黙れ、静まれ!

2005.11.20(SUN)
新城教会 滝元 順師

新約聖書 マルコの福音書  4 章 35 節〜 41 節
さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

 ハレルヤ!おはようございます。皆さんのお祈りに支えられ、プエルト・リコでの奉仕も祝福されたことを、心から感謝します。

 今日はまず、一人の方に証をしていただきたいと思います。四月に九州に伝道に出て行かれた、小林雅子先生が来られています。彼女の伝道の報告を聞きたいと思います。

 私は彼女が九州に赴任することを聞き、大変だろうと思いました。しかし主に頼って出かけるなら、何でもできるものです。

(小林雅子先生の証)

 ハレルヤ!私の教会は二十人位ですので、多くの方の前で緊張します。今回は、別に逃げて帰ってきたわけではなく、友達の結婚式でこちらに来たついでに、新城教会に立ち寄らせていただきました。皆さんのお祈りをいつも感謝しています。いつもお祈りを感じています。

 三月十三日が私の誕生日で、その日が新城での最後の礼拝でした。悲壮感を持って帰りました。しかし三月の終わりに、順先生夫妻が私の教会に来てくださいました。その時に悲壮感が取り除かれ、主に頼りながら頑張って働くことができています。四月からスタートしましたが、神様に頼って一つ一つの問題に向き合っています。振り返ると神の恵みを感じます。新城にて三年間過ごして学んだことは、「地域のとりなし」と「霊的戦い」、「個人の解放」という三本柱でした。それ以外は全く知らずに、地域に帰ったので、その三本立しかできません。目に見えない霊的領域で戦っています。神学校で、私たちの心の要塞が地域に現されると学びました。また、地域に立って祈るときに、心の要塞が砕かれることを学びました。帰ったときにはすることがなく、暇でした。「神様、今日は何をしたら良いですか。」と祈る毎日でした。教会でお給料をいただいているので、働かなければならないと思い、地域を歩いたり、車で走ったりして祈っていました。しかし、「ざわめき」の働きがあったり、毎月、神様が新城教会から誰かを遣わしてくださいました。それらがあるごとに、地域をとりなして祈っている間に、そこから人が出てくることを目にし、彼らに伝道していく内に涙を流してイエス様を信じますと告白し、人々が教会に来られるようになりました。ここで学んだことは、他の地域でも実践できる事を体験しています。

 先月は青年会の方々が十三名が熊本に来てくださり、一緒にとりなしに行きました。その後、拒食症で悩んでおられた方がご飯をたくさん食べるようになったり、不思議なことが起こされています。こちらでの祈りが私の教会にも影響を与えていることを感謝します。

 今までに三人の方が洗礼を受けられました。するべき事はたくさんありますが、恵まれていることを感謝します。主に栄光をおかえしします。(ここまで証し)

 日本に八千程の教会がありますが、年間に洗礼を受ける人数は四千人といわれます。一教会の授洗平均は「〇・五人」程です。しかし、小林先生の働きでは、半年で三名の方々が救われました。すばらしい働きを感謝します。続けてお祈り下さい。

 さて、皆さんのお祈りに支えられ、私はプエルト・リコで奉仕することができました。何年か前に、私の息子がロサンゼルスの音楽学校に行ったときに、五人のクラスメート中の一人がプエルト・リコ人でした。彼は息子に出会った途端、「俺はひとりの日本人を知っている。その名前は滝元順というが、君は知っているか?」と聞いたそうです。まさか自分の親父の名前が、そこで出るとは思わなかったので、息子は驚いて、「それは、俺の親父だよ」と答えたようです。そんな出会いがありありました。

 彼は牧師の息子で、その教会から今回、私は招きを受けました。プエルト・リコでは、集会で奉仕したり、地域のとりなしに行ったり、大変素晴らしい時を持ちました。神様の働きは不思議です。ちょっとでも駒が狂えば、そこに行くことはありませんでした。なぜ、私が知られていたかと言えば、十年程前から沖縄のプエルト・リコから来られている宣教師、エミルダ先生の所に奉仕に行くようになったからです。彼女がプエルト・リコに帰ったときに、各教会を訪れて日本の状況を報告し、私について語ったようです。特に、日本で霊的戦いに目が開かれている教会と牧師がいると話したようです。そのような中で、彼は私の名前が印象的に残っていたようです。巡り巡って今回、私はプエルト・リコに行くことが出来ました。世界は広いようで狭いです。

 プエルト・リコはアメリカ合衆国に属し、大西洋とカリブ海に面した大変暖かい国です。今回は最初アトランタまで行き、そこから移動しました。島の面積は沖縄県の倍くらいです。人口は四百万人くらいで、約六十五パーセントがプロテスタントのクリスチャンになっているようです。しかしそれに対抗して、カトリックの勢力も大変強いところです。息子の友達の名前は「ラフィ」で、お母さんが教会の主任牧師、彼も牧師です。今、大きな会堂を建築中です。教会には学校があり、小学校から高校まで二百人くらいが学んでいました。また、テレビ局も持っていて、礼拝は同時中継されていました。礼拝には、大人だけで五百名くらい集まっていました。賛美もとてもパワフルで、すばらしかったです。また、「悪霊からの解放」という内容でテレビの生放送番組にも出演しました。放送中に、視聴者から電話がかかってきて、祈ったりもしました。打ち合わせなしでしたが、とてもおもしろかったです。

 今日は、マルコの四章三十五節から四十一節の御言葉を学びます。「黙れ、静まれ!」というタイトルで学びます。私はこの御言葉が好きです。

 昔、学校の先生にはたいへん権威がありました。最近はなかなか難しいところがあるようですが、私の小学校時代の先生は恐かったです。授業が始まる前に、ペチャクチャ話しをしていると、先生が突然入ってきて、「黙れ、静まれ!」と言うのです。すると瞬間的に静かになり、先生の語る言葉に耳を傾けました。それは先生の「権威」でした。権威が発せられるときに、生徒たちは従うのです。

『イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。』

と記されています。イエス様が、湖や風に向かって「黙れ、静まれ!」と言うと、湖や風までが静まりました。四章三十五節から四十一節に、

『さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」』

とあります。この状況は、「さあ、向こう岸に渡ろう」とイエス様が弟子たちに語られた後の出来事でした。向こう岸とは、「ゲラサ」という場所でした。イエス様は弟子たちと共に小舟に乗って出かけていきました。

 行く途中、激しい暴風があり、大変な状況になりました。しかしイエス様は、その中で眠っておられました。舟は波をかぶり、水が入り、弟子たちは死ぬ思いでした。しかしイエス様は、すやすやと休まれていました。そこで弟子たちはイエス様を起こし、「イエス様、私たちは死にそうです。」と言うと、起きあがって、湖に「黙れ、静まれ」と命じられました。すると一瞬にして、波と風がおさまりました。イエス様は弟子たちに、「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」と言われました。

 これは人生にも例えることができると思います。私たちの人生は大海の中の小舟のようなものです。小舟で大海原にこぎ出しているようなものです。時には大波をかぶり、大風が吹いてどうして良いのかわからない状況があります。しかしイエス様が乗っていてくだされば、決して恐れることはないのです。

 クリスチャンになったら、問題や苦しみはないのかというと、そうでもありません。時には大風や、波がかぶるような状況があるかも知れません。しかしイエス様がおられたら、どんな状況にも、立ち向かうことができると教えています。

 同時に「向こう岸に渡ろう」と言われたのは、「イエス様ご自身」でした。それで弟子たちは舟をこぎ出しました。

 クリスチャンになると、自分の計画ではなく、神の計画が優先するようになります。私たちは色々な計画を立てるかも知れません。しかし、自分の計画は、なかなかうまく進んでいきません。けれども神の計画は必ず実現します。

 人生の中で、一番優先し求めるべき事は、「神のみこころ」です。神がどんな計画を立てておられるのかを最優先して求めることが大切です。

 小林先生の証にもありましたが、何をしたら良いかわからない中で、「今日一日、何をしたらいいですか?」という祈りと共に、半年間続けてきたと言われました。自分の計画ではなく、「主よ。私は何をしたら良いですか。」という祈りの中で、神が正しい方向へと導いてくださいます。

 イエス様が、「向こう岸に行きましょう」と言わた言葉に従い、道を歩んでいくならば、間違いはありません。しかし、神の計画とともに行動し始めたにもかかわらず、風が吹いたり、波がかぶることもあります。

 一九九三年に「甲子園ミッション」がありました。それは長い間の祈りの中で神が導いてくださった働きでした。だから必ず祝福してくださると信じて、船出しました。しかし船出した途端、大風が起こり、激しい波がかぶってきました。その中で、私たちは主を求めました。大風が吹くような中でしたが、決して沈没することはありませんでした。どんなに波があっても、風があってもイエス様は「黙れ、静まれ!」と命じてくださり、勝利へと導いて下さったという体験があります。

 時々、主のみこころと信じて歩み出したのにもかかわらず、波が高くなり、風が強くなり信仰が無くなってしまうことがあります。しかし、主が共にいてくださるならば、必ず成功するのです。

 マルコ六章にも似たような記事があります。六章四十五節から五十節に、

『それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。』

 四章と六章は同じガリラヤ湖をテーマにして、似かよったことが起こっています。六章でもイエス様が弟子たちを、「強いて船に乗り込ませ」先に向こう岸に送ろうとされました。その時はイエス様は一緒に舟に乗り込まれず、山に退いて祈っておられました。

 弟子たちが舟をこぎ出すと、向かい風が吹いてきて、前に進むことができなくなりました。すると、イエス様は湖の上を歩かれ、彼らの所に近づかれました。

 あなたはマルコ六章の記述を信じることができますか?信じることができたら、本物のクリスチャンです。

 これは、おとぎ話のようです。聖書は思想的、倫理的にも優れた書物です。このようなストーリーを挿入することは、ある意味で得ではありません。水の上を歩くのは、普通できないことです。そんな事を言ったら、おかしく思われます。この出来事が作り話ではなく、事実でなければ挿入することはできません。

 イエス様は神が人となられたお方です。湖もご自分が作られたので、その上を歩くことができます。私たちは湖の上を歩くことはできませんが、イエス様が共におられるならば、湖の上をも歩くことができます。それは、神が働かれるとき、普通では考えられないような奇跡が起こることを示唆しています。

 ガリラヤ湖を舞台にして、イエス様は色々なことを弟子たちに教えられました。そして、この二箇所に共通することは、「恐れずに信じていなさい」ということです。時々、私も人生の中で恐れを持ちます。「これからどうしたら良いのか・・人生が大揺れに揺れている・・」と言う方もいるかも知れません。しかしイエス様が共におられるならば、超自然的に私たちを助け、導いて下さるのです。

 弟子たちにとって、イエス様が湖の上を嵐の中、歩いて近づいてこられるなど、信じられないことでした。イエス様は漕ぎ倦ねている弟子たちのそばを、通り過ぎるような振りをされました。それを見て、皆、幽霊だと思いました。しかしそれはイエス様でした。

 イエス様は私たち、人間の考えを超えたところから助けを与えて下さいます。イエス様が持っておられる助けの方法は、全く人間のレベルとは違った方法です。

 四章に続いて、五章ではイエス様がゲラサに上陸したことが書かれています。私たちが持っている聖書には、章や節が付いているので、章でストーリーが切れてしまう傾向があります。けれども実際には四書から五章は連続しています。大風が吹き、舟が沈みそうになってイエス様が起きあがられて「黙れ、静まれ!」と言われた後、マルコ五章一節から十節。

『こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われたからである。それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。』

 イエス様がゲラサに行かれたときに、その地で一番恐れられていた、悪霊に支配されていた男が出て来ました。この男はイエス様を拝し、「イエス様、私を苦しめないでください。」また、最後には、「私たちをこの地方から追い出さないで下さい。」と懇願しています。

 この関連性を見ていくと、イエス様が「黙れ、静まれ!」と湖に対して言っているかのように思いますが、総合してみると、そうではないことがわかります。後に続くストーリーを見ると、明らかにこの風は「怪しい風」です。イエス様がゲラサに来たら、悪霊は打ち負かされてしまうがゆえに、必死になってイエス様のゲラサ上陸を阻んだことがわかります。しかし同時に聖書には、イエス様が「湖に向かって」叫ばれたと記されているので、湖・自然に対して語られた理解できます。けれども、このストーリーの前後や全貌から見て、背後に何があるかを考えることも大切です。

 旧約聖書ヨブ記に「風」について、記述されている箇所があります。一章六節から十二節に、

『ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」』

とあります。これは天における神様と悪魔の会話です。

 ある時、悪魔が神様の前に立ちました。その時に、神様が悪魔にヨブのことを自慢をしています。「おまえは地を行き巡ってきたと言うが、わたしのしもべヨブを見たか。彼は非の打ち所のない男だ。」ヨブは神の目から見て、非の打ち所のないような人物でした。その神様の言葉に対して、サタンが文句をつけています。

『サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。』

と言いました。「あなたがヨブを守っているゆえに、彼はあなたに忠実なのですよ。彼から守りの手を取り去ったら、あなたをのろうに違いない。」と変な提言をしています。

 私たちがこうしている間にも、天ではどんな会話がなされているのかわからないのです。たとえば、天で神様がサタンに、「お前は、滝元順に目を留めたか?」「はい、目を留めましたよ。」「彼はわたしのために真剣に働いているだろう。先週は、プエルト・リコで働いていたぞ。そして夜中の十一時に帰ってきて、今朝はもう礼拝メッセージをしている。なかなか大したものではないか。」と言ったとします。

 するとサタンが、「あなたが彼を守っているからですよ。それゆえ、彼は忠実に働いているだけです。守りの手を取ってみたらどうですか。あいつは、あなたをのろうに違いないですよ。」という会話がされていたらどうでしょう。

 さて、その後、神様がサタンにすごい許可を出しています。

『主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。』

 神様がサタンに「ヨブに手を触れても良い」と許可を出したのです。それでサタンが出て行ったときに、ヨブ記一章十八節から十九節。

『この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」』

 ヨブの息子・娘が宴会をしていると、荒野の方から「大風が吹き」、家が倒れヨブの子どもたちが皆死んでしまったというのです。こんなおそろしい会話が天で頻繁に成されていたら、どうにもならないと思います。この箇所を読むと恐ろしくなります。

 しかしヨブ記をよく読んでみると、神は決して「いたずらに事をなされない」ということがわかります。神が許可されるには、「それなりの理由」があると言うことです。ヨブ記を全体的に理解すると、ヨブは忠実に仕えているように見えましたが、実は、ヨブは神のみこころどおりに生きていなかったことが分かります。また、同時にこれは「旧約聖書中の記述」です。新約聖書になると、このようなサタンの訴えが、イエス様の立てられた「新しい契約」によって一掃され、サタンが私たちを自由に訴えることができないのが分かります。

 「風が吹いた」とありますが、これは自然に吹いた風ではなく、サタンによってもたらされた風でした。ヨブの子どもたちに風が吹いてきて、家が倒れたとありますが、サタンは自然界に対しても、限定的権威を持っているようです。サタンは今でも人々を天の領域で訴え、ある程度悪いテーマを地に実現することができるのかも知れません。

 しかし新約聖書に至っては、イエス様がこの地上に来られ、そんなサタンの訴えに対して、「黙れ、静まれ!」と取り消してくださるのです。

 マルコの四章の記述は、総合して、イエス様によって、「天の訴えが消え去る」ことを意味していると思います。

 時に私たちは、神に忠実でありたい、神のみこころに従っていきたいと願っても、ヨブのように知らないうちに、神のみこころに反して罪の道を歩んでしまうこともあります。その結果、天ではサタンが私たちを訴えるようなことがあるのかも知れません。

 しかしこの時代にあっては、そのような訴えがあったとしても、イエス様ご自身が同じ舟に乗って下さっているのならば、「黙れ、静まれ!」とサタンの風や波を鎮めてくださるのです。

 そして主は私たちに、「なぜ、あなたがたは恐れるのですか。なぜ、信仰がないのですか」と語られます。

 あなたは、「もしかしたら、私は悪魔の訴えの中にあるのかも知れない・・、その訴えによって、悪いことが起きるのではないか・・」と恐れているかも知れません。しかし、イエス様が共におられるとき、どんな訴えが天であったとしても、それを「黙れ、静まれ!」と止めてくださるのです。

 今回プエルト・リコで、男性たちの為の集会を導きました。そこには、百五十人ほどの男性たちが集まりました。それはテレビで案内されたので、初めての人々も来られました。

 集会が終わってから、一人の黒人の男性が来られ、「先生。今日、私の町に来てくれませんか。また、私の教会に来て、ぜひ、祈って下さい。私は今、大きな霊的戦いを感じています。」と言われました。

 彼は神から押し出され、ある田舎町に伝道に入りました。プエルト・リコは、歴史的にカトリックの強い支配があります。カトリックは現地の宗教をすべて吸収して成り立っている混合宗教です。聖書のことも語りますが、偶像礼拝を取り入れています。特に、プエルト・リコにはスペインが入って国が形成された歴史があり、スペインとともに、アフリカから多くの奴隷たちが入ってきました。奴隷を直接アフリカから買い付けたのは、カトリックの修道士会、「イエズス会」でした。アフリカの黒人奴隷たちは、アフリカの魔術を持ち込んできました。

 魔術とは恐ろしいものです。それは強力な悪霊的力です。人を呪い殺したり、苦しめたりと、そこには恐ろしい領域が存在しています。それらはアフリカから入って来たものですが、現在ではカトリックと結びついて存在しています。

 その牧師が牧会している町は、「サンテリア」と呼ばれるアフリカ魔術が特に強いところでした。町の中心に小高い丘があり、実物大の十字架が立っています。そこには等身大のキリスト像が架けられていて、その下で悪霊を呼ぶ儀式を行っているのです。町中に暗闇の術がかかったような、実に暗い町でした。

 牧師がその町で伝道し始めると、数々の悪い事が起こったそうです。それでもがんばって伝道をし、ある時に天幕伝道を行ったら、二回にわたり大風が吹いてきて、テントが吹っ飛んでしまったそうです。戦いを感じながらもう一度、挑戦したそうです。すると、今度はテントの上にだけ大雨が降って、テントがつぶされてしまったそうです。そして「私は病気になった」と言われました。こんな恐ろしい説明を私にした後、「町に来て、一緒に戦いに行ってください」と言われました。

 私は日本で霊的戦いをしていますが、アフリカ魔術の場所になどに行ったことはありません。彼は私に、数々の敗北の歴史を語ってから「今から一緒に行って下さい。」というのです。私は、「雨がテントの上にだけ降ったなんて偶然だ」と思っていました。しかし言われまま出かけて行きました。

 その牧師の教会は、牧場の真ん中にありました。教会にはいると、驚いたことに日本の国旗が掲げられていました。なぜそこに日本の旗があるのだろうかと思いました。すると、「私は日本のために祈っています。この間、祈っていたら、日本にテロが起こるかも知れないから、テロが起こらないように祈りなさいと語られたので祈っている」と言いました。そして「日本に帰ったら、テロが起こらないように続けて祈ってください」と言われました。

 プエルト・リコの田舎の教会が、日本の国旗を掲げて祈っていたのを見て驚きました。神は互いに助け合うために出会わせたのだと思います。一方ではプエルト・リコの田舎牧師に、「日本のために祈りなさい」と語られ、また一方では、苦しんでいる所に日本人が遣わされ、困難を排除するために祈らせる計画があったのだと思いました。

 教会で祈った後に、「ラ・カルバリオ」と呼ばれる、小高い丘に行きました。そこは未だかつて体験したことがないほど、気持ちの悪い場所でした。頂上に三本の十字架が立っていて、真ん中には、むごたらしいキリスト像がついていました。「この間、真ん中の十字架で、一人の女が首をつって死にました」と言いました。

 私たちは丘に上ろうとして歩き始めました。すると、今まで良い天気だったのが、にわかに曇ってきて落ち葉がくるくる回りながら舞い立ち、不気味な風が吹いてきました。あれよあれよと思っている内に、すごい突風と大雨になりました。そうしたら一緒に行った牧師は落ち着きを失い、「もう上るのは止めよう。ここで祈れば良い。」などと言って、隠れてしまいました。私も、「できたら登りたくない。」と思いました。

 しかしその時私の心の中に、「黙れ、静まれ!」という御言葉が響いてきました。イエス様は、「黙れ、静まれ!」と言う言葉だけで嵐を鎮めました。私たちは気を取り戻して、山に登って行きました。強い風雨の中、気持ちの悪い十字架の下に立ち、「黙れ、静まれ!!」と叫びました。「何も起きなかったら、しゃれにならない・・」と不安な気持ちで宣言しました。

 しかし、そのとたん、雨が止まり、風が止まり、その上空だけが晴れて来ました。すると、今までびびっていた牧師が、どこともなく登って来て、「ハレルヤ!」と叫んでいました。

 聖書に記述されているようなことを、体験させられました。時々、私たちも悪魔の力を目の前にするときに、恐れたり引いてしまったりすることがあります。しかし今の時代は、イエス様の御名によって「黙れ、静まれ!」と、同じように宣言することができるのです。

 ルカの福音書十章十九節に、

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

とあります。私たちはイエス様が行われたように、素晴らしい権威を受け取って歩むことができます。人生という小舟の中、どんな風が吹いても、どんなに恐れるようなことがあっても、「黙れ、静まれ!」と宣言するならば、その背後に働く敵の力は打ち負かさ、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つことができると聖書は教えています。

 プエルト・リコで、「黙れ、静まれ!」という御言葉を受け取って帰ってきました。

 「向こう岸に渡る」新しい領域に踏み出していく時、風が激しくなったり、波が高くなるようなときがあるかも知れません。しかしイエス様が共におられるならば、決して恐れることはありません。また、私たちはイエス様と同じように、権威が与えられていることを覚えて、戦っていきたいと思います。

 「聖餐式」は新しい契約を表します。もう二度と私たちは、天の領域において悪魔に訴えられ、敗北することはありません。風や波に対して「黙れ、静まれ!」と宣言することができます。お祈りします。

「イエス様あなたの御名によって宣言します。今私たちの背後に働いている悪魔の風にイエス様の権威と新しい契約によって命じます。「黙れ、静まれ!」イエス様の勝利を宣言します。悪しき風は私の中に周りに吹くことができないことを、イエス様の新しい契約によって宣言します。イエス様の御名によって感謝してお祈りします。アーメン。」


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