神の栄光と御手のわざ

2005.11.6(SUN)
新城教会 滝元 順師

旧約聖書 詩篇 19 篇1節〜 5 節
天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。今日このようにして御言葉を取り次ぐことができる特権を感謝します。今週、私はプエルト・リコに行きますが、ぜひお祈り下さい。今朝、私は週報を見て驚きました。

 「プエルト・リコの伝道のためにお祈りしましょう。八日から十九日まで滝元順師夫妻、公畑フェルナンド夫妻が奉仕します。毎日集会があり、十四日には現地のテレビ生放送での出演もあるようです。」とあるのを見ました。私は知らなかったので驚いています。いつもフェルナンド先生がスペイン語でやりとりをしてくださっています。何れにしても、プエルト・リコを揺り動かすような働きができるように祈ってください。

 今、プエルト・リコではリバイバルが起こり、多くの人がイエス様を信じ、毎日のように島の各地で集会が行われているようです。色々な教会で奉仕をします。先週の礼拝で「イエス様の御名を誇る」というテーマで学びましたが、イエス様の名前一つで世界のどこにでも乗り込んで働くことができる職業は素晴らしいと感謝しています。

 私は牧師の息子に生まれましたが、初めは大変な所に生まれてしまったと思っていました。昔この教会は、新城中学校前の四軒長屋の片隅にありました。普段の生活空間を日曜日になると片付け、礼拝の場所としていました。人が入ってきて、賛美し、昼ご飯を食べて帰って行きます。これはどういうところかと思っていると、教会でした。もう少しマシな所に生まれれば良かったと思いました。「牧師」という職業は、放っておけば関わりの無い、よそ様の問題をわざわざ引き受けてくる仕事です。家の中にこんなに多く(私は七人兄弟です)いるのにも関わらず、大勢の人が入ってきます。私は大きくなったら牧師には絶対になりたくないと思っていました。牧師は世襲制ではありません。神様からの感動がなくてはできません。牧師の息子がクリスチャンで、尚かつ、牧師をしていたら、キリスト教の神様は本物だと信じても差し支えありません。嘘なら私は牧師をやっていません。日本は八百万の神々と言われていますが、そのような中で本物の神様に出会いました。今、本物の神様に出会いつつある方もおられると思います。世界を廻ってみても、イエス様を主として信じている国民が一番多いのです。私たちの周りには、神がおられる証拠を多く見出すことができます。

『天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。』

とあります。キリスト教は宗教学的には、「啓示宗教」といわれます。啓示宗教とは、神が人にご自身を現されるところから始まっています。この啓示にも二種類あります。その一つが「特別啓示」です。それが聖書の御言葉です。聖書の御言葉を通して、神はご自身を啓示されています。皆さんもぜひ、よく聖書を読んでください。

 先日あるご主人に出会うと、「うちの家内はいつも御言葉を語っています」と言われました。「素晴らしいですね。」と答えると、「いや、それがあまりよろしくないのです。」と言われました。「なぜですか?」と聞くと、「私が一言葉話すと、向こうからは三言葉返ってくるからです」と言われました。そういう三言葉ではなく、神の「御言葉」を語る者でありたいと願います。

 そんな特別啓示と共に「自然啓示」があります。自然啓示とは、自然界が神の存在を語り告げているというものです。

 大自然の姿に接するとき、ただ自然に感動するのではなく、背後に創造主がおられるという偉大さに気づくのです。日本は四季がはっきりしているので、変化に富んだ自然を楽しむことができます。そんな中に神の御手を見ることができます。

 今日、「新城教会ニュース11月号」が配られました。この中で私は「しおんちゃん」という四コマ漫画をいつも楽しみにしています。今回は「神の創造物」というテーマで描かれています。

「神様の創られた物の中でみかんってすごく親切だなあと思うんだ。

皮をむいたら食べやすいように一口ずつになっているんだもん。」

とあります。本当にそうだと思います。冬になると、みかんを食べます。みかんは一口サイズにカットされています。私はなぜ、三ヶ日の人々がクリスチャンにならないのか、不思議に思います。誰がカットしたのかわかりませんが、一口サイズになっています。ぶどうも巧みです。皮の中に実が入っています。

 先日私は家内にわがままを言ってみました。「ぶどうは食べにくいから、先に皮をむいてくれる?」言いました。そうしたら家内は、皮を全部むいてくれました。私はぶどうを一気に食べられると、わくわくしながら食べてみました。しかし、食べてみるとあまり美味しくありませんでした。全く違うものになっていました。一つずつむくのも味の内だと思いました。一度試してみてください。皮と実の間に巧みな味が隠されています。みかんを一つ食べても、神さまの自然啓示が現わされています。また、しおんちゃんは

「神さまの創られたものの中で落ち葉ってすごくおせっかいって思うのよね。」

「だって、カサカサって音がして自分の肌年齢を感じるんだもん」

  この漫画を書いている人は、肌年齢を感じるような年齢で、落ち葉の音にもセンシティブに反応するようです。私たちは自然界を見るだけで、神の存在を知ることができます。

 しかしこの自然啓示は、御言葉の「特別啓示」があってはじめて生きてきます。人々は自然啓示を常に受けていますが、そのような中で神に出会っているかというと、そうでもありません。自然は偉大な力を感じさせますが、そのような中で「自然そのものが神」と考える人が多いのです。ひょっとしたら、今日この中にも「神とは自然そのもの、宇宙そのもの」と考えている人がいるかも知れません。「私は海が好きです」といわれる人の中に、「海はすべてのいのちの源であり、神そのもの」と言われる人がいるかも知れません。それは間違いです。海を創られた方が神であり、自然を創造された方が神です。それを知るために、私たちは神の御言葉を知らなければなりません。聖書の言葉があるゆえに、自然啓示が生きてきます。毎日、自然豊かな所で生活していますが、背後に神様を感じとることができます。

 詩篇十九篇は、始め自然を創られた神様をほめたたえています。そして七節から十四節では、

『主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。』

とあります。この御言葉は賛美になっています。

主の教えは完全で たましい生き返らせ 

主の教えは無学な もの賢くする

それは金より 純金より慕わしく 

密より 蜂蜜より甘い

 「星々、太陽、月」について述べ、その後、主の教えから学ばなければならない事、戒めを受けなければならない事を述べています。また、自分の過ちを悟ることができますように、隠れている罪をお赦し下さい、と悔い改めにまで導いています。ここにはどのような意味があるのでしょうか?

 さて、十一月になると、ガラリと季節が変わります。今日の賛美の選曲を見ても、クリスマスを意識しているなぁと思います。「星」、「光」というテーマで選曲がなされています。不思議なもので、十一月になるとクリスマスという雰囲気が漂い始めます。九月、十月にはそんな意識はありませんが、十一月になるとクリスマス・ムードに変わります。

 日本人は年間、三度宗教が変わると言われます。十一月、十二月はクリスマスムードです。しかし十二月二十五日を境に、二十六日からガラリと雰囲気が変わります。二十五日まで幅を利かせていたクリスマスケーキが、二十六日からは安売りです。そして神道的な雰囲気になり、門松が立ち、供えの餅がスーパーに並べられます。正月七日くらいまでは皆、神道的な雰囲気で日本の国民八千万人程が初詣に出かけます。そうかと思えば、八月には盆が来て皆寺に行きます。わけのわかならない、複雑な国民性です。しかし十一月、十二月はクリスマスです。この季節は、私たちクリスチャンにとっては、楽しい一時です。

 新城教会では、クリスマスに大変素晴らしいプログラムが用意されています。ロン・ブラウンさんが来られて、十二月十日、十一日の二日間、「クリスマス・ゴスペル・コンサート」があります。多くの方をお招きするためには、一日では足りません。市民会館とかでも良いのですが、一般の方々に教会に来ていただくことが大切だと思います。主の御名によって祈られている場所に来ていただきたいと願っています。市民会館は、前日、前々日と歌舞伎や仏教講演会など、色々なことに使われています。しかし教会は、聖なる場所です。一つの目的のためだけに使っています。今回は二日間に渡って行われますので、祈っていきたいと思います。

 一つ祈っていただきたいことがあります。今年もティファニーさんが来られる予定ですが、ティファニーさんが少し病気になっているようです。元気になって来ることができるように、ぜひお祈り下さい。今年のクリスマスは、多くの方にイエス様を伝えることができるよう、祈っていきたいと思います。

 「クリスマス」は元を正せば、イエス様の誕生日とは違うところにルーツがあります。私の今までの人生の経験から言うと、この十一月、十二月は素晴らしい季節ですが、案外問題が多かったように思います。また新城教会という枠組みの中で考えてみても、この月は案外突発的な問題が起こり、暗い思いになったこともたびたびありました。素晴らしい光も見えますが、闇の深さをも感じる複雑な季節感を感じさせます。だから、私たちも緊張し、「よし、今年は絶対に悪魔に負けない!」と、とりなしの祈りを強化しています。

 教会に来ると、まず神に近づきます。しかし聖書には、「神に従いなさい。」そして「悪魔に立ち向かいなさい。」と書いてあります。私たちが神様のことだけわかって、敵のことがわかっていないと、やがて神を敵としてしまうことが多いのです。多くの教会では、神様のことについてはよく話しますが、敵のことについては教えません。あたかも、全く敵がいないかのように話します。そうすると、ただ「神に近づけ … 」ということだけに終始します。しかし、神様には、近づいても、近づいても、近づききれません。

 すると、「あの人は近づいたけれど、おまえは近づいていない … 」と言って、お互いにさばき合うようになります。これは良いことではありません。聖書は、「神に従いなさい。そして悪魔に立ち向かいなさい」とあります。私たちは、「神様に従い近づいた度合いだけ、悪魔に立ち向かうことができる」のです。

 私たちは礼拝に出て、神に近づき、今度は、悪魔に思いっきり立ち向うのです。そうすれば勝利を得ます。そのような中、神様にもっと近づかなければ、人生はうまくいかないということがわかります。そうすれば、「神様は決して敵ではない、私たちの素晴らしい味方である」と分かります。「イエス様無しでは生きることができない」と分かります。試練があったとき、敵がわからないと「誰が自分に試練を与えたのか?」と考えます。それは自分が神に忠実でなかったために、「神が試練を与えた」と考えるのです。やがて「聖書の神は、私に罰だけを与える恐い神だ … 」と考えます。そして、「一体、どこまで神に近づけば良いのだろうか・・」と考え、段々、クリスチャン生活が苦しくなります。そして、クリスチャンの「ク」は苦しいの「苦」だと思うようになるかも知れません。それは、敵の存在がわかっていないからです。

 聖書は、「神に従いなさい」そして「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔は逃げ去ります」と教えています。特に十一月、十二月は素晴らしい季節ですが、ある意味でこの季節は「戦いの季節」でもあります。私たちは神に近づくとともに、「十一月、十二月を暗闇に閉じこめることはできない」と宣言して、悪魔に立ち向かいたいと願っています。

 ここに、「どうか、私たちの隠れた罪をお赦し下さい。」と記されていますが、私たちの攻撃の的となるのが「罪」です。教会に来て、罪についての指摘があることは、悪魔に訴えられるポイントが消えることです。そのような中で、気付いているようで気付いていない罪が、悪魔に訴えられる一番深刻な罪なのかも知れません。「罪があるはずはない」と考えている所に罪があるなら、それを悪魔に訴えられ、現実では問題が起こってきます。だから教会は「隠されている罪、気付かない罪」について、解き明かす義務があると思っています。

 そして今日の「神の栄光と御手のわざ」というタイトルに副題を付けるならば、「星占いの恐怖」というタイトルです。この時期、天を見上げると星空が綺麗です。しかし今日、流行っている行為の一つが「星占い」です。

 私は二日前に久しぶりに本屋に行きました。娘がアメリカから帰ってきて、本屋に行きたいというのです。アメリカは車が右側通行なので、日本での彼女の運転は危険です。私は本屋まで娘の運転手として行きました。行って驚いたことは、前面に並べてあった本は星占いの本ばかりでした。もうこれ以上、売らない(ウラナイ)で下さい!と思いました。世間には占いが蔓延しています。朝テレビを付けると、「今日は○○座の方は気を付けてください」と出ます。そのような占い関係が流行っています。テレビの「朝の運勢」という所に、クリスチャンでありながら目が留まる人はいますか?私たちは隠れた罪について発見し、特に、星占いが重大な罪であることを知るべきです。

 人類の発祥は、アダムとエバであり、エデンの園からです。しかし聖書には、人類の起源が二回あります。一度目はアダムとエバですが、ノアの洪水にて滅ぼされてしまいました。その後、ノアから人類が再出発しています。ノアの子どもセム、ハム、ヤペテから増え拡がっていきます。創世記に記述されている「バベルの塔」は、文明の発祥の地「メソポタミア」周辺(現在のイラク近辺)にありました。そこにセム、ハム、ヤペテから派生した一族が共に住んでいました。

 どのように人類が増え拡がっていったのでしょうか。それはエジプト方面、西に向かった人たちがいました。また、南方面にインダス文明があります。そして中国の方にも人々は移動して行きました。それと共に、インドシナ半島から舟で島々経由で渡った一団がありました。彼らは後に「縄文人」と呼ばれ、日本に最初に入った人々でした。東と西に人類に拡がりました。

 先週セミナーにおいて、「フリーメーソン」という団体が、実は、東洋と深いつながりがあることを話しました。悪魔が持っている策略は、全人類一枚岩です。

 「バベルの塔」が建てられ、一つの行為をし始めた時に、神がその行為にストップをかけられました。一つの行為の為に、人々の言葉が互いに通じないようにされ、全世界に散らされたのです。実はバベルの塔で行われた行為が「星占い、占星術」でした。バベルの塔は、星を見る為の塔でした。

 星は空にランダムに位置しており、互いの関連性などは元々ないのです。しかし私たちは空を見上げて、オリオン座、昴、北斗七星などと、星々を関連させて見ています。それは単に、人間が勝手に星々をつないで、絵にしたものに過ぎないのです。それはバビロニアで始まりました。「バビロニア」という発音はギリシャ語読みですが、ヘブル語読みではでは「バベル」です。バベルの塔から星占いが始まり、星座が形作られました。地上にある神々の概念を天上に投影したのです。たとえば、地上に「羊の神」がいたら、同じような神の形を天に投影し「牡羊座」としたのです。また鳥の神を天上に投影しました。それで星座ができました。そして星の運行と、人間の運命を関連づけるような行為として占いが始まりました。

 そもそも日本で流行っている「風水」や「四柱推命」、「12星座占い」の根源は、皆「星占い」です。

 聖書には、「バビロン」に対する言及が多いです。「バビロン」というキー・ワードで聖書を調べると、旧約聖書にはたくさん出てきます。創世記、列王記、歴代誌、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書、ミカ書、ゼカリヤ書、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記、詩篇などに出てきます。新約聖書に至っても、黙示録にまで「バビロン」という言葉が出てきます。同時に「バビロン」という言葉がどのような関連で述べられているかというと、「捕囚/捕らわれる」という意味合いにおいて述べられています。かつてイスラエルがバビロンに捕らえられました。その関連から、バビロンという言葉が使われ、「捕らわれる」という意味で使われています。

 ノアから派生した現在の人類の罪の根源が「バビロンにある」という事実を、簡単に考えないで、注意深く扱わなければなりません。現代人は根源において、「バビロンに捕らえられている」と言えるのかもしれません。

 イザヤ書には「バビロンへの宣告」について書かれています。イザヤ書四十七章十節から十五節に、

『あなたは自分の悪に拠り頼み、『私を見る者はない。』と言う。あなたの知恵と知識、これがあなたを迷わせた。だから、あなたは心の中で言う。『私だけは特別だ。』しかしわざわいがあなたを見舞う。それを払いのけるまじないをあなたは知らない。災難があなたを襲うが、あなたはそれを避けることはできない。破滅はあなたの知らないうちに、突然あなたにやって来る。さあ、若い時からの使い古しの呪文や、多くの呪術を使って、立ち上がれ。あるいは役立つかもしれない。おびえさせることができるかもしれない。あなたに助言する者が多すぎて、あなたは疲れている。さあ、天を観測する者、星を見る者、新月ごとにあなたに起こる事を知らせる者を並べたてて、あなたを救わせてみよ。見よ。彼らは刈り株のようになり、火が彼らを焼き尽くす。彼らは自分のいのちを炎の手から救い出すこともできない。これは身を暖める炭火でもなく、その前にすわれる火でもない。あなたが若い時から仕え、行き来してきた者たちは、このようになる。彼らはおのおの自分かってに迷い出て、あなたを救う者はひとりもいない。」』

とあります。この中で「バビロンにより頼む」と、「災難、破滅にあう、火があなたがたを焼き尽くす」、「災難が突然襲う」ことがあるから気をつけてください、と注意を促しています。そして十三節に、

『さあ、天を観測する者、星を見る者、新月ごとにあなたに起こる事を知らせる者を並べたてて、あなたを救わせてみよ。』

とあります。バビロンの根源に星占いがあり、人々は星を見て占いをしていました。しかし神は、「それをやったら危ないです。人生に突然破滅が訪れます。それをやめて、本物の神を知らなくてはいけない」と教えています。

 今の時代、星占いが一般化され、それがファッションのようになっています。人々は簡単に星占いに耳を傾け、目を向けています。しかしその根源は、人類を世界中に散らし、言葉を通じ無くした「バビロン」にあることを知らなければなりません。星を見ることによって運命を関係づけさせたり、霊を呼ぶ行為は、結果的にはコミュニケーションを破壊します。

 夫婦、家族、社会で多くの人がコミュニケーションが破壊されています。また最近では「ニート」という言葉があり、仕事をせずにこもる境界線にある人々のことを言うようです。一般のコミュニケーションができなくなっています。そこには、色々な原因がありますが、聖書的に原因を解明する時に、それは単なる精神的、環境的なものではなく、霊的なものです。特に霊を呼ぶような降霊術的行為に身をゆだねるならば、言葉が通じなくなり、世界の端まで散らされてしまうような、人との関係が断絶されることがあると教えています。そしてその根源に、「星占い」が関わっているのです。

 しかし、人々が星占いに心を向けるのには、理由があります。なぜならば、それはよく当たるからです。当たるから良いものだと心を向けます。しかし悪魔の働きは、ちょうどパチンコのようなものです。パチンコ屋は全員が損をしたらなり立ちません。一部の人が儲かり、大部分の人は損するのです。また時々は儲かります。だから今度こそ、取り戻してやろうと、パチンコ屋に行きます。しかし全体的には大損します。

 先週は田中政男先生の記念会がありました。田中政男先生はクリスチャンになる前に、パチプロのような人でした。パチンコばかりしていました。彼が私に言いました。「順、おまえはパチンコに行ったことがないだろう。楽しいぞ。」しかし先生はその中から救われました。パチンコほど素晴らしい遊びはないと言っていました。パチンコの機械を発明した人に、ノーベル賞をあげても良いと言っていました。しかし最終的には損をします。何も無くなってしまいます。

 悪魔も同じです。少しはあめ玉をくれます。星占いをすると当たります。「やった!私はこの星の下の運命だ!」と言って関わるのですが、最後には、最も大切なものをごっそりと取られます。そして惨めな人生になっていきます。

 実はイエス様がお生まれになった時にも、星占いの領域との関わりがありました。イエス様が生まれてしばらくした時に、東の方から博士たちがイエス様を拝むために訪れたという記録があります。それがマタイの福音書二章にあります。

 原語を見ると、「博士」のギリシャ語は「マゴス」とあります。「マゴス」とは一般的に、「占星術者」です。新共同訳聖書のマタイ二章一節から七節に、

『イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。』

とあります。イエス様がお生まれになってしばらくして、博士たちが来ました。東の方で星を見ていると、何か西方ですごい王様が生まれたようだと言って、イエス様を捜し求めてきました。当時の王ヘロデは驚きました。「俺以外に王様がいるのか!」と、すぐに聖書を調べさせました。聖書は占星術なしで、イエス様の誕生を預言していました。しかし人々は、特別啓示である聖書を読んでいませんでした。救い主である王の訪れを、占星術者の訪問を通して知りました。彼らはベツレヘムに行き、イエス様の居場所を突き止めました。二章八節から九節に、

『そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。』

とあります。なんと、占星術者は、イエス様が住んでいる場所まで特定したのです。それは星がサーチライトのように地面を照らし、博士たちを導いてイエス様の家の所に点滅したように考えます。しかしそんな星はどこにもありません。それは星占いで、「あの家に違いない」と見つけたのです。占星術者はイエス様の誕生から、居場所まで特定したのです。当たるのです。だから多くの人が星占いに関わります。

 しかしその後、悲惨なことが起こりました。この占星術者がヘロデ王に出会ったことによって、ヘロデは自分以外の王が生まれたことを妬み、二歳以下の男児たちを殺しました。悲惨な事件がそこに起こりました。星占いは、子ども殺しの力を温存しているのかも知れません。朝の運勢、今日の星座などを見ていると、そこには破壊の力が働いています。だから聖書は、占いに関わるのを止めるようにと教えています。

 特に年末、そのような力が強く働くときかも知れません。私たちは決して、星占いで動かされるようなものであってはいけません。私たちは、神の計画の中で導かれ動かされます。占いに頼ってはいけません。また今まで占いに頼ってきたのならば、イエス様の御名によって完全に拒否し、断ち切ることが必要です。今日は特に、十一月、十二月の守りのために祈ります。かつて私たちが星占いに心を開いていたならば、それをキャンセルする祈りをしたいと思います。

 ヘロデが占星術者の声を聞き、二歳以下の男児を殺すという残虐な行為をしたのには、一つの背景がありました。イエス様がお生まれになった時代の王ヘロデとは、「ヘロデ・アンティパトロス」という人物でした。彼はユダヤの王でしたが、実はユダヤ人ではなく「エドム人」でした。エドムという異邦人と呼ばれる人物でした。

 聖書には、エドムに対する神の宣告があります。オバデヤ書一章一節から四節に

『オバデヤの幻。神である主は、エドムについてこう仰せられる。私たちは主から知らせを聞いた。使者が国々の間に送られた。「立ち上がれ。エドムに立ち向かい戦おう。」見よ。わたしはあなたを国々の中の小さい者、ひどくさげすまれる者とする。あなたの心の高慢は自分自身を欺いた。あなたは岩の裂け目に住み、高い所を住まいとし、「だれが私を地に引きずり降ろせようか。」と心のうちに言っている。あなたが鷲のように高く上っても、星の間に巣を作っても、わたしはそこから引き降ろす。――主の御告げ。――』

とあります。エドム人はいつも高いところに上り、星占いで運命を占う文化を持っていました。そのような家系から、ヘロデはユダヤの王になりました。そこに、東の占星術者が現れました。そこで悪しき力が合体し、イエス様を殺そうとする力となり、結果的に二歳以下の男児を虐殺する行為に及んだのではないかと私は思います。これは聖書の預言の成就でした。しかしその背景に「星占い」という、暗闇の力が強く働いていた事実を知ることができます。

 今朝私たちは、神の御前に立ち、「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」とあるように、神が太陽も星も月も創られたことを感謝すると共に、決してそれらが星占いのために使われることがないよう、この時期に多くの人がそのような行為に関わり暗闇の力に支配されることがないように、とりなし祈ることが大切です。

 日本の神道も星占いとの深い関係にあります。「天皇」とは中国の「天帝」から来ています。その根源は「北極星」です。伊勢神宮に行くと、内宮の天照は「北極星」を現し、外宮は「北斗七星」を表しています。それは内宮を軸に回っています。また、「妙見信仰」という星占いも日本に深く関わっています。

 ある意味で、私たちの国の根底が、「星占いに奪われている」と言えます。それは人類の原点である、「バビロン」から流れ出ています。

 今日はそのような力をしっかりと打ち砕き、神に従い、悪魔に立ち向かっていきましょう。十一月、十二月は素晴らしい神様の栄光が現されるように祈りましょう。神にある喜びと平安があるようにお祈りしましょう。


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