救いの喜びに輝け

2005.9.18(SUN)
新城教会 上條 実師

旧約聖書 詩篇 51 篇 12 節
あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

 北関東リバイバルミッションが先週の金曜日十六日から栃木県宇都宮市にあるホテルニューイタヤにおいて行われています。皆さんにお祈りいただき、祝福された時を持つことができています。初日の十六日は午前十一時からゴスペルランチョンが行われました。百八十人定員の会場に一杯の方が集い、平岡先生のメッセージなど大変祝福された集会となりました。また夜は有賀先生がメッセージをされ、二五〇名の方が集まられて祝福された時を持ちました。また昨日も祝福されたという報告を受けています。この大会は明日、十九日の夜まで行われます。ぜひお祈り下さい。また今日この礼拝を終えてすぐに多くの方が、マイクロバスで出かけていきます。また明日の集会後ほとんどの方がその夜車で帰ってこられます。ぜひ最後の最後まで祝福され、守られるようにお祈り下さい。昨日までの様子をビデオに収めてきましたので、まずは御覧下さい。(少し集会の様子のビデオを見ました。)

去年は沖縄でリバイバルミッションを行いました。そして今回は宇都宮市です。集会の規模はそんなに多くありませんが、今回も大きな霊的戦いを覚えます。是非集会時間に併せてとりなしのお祈りをお願いしたいと思います。今回のゲストであるロン・ブラウンさんは、今度の日曜日に新城教会に来て下さり、礼拝とゴスペルカフェにてご奉仕してくださいます。ぜひ新しい方をお誘いください。

 では今日は「救いの喜びに輝け」というタイトルで御言葉を学びます。先ほどお読みしました詩篇五十一篇を書いたのは、ダビデ王です。ダビデ王はイスラエルの有名な王です。今でもイスラエルの国旗にダビデの星が描かれているほどです。ダビデは神に選ばれた王であり、その名前は「神に愛される者」という意味があるそうです。ですから、名前のごとく多くの祝福をいただいた王様だと聖書から読み取ることができます。多くの富を持ち、多くの栄誉を持ち、誰からも尊敬され、祝福の溢れる王様だと見ることができます。しかし彼の幸せは富や権力ではなく、神様の祝福・神に愛されていることが第一であることを理解した、へりくだった人物。神様に仕えている姿を見ることができます。しかし五十一章十二節には、

『あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。』

と記されています。『あなたの救いの喜びを、私に返し … 』とあります。ダビデは神様から祝福され、神様から任命された王であり、油注がれた者として素晴らしい祝福をいただきましたが、この時は救いの喜びがなく、苦しんでいました。彼が苦しんで救いの喜びを失ったには訳があります。そのことが第二サムエル記十一章一節から書かれています。

『年が改まり、王たちが出陣するころ、ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。彼らはアモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか。」との報告を受けた。ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。――その女は月のものの汚れをきよめていた。――それから女は自分の家へ帰った。』

四節までお読みしましたが、ダビデ王は「神に愛される者」という名前のごとく、ずっと神様から祝福をいただきながら一つの大きな罪を犯してしまいました。それは、軍隊が戦いに行っている最中、彼は宮にとどまり城壁を歩いているとき、一人の女性が体を洗っているのが見えました。その女は非常に美しかったと書いてあります。彼は人をやって誰だかを調べさせました。するとヘテ人ウリヤの妻バテ・シェバと報告を受けました。バテ・シェバはウリヤという将軍の妻でしたが、ダビデは人を使わして、彼女を召し入れ、今で言う不倫行為をしました。その後彼女から子どもができたとの報告を受けたのです。ダビデはバテ・シェバの夫ウリヤを戦場から帰らせるなど偽装工作を行いました。しかしそれもうまくいかずに、とうとうウリヤを呼び、「ウリヤを激戦の真正面に出し、死なせよ」という手紙を自分の隊長であるヨアブに渡せと言われ、なんと彼は戦いの最前に出されて死んでしまいました。何と誰にもわからないように、ウリヤを自分の権力で殺し、堂々とバテ・シェバを自分の妻として迎え入れました。しかしダビデは、神から悔い改めを迫られました。それまでは祝福をいただきながら何の不自由もなかったダビデでしたが、罪を犯したためにここでは、「救いの喜びを返してください」と訴えています。罪の結果、救われている。神様から愛されている。神が共にいることが分からず、喜びが全くなくなってしまったのです。ではあなたには救いの喜びがありますか ? イエス様を信じたときには、素晴らしい喜びを感じたました。祈りをするのも楽しいし、兄姉の交わりも楽しいし、集会に出席することも喜びでした。しかし心の中にある喜びが消え失せてしまうことがあります。問題が起こり、戦いが生じ、自分の弱さゆえに罪を犯してしまい、救いの喜びがどこかに行ってしまいます。そして「お前、こんなことをしたではないか」と悪魔は罪を責めてきます。そして、詩篇五十一篇三節に『まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。』とあるように、目覚めているときには四六時中、罪の葛藤でダビデは苦しんだのです。素晴らしい祝福をいただき、一国の王であり、権力があり、一言で国を変えることができる権力や権威があったダビデですが、彼の心の中にある罪によって責められ続けたのです。詩篇三十二篇三節、四節に、

『私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。』

とあります。この御言葉のように一日中疲れ果ててしまい、「骨々は疲れ果てた」とあるのは、自分は心底苦しんでいると、一国の王がこんな悲痛の叫びをあげています。そしてダビデは自己憐憫の中にありました。毎日信仰生活が虚しくありました。ダビデも神様に祈って物事を決めてきたのですが自分は神の前にもう祈ることはできない、祈っても答えられないと罪のゆえに苦しんでいました。また神に祈っても平安がなく、神は生きていて問題や苦しみをすべて解決してくださると解っているのですが、自分は駄目だ、自分の祈りは答えられないのだと罪の呵責の中でダビデは苦しんでいます。詩篇五十一篇十六節に、

『たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。』

とあります。ダビデはいつも神様に全焼のいけにえをささげ、神様に最高のささげものを捧げていました。しかし、一つの罪によって『たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。』と語っているように神様の間に罪という大きな隔たりができてしまいました。それまでは神様の近くにあって喜びを感じ、問題を解決してくださり、いつも祝福をくださっていた神様が、共にいて下さると解っていたにも関わらず、罪を犯した事の故に「私の心の中に救いの喜びを返してください。」とダビデが祈っています。ダビデが罪を犯したことをハッキリと認めて、苦しんでいました。今日皆さんは本当に救いの喜びに輝いているでしょうか。心にあるものが私たちの外側に出てきます。喜びがあったら、誰からも「何でそんなに喜んでいるの?」と言われるほどに輝いて見えます。しかし罪の中にあると、祈れたにも関わらず、祈れなくなってしまいます。神様に奉仕していたことが喜びであったにもかかわらず、神様の奉仕するのが辛くてたまらない、奉仕するのを止めたい、避けたいと思い始めます。あれほど礼拝や家庭集会など、集会に出席することが喜びであったのに、集会に出たくない、メッセージを聞きたくない、賛美したくない等徐々に暗闇の中に引きづり込んでくることを覚えます。知らない内に神様から目が離れるのです。詩篇五十一篇二節から四節に、

『どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。』

自分の罪を認めて一生懸命ダビデは祈っています。私たちは赦されるのだ、きよめられるのだと一生懸命祈っています。ダビデは一国の王様ですが謙遜な心を持って神の前に出ている姿を見ることができます。そしてダビデはその罪を認めて悔い改めてもう一度神様の所に行き、神様の祝福をいただきたいと祈っています。五十一篇十節に、

『あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。』

悪魔は必死になって罪を攻撃します。しかしダビデのようにへりくだって悔い改めることが必要です。ダビデはへりくだり、悔い改めて神の前に祈りました。今日救いの喜びがないならば、自分の罪を認めて、悔い改めてましょう。聖書の中に「神は真実で正しい方ですので、私たちが罪を言い表すならばその罪を赦してくださる」とあります。罪を持ち続けていたら罪は赦されませんが、心の底から悔い改めるならば、赦されるのです。悔い改めということを意味するギリシャ語は「メタノイア」と言うそうです。その意味は、「方向を変える」という意味があるようです。方向を変えて暗闇の方にバックしてしまったならば、もう一度光の方に目を向けて前進していかなければなりません。方向転換です。悔い改めは、方向を変えるということです。しかし、「悔い改め」という言葉とよく意味が似ている言葉があります。それは「後悔」という言葉だと思います。「あんなことをしなければ良かった」と思います。しかし悔い改めとは違います。後悔は過去の失敗を悲しみます。過去ばかり見てあんな偶像礼拝をしなければ良かった。妥協しなければ良かったなど過去ばかり見つめます。しかし悔い改めるというのは、方向を変えることです。神の方にもう一度向きを変えることです。暗闇の方に行っていたらもう一度光に目を向け、歩きはじめるのです。悪魔は必死に罪を見せてきます。しかし、私たちの神は生きています。そして神様は私たちの祈りに答えてくださり、素晴らしい祝福をくださり、方向を変えたときにすべての罪を赦してくださることを覚えてください。詩篇五十一篇を見るとダビデが赦されたという賛美をささげている箇所があります。八節に、

『私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。』

また十二節に、

『あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。』

とあります。また十四節、十五節に、

『神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。』

ダビデは罪が赦されたときに、心からの賛美をささげています。先週順牧師が御言葉を語られる中で私の心に一つの事が残りました。それはイエス様の救いは恵みであり、難行苦行で一生懸命に良いことをしたら救われるとか、祈ったら救われるとか、献金をたくさんしたら救われるというのではなく、ただイエス様の恵みによって、イエス様の十字架の恵みによって救われるということを感謝しましょう。賛美しましょう。イエス様に目を向けましょう。

今日もしここに前後賞を含む三億円の当たり宝くじ券があったとします。もしその当たりくじを持った人から、あなたに差し上げますと言われてもらったらどうでしょうか?貰ったら宝くじを、無造作に机の上に置いて、書類等と一緒に外って置くことはないと思います。それを銀行に持っていけば自分の手に三億円が入るのです。銀行に行くまでは肌身離さず、もし私だったら腹巻きの中に入れたり、金庫に入れて絶対にとられないように守ります。でも救いは三億円如きのものではありません。イザヤ書四十三章に、

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』

どんな金額よりもイエス様はあなたを愛されており、宝くじを貰う以上に、神様は一方的な恵みによって私たちを救ってくださる。いくらどれだけサタンに支配されていても、光の中に導いてくださるのです。『あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』と言われます。もう既にイエス・キリストが十字架によって最高の愛を示してくださっています。しかしその愛の中にいながらも罪を犯してしまい、悪魔に脅かされてしまいます。そして悔い改めなければいけないのに後悔になっています。駄目だ。自分はあんなことをしてしまった。自分は戦うことができない。立ち向かうことができない。弱い人間だと考えてしまいます。悪魔は必死になってあなたに語りかけてきます。しかし神様は、あなたがどんな人であっても、どんな病気を持っていたとしても、どんな問題を持っていたとしても、どんな束縛があっても、あなたのためにいのちをかけて下さった神様であることを覚えてください。もう一度神様を見上げて悔い改めましょう。罪は完全に赦されるのです。あなたが向きを変え、イエス様しかないと決断していくときに、「暗闇から光に」あなたを素晴らしい光の中に導いてくださると書かれています。今日ダビデと同じように、

『あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。』

とあなたも祈ってみませんか。自分より、世の中の人の方が喜んでいるように感じてしまう。自分は喜びがない、何か律法の中にあって、これをやったら罪だとびくびくし続けてまだ赦されないのではないか?と考えてしまう。救いの恵みを与えてくださる方、赦してくださる神ではなく、裁き主のように神様を見てしまっています。しかし、そうではなく一方的な恵みであなたを愛してくださっているのです。私たちが思っていること、思い浮かんだこととは違う、圧倒的な祝福今もを下さるし、将来も用意している神です。今の現状がどうであっても、自分の経済状況がどうであっても、今問題があったとしても、家族、夫婦の関係がぐしゃぐしゃでも、神様は不思議な方であり、不可能を可能にしてくださる方です。私たちが思い浮かんだことのないことをあなたに祝福しようと待っていてくださいます。恵みを受け取りなさいと言われています。私たちは素直に「イエス様悔いあらためます。私はあなたを受け入れます。私の罪のために十字架にかかってくださり、葬られて三日目によみがえってくださったことを感謝します。」と祈るとき、あなたに救いを与えてくださいます。そして今まで止めることのできなかった罪等、霊的束縛があるなら主の御名によって祈るとき、解放してくださるのです。悔い改めないで後悔させて、「ああ、自分は駄目だ」と後ろばかり見させ、周りを見させて、「あの人とは違う。自分は駄目だ」と思わせます。また人に言われると傷つき、あの人がいるなら教会に行きたくないと思わせます。ダビデははへりくだって悔い改めて祈りました。その時にダビデは素晴らしい賛美を神様に捧げています。今こんな苦しみ、こんな悩みがあると思っても、私たちは救いの喜びの中でいつも心が満たされ、賛美がわき上がってくることを覚えてください。私たちは知らない内に神様を小さく考えてしまいます。しかしあなたの神は、恵みによって喜びを与えてくださいます。今日生きておられる神様の前に後悔ではなく、悔い改めて主の前にもう一度従って行きましょう。お祈りします。


[バックナンバー]