「人」(男と女)

2005.9.25(SUN)
新城教会 滝元 順師

旧約聖書 創世記1章 26 節〜 28 節
そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

 ハレルヤ!おはようございます。久しぶりに新城教会で奉仕できることを感謝します。先月は、「北関東リバイバルミッション」もあり、皆様のご協力の中で無事終えることができて感謝致します。

 早いもので十月に入り、秋になってしまいました。昨日、十月一日は新城市にとって、歴史的な日でした。それは市町村合併が行われ、新城市が鳳来町、作手村を吸収合併し、今までは三万数千人の町でしたが、五万五千人の町となったからです。それによって新城市は、県内第二の広い面積を有する町となりました。第一位は豊田市です。市町村合併によって、新城市と豊田市が隣接しました。これは見える世界での出来事のように思いますが、すべては神の御手の中にありますので、見えない世界に起こった事柄が、地上に表されているのだと思います。

 イザヤ書五十四章二節に、

『あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。』

とあります。この箇所は、「教会」を表しています。教会はどこにあるのかというと、それは町にあります。新城教会はこの場所にあるように思いますが、黙示録を読むと教会には町の名が付けられており、町全体が教会なのです。新城教会とは、町全体であり、この場所は、神を礼拝するために便宜上、人々が集まる場所なのです。新城市にあるすべての機能は主のものなので、「町自体が教会」ということです。そのような定義付けの中で、市町村合併とは霊的世界では、教会という天幕が広がったことを意味します。広がった天幕を固定するには、綱を長くし、鉄のくいを地面に強固に打ち込まなければなりません。天幕は大きなものを張れば張るほど、長い綱でしっかりと固定し、地面深く鉄のくいを打ち込まなければ倒れてしまいます。市町村合併とは、政治的なものであり、経済状態が良くないから起きたと考えがちですが、霊的世界との関連で捕らえなければなりません。このような時にこそ、目に見えない世界で、教会の権威が広げられる時であると思います。

 そもそも町はどのようにして、できるのでしょうか。日本は、昔は単なる島でした。しかしいつしか、そこに区分けができ、町や村が出来ました。漠然とした空間に、ある日突然、境界線が引かれ町となったのです。そこには様々な要因が考えられます。歴史的に最も大きな要因は、ある日、時の権力者が声を出したことによります。町一番の権力者が、「ここが新城市!!」と宣言したときに町となりました。

 この地域はかつて「穂の国」と呼ばれていました。新城市の西側にある「本宮山」の頂上にその理由が書かれています。「かつて、国見岩に権力者が立ち、そこに神話上の神(悪霊)を呼び下し、穂の国を作った」と記されています。この地域の区分けは、偶像の神の名によったことがわかります。ゆえに町の存在目的が、偶像礼拝とともにあります。そのため、秋には、盛大に秋祭りが行われ、稲の収穫を祝って偶像の神に礼拝をささげるのです。

 またもう一つ、町ができる要因として上げられるのが、住民の「共通した体験」です。ある地域の住民が、共通の体験をすることにより、体験を共有した人々の集合体として町ができます。住民が共通した歴史観を持っていることは、町としての重要な要素です。

 今回、新城市が合併した背景に、一つの共通した理由があります。なぜこの三市町村が合併したのだろうかと思います。そこには過去、この三地域の人々が体験した共通の事件が関わっています。今回の新しくなった新城市のマークは、山に三日月がでているようなマークです。それは「兜」を表しており、「設楽原の戦い」を意味します。この三地域は、かつて大きいな戦いに巻き込まれ、痛手を受けました。日本の戦いの歴史の中で、初めて実戦において鉄砲が使われ、数時間で一万数千人が死ぬという大惨事が起こりました。その日、新城の人々は皆、作手方面に逃げました。そして戦いの舞台となったのが、鳳来町と新城市でした。そのような共通した体験と、共通した歴史観によって、今回、合併が行われたのだと思います。そのような理由で町が成り立っているならば、主の名による町ではありません。しかし、元々、この地を創られたのは神です。私たちは神が創られた町を回復するために、働かなければなりません。共通した体験によって町ができるならば、「リバイバル」という共通した体験によって、新城市が出来たらすばらしいです。やがて、新城市民が、「神が訪れられた場所」という共通した体験と、歴史認識によって町を建てたら素晴らしいです。先に救われたクリスチャンたちが、その為に祈ることが必要です。そのためには、まず、「鉄のくいを強固にする」ことです。

 「鉄のくい」について、士師記四章に一つの物語が記されています。当時、イスラエルはカナン人たちに苦しめられていました。シセラが率いる軍隊によって、イスラエルの王バラクは苦しめられていました。その時、バラクはデボラという女預言者と心を一つにして、国の解放のために祈りました。すると最終的には、ヤイルという女性が、シセラという敵の大将のこめかみを鉄のくいで打ち抜き、イスラエルが勝利を治めたという記事があります。「鉄のくい」とは、霊的意味合いにおいては、「武器」を意味すると思います。

「この群れからかしら石が、この群れから鉄のくいが、この群れからいくさ弓が、この群れからすべての指揮者が、ともどもに出て来る。 ゼカリヤ十章四節」

 今回私たちは、新城市の合併を前にして、霊的世界で勝利が表されるようにと祈らされました。十月一日に自治体の長たちによって新しい新城市の宣言がなされる前に、教会は霊的世界において声を発せなければならないと思いました。それで、先週、教会のスタッフたちが「新城市、鳳来町、作手村」に出て行き、今回、新しく設定されるボーダーに立ち、「この地は主のもの!」と宣言し、祈ってきました。そして、預言的行為として、その場所に主の名による宣言を記した杭を打ち込み、祈りました。三つの町が合併したことを通して、新城教会に与えられている神の権威が拡大したと信じています。同時に、教会とは「私たち自身」なので、個人にとっても見えない世界での権威が拡大し、鉄のくいが強固に打ち込まれると信じます。

 この月は「鉄のくいを強固にする」というテーマで、三回に渡り「霊的戦いセミナー」を開催したいと願っています。

 先日、リバイバルミッションが主催した「霊的戦いセミナー」に、多くの方が参加してくださいました。そのダイジェスト版として、基本的な事柄をもう一度学びたいと願っています。

 私は今月、アメリカで奉仕します。それは教会で奉仕をすると共に、アメリカにある日本人神学校で霊的戦いの講義をします。また、ジョー先生とともに「ワシントンDC」にとりなしの祈りに行きます。

 続いて十一月には、キューバの近くに位置する「プエルト・リコ」という島の教会で奉仕するために出かける予定です。

 数年前、私の息子がアメリカのロサンゼルスの音楽学校に入学しました。彼はベースの勉強のために行きました。そこに一人のクラスメイトが来ました。彼はプエルト・リコ人なのに日本語で挨拶したそうです。そして、「おまえは日本人か?」と聞き、「俺は日本のある人の名前を知っているけど、お前は知っているか?」と聞いたそうです。その日本人とは、「一億二千万分の一」の確率です。息子は知るわけないと思っていると、「滝元順を知っているか?」と聞いたそうです。息子は驚いて、「滝元順?どこのどいつだ?・・それは俺の親父だ!」と答えました。すると、「おまえの親父が滝元順!?」と、彼はとても驚きました。

 なぜ彼が私を知っていたかというと、私がよく奉仕に行く、「沖縄ベテル教会」のエミルダ先生がプエルト・リコに帰ったときに、いろいろな教会で私について話したそうです。彼はどこかで私について聞いたらしいのです。彼は牧師の息子でした。彼が日本語を話せたのは、かつて岡崎で一年間を過ごしたことがあったからです。不思議なことがあるものだと思いました。巡り巡って、私は今回、プエルト・リコの教会に招かれ、奉仕することになったのです。主がみこころを持っておられると、何億人が住んでいる中でも、お互いを隣り合わせにしてしまうのです。神様の働きはすごいものだと思います。

 クリスチャン生活はエキサイティングです。神様の働きについて行くのは大変です。不思議な神の導きがあります。そのような中、聖書は神のみこころをつかむためのマニュアルです。聖書は幸せに生きる原則を提供しています。今はマニュアル時代で、何か製品を買うと、必ずマニュアルが付いて来ます。マニュアルに従って製品を使うならば、とても使いやすいです。しかしマニュアルを読まないと、大変苦労します。例えば、携帯電話の使用マニュアルを読むと、かなりの機能があることがわかいります。けれどもマニュアルを読まないために、いまだに番号を手入力して電話をかけている人もいるかも知れません。

 聖書は人生を幸せに生きるための、最高マニュアルです。この原則に従って生きていくならば、幸せに生きられます。

 先ほどお読みした聖書の言葉は、人間を創造する過程におけるレポートです。神様が人間を創る前に、天で人について計画されました。創世記一章二十六節に、

『そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。』

とあります。神様はお一人です。しかしここには「われわれ」と複数で記されています。神は一人と言いながら「われわれ」とはなぜか、と思われるかも知れません。それは、神様はお一人ですが、単数で表すことができない程、大きな方であることを意味するヘブル的表現です。実際、神様にからだがあったら、相当大きいと思います。この天地宇宙をお一人で創られました。時々、幼稚園に行くと、子どもたちが泥で太陽、月と … 作っていることがあります。彼らは自分よりも小さな物を作ります。神様が天地宇宙を、おにぎりを握るように創ったとしたならば、大きな方だと思います。そんな方を、ただ単数では表すことはできません。文法的にも、主語は複数ですが「動詞は単数」で表記されています。それは神様が三位一体であることを、意味しているのかもしれません。

 神は人間を創る計画をされました。「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう」と計画を立てました。天で立てられた最初の計画は、「人間の使用目的」です。その理由をよく知らなければなりません。それが地上に形として現されました。創世記一章二十七節から二十八節に、

『神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』

 ここで、天で立てられた計画が、地に余すことなく表されたことが分かります。人間が創られた目的が、ここに記されています。人間は神ご自身の姿に似せて創造されました。「神に似たもの」とされました。

 時々、「私は取るに足りない塵芥のようです」と言われます。しかし人間は決してそうではありません。神に似たものとして創造されました。詩篇八篇を見ると、「神よりいくらか劣る存在」としての権威とポジションを与えられたと記されています。そのような中、人は「男と女」とに創られました。今日ここにおられる方々は、男性か女性のどちらかです。自分で認識があると思います。全世界に六十億以上の人々が住んでいますが、必ず、どちらかに属します。最近どちらかわからない人たちが発生していますが、これは聖書的ではありません。男か女かのどちらかです。聖書は、人とは男だけでは人ではなく、女だけでも人ではないと教え、男と女の両者がいて人という定義です。なぜ神は男と女を創られたのでしょうか。

 男性と女性は、かなりの領域で違うところがあります。私は集会前に家内に祈ってもらいます。家内に祈ってもらってから奉仕に行くと、勇気も力も百倍になります。奥さんはご主人を送り出す前に、ぜひ、お祈りされたら良いと思います。その祈りがご主人に勝利をもたらします。独身の方も、誰かに祈ってもらうことが大切です。他の人からの祈りがあると、人生の展開が違います。夫婦の間で祈ることはとても重要だと思います。

 先週私は、奈良の教会で奉仕しました。三つの集会がありました。素晴らしい集会でした。帰ってくると家内が、「集会、どうだった?」と聞きます。私は「よかった!」と答えました。すると家内は、「良かったって、何が良かったの?」と聞くのです。私は、「とにかく、良かった!」と答えます。家内は、「いや、そのよかった内容を聞いているのに … 」と言います。しかし私はあまり答えたくないのです。男性にとって、「良かった」という一言の中に、全ての要素が含まれています。しかし女性の「良かった」とは、「何が良かったのか、どういう結果が出たのかを、一つ一つ聞きたい」のです。そのようなことでお互い、ストレスを感じておられる方がいるかも知れません。

 ご主人が会社から帰って来ると奥さんが、「会社はどうだった?」「問題ない」「問題ないって、どうだったの?」「良かった」「教えてよ。どうだったの?」「良かった … 」とやりとりをします。というところから戦いが始まることもあります。

 男性は、ちょっと大変でも、内容を詳しく話す努力が必要だと思います。だから私も、「こんなことが起こったよ」と、実際に起こったことの二十パーセントくらいは話すようにしています。なかなか男性はフル・ストーリーを話すのが難しいのです。

 なぜ男性はそのようなのでしょうか。それは、男と女ではその製造工程が違うからです。初めの人間アダムは、最初土から創られました。人は死んで葬られると土になります。人間の体は元素的には土と同じようです。神様が人を土で創り、いのちの息を鼻から吹き込むと、アダムができました。しかし神様はアダム一人では人として、完成品ではないと考えました。助け手が必要だと、助け手を創る計画をしました。 創世記二章十八節に、

『その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」』

とあります。二章二十一節から二十四節に女性の製造工程が記されています。

『そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。』

とあります。アダムを眠らせて、アダムのあばら骨を取りました。神様はあばら骨からエバを創られました。アダムが目覚めるとエバがいました。女性は男性と全く製造工程が違います。男性は冷たい土から創られましたが、女性は「生きているアダムの細胞」を使って仕立て上げました。

 男性と女性は感情的違いがありますが、製造工程に違いがあることを知るべきです。そもそも、遺伝子工学的に言っても、男はXY、女性はXXです。女性にはY遺伝子がありません。ということは、男性がいなければ女性はできません。男性は父方の遺伝子を受け継がなければあり得ないのです。

 ある意味で、男性は父方をしっかりと整理して、祈る必要があるような気がします。女性は男性を元にして、Y遺伝子を取って、X遺伝子をコピーして貼り付けたのでしょう。

 人への根本的命令は、「空の鳥、海の魚、地をはうすべての生き物を支配しなさい」という命令でした。それが「至上命令」でした。創世記三章を見ると、新しい展開があります。三章一節から五節に、

蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」』

 ここには蛇と女の会話が記されています。蛇とは、田んぼのあぜ道で見かける蛇ではなく、「霊的存在」であり、「悪魔」でした。悪魔・悪霊は生物中、ハ虫類に属するのでしょう。そこで蛇は「女」エバと会話したとあります。その時アダムは、エバから少し離れた所にいたのかも知れません。蛇はエバとだけ会話しました。その後、女は蛇の言うことを聞き、神の言いつけに逆らうような行為に走りました。「善悪を知る木の実」を食べてはいけないと言われていたのにも関わらず、取って食べてしまいました。これは、人類が最初に犯した罪だと言われます。初めの人類であるアダムとエバが、善悪を知る木の実を取って食べたことによって、人間の中に罪の種が入り、ひとりでに罪を犯すようになります。人間の心には、罪の種があるのです。それは、最初の人間アダムとエバが、善悪を知る木の実を取って食べてしまったからです。それは、神の言いつけに背く大きな罪でした。

 しかし、それ以上に大きな罪がありました。人間に課せられた任務とは、「地を這う生き物を支配する」という任務でした。ということは、蛇族の悪魔・悪霊が出てきた時に、人類に与えられていた使命として「蛇を支配すること」が要求されていたのです。しかし蛇を支配するどころか、蛇に支配されてしまったのです。それによって人類は立場を失い、地を這う狡猾なもの、悪魔・悪霊に人類全体の支配権を奪われてしまったのです。人類の始まりから、人類は蛇の奴隷となって苦しんでいるのです。それは、課せられた任務を放棄したという理由があったからです。

 クリスチャンになることは、ポジションの回復です。それは、地を這う狡猾なものを支配する任務を回復することになります。エペソ六章十二節に、

『私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』

とあります。これはエデンの園に出てきた狡猾なもの、蛇に対する戦いです。私たちの人生に起こってくる様々な問題の背後に、蛇が関わっています。しかし私たちがイエス・キリストを信じる時に、一時失った蛇に対する支配権を、もう一度回復し、蛇を支配することができます。教会に来て、イエス・キリストを信じて、蛇の力から解放されたという恵みに多くの方が与ったと思います。

 私たちの生活の中には、霊的戦いが常にあります。その戦いに勝つためのマニュアルが聖書です。戦いに勝つために最初に記されていることは、人によって蛇が制せられるということです。しかし人は、男性だけではなく、女性だけでもなく、男と女の両方で人です。エバが蛇に負けた要因の中に、「蛇と相対した時、アダムが離れていた」という理由があります。

 この時代は結婚制度そのものが揺り動かされています。結婚前は色々な夢を描きます。しかし結婚してから、色々な問題が夫婦間に始まるのを多く見ます。なぜそのようなことが起こるのか?悪しき蛇を打ち砕く権威が、男性と女性の一致の中に与えられていることを悪魔は知っているのです。特に、敵の力を打ち破るという権利が、夫婦の中にあるがゆえに、悪魔は真剣に家庭を揺り動かしているのだと思います。

 時々、夫婦トラブルを経験します。なぜ夫婦を悪魔が攻撃するかというと、男性と女性、二人の者が一体になることによって「人としての機能が発揮され」暗闇の力が打ち砕かれるからです。ですから、悪魔は男と女が一致することを嫌うのです。人の機能が百パーセント発揮されることを恐れています。夫婦関係において、感情の行き違いなどあるかも知れませんが、一致して歩まなければ蛇の力を支配することはできないのです。それが聖書の原則です。夫婦げんかは犬も食わんと言いますが、なかなか自分が悪いとは言えません。「あんたが悪い」と言って、譲り合いができません。もめ事や喧嘩そのものが「霊的戦い」です。今週、夫婦が一つとなって祈ることができるように、一致が保たれるように、ぜひ祈ってください。それは結果的に、家族や夫婦を守るのです。エバが一人歩きした時に蛇に支配され、また、男性も被害に遭いました。両者ともに良いことは何もありません。結婚したからには、夫婦を通して暗闇の力が打ち破られるという、認識に立って歩むことが大切です。

 「男はその父と母を離れ、妻と結び会い、二人は一体となる」ということには、更に深い奥義があります。エペソ五章三十節から三十二節に、

『私たちはキリストのからだの部分だからです。「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。』

 一人の男と一人の女が結婚し、一体となるとは何に対応するのでしょうか。それは、「キリストと教会」を指しているとあります。学生時代に数学の授業で、等式を習ったと思います。「 a+b=c+d 」と、左右の量が同じ時はイコールで結ばれます。しかしそれが同じ量でないと、「=」ではなく「≠」となります。今の時代は、「一人の男性」と「一人の女性」が一体となり、「キリストと教会」が対応するという、構図自体が壊れています。多くの性的な罪が世界に蔓延している時代です。性的な罪とは、「正式な結婚以外の性行為」です。聖書は、たった一回でも、そのような関係があったら、「ふたりの者が一体となる」という原理が動いているのです。現代は結婚する前に、男性も女性も性的関わりが多くあり、ふたりの者が一体どころか、三人、四人、五人が一体という、複数体がつながってしまいます。そのような背景を持った人たちが結婚するならば、キリストと教会という等式が成り立たないゆえに、夫婦関係や人生に神の守りを失います。それゆえに、色々な問題が人生に起こってきます。

 しかしクリスチャンになったら、罪が赦され、それまで結ばれていた「不利な債務証書が無効になる」ので、かつてそのような罪があったとしても、夫婦関係以外の関係を悔い改め、その契約を断ち切ることができます。それゆえに、「一人の男性と一人の女性」という関係を再構築でき、イコール、「キリストと教会」という関係の中に与えられている、最高権利を受け取ることができるのです。

 結婚は、「キリストと教会」を指しています。イエス様は男性です。教会は「キリストの花嫁」を表しています。一つになったらすごいことが起こされます。

 まず夫婦が一つとなり、過去の罪を悔い改め、キリストと教会に対応するならば、イエス様の資産を教会が共有できるのです。

 今私の娘がアメリカにいますが、彼女にクレジットカードを渡しています。それは私の「子カード」を渡してあります。彼女は色々なところでお金を使いますが、請求は全部私の所に来ます。私がもしも大富豪ならば、子カードを持った子どもたちは、何でも買えます。

 私たちの天の父なる神は、無限の富を持ったお方です。その方と教会が一つになったら、教会が子カードを持つようなものです。教会はイエス様の資産を使うことができます。案外、教会になかなか奇跡が起こらなかったり、神のみ業が起こらない背景に、キリストと教会に対応する男と女の構図が破れているからかもしれません。教会は男性と女性が一つになって集まる、素晴らしいところです。男性に与えられている霊的機能と、女性に与えられている霊的機能が一つになって、イエス様と結びつき、宇宙で最強の組織となるのです。そして、地を這う狡猾な蛇を打ち破るために用いられます。

 しっかりとした夫婦関係が築かれますように!

 また、この原則は「独身の男女」にも適応されます。それが聖書の素晴らしいところです。イエス様は独身でした。彼はこの地上に来て、結婚は経験されませんでした。イエス様は三十三年の公生涯でしたが、その中で一度も罪に揺らぐことはありませんでした。それは神の子であった由縁です。

 イエス様は独身でしたが、なぜ、蛇に勝利できたのでしょうか。女性とは、聖霊ご自身をも表しています。聖霊様は「助け主」だからです。私たちは、今この地上において助けを必要としています。一番大きな助けは、霊的助けです。神様はただ単純に、「あなたがたにマニュアルを与えたから、それをよく読んで頑張れ!」と言われるお方ではなく、聖霊の助けにより成しとげることができると言われます。

 時々、マニュアルの専門家が来て、マニュアルを解き明かしてくれるならば、簡単に製品を操作できます。聖霊様は同じように、私たちを助けてくださいます。独身の男性は、男だけでは完成されません。イエス様はある意味、そのような側面をお持ちでしたが、聖霊に満たされていました。ということは、「イエス様と聖霊様」によって「男性と女性」という条件が満たされ、敵が打ち破られたのだと思います。

 また独身の女性の方は、イエス様が、「わたしは世の終わりまであなた方とともにいる」と語られました。イエス様が、あなたとともに居られるのならば、どうでしょうか。イエス様が男性のパートを満たしてくださるのです。それゆえ、打ち勝つことができます。バラクがデボラという女預言者によって、シセラの軍隊に打ち破ったように、男性と女性が、互いに与えられた役割をしっかりと受け取るならば、敵の力は打ち破られ、主の勝利があなたの上に輝くことでしょう。

 結婚されていない方も、男性と女性の勝利のポジションに立つことができるのです。それぞれの立場において、「男と女」という、人としての機能が発揮され、人に与えられた使命を全うしていきましょう。

 昨年末、この教会の牧師たちが、二〇〇五年を迎えるにあたっての御言葉を取り次ぎました。私はそれをまとめて、「二〇〇五年に対する預言的な言葉」として、お伝えしました。先日それを読み返して、それは重要な事柄を含んでいると思いました。

「今与えられている働きを立ち止まらずに拡大し続けなさい。目標は日本のリバイバルです。通過点で立ち止まってはいけません。今年世界は火の試練を通過するかも知れません。しかし主はあなたを守り、その中であなたは完全な解放を受け、火の中を自由に歩き回ります。それは主が共におられるからです。直ぐな者として生活し、純粋に歩み、常に神に喜ばれることが何であるかを求め、日々主を待ち望み、力を受けなさい。神のさばきを止める権威が与えられているのは、唯一教会です。教会は世界と地域の破れ口に立ち、憐れみを求めて執り成さなければなりません。それが教会の使命です。教会が使命を果たすために最も大切なことは、聖霊が諸教会に語られることを聞くことです。そうすれば勝利を得るでしょう。」

 同時にもう一つの戦いのアイテムとして、ルカの福音書十一章十七節から十八節を語りました。

『しかし、イエスは、彼らの心を見抜いて言われた。「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう。それなのにあなたがたは、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言います。』

 ある意味で、男と女の間で、多くの場合に「内輪もめ」が発生します。ここにおられる男性と女性がそれぞれの立場の中で、「キリストと教会」に対応し、一致が保たれるならば、勝利することができます。今日、生活のただ中に主が訪れてくださり、み業が現されるようにお祈りします。


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