校の近くの四軒長屋の片隅で教会を始めました。教会に来られる方は、ほんの数人でした。私たちが遊んでいる部屋を日曜日には母が掃除して、椅子を並べて礼拝が持たれていました。それから約五十年後に、こんなに多くの人が教会に集まるとは、誰も考えていませんでした。神は理解を超えたことを成してくださいました。更に起こってくることは、常に、私たちの理解を超える、ついて行くのが難しいような、大いなる事につながるのです。人生はすべて、神の計画のプロセス上にあるのです。祈りも一つ一つの局面を経て、神の大いなる計画の成就に結びつくことを知る必要があります。

 人生は「破壊と混乱の旅路」上のある一点において、神の啓示を経て「祝福への旅路」へと方向転換される必要があります。これは全ての人にゆだねられている、選択の道でもあります。私たちが神を呼び求めるならば、必ず起こってくることです。使徒の働き四章十二節に、

『この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」』

と記されています。ある意味で、日本人がこれを読むと、「キリスト教は排他的だ」と言うかも知れません。しかし神がお一人ならば、呼ぶことができるお方は、一人しかいないはずです。それが「イエス・キリスト」です。「この御名のほかに私たちが救われるべき名としてはどのような名も人間に与えられていない」と告げています。「わたしを呼べ、そうすればわたしはあなたに答える」とあるように、呼ばなければならない名はイエス様のお名前です。私たちが、イエス様の名を呼ぶときに、神の前に祈りが届きます。

 人生はちょっとしたきっかけで、大きな方向転換があります。皆さんが教会に来られたきっかけも、ちょっとしたことであったかも知れません。ある人は、大きなきっかけで来られたかも知れませんが・・。「教会にコーヒーショップができたから、お茶でもしない?」というような、軽いのりで教会に来てクリスチャンになった方もおられると思います。色々なきっかけがあると思います。神の啓示も、何か仰々しいかたちで、サウロのように天から光が照ってくるような経験もあるかも知れませんが、多くの場合は、生活のただ中に、ちょっとしたきっかけで与えられるものです。

 今年は私の息子が結婚しました。また、娘は現在アメリカに留学しているので、我が家は、妻と二人だけの生活です。このような時期が人生に訪れるとは、予想もしていませんでした。今は喧嘩したら、家の中に敵しかいかくなるので喧嘩もできません。

 私の息子は現在、東京にいます。彼はプロ・ミュージシャンとして、ホリプロ系列の音楽学校でベースを教えています。彼が「東京で音楽関係の仕事をする」というので、てっきり楽器屋のビラ配りでもやるのかと思っていましたが、なんと、学校の先生をしています。また色々な有名ミュージシャンのバックもやってもいます。しかし彼がベーシストになったのには、理由がありました。

 私が結婚した当時、結構暇があったので、私は家庭教師をやっていました。おもに数学を教えていました。私は勉強ができる子にではなく、できない子に教えていました。それも、四十人中、四十番という高校生でした。私と彼の努力は、すぐに成績に反映されました。私は頑張って教えました。そうしたら、奇蹟が起こりました。その最下位の子がクラスで一番になったのです。彼はたいへん喜び、両親も喜びました。それで、彼は私の息子の誕生日にプレゼントを持ってきました。そのプレゼントとは、子ども用の小さなベース・ギターでした。しかしそれは本物で、アンプにつなぐと音が出ました。当時、今朝賛美リードをした滝元開先生がベースを演奏していました。それで開先生が息子にベースを教えました。すると息子はベースに興味を持ち、やがてアメリカに行って勉強をし、プロ・ベーシストになりました。あの時に、彼が息子にケーキでもくれたら、私の息子はケーキ屋さんにでもなっていたかも知れません。プレゼントが、息子の人生を変えました。

 先日、息子が私に、「手に職があることはつくづく嬉しいものだ。」と言っていました。私もほっとしています。あの時に、ベースをもらわなかったら、息子は今頃どうしているだろうかと思います。人生の中に、何が起こるのかわかりませんが、必ず、神様は祝福の道へと導いてくださることを期待しましょう。イエス様を信じたら、アブラハムと同じ祝福への道を歩み出していると、確信しましょう。

 「離散の人生」とは、「重荷を負った人生」です。今週は「北関東リバイバルミッション」が宇都宮で開かれます。宇都宮の近くの日光には、「日光東照宮」があります。そこには徳川家康が祀られています。徳川家康は、愛知県の岡崎出身です。彼は日本統一の野望を抱き、日本を一番長く支配しました。江戸時代は平和な時代だったと言われます。しかしそれは、支配的圧力が強かったためです。彼は絶大な権力を持っていました。自分を神として日光東照宮に祀らせました。しかし彼が晩年語った言葉は、「人の一生は、重き荷を負って遠き道を行くがごとし」でした。彼には絶大な権力がありましたが、同時に重い荷物がありました。その重荷で苦しんでいたのです。彼は最後には、苦しみの中で死んでいきました。いつも廻りから命を狙われ、心配しながら一生を歩みました。

 私たちの人生にも、重い荷物が来ることがあります。「この荷物は担いきれない、どうすることもできない」という時、誰かが重荷を背負ってくれたら、どんなに楽になるでしょうか。

 「祝福への旅路」とは、「平穏な道」という意味とは少し違います。時には荷物が課せられるかも知れません。しかし、そんな中でも、神は私たちの荷物を一緒に背負って下さるのです。詩篇五十五篇二十二節に、

『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』

 クリスチャンとは、十字架により「罪赦された」と宣言された者たちです。「正しい者」として、認められた人たちです。

 また、クリスチャンになると新しい家族ができます。それまでは他人であったのが、互いに家族のようになります。ですから、自分の家族の問題と同じように、お隣にいる方の問題を心配し、互いに祈り合うことができるのです。それは素晴らしいことです。互いに心配し、支え合い、励まし合うことは、祝福であり、支えとなります。

 しかし何よりも増して心強いのは、「神が心配してくださる」ということです。

 「心配」という言葉は、「おろおろしている」というイメージがありますが、ヘブル語の「心配」という意味は、もっと広い意味があります。日本語は「心配」と訳されていますが、英語では「支える」となっています。ヘブル語では「養う、育てる、備える、背負う、阻止する、守る、養護する、支える … 」など、一般生活に適応される言葉として、用いられています。

 『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。』とあります。一般生活のすべての重荷を、主にゆだねてください。主があなたのことを心配してくださるのです。それは、ただ、おろおろと心配しているのではなく、主が養ってくださり、背負ってくださり、守ってくださり、阻止してくださるという、素晴らしい助けがあるのです。

 英語の聖書では、『 Cast your burden on the Lord 』とあります。『 Cast 』という語は、「投げる」という意味があります。今日は衆議院選挙があります。政治家が色々な問題を官僚に丸投げしていると、時々ニュースで聞きます。意味合い的には、政治家がやらなくてはならない仕事を官僚に投げているということです。しかし私たちクリスチャンは、すべての問題を神様に丸投げして、「イエス様。心配事がありますが、あなたが心配してください。」と丸投げして良いのです。

 日曜日に礼拝に集まりますが、様々な思いで私たちは集っています。ある方は、喜んで来られます。しかしある方は、問題の中で苦しみながら教会に来られるかも知れません。様々だと思います。しかしその心の内のすべてを、神の前に丸投げして、「主よ。あなたが私のことを心配してください。支えてください。」と祈る時間でもあります。主があなたのことを心配してくださいます。マタイの福音書六章三十三節から三十四節に、

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』

とあります。「祝福への旅路」を送るためには、「明日の事を心配しない」ことです。『あすのことはあすが心配します。』とあります。「あす」があたかも人格を持つかのように表現されています。「あす」と表現できるのは、神以外にはありません。私たちには、明日があるようでもないかも知れません。

 近頃、アメリカに大きなハリケーンが来て、また、日本にも台風が来て人々が亡くなったという悲しいニュースを聞いています。ハリケーンが来ると聞きいていたのに、ある人は、「まさか来るはずがない。こんな晴天であるのに … 」と思っていたかも知れません。しかし突如としてハリケーンがやってきて、死んでしまったのです。明日がなくなってしまったのです。私たちには明日が保証されているようで、保証されてはいないのです。人生には、次の瞬間、何が起こるのかわかりません。しかし聖書は、「明日のことは、明日を支配している神にゆだねなさい。あなたは、その代わりに神の国と神の義を第一に求めてください。そうすれば、すべてが用意されますから。」と告げています。

 神の国とその義を中心に置くときに、すべてが付け加えられのです。私たちの持っている幸せの概念は「追い求める」ものです。追い求めて行くならば、どこかでつかむことができる、それが幸せの概念です。

 しかし聖書は、幸せは決して追い求めてつかめるものではなく、用意されたものであり、神を第一にするときに加えられるものだと教えています。あなたのための良きものはすでに用意されており、既に創造済みであると「エペソ人への手紙二章十節」で教えています。既に創造済みの良きものを受け取るためには、神の国と神の義を第一に求めることです。この御言葉は、賛美になっています。

神の国と神の義を まず求めなさい

そうすれば みな与えられる

ハレル ハレルヤ

 「心配する」という意味の中に「分解する」という意味があるようです。「一つ一つに区分けする」と言うことです。一つの心配事があると、その心配を徐々に分解し始めます。少しお腹が痛いと、もしかしたらガンかも知れない … と心配になります。そして次の日になると、そうに違いない。また翌日になると、もう死んでしまうかも知れない … と分解するものです。私たちは心配事を分解することなく、神の手にゆだねた方が良いのです。

 この教会に長く来ていたおじいちゃんがいました。彼は晩年少し心臓が悪かったので、静かにこたつの前で過ごしていました。私はよく、そのおじいちゃんを訪問しました。こたつの上に聖書が置いてあれば良いのですが、おじいちゃんはいつも、「家庭の医学」という本を置いていました。彼は毎日変化する自分の体調をすべて、「家庭の医学」に照らし合わせ、私が行くと「おれはこの病気だ」と言って、いつもその症状について調べた箇所を読んでくれました。

 またしばらくして行くと、「大変なことがわかった。俺の体調は、この症状にぴったりだ」と言うのです。私はいつも「おじいちゃん。そんなふうに考えないで、もっと楽しく生きようよ … 」と言いましたが、いつも心配していました。

 しかし結局、そのおじいちゃんは九十歳位まで生きて亡くなりました。時々一つの問題が、更に問題を引き起こすようなことがありますが、私たちの神様は、問題を丸投げで受け取ってくださり、助けてくださるお方です。

 聖書の中からは、「この人の人生は大変だっただろう」という人物をたくさん発見できますが、特に、イスラエルをエジプトから解放したモーセには、相当ストレスがあったと思います。足で歩ける人だけでも、六十万人いたというのです。女性や子どもを入れたら、百万人以上いたのではないかと言われます。そんな中で彼は、初めはすごく燃えてやっていました。テキパキと指示を出し、百万近くの人々を治めていました。しかしそんなただ中に、モーセの舅イテロが陣中見舞をしました。モーセはまだエジプトから出たばかりで、たくさんの奇跡を見せられてとても燃えており、すべての問題を一人で背負っていました。そんな時、イテロは横から見てモーセに忠告しました。「モーセ、私は親族として君に忠告するけど、このまま君がやっていったら、きっと君は駄目になってしまうよ。だから、ちゃんとした組織を作るべきだ。」そして、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長という、リーダーを決めて問題解決に当たらせたのです。彼はひとりで何でもできると思っていましたが、イテロの忠告を聞いて事なきを得ました。

 時々私たちは、人生の中で誰かに忠告してもらうことは大切です。互いに忠告し合う仲間がいることは、良いことだと思います。夫婦の関係の中でも、互いに忠告ができるようになると、危険から回避されます。私には家内から、素晴らしい忠告や提言があります。日曜日のメッセージが終わってから「今日はあまり良くなかった」と、はっきり言ってくれるのは家内です。普通ではなかなか言えないと思います。しかし家内は勇気を持って言ってくれます。私はその忠告を聞きます。そうすると、色々な問題から回避されます。

 モーセもイテロの忠告を聞いて、うまくいきました。教会も組織を作るとうまくいくことが多くあります。牧師一人ではなく、色々な方々が働いてくださいます。スタッフや兄弟姉妹が協力をして下って、働きが成り立ちます。

 モーセは組織で二年間程はうまくいきました。しかし二年後に、彼は疲れていました。民数記十一章十一節に、

『モーセは主に申し上げた。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。』

 組織を作ってみたのですが、どうにもならなくなりました。その時、神様が行われたことが記されています。十一章十七節に、

『わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。』

 ここで、リーダーたちが聖霊に満たされました。また、モーセ自身もう一度、聖霊の油をいただきました。その時、今まで動かなかった問題が動きだし、解決されました。人々は「エジプトの肉が食べたい」と文句を言っていましたが、風とともに多くのウズラが飛んできて、人々の要求を満たす奇跡につながっています。

 「祝福への旅路」の中で重要なことは、「神の霊に支配される」ことです。クリスチャンに与えられている特権は、「神の霊によって支配される」という恵みです。礼拝に来て、一同集っている間も、聖霊様が皆さんを包んでいます。そして、知らないうちに重荷が打ち破られます。そして、普段できないことが神の力によってできるようになります。皆さんの上に、神の霊が宿るときに、普通では無理な仕事ができるようになります。

 先日、キリスト教関係のホームページに、あり得ない写真を見つ

けました。これを見て、「聖霊の油そそぎ」とは、こんなものかもしれないと思わされました。

 私たちに聖霊が注がれるときに、今まで持ち上げることができなかった事柄を、聖霊の力によって持ち上げることができるのです。

 創世記十二章一節から三節に、

『その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」』

 最初に神が語られた祝福への旅路についての原点は、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」でした。

 「父の家を出る」とは、どのようなことでしょうか。アブラハムの父、テラは「ウル」という場所に住んでいました。これは古代バビロニア帝国の町であり、そこには「バベルの塔」が存在していたと言われます。「バベルの塔」は、「霊を呼ぶための施設」でした。

 人間には、霊的存在をキャッチする機能があります。私たちはその機能を使って、霊的存在をキャッチするのですが、本物の神様をキャッチするならば祝福があり、本物の神と間違えて悪霊をつかむと、破壊と悲惨な道に向かいます。バベルの塔では、人々が塔の上に登って霊を呼ぶ、「降霊」を行ったのです。その結果、神は降りてきて直接的に、彼らの行為を中止させました。悪霊を呼ぶ行為はたいへん危険で、悲惨な結果につながるから、やめるように言われたのだと思います。これは啓示の領域です。

 先にも述べたように、神様や霊的な領域は啓示の領域です。私たちが経験を積み重ね、ようやく神や霊的存在に対する理解に到達したという所産ではなく、神から直接教えられたものなのです。

 ある意味で人間には、唯一の神や悪の存在を、神から啓示的に知らされているのです。相手がどんな存在であるかを、本能的に知っています。日本の神々のほとんどは、恐ろしい顔をした神々です。それは、悪魔・悪霊を表しています。バベルの塔で霊を降ろしたのは、「悪霊であることを承知の上での行為」かもしれません。人間には、悪魔や悪霊であっても、うまく取引して従わせ、自分の名をあげようという高ぶった思いがあります。

 ある意味で日本人はそうだと思います。「鬼にも、神にもなる存在」を利用しているのです。それはとても危険なことです。

 「ウル」という町においては、偶像礼拝と降霊が蔓延していました。神様はそれを、超自然的にストップさせたのです。そして民を散らし、集団で降霊行為が行われないようにしたのです。

 アブラハムの父・テラは、偶像礼拝をしていました。そのような家族に属するアブラムに神は声をかけたのです。「父の家を出なさい!」

 父の家は代々偶像礼拝の家系であったのです。そこから「出なさい」ということは、「家系的解放」を意味しています。

 士師記に「ギデオン」という人物について書かれています。彼に神様が語られた言葉があります。士師記六章三節に、

『イスラエル人が種を蒔くと、いつでもミデヤン人や、アマレク人や、東の人々が上って来て、イスラエル人を襲った。』

とあります。イスラエル人が種を蒔いて、これから収穫という時に、いつも敵が来てすべてを破壊し、奪っていきました。ある人の人生はまさしく、そんな人生かも知れません。種を蒔き、これからという時に、すべてを奪われるようなことがあります。そんな時に、神の御手が臨み、ギデオンが選ばれました。しかし彼が勇士として立ち上がる前に、神はこのように語られました。士師記六章二十五節から二十六節、

『その夜、主はギデオンに仰せられた。「あなたの父の雄牛、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を取りこわし、そのそばのアシェラ像を切り倒せ。そのとりでの頂上に、あなたの神、主のために石を積んで祭壇を築け。あの第二の雄牛を取り、切り倒したアシェラ像の木で全焼のいけにえをささげよ。」』

 ギデオンの父親も偶像礼拝者でした。悪霊を呼ぶような行為を行っていました。しかしギデオンが勇士とされる前に、神は、「父が持っている偶像礼拝から決別しなさい」と語られました。父の家、すなわち、代々受け継がれている偶像礼拝は、私たちを破壊と離散の道に引き込むのです。偶像礼拝の悲惨さに気付き、そこから出るのです。

 旧約聖書の時代は、すべてを破壊することが要求されました。イエス・キリストを信じたら、偶像をすべて破壊するのです。その時に、神の霊が注がれることを知るのです。六章三十四節に、

『主の霊がギデオンをおおったので、彼が角笛を吹き鳴らすと、アビエゼル人が集まって来て、彼に従った。』

 この戦争は、敵方が十三万五千人、しかし、イスラエルはたったの三百人で戦いました。本当に少ない人数でした。しかしギデオンは、彼らを全滅させる勝利を取りました。ギデオンの軍隊は、誰一人失われませんでした。ギデオンが神の霊に満たされたときに、そのような大きな勝利がありました。

 その背景に、「父の家から出る」という、家系で行われていた偶像礼拝からの解放があったのです。

 家系に働いている悪しき力から解放されることは、「祝福への旅路」への第一歩であることがわかります。

 もしもまだ皆さんの家族の中で、偶像礼拝をしていたら祈ってください。家族が救われて、父の家の偶像が消え去るように。また自分自身は絶対に偶像に膝をかがめないことを、決意して下さい。主は素晴らしいことをしてくださいます。

 最後に、素晴らしい賛美を紹介したいと思います。

一)イエス様は僕の友達さ かけがいのない方

  心の奥まで知っている 本当の友達

  イエス様が一緒なら 何も恐くない

  たとえ危険に出会っても 守ってくれるから

二)イエス様と歩く人生は 安らぎのある道

  光に溢れた明日が 約束されている

  イエス様が一緒なら 旅もつらくない

  約束の天国へ 足どりも軽い

  (「イエス様が一緒なら」 グロリアシンガーズ「ワンダフル・グローリー」より)

 素晴らしい人生を送ることができますように、お祈りします。今日まず、私たちの重荷をイエス様にゆだねなさいとありますので、すべての重荷をイエス様に丸投げし、お祈りしましょう。


[バックナンバー]