生きがい

2005.11.13(SUN)
新城教会 岡本信弘師

旧約聖書 伝道者の書12章1節
あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。

 ハレルヤ!心から感謝します。少し寒くなりましたが、共に賛美し、礼拝できることを感謝します。

 今週は東京に車で出張する時がありましたので、九月に行われた北関東リバイバルミッションのメッセージCDと田中政男先生の記念メッセージCDを持って出かけて行きました。行く四時間程の間に、ノンストップで八枚のCDを聞き、大変恵まれました。今日は、その恵まれた中から少しお話しをしながら、「生きがい」について学びたいと思います。

 あなたにとって「生きがい」とは何でしょうか。「生きがい」という言葉の意味を的確に説明することは難しいです。辞書をいくつか見ると、それぞれ言っていることが少しずつ違うのですが、一つの辞書の中に「生きがいとは、生きるに値するだけの価値。生きていることの喜びや幸福感」と書かれていました。この説明が、皆さんの考えていらっしゃるイメージに一番近いのではないでしょうか。
 皆さんも、自分にとっての生きがいは何だろう、と考えることがあるでしょう。また、それぞれ毎日の生活の中で生きがいを感じていることがあると思います。
 ある人は、子どもが生きがいだと言われます。子どもが生まれ、立派な子になってほしいと一生懸命育てるのも生きがいだと思います。また自分の夢を持ち、将来ミュージシャンになりたい、サッカー選手になりたいという夢を持つのも生きがいだと思います。
 私は小さな頃から現実的な人なので、あまり大きな夢を持つことはありませんでした。若い頃は車が好きで、二十歳頃に高級車を買って、ピカピカに掃除して乗り回していました。うちの家内に、「あの婚約時代が懐かしいね…」と言われます。車の中はゴミ一つなく、音も静かで快適にドライブしていました。結婚して子どもにも恵まれ、子どもと遊んだ楽しい日々も思い出すことがあります。スポーツに生きがいを感じる方もいらっしゃいます。うまくなるために、勝つために練習し、努力します。私は運動神経があまりよくありませんでした。ある方は「先生、謙遜でしょ」と言ってくれますが、本当に運動音痴です。
 先月、教会でも運動会がありました。昔は毎年、運動会が近づくと「私の出番だ…」とワクワクしましたが、最近は「運動会かぁ〜。走れるかなぁ・・・」と弱気になってきました。今年は応援だけすればいいと思っていましたが、どこでどう間違ったか、チームリーダーになっていました。なぜ私がチームリーダーなんだろうかと思っていましたが、やる人がいないというのです。何でも軽く受けるタイプなので、「やる人がいないなら私がやりますよ」と言いました。やるからには何でも一生懸命やる性分なので、大声をあげて応援をしました。運動会に行かれた方は私を見て、なんであんなに張り切っているのだろうかと思ったかも知れません。いくつかの種目にも出ましたが、皆さんの印象に残ったのは「パン食い競争」だと思います。毎年のように出ていますが、今年も一番でした。パン食い競争で一番になれなかったら引退する時だと思っています。また、千メートルのマラソンにも挑戦しました。チームの結果は、惜しくも二位でしたが、楽しい時でした。
 夜、ちょっと疲れたと思い横になってしばらくすると、だんだん寒気がしてきました。そして三十分もしないうちに三十八度以上に熱が上がり、ブルブル震え出してしまいました。「やっぱり年だね」と家族に言われましたが、祈ってもらって寝ました。次の日には東京に出張することになっていましたが、感謝なことに朝になったら熱が平熱に下がり、元気で出張に出かけました。熱が上がるのも早かったですが、下がるのも早かったです。
 もう随分前ですが、「教会でスキーキャンプをするから、行ってほしい」と言われました。私はそれまでスキーを一度もやったことがありませんでしたし、運動音痴ですから、私には絶対にできないという確信がありました。だから何回か断っていましたが、三十歳近くになった時、どうしても行かなくてはならなくなり、暗い気持ちでバスに乗って行ったことを思い出します。しかし三日間やって何とか滑れるようになったら、今度は毎日スキーに生きたくて仕方がなくなり、毎週のようにスキーに行かなくては次の週が明けないというようになりました。その時は、スキーが生きがいとなりかけていたのかも知れません。
 私は毎週、礼拝前に玄関に立ち、皆さんに「ハレルヤ! おはようございます」と挨拶をします。多くの方が「先生、元気ですね。毎日楽しそうですね。いつも健康で、先生のようになりたい」と言ってくださいます。それはとても嬉しいことです。そしてこの元気を皆さんにお分けしたいと思います。しかし私にも悩む時があります。私がそう言うと、ある方が、「先生でも悩むことがあるんですね」と真顔で言うので、私は答えに困ってしまいました。
 色々なことを考え、悩むことがありますが、そんな時には気分転換をするといいです。私の気分転換は、餃子を作ることです。おいしいものを食べるのが生きがいだと言う人もいますが、私は作って皆さんが喜んでくださるのが嬉しいです。前回のリバイバル聖書神学校の時には、二百個ほど餃子を作りました。餃子がうまく作れない方はぜひ私に聞いてください。また食べたことのない方は、いつでも言ってください。予約してくだされば作りますよ。

 さあ、生きがいとは何でしょう。楽しいと思うこと、嬉しいと思うことが生きがいでしょうか。また将来こんな目標があるというのが生きがいでしょうか。それが生きがいと思っていらっしゃる方が多いのだと思います。しかし、皆さんがこうなりたい、こうしたら楽しい、また私はこうなることが生きがいだ、と思っていたら、その生きがいは限りのある生きがいだと思います。考えてみてください。子どもが生きがいといっても、いつか子どもは親よりも大きくなり、親よりも強くなり、離れていきます。何か目標を持っていたとしても、それを達成したり、欲しいものがあってもそれを手に入れたら、食べ物に賞味期限があるように、その生きがいの期限も終わってしまいます。
 皆さんにも、ご自分の過去を振り返ると、たくさんの思い出があると思います。しかし、それらはどれも過ぎ去ったものです。私が小さい頃、今のようにゲームもあまりありませんでしから、よくシャボン玉を作って遊びました。洗面器に色々な洗剤を持ってきてかき混ぜて、どの位の水の割合で入れたら、大きなシャボン玉ができるだろうかと研究したり、使い古したようなストローでシャボン玉をいっぱい作り、きれいだなぁ〜と眺めていたのを覚えています。しかし、シャボン玉は次の瞬間、全部跡形もなく消えてしまいます。思い出というものは、そんなシャボン玉のようなもののような気がします。私たちも、いつかシャボン玉のように消えていくようなものに、生きがいを求めているように思います。

 生きがいを考える時に、人は何のために生きているのかを知らなくては不十分だと思います。たとえ、どんなに大きな生きがいを持っていたとしても、それだけでは満足できないでしょう。何のために生きているかについてのしっかりとした答えを持っているか持っていないかは、とても重要なことだと思います。
 田中先生のメッセージCDの中に、先生が製材所で働いていた時に一緒に働いていたおばさんとの会話について語っておられました。そのおばさんは、先生が「今日は良い天気だね」と言うと、「こんな暑い日はたまらないね」と文句を言い、今日は「そよ風が吹いて気持ちがいいねぇ」と言うと、「こんなに風が吹いたら、おがこが舞ってたまらん」と言って、いつも不満を言う方だったようです。そんなおばさんにある時、「何のために生きているの」と聞くと、「そりゃあ、食うためさ」と答えたそうです。田中先生は、「それじゃあ、おばさん、豚と一緒じゃん。豚だって食べて一生懸命生きているよ。でも、豚はブーブーとは鳴くけど、何を出されても文句を言わないで食べているよ。おばさんは天気がいいねぇと言うと、こんな暑い日はたまらないとか、文句ばかり言っているじゃん」とおばさんと言い争いをしたそうです。先生はその時のことを振り返り、ご自分がまだ若く、ムキになって意地悪を言ってしまったと言っておられましたが・・・。
 私たちは、食べるために生きているのでしょうか?
 今はペットブームです。中には、ワニやサソリなど、恐ろしいものを飼っている方もいて、逃げ出したり、飼えなくなって捨てたりで、社会問題にもなっています。皆さんの家でも犬や猫を飼っている方もいらっしゃいますね。時にはペットが風邪を引いたり、お腹をこわすことがあるでしょう。しかし、ペットが「人生とは何ぞや」と考え込んでいる姿を見たことがありますか。また「自分は死んだらどこに行くのだろうか」と考えているペットもいません。人間だけが人生について考えています。そしてこの問題は、人間だけが解決しなければならないものでもあります。
 現代の多くの若者は、今が楽しければ良いと考えます。しかし誰でも段々と年を取ります。そして初めにお読みした御言葉に『「何の喜びもない」という年月が近づく前に』とあるように、「夢も希望もない、生きていても仕方がない」と思うようになるのです。
 今、多くの方が自殺をしている現状がありますが、六十歳以上の人が一番自殺をする確率が高いそうです。六十、七十歳になって自殺しなくてもいいのに。そんなに慌てて自分で自分のいのちを断たなくてもいいのにと思います。
 最近読んだある本に、年をとってあと生きられる年数も少なくなっているにもかかわらず、何ヶ月も誰とも話さないで、毎日粗食でいのちを長らえている年寄りが大勢いる。そして、そのようなお年寄りの多くが、一時間を一日のように、また一日を一年のように、長く感じているのだと書かれていました。そう言われてみれば、長く感じると思われる方もいらっしゃるかも知れません。私はこの一日が、三十六時間くらいあったらもっと色々なことができるのにと思いますが、そのお年寄りには一時間が長い長い時間に感じられ、楽しみもなく一日をやっと終えるような毎日なのでしょう。将来に、夢も希望もないというお年寄り。しかし今は、お年寄りだけではなく、若者も壮年も行き詰まっているように感じます。
 若い頃はもっと住みやすかったのではないかと思いますが、段々住みにくい、生きにくい時代になっているように思います。信頼できるものが何もない、愛し合える人が誰もいない。家庭もホッとできる場所ではなくなり、暴力があり、夫婦の愛は冷め、離婚し、家族がバラバラで心安らぐこともできない。周りを見ても、殺人があり、強盗があり、いつ事件が起こるかわからない状態。また自分の会社がいつ倒産するかといった経済的不安、地震や台風などの自然災害に対する不安。生きる目的がなく、生きるのが嫌になるのもわかるような気がします。
 こんな時代にあって、儲かっている商売があります。それは保険会社です。テレビのコマーシャルを見ると、なんと多くの保険会社がいろいろな保険を出していることかと思います。その一つに「生きる力」という名前の保険があります。良い名前をつけたものだと思います。多くの人が不安を抱えているからこそ、保険に安心を求めて入ります。私たちが事故や病気になった時に、保険に入っていたなら助かることは多いと思います。生命保険に入っておくのもいいかも知れません。しかし、どんなにいい保険に入って、良い保障を得ても、それが生きがいになるかというと、そうではありません。
 先日レーナ・マリアさんの証しを読みました。彼女はスウェーデンで生まれました。彼女は生まれつき両腕がなく、左足が右足の半分の長さしかないという障害を負っていました。両親も、育てるのにあきらめかけた時もあったかも知れませんし、本人も、挫折を体験したかも知れません。しかし、彼女は真の神に出会って変えられ、今は結婚をし、生きがいを持って、賛美を通して神様を紹介し、多くの人に生きる力、勇気を与えています。彼女は決して恵まれた体を持っていたとは言えません。しかし、体が不自由だからといって不幸せだとは言えません。
 聖書 第一ペテロ一章八節から九節に、クリスチャンについて表している御言葉があります。

『あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。』

 皆さんは「栄えに満ちた喜びにおどっています」と自信を持って言うことができますか。私たちがしっかりとした目的を持ち、ゴールを持っているならば、私たちは喜びに満たされ祝福された生活をすることができます。しかし多くの人が自分がどこから来てどこに行くのかわからないという不安を持っています。私たちが何のために生きているかという目的と同時に、どこから来てどこに行くのかという解決がなければ私たちの本当の不安を拭い去ることはできません。
 多くの人が進化論を信じ、人間は猿から進化したと思っている人がいます。日本では教科書でそのように教えています。先日CDを聞いている時に田中先生がこんな話をされていました。ある子ども集会で先生が子どもたちに質問しました。「皆さんはどこから来たと思う?」。するとそこにいた子どもたちが「お母ちゃん」と答えました。「じゃあ、お母ちゃんはどこから来たと思う?」。「おばあちゃん」。「じゃあ、おばあちゃんは?」。「おばあちゃんはひいおばあちゃん」「ひいおばあちゃんは、ひいひいおばあちゃん」。「ひいひいおばあちゃんは?」。「ひいひいひいおばあちゃん…」と、その会場中が皆「ひいひいひいひいひい」と言って騒然としたそうです。そうしたら、一人の頭の良さそうな男の子が「わかりました」と手を挙げて答えました。「マントヒヒ」。なぞなぞのようになりましたが、そこにいた子どもたちが笑い転げた後で、皆口をそろえて「そんなバカな」と言ったそうです。多くの人が進化論を信じていると言いながら、「あなたの祖先は猿です」と言われると、それはないでしょうと思っています。では、人はどこから来たのでしょう。多くの人が自分がどこから来たのかを知りません。聖書は、まことの神様があなたを造り、あなたを生かしていると教えています。
 もう一つの問題は、あなたがどこに向かっているかです。あなたが人生の岐路に立たされ、二つの道に差しかかったとします。十人の人が一緒にそこにいました。その時、あなたが右が良いと選択し、踏み出そうとしました。しかしあとの九人が左を選択して一歩踏み出してしまいました。その時にあなたはそれでも右に一歩踏み出すことができるでしょうか。その時に躊躇すると思います。絶対的な自信を持って右に進む確信があればいいと思いますが、ほとんどの人が多くの人が選んだ方へ行くと思います。みんなが行ったからという理由です。もちろん、そうではない人もいるでしょう。
 今から二十五年程前、東名高速道路の日本坂トンネルの中で大事故がありました。一つの玉突きに端を発して、トンネルの中で百七十三台の車が六十時間燃え続けたという大惨事でした。一時はトンネルの中が三百度以上になって、結果的には七人が命を奪われましたが、その他の人は全員車を置いて逃げることができたそうです。
 なぜそんなことが起こったのでしょうか。私は初め、信号機が設置されていなかったのかと思いました。しかしトンネルよりも五百メートル手前に信号機は設置されており、赤になっていたそうです。事故後、レポーターが「なぜ信号が赤だったのにあなたは入っていったのですか」と質問しました。すると「みんなが入っていったから大丈夫だと思った」と多くの人が証言しました。昔、「赤信号、みんなで渡れば恐くない」という言葉が流行しましたが、そんな心境だったのかも知れません。信号が赤になっているにもかかわらず、突っ込んでしまって状況が悪化しました。みんながやっているから正しいとは限らないのです。人生も同じかも知れません。みな明らかな基準を持っていないのです。
 基準とは何でしょう。それは聖書です。どこが出発点か、どこに向かって生活しているのかを、聖書ははっきりと示してくれます。聖書はずっと変わっていません。
 私の車にはナビがついています。行きたいところを設定したら、目的地の十メートルくらいの所に必ず連れて行ってくれます。とても便利です。電波の状態が悪いと迷走する時もありますが・・・。便利な反面、ナビに頼るとよくないこともあります。私もナビがない時には、自分で行くべき方向を導き出すカンがありましたが、今は随分鈍ってしまいました。とても賢いナビですが、出発時点で目的地を設定しなければ、連れて行ってくれません。私たちの人生の出発点と目的地を示しているのが聖書です。神の御言葉です。人の言うことはどんどん変わります。昔言ったことと違うじゃないか、と思うことがあります。しかし聖書の御言葉は書かれてから一度も訂正されることがなく、いまだに年間約五億冊の聖書が印刷され、多くの人に読まれています。

 聖書の書き始めは、

『はじめに、神が天と地を創造した。』

です。空、海、星、太陽、月、あらゆる草木、動物、天と地にあるすべてを神が造られたと書かれています。また、人間を造られたと御言葉は教えています。
 人間ほど精密に造られているものはありません。皆さんの持っている精密機械、たとえば時計を見ても、誰の手にもよらず自然にできたと言ったとしたら、あなたは頭がおかしいと言われると思います。精密に造られているからこそ、造った人がいるとわかります。しかし、進化論者は、神様の創造を信じることをせず、長い年月をかけて猿から進化して人間になったという教えを信じています。長い年月という言葉に一番のカラクリがあります。長い年月ということは、誰も経験したことのない、誰も生き続けている者がいないので、誰も真実を知らないのです。それにもかかわらず、あなたよりも少し頭が良い学者から、長い間かけて進化したと聞き、それを信じてしまっています。それは一種のマインドコントロールです。先ほどの「マントヒヒ」の話ではありませんが、バカげた話です。
 あなたが信じても信じなくても、あなたを、私を造られた創造者である神がおられます。私たちは神の作品です。神様の愛の対象として一人一人を造られました。それなら何故、苦しみ、悩み、病気があるのかと、人は言います。しかしそのことも聖書が教えています。私たち神様によって造られた人間が、神を裏切り、神に背を向け、自分勝手な生活をしたことが原因であることが聖書に書かれています。
 今までに罪を行ったことがない人は誰もいません。

『それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」』(ローマ書三章十節〜十二節)

 また聖書のほかの箇所には『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない』とあり、はっきりと『罪から来る報酬は死である』とも教えています。
 そんな当然滅ぶべき私たちのために、イエス・キリストが今から二千年前に私の罪を背負って十字架にかかり、あなたのために私のために、血を流されました。死んで、葬られましたが、三日目によみがえられ、今も生きて私たちを導いておられます。
 人はひとりでは生きることができません。人は、自分のいのちを少しでも延ばすこともできません。神によって生かされているのです。私たちが神様と共に歩むこと、それが神に喜ばれることであり、神が私たちに願っていることです。私たちの罪の身代わりになって死んでくださった主を信じるなら、その喜びと祝福をいただくことができます。神のために生きる、それこそが、私たちの生きる目的であり、生きがいなのです。
 先ほど、クリスマスに賛美をしてくださるマキーダさんの賛美の映像が流れました。その時、歌詞が出ていました。「あなたを思うことが私のすべてです」と歌われていました。主とともに歩むことが私たちの大きな喜びです。これ以上の恵みや生きがいはありません。私も今神様のために働きたい、神に喜ばれ、人に喜ばれる働きがしたいと切に願っています。
 皆さんもこれから何十年も生きるでしょう。そんな皆さんが、あとになって、あの時に神様に出会っていれば良かった、神様を信じれば良かったと後悔しないように、今日、主を信じてください。主は私たち一人一人に語りかけておられ、手を差し伸べられていることを知ってください。

『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。』

 お祈りします。


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