どうしても必要なもの

2005.10.16(SUN)
新城教会 滝元 明師

新約聖書 ルカの福音書 10 章 38 節〜 42 節
さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 ハレルヤ!おはようございます。今朝、みことばを取り次ぐ機会が与えられ、感謝します。毎週のように色々な教会を巡回しているので、この教会で話をする機会が少ないのですが、北関東リバイバルミッションも終わり、今は家でゆっくりとできるので、今日はこのように話ができることを感謝します。今日は「どうしても必要なこと」というタイトルで話します。

今から二千年ほど前にイエス様がこの地上に来られ、様々なところを旅されました。

『さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。』

「ある村に来られると」とあります。新約聖書の四つの福音書は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが色々な方面からイエス様について述べています。「ある村」を他の箇所から見ると、ベタニヤ町と書かれています。ベタニヤは、エルサレムから三キロほど離れたところです。そこにマルタとマリヤが住んでおり、その兄弟ラザロがいました。そこをイエス様が訪ねられたのです。マルタは勤勉でよくもてなす人でした。彼女はイエス様が来られたのでとても喜んでイエス様にもてなしをしました。しかし妹マリヤは「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」のです。お姉さんのマルタは一生懸命イエス様をもてなすためにごちそうを作っていたのですが、マリヤはイエス様のそばですわって嬉しそうにみことばを聞いていたのです。その妹の様子を見てマルタは、イライラしてきました。そしてイエス様に、

『「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」』

と言いました。マルタは頭にきて、少々、常識から外れたようなことを言っています。もし、私がマルタだったら、イエス様に直接そのようには言わないと思います。マリヤを呼んで、彼女に直接言うだろうと思います。マルタは怒ってイエス様に直接「イエス様、何とも思われませんか。妹に私を手伝うようにおっしゃってください。」と言ったのです。私たちはあまり忙しいと苛立ってしまうような者です。イエス様は、忙しさのあまり興奮していたマルタを見て、「マルタ、マルタ」と二回、声をかけました。

『「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」』

私たちの人生になくてはならないものがあります。一番大切なものをしっかりと捕まえることは大切です。ごちそうすることやもてなすことは悪いことではありませんが、イエス様はここで私たちに必要なことを教えています。私たちの人生の中でどうしても必要なことは何でしょうか。人生においては優先順位があります。何が大切なのでしょうか、ただ忙しく働いていて何が何だかわからずに、イライラして終わってしまっては何もなりません。一番大切なことが何であるのかを見極めることが大切です。「どうしても必要なこと」とありますが、この聖書箇所から見ると、それは、「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」というマリヤの姿勢です。一生懸命働いているマルタに向かってマリヤは主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていました。私たちの人生で一番大切なものは何でしょうか。皆さんは朝起きて初めに何をするでしょうか。私は毎朝五時に起きて、教会に行って賛美し、お祈りして聖書を読みます。それぞれ人によって違いますが、私のこのような習慣はイエス様を信じてからできたことです。「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」とあるように、今日ここに来られた方は素晴らしいものを選んだのです。皆さんもきっと忙しかっただろうと思います。忙しいけれども教会に行こうと一番良いものを選んだのです。御言葉を聞くことはとても大切なことです。

 かつて、アメリカのアイゼンハワー大統領の時代に、当時ソビエト連邦のフルシチョフ首相がアメリカを訪問しました。フルシチョフは無神論者なので教会に行きませんでしたが、アイゼンハワー大統領はクリスチャンでしたので、「教会に行きます。あなたも一緒に行きませんか。」と日曜日に教会に行くことを優先しました。どんな大きな仕事があってもまず教会に行く、そしてみことばに耳を傾けることは非常に大切なことです。また私たちが教会に行って聖書を学ぶことは大切なことです。

何週間か前に新城教会ニュースをいただきました。この情報誌は今までで二百二十二回発行され、巻頭言は順牧師が書いていますが、中面には、「 Q&A 」というコーナーがあり、他の牧師が交代で書いています。十月号は四元雅也先生が聖書について書かれました。

聖書は今から三千五百年前に約四十人ほどの著者によって約千五百年間かかって書かれた世界で一番古い書物である言われています。旧約聖書は三十九巻、新約聖書は二十七巻によって構成され、旧約聖書はヘブル語で、また新約聖書はギリシャ語で書かれています。私は今まで色々なところで講演をしましたが、聖書はドイツ語でもギリシャ語でもフランス語でもどこの国でも同じで、世界共通のものです。また聖書は、今現在、二千部族語ほどの、さまざまな言語に訳されています。イスラムのコーランが書かれたのは今から千四百年前、また仏教経典は二千四百年ほど前に書かれたと言われていますが、聖書は三千五百年前書き始められ、訂正されている多くの書物の中で、聖書は一度も訂正されたことがありません。それは神の御言葉だからです。イエス様は、「この天地は過ぎ去ります。しかし、わたしのことばは決して過ぎ去ることはない。」と言われました。私たちが聖書をよく読むことは大切です。朝起きて聖書を一章でも二章でも読まれる方は、人生で一番大切なことをつかんでいると思います。聖書を読むときに、素晴らしい祝福を受けることができます。雅也先生はその記事の中で色々な人の言葉を引用されました。ナポレオンは、「聖書はただの書物ではない。それに反対するすべてのものに征服する力をもつ生き物である。」と言いました。またヘレンケラーは、「私が毎日最も愛読する書物、それは聖書です。私の辞書には悲惨という文字はありません。聖書はダイナミックな力であり、変わることがない理想を示すものです」と書いています。仏教経典は世界四十カ国語に訳されていますが、聖書は二千カ国語に訳されています。それだけ世界に伝えられているのです。私が書いた『われ土方なれど』は、ベストセラーで百万部売れましたが、聖書は、二千四年の統計を見ると、これまでに四億冊ほど出版されたそうです。聖書は、書物の中の書物です。ですから、本が好きだといわれる方は、聖書をぜひお読みください。あなたの人生の中で神の御言葉である神の言葉を読むことは非常に大切なことです。一日何章でも良いので、是非読んでください。必ず人生を成功させることができます。伝道者の書十二章一節に、

『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。』

とあります。聖書を読むと、神様がわかります。「あなたの若い日にあなたの創造者を覚えなさい」とあります。聖書から本当の神様を見出すことができたならば、幸せな人生を過ごすことが出来ます。私は今までに北海道に一〇五回行きました。ある時に網走に行き、水産加工をしている会社の方になぜクリスチャンになったかを聞きました。彼らは戦後、開拓農民で百姓をしていました。ある時、キリスト教の集会があり、そこにお父さんが行かれたそうです。集会を終えて、お父さんがとても喜んで帰られました。「おい、天と地を創った真の神様がいることがわかった。おれはこれから信じる。」と言ったそうです。狐や狸が神であるというのはばからしいことです。しかし、「あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ」とあります。人生で一番大切なことは、聖書のみことばを通して、私を創られた神がいるということを発見することです。私にいのちの息を与えられた神様がいると知ることは素晴らしいことです。真の神様を信じていることを感謝しましょう。私たちは一番素晴らしいものを持っています。箴言一章七節に、

『主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。』

とあります。教会に来て天地を創られた真の神を知ると、主を恐れることを知ります。私は十七歳の時に東京に勉強に行き、十九歳の時にイエス様を信じました。当時、日本はとても貧乏でした。私はよく上野の地下道にいる浮浪者の所に伝道に行きました。ある時に見窄らしいおじいさんが教会に来ました。「救ってもらいたい」というのです。そして私が「あなたはどんな仕事をしているのですか?」と聞くと、おじいさんは、「私の仕事は強盗です」と答えました。なぜ彼が来たのでしょうか。彼は一人の牧師が道端で話すのを聞いて教会に来たのです。「皆さん。神様はいつでも皆さんを見ておられますよ。」と彼は道端で火を焚きながら「うるさいなあ。」と思いつつ聞いていました。ある時、彼は、農家に泥棒に入りました。しかし、いざそこに入ろうとすると「神様はあなたを見ていますよ」という声が聞こえたそうです。彼は気のせいだと思い、再び入ろうと試みました。するとまた「神様はあなたを見ています」という言葉が聞こえたのです。とうとう彼は恐くなり入れなくなりました。それでも彼の仕事は泥棒なので、また次の日にも出かけていきました。しかし、入ろうとした瞬間にまた声が聞こえたのです。ついに彼はその声により、入ることができませんでした。悔い改めを余儀なくされた彼は、教会に来て罪を悔い改めてイエス様を信じることになったのです。そしてその後、良い就職が見つかるように祈ると、すぐに仕事が見つかりました。

「あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ」ということばが聖書の中にありますが、若い時に教会に来ることは素晴らしいことです。

 昨日の新聞に大きなニュースが掲載されました。それは十一年前にあった事件で、三人の青年たちが木曽川付近でリンチをし、少年を殺してしまったという事件に対する公判についてでした。一人の少年が死刑、二人の少年は無期懲役と判決が出され、後に、再審で三人とも死刑になってしまいました。彼らは何人かを殺していました。彼らがもし教会に来て神を恐れていたならあのようなことをせずにすんだと思います。またその記事の中には素晴らしいことが書かれてありました。三人の内、Cさんはクリスチャンになったということでした。彼は、「今回の判決を私の罪責として重く受け止めていきます。私は私の罪のために裁かれたのであります。私は人の罪により裁かれたのではありません。ですから私は己の罪責を受け止め、私の歩み行くべき信仰に入りたいとの思いと、そして事件を忘れることなく、この生命が亡くなろうとも償いと悔い改めとを告げていけるよう心から思っています。」と告白していました。彼には死刑判決が下されましたが、彼は「私は自分でやったのです。悪かったです」と自分の罪を認めてバプテスマを受けました。本当は、そうなる前に彼がイエス様を信じたなら更に素晴らしかったと思います。真の神を信じて、信仰を持って生きることはとても大切なことです。私も家内もイエス様を信じて献身しましたが、私の家内が教会に行って、人生を決断したきっかけとなった聖書の御言葉が、ヨハネの福音書六章二十七節の言葉でした。

『なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。』

なくてはならないものは人生でそんなに多くはありません。朽ちる食物ではなく、永遠のいのちのための食物のために働きたい、イエス様のために生きたいと私の家内は思ったそうです。

しかし聖書を見ると、ある人は、こんな教えを聞けない、とイエス様から去って行った様子を見ます。イエス様はシモン・ペテロにも「あなたも去っていくのか」と訊ねました。すると、彼は「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」と答えました。ペテロはイエス様のうちに永遠のいのちがあることを知っていたので、私はどこにも行きませんと答えたのです。ヨハネ五章三十九節に、

『あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。』

とあります。聖書をよく調べると、それは真の神様を教える書物であり、その中に永遠のいのちがあることがわかります。聖書を知ることは素晴らしいことです。

 私は、一九七〇年から日本中を廻り、いたるところでクルセードを開催しました。ある集会に一人の娘さんが悩んだ顔をして来られました。あいにく会場はいっぱいで、一番前の席が空いていたのでそこに来て座られました。彼女は悩んでいるようで、来た瞬間、足を組んで気まずい顔をしていました。賛美歌も歌いません。私は悩める女性だと思いました。説教を始める前に、私は元気よく、「皆さん。こんばんは」と言いました。しかし彼女は下を向いたままでした。説教中、一人下を向いているので、私は彼女を気遣い飛び切りおもしろい話をしました。説教を終え、最後に私が招きの祈りをし、「今日どんな罪も赦されます。クリスチャンであってもまだ勝利のない方は信じなさい」「今日からイエス様を信じたい方は、手を挙げてください」と言いました。すると、彼女が一番前の席で、最初に手を挙げたのです。私が祈る間、彼女は激しく声を上げて泣いていました。集会が終わって皆が帰っていきましたが、彼女は依然として激しく泣いていました。私はかわいそうに思い、声を掛け、「良く来たね。初めて来たのですか」と聞くと、「いいえ、クリスチャンです。」と言いました。「クリスチャンはいつも喜んでいなさいと書いてありますよ。あなたはなぜクリスチャンなのにそんなに悲しい顔をしているのですか。」と聞くと、彼女が悩みを打ち明け始めました。彼女はクリスチャンで北陸から東京に音楽を勉強するために行ったそうです。そこで彼女は毎週ある教会に礼拝に出席していたのですが、そんな中で一人の男性に惹かれるようになって行きました。しかしその人は奥さんのある人でした。愛してはならない人を愛してしまったのです。教会に行っても神様のことよりも彼のことが気になって仕方がなくなり、お互いがクリスチャンであるにもかかわらず、デートを重ねるようになりました。彼女は、「駄目だ。このままでは超えてはならない所を超えてしまうかも知れない、このままでは罪を犯してしまうかも知れない、郷里に帰ろう」と思い、帰ってきたのです。「先生。私は家に帰ったけど、どうしても彼を忘れられない。朝起きて寝るまで彼のことで心が苦しいです。」「先生、男性を愛するとは苦しいことですね」と泣いていました。私は「間違っている!」「大体奥さんのある男を好きになることは間違ってる!あんたはクリスチャンと言っているけど、偽物。あんたの心の中にはイエス様はいない。入っているのは男だけ。イエス様は入っていないだろう。朝起きても男。寝るまで男、男、男…イエス様が入ってないだろう!」と突然怒鳴りつけました。彼女はとても驚き「はい、そうです。男だけです」と素直に告白しました。「やり直しなさい。今日からイエス様がすべてになるように。イエス様が宝になるように。イエス様が自分の全てになるように祈ってあげる」と祈ってあげました。翌日も集会に彼女が来ました。その日は明るい顔をして来ました。私が「こんばんは。今日はどう?」と言うと、「だいぶ楽になりました。先生。まだ少し男が入っていますけど…だいぶイエス様が大きくなりました。」と言っていました。そして五日間の集会の後、私が帰るときに彼女が駅まで見送りに来てくれ「先生。この手紙読んでください」と、私に手紙を差し出しました。その手紙の中には、こう書いてありました。「私は先生にお会いして目が覚めました。今まで心の中に男がいっぱいでした。だけど今はイエス様が私の心の中にいっぱいになりました。幸せになります」と書いてありました。彼女はすでに立派な人と結婚し家庭を持っています。私たちの人生の中で何が心を占めるかは大切なことです。

マリヤはイエス様の側に来たときに、「この方こそ、メシヤ、救い主」だとわかりました。そしてこの救い主に人生をかけようと思いました。聖書の中に、

『私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと』

とあります。信じることによって救われるとあります。私たちの人生でイエス様を信じることほど素晴らしいことはありません。今世界で様々な災害が起こっていますが、そんな中、ニューオリンズの災害の被災者の一人がこのように言っているのを聞きました。「人間の作った家は崩れました。しかし私の内にある喜び・歌は壊れませんでした。」この方はクリスチャンではないかと思います。人々にとって大切なものは多くあると思いますが、中でもお金は、人生で一番大切なものではありません。お金はなくなるものです。家も洪水が来たらなくなります。しかし彼の持っていたものは、イエス様ご自身でした。イエス様を持ったら最高です。やがてこの世の旅路を終えて天国に行く日が来ます。人生の最後に残るものは何でしょうか。一人のアメリカの金持ちが危篤になりました。アメリカでは危篤になると牧師がその人のために祈るという習慣があります。牧師が、その金持ちにお祈りをしてあげるために握手を求めると、彼は手を差し出すこと決してせず、しっかり手を握ったまま息を引き取ってしまいました。死んでしまってからなぜこの方は握手をしなかったのだろうかと思い、一本一本指をあけてみるとその中に金庫の鍵がありました。その人は死ぬ間際まで金庫の鍵を離しませんでした。しかし死んでしまったらなにもなりません。なくてはならないもの、それはお金ではなく、信仰です。私たちにとってイエス様を信じる信仰、そして御言葉です。本当の神様を信じたら喜びに満ちた生活をおくることができます。皆さんは朝起きて最初に思うことは何でしょうか。「あいつ憎らしい。」と人を裁くことをすぐに考えてしまうかも知れません。また起きると同時にお金のことを考えるかも知れません。今日から神様のことをまずはじめに考えてください。御言葉に思いを馳せてみてください。人生を楽しく幸せに生きることができます。イライラしている方はいますか。忙しすぎると言われる方もいるかも知れません。忙しいのは悪くはないですが、忙しいという漢字は、心が滅びると書きます。まずイエス様を求めて平安な喜びのある生活をしてください。平安の欲しい方、また罪の赦しの必要な方のために、今日は特別祝福をお祈りします。


[バックナンバー]