ただ、主の名を誇る!

2005.10.30(SUN)
新城教会 滝元 順師

旧約聖書 詩篇 20 章 1 節〜 7 節
指揮者のために。ダビデの賛歌
苦難の日に主があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の名が、あなたを高く上げますように。主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように。あなたの穀物のささげ物をすべて心に留め、あなたの全焼のいけにえを受け入れてくださいますように。主があなたの願いどおりにしてくださいますように。あなたのすべてのはかりごとを遂げさせてくださいますように。私たちは、あなたの勝利を喜び歌いましょう。私たちの神の御名により旗を高く掲げましょう。主があなたの願いのすべてを遂げさせてくださいますように。今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。

 ハレルヤ!お祈りありがとうございました。二週間にわたるアメリカでの奉仕が祝福されましたことを、心から感謝します。今日午後からは、そのレポートをしたいと思っています。「フリーメーソンと日本」というテーマでお話しします。楽しみにしてください。

 今回アメリカでは、始めにタコマで集会をしました。その後、ジョー先生と共にワシントン D.C. にとりなしの祈りに行き、その後ポートランドに戻り、神学校と教会で奉仕をしました。

 人類は何千年もかかって、バベルの塔から世界各地に移動しました。日本からアメリカ方面に入った民族もいます。またエジプト、ギリシャ、ローマ、ヨーロッパからアメリカ大陸方面に侵入した人々もいます。それらがどのように互いに影響し合っているのかを、午後から学びます。

 私たちは「主のみ名による宣言」をすべての領域に置かなければなりません。今日は「ただ、主の名を誇る!」というタイトルです。

 「キリスト教とはどんな宗教ですか?」と聞かれたら、いろいろな答え方があるかもしれませんが、「イエス・キリストの名によって祈る宗教です」と答えることができます。聖書には難しい事柄も多くあります。しかし、突き詰めていけば、人々の心の中には「祈り心」がありますが、それを「イエス・キリストの名によって祈る」ことに過ぎません。

 先日集会に、一人の新しい方が来られ、「キリスト教について教えてください」と言われました。同時にその人は、他宗教にも入っていました。しかしいくら拝んでも、抱えている問題は良くならないし、問題は大きくなるばかりと言われました。そこで私は、「今週一週間お試しコースで、あなたの神の名ではなく、イエス様の名前でお祈りしてみてください」と勧めました。その人はその勧めを実行したそうです。すると心に平安と喜びが与えられ、人生が変わったそうです。それで、今回は、お母さんも一緒に連れて来られました。誰に祈るべきかを整理するだけで、人生は大きく変わります。それは、この世界に「名前の法則」があるからです。

『苦難の日に主があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の名が、あなたを高く上げますように。』

とあります。時々、私たちの人生には苦難があり、どうしたら良いかわからないような時があります。しかし、『ヤコブの神が、あなたを高く上げますように。』とあります。そして七節に、

『ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。』

とあります。人は多少なりとも、誇りがないと生きていけません。皆さんにも誇りがあると思います。何らかのプライドがあると思います。ある意味で、自信を持って生きていくことは大切だと思います。

 しかし人間が持っている誇りは、いつしか消えるものです。ある人は知識を誇ります。しかし知識も時代と共に変わります。またある人は、自分の美しさを誇ります。けれども、やがて年老いて美しさも消えていきます。最近私は鏡を見ないようにしています。若い頃の美しさはどこに行ったのか・・と思います。またある人は、権力を誇り、ある人は経済力を誇ります。それもいつしか消えていきます。

 しかし聖書は、『私たちは私たちの神、主の名を誇ろう』とあります。キリスト教とは、イエスの名によって祈ることだと話しましたが、イエス・キリストの名を持っていることが私たちの誇りとなのです。

 先日、アメリカのロイターが配信した記事に、次のようなものがありました。

「米マサチューセッツ工科大学経済学部のジョナサン・グルーバー氏は25日、教会に通う頻度が高いほど、世帯所得も高くなるとの研究結果を発表した。

 同氏は全米経済研究所(NBER)によって発表された研究論文のなかで、「教会に通う頻度が倍増すると、9.1%の世帯収入増につながる」としている。

 さらに、「おそらく信仰心が厚い人ほど、日常的な問題でストレスを受けることが少なく、結果として、就職や結婚などの場面で成功しやすいのだろう」との見解も述べている。

 また同じ宗教を信仰する相互依存的な民族社会で暮らす人々ほど、礼拝に赴く頻度が高いとしている。

 同研究は、教会を訪れる頻度と教育水準、収入、婚姻率などが相関関係にあるとしている。」(十月二十六日二十時十三分)

 「所得が低い」といわれる方は、教会に頻繁にお越しください。所得九・一パーセント増だそうです。教会は経済的にも活性させるすばらしい所です。教会で献金をして損をしたと思わないでください。それは祝福の種を蒔くようなもので、刈り取りがあるのです。経済的にもイエス様は祝福してくださいます。

 しかし経済的にいくら祝福されても、お金は使えばなくなってしまいます。それも誇ることはできません。私たちが誇るのはただ一つ、主の名を誇ります。今日、私たちは主の名をどのくらい誇っているでしょうか。どのくらい主が共におられることを感謝しているでしょうか。

 『苦難の日に主があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の名が、あなたを高く上げますように。』とありますが、問題がある時、主の名によって祈れるのは特権です。どんなときにも、主の名によって祈る時に、主が私たちを高く上げてくださいます。

 今週号の「リバイバル新聞」を読まれましたか?八月の礼拝でも証をしましたが、春木昌美さんがいやされた記事が載っています。

(リバイバル新聞より)

「一日で腫瘍が消えた!〜新城市で鮮やかな神の奇跡〜」

 愛知県新城市で、卵巣と卵管に腫瘍ができた女性が祈りによっていやされ、一日で腫瘍が消えるという奇跡が起きた。いやされたのは同市在住で新城教会(滝元順主任牧師)も通う春木昌美さん(三十七)。いやしを祈った滝元順牧師も「こんなの初めてでした」と驚くほどの鮮やかな奇跡に、それを見聞きした人々は神を崇めている。

 看護師として働く春木さんが体調不良に見舞われたのは今年の七月二十七日。急に腹部が膨れてきて吐き気に襲われ、上を向いて寝られない状態となった。三月に結婚したばかりで妊娠を疑ったが、腹部の膨れ上がる速さが異常だった。

 八月十一日、近くの個人病院で診察を受けた。エコー診察、内視鏡による検査、触診を行った医師は、「よく、こんなになるまで我慢しましたね。流産どころではなくて、大変な病気です。明日、総合病院に行ってください。すぐに切ることになるかも知れません」と語り、左卵巣と卵管に腫瘍があることを告げた。看護師の春木さんは、「卵管に腫瘍」と聞いた瞬間、それが深刻な病気であると悟った。卵管腫瘍が良性である確率は極めて低いためだ。医師は、診断書に「左付属器腫瘍を認め、下腹痛、食事摂取不能」と書いた。

 「死ぬかもしれない」。春木さんは頭が真っ白になり、膝がガクガクと震えてきた。そして、病院の駐車場でへたり込み、牧師夫人の享子師に電話をした。順師夫妻は、霊的戦いの祈りから帰る車中だった。この日、死の霊を打ち破る祈りを行っていたのだ。

 同日午後九時、教会に帰った順師夫妻を春木さんが訪ねてきた。大きく膨れたお腹を抱え、歩くのもやっと。痛みが激しく、手を置かれただけで痛みが走っていた。「彼女の姿を見たとき、『今さら祈ってもダメだ』と思いました。信仰など無く、ダメもとで祈りました」と苦笑しながら振り返る順師。しかし、牧師夫妻は心を合わせて本気で祈り、神のしるしと不思議を切に願い求めた。春木さんは、祈ってもらっているとき、腹部の奥が熱くなり、お腹がすいてきたという。

 翌十二日朝、総合病院で受診。待合室にいる間、「少し楽になった」という感覚があり、体も自由に動かせるようになっていた。そして診察をした医師が驚くべき言葉を告げた。「何もないです。まったくきれいな子宮ですよ。この診断書を書かれた先生は何を見て書かれたのでしょうかね」。 MRI (磁気共鳴画像)の検査でも、異常は見あたらなかった。

 「神さまの手が私の体の中に入ったのかと思ったら、畏れというか、動揺して三週間ほど泣いていました。イエスさまの奇跡を体験したペテロが『主よ、私から離れて下さい』と言ったような心境でした」と春木さん。

 この事実を受け、順師は、「神の恵みですね。そして、その日に行われたとりなしの祈りが、大きな力だったと思います」と興奮気味に語る。

 十月十八日、春木さんは診断書を出してくれた個人病院を訪れ、医師に「キリスト教会で祈ってもらったら良くなりました」と説明してきたという。今後、自らに与えられた神の恵みを地域の人々に証していきたいと願っている。

(ここまでがリバイバル新聞の記事)

 主のみ名を誇ります!「後の雨」というコラムにもこの事が述べられています。

(リバイバル新聞より)

「神の奇跡は今でも起こる。」今回、新城市の春木昌美さんを取材して改めて実感した。いろんないやしの集会を取材してきたが、これほど鮮やかないやしは初めてである。お医者さんも、さぞビックリされたことだろう▼祈った順牧師も、いやされる信仰などなかったというから、取材しながら笑ってしまった。祈ったあと、順師が「どう?」と聞くと、春木さんは「そんなん分からん」と答えたという。誰も栄光を取らない、ただ神だけが崇められる御業だった▼しかし、新城教会は着実に地域の信頼を勝ち得ているようだ。地元の主婦たちが、あることを神社でお祓いをしてもらう相談をしていたとき、一人が「教会で祈ってもらおうよ」と発言したら、「そうしましょう」となったという▼順師は「聖霊が降った九二年以降、私たちは教会の計画を立てていません。ただ導かれたことをしてきただけです」と語る。教会には、体の病気をはじめとして引きこもりや精神病など、様々な問題が持ち込まれているようだ▼なお、新城教会の礼拝には、日本人が約三百五十人、ブラジル人などの外国人が百五十人ほど集まっている。しかし、教会のある茶臼山という駅は無人駅で、教会前には田んぼが拡がり、民家もまばらだ。地域の人口密度におけるクリスチャンの比率では、日本一ではないかと思う▼「とにかく、目の前の人が解放されることだけを願ってやってきました。真剣に取り組んでいると自然に愛が湧いてきます」と順師は語る。地域における霊的戦いも、一人の魂の救いと解放を目的として行われている。取材を通じ、「神は心を見られる」という御言葉が響いてきた。

(ここまでがリバイバル新聞の記事)

 大変うまくまとめていますが、とても感謝な事です。これらはただ、主のみ名をあがめることに過ぎません。これからこのような主のみ名があがめられる業が、教会でどんどん起こるように祈りましょう。

 私たちは神に頼らなければ生きることはできません。また人間がどのようにあがいても、解決しない問題がとても多い時代です。しかし主のみ名を持っていることにより、問題を乗り越えることができる特権は、何にも増して大きなものです。詩篇二十篇六節から七節に、

『今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。』

とあります。ここに『主は、油を注がれた者を、お救いになる。』とあります。クリスチャンは、「油注がれた者」と呼ぶことができます。私たちがイエスさまを信じるときに、聖霊の油注ぎをいただくことができます。神が関心を持っている人は、「油注がれた者」であり、ご自分の民です。

 国民とは、「その国の支配を受けている者」です。日本人ならば、日本国の支配を受けている者です。私たちが外国に出ても、日本国政府は日本人に関心があります。時々戦争があって、危険な状況があるとき、政府は邦人救出と銘打ち、特別機を準備したり、自衛隊機を派遣して日本人だけを救出します。なぜならば、自分の支配下にある民であるからです。

 主を信じることは、主の大きな関心下、支配下に入ることです。神様は私たちを特別に扱ってくださいます。イエス様を信じるならば、神の国の支配下に入り、神は私たちに関心を持ってくださいます。一週間のうち、教会に来られる時間はほんのわずかかも知れません。しかし、神が私たちに関心を持たれ、主は油注がれた者たちを救われるというのです。主のみ名を知っているほど、素晴らしいことはありません。

 ソロモン王は自分の宮殿を建てる前に、神の宮を建てました。それはとても豪華な宮でした。神のために最高のものを建てようと、財をつぎ込んで神の宮を建てました。その宮の奉献式のときに、彼らは宮で心から主を賛美しました。その時の出来事が第一列王記八章十節から十一節にあります。

『祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。』

 「旧約聖書の神の宮」は、「新約聖書では私たち自身」です。私たち自身が宮です。今日私たちは集まって主を賛美しましたが、主を賛美するときに、かつて神の宮で起こされたことが、内側にも起こっています。神の宮が雲で満ちて、そこに立って仕えることはできなかったのです。主の臨在が満ち溢れました。イスラエルの神の宮においては実際に雲が満ち、立って奉仕することができませんでした。神の栄光が現されました。私たちも、そんな礼拝を体験してみたいと思います。

 賛美する時は心を一つにして、力の限り主のみ名を賛美しましょう。「イスラエルの賛美の中に主は住んでおられる」とありますので、主を賛美するときに神の栄光が現されます。日頃の生活の中でも、賛美することは重要です。

 今日、滝元開先生が賛美リードをしましたが、彼は奥さんと一緒に「ざわめき」という働きをしています。先週は刑務所で賛美をしたそうです。その時のことを少し証していただきたいと思います。賛美は不思議なものです。どんなに閉鎖された場所でも、栄光が満ち溢れるのです。

(滝元開師の証)

「感謝します。皆さんのお祈りに支えられ、先週金曜日に、笠松女子刑務所で奉仕しました。刑務所の定員は五百三十人ですが、現在受刑者は六百五十人でした。そんな中からコンサートに六百名ほどの方々が来られました。初めてそこで奉仕しました。まず会場に入って準備をしました。会場に入るまでの話の中で、看守の方が「どんな音楽をされますか」と聞かれました。ギターとキーボードで二人のデュエットで静かに歌うと話しました。すると、「フォークソングですか、ニューミュージックですか。」と聞かれました。「どちらでもないですが、曲調としては新しめかも知れません」と言いました。そして会場に入ると、「歓迎!滝元開夫妻歌謡ショー」と書いてありました。(笑)

 「準備ができましたので来てください」と言われ、ステージに上がると、受刑者の皆さんが既にいました。看守の方が、「ただ今から滝元開夫妻コンサートを行います」と言うと、周りがざわめいていました。もっと緊張感があるところだと思いましたが、ざわめきの中でコンサートが始まりました。始まると神様が働いてくださり、賛美の中で強い主の臨在を感じました。会場が暗いので、前の方におられる方しかよく見えませんでしたが、一曲目から涙を流して聞いてくださいました。最後までよく聞いてくださり、泣いて鼻を真っ赤にされている方もいました。賛美の中に神様が働かれるのを見ることができました。四十五分から五十分ほどのコンサートでしたが、一人の受刑者が感謝文を読んでくださいました。私たちの目を見て心から感謝を込めて読んでくださいました。そして「ありがとうございました」と頭を下げたら、一人の受刑者から「もっと歌って … 」という声が起こりました。そして他から「アンコール」という声が起こりました。最後まで賛美で終えることができ、神様が働かれているのを見ることができ、多くの人たちに神様が触れてくださるのを感じて感謝しました。多くの方が感動を覚えて涙されていたことを聞き、また看守の方からも感動したと言われました。神様のみ業を覚えました。皆さんのお祈りを感謝します。」

(ここまでが滝元開師の証)

 刑務所の中でも、主の名を誇るときに、主の栄光が現され、主のみ業が現されます。その刑務所は薬物依存者が六割だそうです。そのような問題で多くの人が捕らわれています。背後には闇の力があったので、そんな状況になったのです。しかしそこで主のみ名を誇り、主のみ名を賛美するときに、栄光の雲が宮に満ちるのです。

 今週、私たちは、主のみ名を誇るとともに、主のみ名を賛美しましょう。クリスチャンが集まって賛美する礼拝には、更に深い神の臨在が現されることを信じます。

 聖書に出てくるような、栄光の雲が満ちる礼拝を持ってみたいです。神を賛美していると、どこからともなく白い雲が入ってきて会場に神の臨在が満たされたらすごいです。そんなことが起こったら、新城教会は有名になり、その雲を国から見に来ると思います。毎回、賛美し始めると、どこからともなく雲がわき上がり会堂は雲で満たされるのです。人々はそれを見て感激します。ある人はそれを手でつかもうとしたり、食べようとするのかも知れません。全世界からその雲を見に来るのかも知れません。

 しかしそのような現象が起こったとしても、現象はいつしか消えていきます。世界のリバイバルの歴史を見てみても、一時は盛り上がってもやがて消えていく事が多くあります。

 来週は、「プエルト・リコ」に行きます。そこにはリバイバルが起こっています。人口四百万人ほどの、広島県と同じくらいの小さな島です。しかし多くの人が教会に集まっています。そこで私は奉仕しますが、リバイバルの火が新城にも流れてくるように祈りたいと願っています。

 以前にもお話ししましたが、私の息子が数年前にアメリカに留学したときに、クラスメイトがプエルト・リコ人でした。すると彼が「俺は日本人を知っているが、おまえは知っているか?」と聞きました。日本人と言っても一億二千数百人いるので、「そんなの知るわけがない」と言ったら、彼から「滝元順を知ってるか?」と聞かれたそうです。「滝元順?あっ、俺の親父だ!」と驚いたのです。そんなことから、今回私はプエルト・リコに行くことになりました。

 また、今、南米でもリバイバルが起こっています。日本にも、そんなリバイバルが起こってほしいです。しかし残念なことに、神の栄光が満ちあふれるようなことが国々に起こっても、いつかは消えていくのかも知れません。

 たとえば、雲が満ちていた現象が消えたら、「新城教会から神が去ってしまった」と人々は言うでしょう。

 しかし案外、雲で宮が満ちるような現象は、日本では起こされないかも知れません。なぜならば、日本人は「物に霊が宿る」という考え方が強いからです。人々は「神々は物に付く」という考えを持っています。神社も、「社の中に霊が宿っている」と考えています。教会の中に白い雲が現れたら、「神がこの建物の中に住んでいる」と思ってしまいます。それゆえに、人々は見に来るはずです。

 神はイスラエルに、なぜそのようなみ業を起こしたのでしょうか?そこには理由がありました。こんな奇跡を体験しておきながら、ソロモンは次のように祈りました。第一列王記八章二十七節から二十九節に、

『それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。けれども、あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが、きょう、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。そして、この宮、すなわち、あなたが『わたしの名をそこに置く。』と仰せられたこの所に、夜も昼も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。』

  ソロモンは「神の栄光が宮に満ちる現象」が起こされたのにもかかわらず、神がその「宮の中」に住んでおられるとは考えませんでした。

『実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。』

と語っています。神様は手で作った物の中に住むような小さな方ではなく、霊的な存在は物体を必要としないと教えています。

 ソロモンは、「すなわち、あなたが『わたしの名をそこに置く。』と仰せられた」と語っています。「主のみ名を誇る」とありますが、私たちには主の名が付けられているのです。私たちに主の名が付けられているがゆえに、祈りは、父なる神の前に届くのです。神がともに住んでくださるとは、神がコンパクトになって内側に侵入してくる事ではありません。私たちに、神の名が付けられている理由で、主がおられるのです。ゆえに「ただ、主の名を誇る」のです。今日一人一人に主の名が付けられていて、祈りは神に届きます。

 旧約聖書十戒に『主の名をみだりに唱えてならない』とあります。ユダヤ人は自由に神様の名前を使うことができずに、いつも脅えていました。神の名前をやたらに使うと裁かれてしまうと恐れていました。

 しかし「主の名をみだりに唱えてはならない」という律法は、新約聖書において、その実態がはっきりします。それは、「イエス・キリストの名前による祈りだけを、神は受け取ってくださる」ということです。他の神々の名の祈りは、すべて悪魔に届いてしまうのです。

『あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。』

とあります。

 私たちはいつも、「イエス様のお名前によってお祈りします」と祈りを結びます。なぜそのように結ぶのでしょうか。イエス様のお名前によってのみ、旧約時代では恐れられていた神のみ前に自由に出入りでき、また、「アバ父よ」と呼ぶ特権を与えてくださるのです。

 色々な誇りがあるのかも知れませんが、「主のみ名を誇りとして」歩んでいくならば、人生に間違いはありません。また、主の名によって祈ることによって春木さんもいやされました。イエス様の名前で祈らなければ、このような奇跡はなかったのです。

 リバイバル新聞にもあったように、私は祈るときに信仰がありませんでした。いやされるのは不可能だと思いました。その状況に立ち会っていたら、誰でもそう思ったでしょう。現実は、お腹が腫れ上がり、診断書や薬も持っていました。その薬とは、「精神安定剤」でした。医者があまりにも酷なことを彼女に告げたので、安定剤が出されていました。彼女はそれを見て、さらに安定を失っていました。私も安定を失いました。しかし一つの希望は、「イエス様の名前がある」ことだけでした。だから「イエス様、助けてください。」と自信も信仰もなくても祈ることができました。すると御言葉通りに、奇跡が起こされました。それも鮮やかな奇跡でした。

 次の日、病院に行きました。午前中は不安でした。私が祈ったのは前夜でした。病院に行くまで十時間も経っていませんでしたので、いくら神様でも瞬間的にいやすのは不可能では・・・と思っていました。そう思って私は覚悟を決めておきました。どんな悪い知らせを聞いても驚かないように、覚悟を決めておこうと思っていました。何を聞いても驚かないと決意していました。

 しかし私の覚悟に反して、伝わってきた知らせは「何もなかった!」という知らせでした。夏目伝道師から私に電話が来ました。初め暗い声で「順先生 … 」と言いました。それを聞いて私は「もう語らなくても良い … あなたがこれから語ろうとしていることはわかっている … 」と思いました。しかし彼女は、「癒されたぁ!なにも、なかった!!」と叫びました。神様が栄光を現してくださいました。これは主のみ名が付けられているゆえです。皆さんに主の名がある時に、素晴らしい奇跡を体験することができます。

 今回、アメリカに行きました。アメリカは日本とは環境が違います。タコマの教会に行きました。そこには多くの若い日本人女性がいました。皆、アメリカの軍人と結婚された方々でした。「ご主人は?」と聞くと、「イラクに行ってます」「アフガニスタンに行っています」と答えられました。最前線で戦っている人たちの奥さんたちでした。その教会の祈りの課題は、「ご主人たちが誰一人として、戦地で怪我をしたり、戦死することがないように」ということでした。日本人教会ですが、場所が違えば祈りの課題も違います。その教会の牧師が、「祈りには、イエス様の名前がかかっている。ここに来ている人たちのご主人のひとりでも亡くなったら、主の名が地に落ちてしまいます。だから私たちは真剣に祈っています。」と言われていました。

 アメリカとイラクの戦争を、テレビなどの報道で見ています。日本からも自衛隊が派遣されています。しかし日本人にとって対岸の火事のような、関係がないように考えてしまいがちです。けれども日本人の中でも、ご主人を戦地に送っている人が多くいます。戦地に行くと、メールや携帯は使えないそうです。何が起こっているのか全くわからず、帰ってくる日も全くわからないようです。皆不安でいっぱいです。教会は主の名によってご主人方が守られるように真剣に祈っています。その教会は霊的戦いについて知っているので、死の力が働くことがないように真剣に祈っています。

 「感謝な事に、今までこの教会から戦死した人はいない」と話されていました。主のみ名を真剣に掲げなければならない、最前線の人々がいるのです。ぜひ、祈ってあげてください。

 そして日本でもアメリカでも、人々が社会で抱えている問題の根源は同じです。色々な方向から問題を受けて混乱しています。日本は日本の社会の背景で悪しきものが働いていますが、アメリカではアメリカやヨーロッパ背景などから悪魔が攻撃します。

 先週の日曜日はポートランドの教会で奉仕しました。礼拝後、神学校で一時半から六時まで講義を行いました。その後、問題からの解放の祈りを実践しました。一人二十分くらいの時間をとりました。夜十一時頃まで祈りました。人生はどの国においても大変だと思いました。家系の中に問題が入り込んだら、腫瘍のように家系を食い尽くしている姿をたくさん見ました。しかし、それらは「イエス様のみ名によってのみ」解かれるのです。アメリカでも、プエルト・リコでも、世界のどこに行っても「イエス様の名前」があれば、私は同じように仕事ができます。全人類に与えられている、神に通じる唯一の名前は、「イエス・キリスト」です。ですから、何にも増して、イエス様のみ名を高らかにほめたたえ、「み名を誇る者」になりましょう。

『ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主のみ名を誇ろう。』

とあります。この御言葉をアメリカで祈っている中でいただきました。主のみ名が私たちにあることを心から誇り、感謝しましょう。今日色々なプライドがあるかも知れませんが、そのような誇りではなく、イエス様の名前を誇る者になりたいと願います。また教会もイエス様の名前を誇る教会でありたいと願います。

 時々、「あなたは最近教会に行っていますか」と聞かれ、「たまには行きます。別に信者ではありません。少しは関わっています。」というように、隠れキリスタンのような人がいます。そうではいけません。主のみ名を心から誇りましょう。今週は「主のみ名を誇る」出来事が起きますように!


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